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結論から言えば、《祝宴》における姫のための衣装――そう、絵物語の中で、ありとあらゆる花々の憧れの、強く美しく誇り高き『薔薇の女王』をモチーフにした真紅のドレスは、無事に完成へと至った。

姫に剣を捧げた、姫を陰に日向に支える守護者たる青年、エストレージャ・フォン・ランセントからの秘密裏の依頼を、アマーリエは周囲から見事に隠し通して達成したのである。

もともと手を動かすたびに大きくひるがえる仕様になっていた袖口に、アマーリエはデザイナーの許可を取って、さらに急遽ドレスの地の色と同じ色に染め上げた繊細なレースを幾重にもたっぷり重ねた。その内側に、エストレージャから渡された暗器であるナイフを、誰にも気付かれないのように縫い付けた。よく伸び、よくしなる、柔軟性に富んだ、特殊な糸で縫い付けられたナイフは、姫がその気になれば、すぐさまその手のひらに落ちて、尊き薔薇を手折らんとする愚か者を罰することだろう。

《祝宴》には必須の、顔を隠すための仮面は、アマーリエではない同僚が担当したが、それも見事なものだった。やはりドレスと同色の、顔の上半分を覆うハーフマスクに、色とりどりの無数の蝶が集う仮面は、誰もを魅了する姫の魅力をそのまま表したかのようなものだった。

衣装も仮面も、誰しもに「これ以上なくすばらしい!」と太鼓判をもらい、かくして、姫のための衣装は、そのまま侍女長をはじめとした、姫に近しい側付きの侍女の元へと届けられる運びとなった。


――ああ、よかった……!


大役を無事にまっとうできたアマーリエは、そうほっと胸を撫でおろした。

とは言うものの、それで『お針子』であるアマーリエの仕事が終わったわけではない。姫の衣装を担当した針子がいる、それは王宮に勤めるアマーリエ・リタ・プラネッタという令嬢らしい……といううわさは、姫の衣装を完成させるとともにすぐに知れ渡り、「ぜひとも自分の衣装も!」と、アマーリエの元に《祝宴》のための衣装の依頼が殺到したのである。押し付けられ……もとい、手元に届けられたデザイン画の枚数は、これだけで一冊の本が作れるのでは? と頭を抱えたくなるほどのものだった。

さすがにそれだけの量をすべて引き受けることはできず、ある程度はお断りしたり、「私が信頼する仲間です」という保証とともに同僚に回したりしたが、どうしても断り切れない相手もいた。アマーリエが伯爵令嬢であると知った上で、自らの身分や立場を誇示して「まさか断らないだろうな?」と押し切ってくるなかなかに強引な方々がいらしたのだ。

というわけで、姫の衣装が完成してもなお、アマーリエは今日も今日とて一人で残業、一人でちくちく針仕事である。

今、この手が携わっているのは、王宮のあちこちとも取引を行っているのだと言う某豪商の一人娘のための衣装だ。本人の強い希望により、薄紅色のチュールを幾重にも重ねた、愛らしい小鳥をイメージしたものだ。繊細なチュールを扱うのはなかなか集中力がいる作業で、しかもこれまた本人の強い希望により、そのチュールの裾はリバーレースの縁取りをつけてほしいとのこと。ただでさえ依頼はまだまだ山と残っているのだ。最近のアマーリエは、常に時間と戦っていた。


「…………やだ、またこんな時間になっちゃった」


ようやくリバーレースの始末を終えて、肩から力を抜いて窓の外を見遣れば、案の定とっぷりと日が暮れていた。

たぶん喜んではいけないことだとは解っているが、この時間まで作業場にこもりきりになるのも、すっかり慣れてしまった。アマーリエの住まいである寮をまとめあげる侍女長はおかんむりだが、彼女は彼女で、アマーリエがこの時間に帰宅せざるを得ない状況を理解してくれているので、そう強くも言えないようだ。先日、とうとう、「あなたに護衛が付けられないか、青菖蒲宮に打診したいところなのですが……なにせあそこは前例がありますからね……」と大変憂鬱そうに溜息を吐かれてしまった。アマーリエが青菖蒲宮の騎士に絡まれた件について、彼女はいまだに思うところがあるらしい。


「侍女長は本当にお優しいお方よねぇ……」


厳格でありながらも慈悲深く、王宮中の娘達に姫とは異なる意味合いで慕われているのが侍女長だ。故郷を遠く離れた王都で一人、浮いた話もなく完全にお針子となって作業場にこもりきりになっているアマーリエに対し、責任を感じているのかもしれない。アマーリエとしては忙しくも楽しい毎日なので、別に不満はないのに。

けれどそういうわけにもいかないのが現実なんだろうな、と思いながら、手荷物をまとめて、作業場を出る。真っ暗な夜道を前にして、いざ我が家である桃菫宮へ、と足を踏み出す。そう、そのはずだったのだが。

アマーリエの足はそこで、ぴたりと止まった。


「――――――――――っまたなの、あなた!?」


背後から感じた視線にバッと振り向けば、そこにいるのは、暗闇の中ですら月明りと弾いて、それこそ星のように輝く毛並みの子犬。

王宮勤めの人間のための通用口の近くに、ちょこんと座っていた彼……そう、未だに『おそらく』が付く『彼』は、こちらの姿をその鮮やかな黄色い瞳で捉えると、ぱたり、とひとたびしっぽを振って立ち上がった。

出会ったあの夜以来、この子犬は、まるでそれが自分の使命であるとでも言いたげに、アマーリエの帰りをこうして待ち構えている。もういい加減偶然だとは思わないし、ただ帰り道をついてくるだけで、襲われることももうないだろう、ということも理解しているつもりだ。

だが、それはそれ、これはこれ。怖いものは怖い。たとえどれだけ愛らしい子犬だろうが、アマーリエにとっては天敵である。

そんなアマーリエの目下の天敵は、そのままじいとこちらを見つめてくる。きらきら輝く黄色の瞳は妙に理知的で、そして同時に、こちらのことを責めているようだった。

 子犬はじっとこちらを見つめたまま、一声小さく鳴いた。びくっと恐怖に身体を竦ませるアマーリエを、気遣いつつ、しっかりばっちり、釘を刺してくるような、なんとも器用な鳴き方だ。


――またこんな時間だなんて。


……と、でも言いたげに、じっとりと半目になって子犬はこちらを見つめてくる。手荷物を抱き締めるように持ちながら、アマーリエは「だ、だって」と震える声を紡いだ。


「し、しかた、ないのよ。姫様のお衣装を担当した私じゃなきゃだめだって言ってくださる方々が……」


姫の衣装を担当した針子の手で作られた衣装、という箔を欲しがる者は、前述の通り少なくないのだ。私だって好きでこんな時間まで仕事をしているわけではないのに……と、未だに慣れない天敵を前にして逃げ出したくなる足の震えをこらえていると、そんなアマーリエを見つめる子犬の瞳の光が、なぜだか曇ったような気がした。

なんといえばいいのだろう。そう、まるで、「ごめん」とでも謝るように、子犬のこうべがしょんぼりと垂れる。その姿はアマーリエが恐れる怖い怖い天敵の姿とは程遠い、なんだか妙に同情を誘う姿で、うぐっと思わず胸を押さえる。


――な、なによ!?


なんだかこちらのほうが悪いことをしたような気になってしまう。いや実際にこんな時間まで未婚の乙女が夜道を一人で歩くなんて褒められた行為ではないのだが、それでも、その件に対して、子犬が怒ったり、ましてや落ち込んだりする必要なんてないはずだ。


――と、とにかく! 早く帰らなきゃ!


このままでは、ただでさえ遅い帰宅がもっと遅くなってしまう。子犬に構っている暇などないのだ。急いで寮へ帰らなくては。ぎゅっと抑えた胸は、なぜだか罪悪感に締め付けられているけれど、構ってなんていられない。そう、そうよアマーリエ! と気を取り直し、踵を返す。

そうして足早に夜道を歩むアマーリエの後を、やはり子犬はついてきているようだった。慣れたくもないのに慣れてしまったが、それにしても一体どういうつもりなのか。変に気に入られてしまっているような気はするけれど、気に入られるような真似をしたつもりは一切ない。いっそ嫌われるような真似をすればいいのかしら、と思えども、そうやって嫌われてしまったら、今度こそ襲いかかられるかもしれないのでそれもできない。


――早く気が済むか、飽きてくれればいいのに……。


深々と吐き出した溜息が、夜闇のしじまを揺らした、そのときだ。ぐるるる、と、低い唸り声が、アマーリエの耳朶を打った。反射的に足を止めてそちらを見遣り、すぐに後悔した。


――野良犬!?


うそでしょう、と、呆然とするアマーリエの前に立ちふさがったのは、大きな野良犬だった。いいや、正しくは野犬と呼ぶべき相手なのかもしれないが、アマーリエにとってはどちらであってもほとんど変わらない。ひゅっと喉が奇妙な音を立てた。どくどくと心臓が大きく鳴り響き、その鼓動の音と、野良犬の唸り声だけがやけに大きく鼓膜を震わせる。

野良犬はよほど腹を空かせているのか、鋭い牙が覗く口からよだれをしたたらせており、その血走ったまなざしが、アマーリエをぎろりと睨み付けている。


――あ、そういえば、食べ損ねた昼食が……!


作業場から持ち帰った手荷物の中に収まっているそれの匂いを、野良犬は嗅ぎつけたのだろう。ならば手荷物ごと野良犬にあげてしまって、その隙に逃げればいいのではないか。そう、簡単なことだ。それだけでいい。それだけでいいのに、それなのに、身体は恐怖にすくんで動かない。

ぐるる、と野良犬が喉を鳴らしてじりじりと近付いてくる。ひっと息を呑む。でも、後ずさることすらできなくて。

もうどうしようもなくなってしまって、涙を浮かべて身構える。そんなこちらに、野良犬が今にも飛び掛かろうとした、次の瞬間。


「――――ァン!!」

「……え?」


甲高くも勇ましい鳴き声とともに、アマーリエの隣を、白銀の塊が飛び出していった。例の子犬だ。大きく目を見開くアマーリエを庇うように野良犬の前に子犬は立ちふさがる。だめ、とアマーリエは先ほどとは別の意味で身体が震えた。どうやら子犬は自分のことを護ろうとしてくれているらしいけれど、だめだ。勝てるわけがない。だめ、だめだ。だってそんなことをしたら、また、あのとき(・・・・)みたいに――――!

その、体の芯からぞっとする考えに、アマーリエは黙ってなんていられなかった。自分こそが子犬を庇おうと手を伸ばす。怖くてたまらないけれど、本当に怖いのは、ほんとう、は。

――――だが、しかし。アマーリエが子犬に触れるよりも先に、状況は一変した。


「…………え?」


なんと野良犬が、その場でこてんと腹を見せて転がったのだ。子犬のほうではなく、間違いなく野良犬のほうが、である。ぽかんと大口を開けるこちらのことなど、もう目に入っていないらしい野良犬は、なんだか妙に好意的にくぅんと甘えた声を上げている。そんな野良犬に、子犬はてててと近寄ると、ぺろりと野良犬の顔を舐め、何かを耳打ちするように、くるるるる、と小さく鳴いた。

野良犬は嬉しそうに大きく一声鳴くと、ぱっと立ち上がり、すりすりと慕わしげに子犬にすり寄ったかと思うと、そのまま走り去っていった。


「え、えええ、と?」


何が起こったというのだろう。呆然と立ちすくむばかりのアマーリエだが、そんなこちらに、子犬が振り返ってくる。アン、と小さく鳴いたその声は、「もう大丈夫だよ」とでも言っているかのようだった。信じられないことだが、本当にそう言われているかのようで、実際に本当に”もう大丈夫”らしい。

やはり何がなんだか解らない。解らないものは解らない。何一つさっぱり解らない。


「か、える、わ。ええ、そう、帰りましょう! また侍女長に叱られちゃうもの!!」


アマーリエは思考することを放棄して歩き始めた。もうだめだめだ。考えたって解らない。だって信じられるはずがない。やはり気遣わしげに背後を大人しくついてくる小さな子犬に、あんな恐ろしい野良犬が、あっさりと屈しただなんて。これはあれだ、もしかしてもしかしなくても、仕事のし過ぎで夢でも見たのかもしれない。起きたまま夢を見るなんて、流石にそろそろ仕事の仕方を考えるべきだろう。

となればまずは一刻も早く寮に帰って、さっさと睡眠時間を確保しなくては。そう足を急がせに急がせて、アマーリエはようやく寮の門扉の前に到着する。この時間ともなると、守衛すらも退勤している。侍女長の許しを得て特別に貸し出されている門扉の鍵を取り出す。

それを待っていたと言わんばかりに、子犬が小さく、アマーリエを驚かせないように細心の注意を払ってでもいるかのように、本当に小さく、気遣わしげに一声鳴いて、いつものように踵を返す。そうやってそのまま見送ればいいはずだった。いいや、見送るまでもなく、一秒でも早くさっさと門扉の向こうに飛び込んでしまえばいいはずだった。それなのに。


「ま、待って!」


それなのに、なぜか、子犬のことを呼び止めてしまった。たとえ呼びかけたとしても、言葉が通じるわけでもないのに。それなのに、アマーリエは、自分でも信じられないことに、子犬のことを呼び止めてしまって、そして子犬もまた、大層驚いた様子ながらも、ぴたりとその足を止めてこちらを振り返ったのだ。

ぱちぱちと瞳を瞬かせる子犬から目を離さずに、アマーリエは手荷物の中から、食べ損ねた昼食の包みを取り出す。今日のメニューは片手で手早く食べられるように作られた、細長いパンに太いソーセージを挟んだ一品である。そのソーセージをパンから引き抜いて、包み紙の上にそっと置いて、そのままそれを地面におろす。

アマーリエのその行動を、子犬はなんとも不思議そうに見つめてくるだけで、近寄ってこようとはしない。それをいいことに、「あ、あのね」とまた声を震わせる。


「お、お腹、空いてるでしょう? 私のご飯で悪いけれど、よかったら、食べて。ソーセージなら食べられるわよね? その、あの、た、助けてくれて、あり、ありがとう……っ!」


とつとつと懸命に言葉を紡いでから、子犬の返事も待たずに門扉の向こうに飛び込み、鍵をかける。アマーリエが震えながら見守る先で、子犬はしばし何やら考え込んでいたようだったが、やがて、てててて、と歩み寄ってくると、ぱくりと一口でソーセージを食べてしまった。ぺろりと口の周りを舐めてから、門扉の柵の向こうから固唾を飲んで見守るばかりのアマーリエに、子犬は「アン」とまた鳴いた。


――ごちそうさま。


そう、聞こえた。随分と礼儀正しい子犬だ。そして、今度こそ子犬は、長居することもなく、アマーリエの前から去っていった。アマーリエもまた、それを今度こそ最後まで見送ってから、へなへなとその場に座り込んだ。


「絶対に寿命が縮んだわ……」


かぼそい呟きに応える者は誰もおらず、ただ夜のしじまがひたひたとアマーリエの身体を包み込む。今夜は眠れそうにないかも、と溜息を吐いたのは余談と言えるのかもしれない。

そんな、アマーリエにとってはとんでもない事件が勃発してもなお、その仕事量は変わらなかった。同僚達はあれこれ気を遣ってくれるし、なんならできる限り手伝ってくれもするが、依頼人のことを思うとやはりアマーリエの手が必要とされ、となれば仕事の多さに関してはどうしようもないとしか言いようがなかった。

日々、ちくちくちくちく、縫い針を無心で動かすアマーリエの元に、客人が訪れたのは、野良犬と遭遇してからほんの数日経過したある日のことだった。


「ああああ、アマーリエ、アマーリエ! ちょっと! あなたにお客様よ!!」


何事かと思うくらいに興奮しきっている、同年代の同僚の女性に、ばしばしと遠慮なく背を叩かれ、流石に針を動かすのは危険と判断し、いったん手を休める。お客様、という言葉に、思わず眉根が寄った。嫌な予感しかしない。

 

「ええ? また新しく依頼をご希望の方? 悪いけどお断りできるかしら。流石に私も、これ以上はもうお引き受けできないわ」


ただでさえどれもこれも納期がギリギリなのだ。わざわざ自分のことを見出してくれたことは嬉しいしありがたいけれど、安請け合いをして手抜きの衣装を納品することになるのはアマーリエの針子としての矜持に反する。だからこそかぶりを振り、再び縫い針を動かし始めたアマーリエに、同僚はじれったそうに地団駄を踏んで、「そうじゃないの!!」と声を張り上げた。

集中力が求められる作業場でここまでの大声を彼女が発するのは珍しい。思わず顔を上げれば、彼女をとがめることもなく、同僚達の誰もがアマーリエと、そして、作業場の出入り口をそわそわとした様子で見比べている。


――何かしら?


首を傾げてみせると、誰もがぱくぱくと声なく口を動かして、「早く行け!」とアマーリエのことを急かしてくる。どうやらこれは放置することはできない案件らしい。ならば、と縫い針を針山に刺して、スパンコールを縫い付けていた青い生地を作業台に置いてから、アマーリエは立ち上がって出入り口へと向かう。どうにもこうにも視線が痛い。作業場の誰も彼もが、自らの手を止めて、アマーリエの一挙一動を見守っている。


――だから、何なのかしら。


なんだか空恐ろしくなってくるけれど、繰り返すが放置するわけにはいかないらしい案件なので、大人しく出入り口から一歩足を踏み出す。

そこでようやくアマーリエは、作業場の誰もが手を止めた理由を知った。


「――――守護者様」

「こ、こんにちは、プラネッタ嬢。仕事中にごめん」


そう、出入り口のすぐそばの壁にもたれて立っていたのは、先達てアマーリエに秘密裏の依頼をしにやってきた姫君の守護者たる、エストレージャ・フォン・ランセントだった。

相変わらずなんともまあ凛々しくも優しい、見事に整ったお顔立ちである。本来であればお針子風情がこんなにも間近で彼の顔を拝見する機会などないご尊顔だ。なるほど、作業場が老若男女そろって浮足立つわけである。

アマーリエもその例にもれず、「素敵な方だこと」と先日と同じく心の底から感心したが、すぐにそうも言っていられなくなった。エストレージャが、わざわざ、アマーリエ個人を呼び出すというその行為。もしかしてもしかしなくても、くだんの秘密裏の依頼の件に関することであるとしか思えない。


「も、申し訳ございません! 姫様のご衣装に、何か不具合が……!」 

「え、あ、ちがっ! そうじゃない、そうじゃないんだ! その、どうか頭を上げてほしい」

 

サッと顔色を変えて、慌てて頭を深く下げるアマーリエ以上に、エストレージャのほうが慌てふためいてかぶりを振る。その声に嘘偽りは感じられず、促されるままに恐る恐る顔を上げると、エストレージャは安堵したように微笑んだ。その微笑みのやわらかさに、反射的にどきんと胸が高鳴る。


――お顔のよろしい方って、こんなにもずるいのね。


うらやましいを通り越してやはりしみじみと感心するしかない。そんなアマーリエを前にして、エストレージャは、穏やかに笑みを深めた。


「プラネッタ嬢が仕上げてくれた衣装、姫は大層お気に召されていたよ。『いずれプラネッタ領に返さなくてはいけないのが惜しい』とまでおっしゃっていたな」

「こ、光栄に存じます……」

「そう、それで、俺が代わりにそのお礼を伝えに来たんだ。これを受け取ってほしい」

「え……?」


何やらわくわくした様子で、エストレージャは、その手にさげていた大きな紙袋から、いくつもの箱を取り出して、次々と差し出してくる。彼があまりにも楽しそうなものだから、ほとんど押し切られるように、アマーリエはそれらすべてを受け取ることしかできない。腕の中に積み上げられていく箱は、宝飾品から菓子など、その内容は様々であれど、どれもこれもが、王都で名高い一流店のものだと、アマーリエは遅れて気付く。


「あ、あの……?」

「姫から、というよりは、俺からの気持ちなんだ。姫の衣装を見事に仕上げてくれて本当にありがとう。そのお礼がしたくて、俺が勝手に選んだんだけど、何がいいのか解らなくて。どうだろう、ええと、その、ま、まだ足りなかったかな?」

「っ!」


積み上げられた箱の間から見上げるエストレージャの表情は、期待に満ちあふれていた。やはり楽しそうであったし、それ以上に嬉しそうだった。けれど、だからこそ余計に、アマーリエは何も言えなくなりそうになる口を、無理矢理開いた。


「守護者様」

「う、うん」

「申し訳ありませんが、受け取れません。お返しします」

「え」


エストレージャの表情が凍り付く。聞き耳を立てていたらしい作業場の面々がどよめくのを聞きながら、アマーリエは、呆然としているエストレージャの手からほとんど無理矢理手提げの紙袋を奪い、その中に受け取ったばかりのアレソレをすべて収め、そのままエストレージャに押し付ける。

自らの手に戻された重みに、ハッと息を呑んだエストレージャは、見るからにうろたえて、綺麗な黄色い瞳を頼りなさげに揺らした。


「き、気に入らなかった、かな」

「いいえ。どれも本当にとても素敵な逸品であろうことくらい、中身を見ずとも解りますわ」

「だ、だったら……!」

「ですが」 


ぴしゃり、と語尾を強めたアマーリエに、エストレージャがびくりと肩を震わせる。なんだかいじめているみたいで申し訳なくなったけれど、それでもここは譲れない。


「私がしたことは、私がして当然のこと、私がすべきことでございます。お衣装をお気に召していただけて大変光栄に存じますとも。ええ、そのお言葉だけで十分なのです。私は私の仕事をしただけで、普段のお給金も十分いただいております。こんな高価なものなんて、受け取れません」


そうだとも。それがアマーリエの、針子としての矜持だ。針子としてすべきことを認められたことは誇らしい。そしてもちろん、エストレージャの気持ちだって嬉しい。

だが、彼が用意したのは、アマーリエにとっては過ぎた報酬である。そもそも姫の衣装はアマーリエ一人で作り上げたものではないし、エストレージャの言う『お礼』が、袖口に潜ませた暗器に対してだというのならば、なおさら彼からの報酬は受け取れない。

だって、暗器なんて物騒なものは、出番がないのが一番いいのだから。


「守護者様のお気持ち、本当に嬉しく思います。どうかそのお気持ち、お言葉だけで、この場は収めていただけませんか?」

「……そ、っか。うん。……いきなり押しかけて、ごめん」


尊き身分にあるというのに、エストレージャは深くアマーリエに頭を下げて、紙袋を抱えてそのまま去っていった。その後ろ姿は、誰の目から見てもそうと解るほどに落ち込んでいた。申し訳ないと思えども、あのとんでもない報酬を受け取るわけにはいかないのだから声をかけることもできない。彼の姿が見えなくなるまで見送って、アマーリエは作業場に再び戻る。その途端、わっと同僚達が駆け寄ってきた。


「なんってもったいないことしたの!?」

「守護者様直々のお礼だぞ!?」

「せっかくだったのに! なんならこれをきっかけにお近づきになれるかもしれなかったのよ!?」

「すげえ品々だったな……あれ、どれもこれも一つで俺達の給金分になるんじゃないか?」

「ああ、守護者様……お近くで拝見できるなんて……!」

「わしの目から見ても見事な男ぶりの御仁じゃな」

「ああ、アタシだって、あと三十年若かったら!」

「五十年の間違いだろ」

「なんだってぇ!?」


てんやわんやの上から下への大騒ぎ。老若男女を問わずに見事に骨抜きである。エストレージャという青年が、守護者様と呼ばれながらいかに慕われているのが解る口ぶりだ。アマーリエとて、何度でも言うが、とても素敵な方だとは思っている。見目も立場も性格も経済力も何もかも特級の逸品でいらっしゃる。でも。



「住む世界が違う方だと思うのよね」



エストレージャの来訪を受け入れた、その夜。今宵も遅くまで作業場に残っていたアマーリエは、ぽつりと呟いた。

その背後をいつものようについてくる子犬が、くぅん? と鼻を鳴らした。なんのこと? と問いかけてきている、らしい。

なんだか今夜の子犬は妙に落ち込んだ様子だった。その足取りがいつもの『てててて』という軽いものではなく、『とぼとぼとぼ……』と表すべきものになっているのが明らかだった。

だから、というわけではない。別に心配しているわけではない。断じて違う。ただ、ただ、ちょーっと、自分が元気がないのにそれでも今夜もアマーリエの護衛を務めようとしてくれているらしい彼の気をまぎらわせたくて、アマーリエは続ける。


「これはひとりごと、ひとりごとよ? あのね、今日、守護者様にお会いしたの。あなたも知っているかしら、エストレージャ様よ」


アマーリエがその名を口にしながら振り返ると、ぴん! と子犬の耳が立ち上がった。あら、と思わず笑ってしまって、慌ててその笑顔をかき消す。犬相手に笑うなんてとんでもない。でも、こんな幼い子犬相手でも、かの守護者様の名声は轟いているらしい。


「わざわざ私にお礼を持ってきてくださったんだけどね、受け取れなかったわ。分不相応すぎるもの」


すべきことをしただけなのだから、特別なご褒美なんていらないのだ。ただあの衣装を喜んでくれたらそれでよかった。それなのに。


「いくらなんでもあのお礼はないわ。比べるのもおこがましいけれど、やっぱり住む世界が違うお方なんだって思い知っちゃった……あら?」


アマーリエは思わず足を止めた。そのまま振り返ると、やはり子犬はそこにいる。けれど、彼もまた、ぴたっと足をその場で止めていた。しかも、なんというかこう、先ほどまで以上に、より一層、ショックを、受けて、いる、ような……?


「ど、どうしたの?」


ひとりごとだけで済ませるつもりが、つい声をかけてしまったくらいには、子犬はとんでもなく打ちひしがれている様子だった。がっくりとこうべを垂れるその姿はあまりにもかわいそうなそれだった。ここで駆け寄って頭でも撫でてあげられたらよかったのかもしれないが、それができたらアマーリエは当の昔にそうしている。それができないからアマーリエは犬嫌いなのだ。

お互いに無言でその場に立ち竦むことしばらく。やがて、のろのろと頭を持ち上げた子犬は、たしっと前へと足を踏み出した。たしったしったしっと力強い足取りだが、なぜだろう、それはどう見ても空元気だった。とはいえそれを突っ込むこともできず、アマーリエはその夜も、子犬に寮まで送ってもらう運びとなったのだった。

そうして、事件が起きたのは、それからまたしてもほんの数日後のことだった。なんとエストレージャが、再びアマーリエの職場に訪ねてきたのである。


――まさか、お礼のお品を断ったことをお怒りに!?


今更ながらその可能性に思い至ったアマーリエだが、向かい合うエストレージャがまとう雰囲気には怒りはない。


「また邪魔してごめん。ちょっと二人で話せないかな」

 

その代わりに、凛々しいかんばせを緊張に引き締めてそう言われてしまっては、アマーリエに勝ち目はなかった。同僚達に強制的に作業場を送り出され、エストレージャの先導で、王宮の中庭の東屋へと至る。

「どうぞ」と当たり前のように手を差し伸べられて東屋のベンチに座らされたアマーリエは、自らもまたすっかり緊張していることに気付いた。これでお針子をクビになったら、今度こそ改めて行儀見習いの侍女になれるかしら、無理ね、無理に決まってるわよね、今更すぎるものね、と思考を明後日の方向へ飛ばしていたアマーリエは、そのせいで、エストレージャが目の前に片膝をついて跪いたことに対して反応が遅れた。


「しゅっ、守護者様!?」

「――まずは、あなたに謝罪を。あなたの仕事に対する真摯さを、俺は取り違えていた」


深々と頭を下げる彼の姿に、頭が真っ白になる。わ、私、守護者様にまた頭を下げさせてる……!? とおののきながら、わたわたと手を振ってなんとかアマーリエはエストレージャの顔を上げさせようとする。

 

「そ、そんな……! 私こそ生意気な口をきいて申し訳ございません!」

「生意気じゃなくて、誠実なんだと思う。でも、その、そうだな、もしも、許してくれるなら」


ゆっくりと顔を上げたエストレージャが、パチン、と指を鳴らす。その拍子に、彼の手に、愛らしくラッピングされた小さな包みと、白の雛菊と黄色の酢漿草で作られたささやかな花束が現れる。初めて間近で目にする召喚魔法に瞳を瞬かせていると、その目の前に、それら二つがそっと差し出された。


「こっちはチーズクッキーで、こっちは見ての通りの花束。どちらも俺が、大切に、思っているもの、で。……また、俺の気持ちの押し付けになってしまうけれど。でも、どうしてもお礼がしたくて。これなら、その、受け取ってもらえないかな?」


緊張に強張る声で、青年は片膝をついたままこちらを見上げてくる。凛々しい顏は赤らんで、よく見ると包みと花束を差し出してくる両手はかすかに震えている。あの、守護者様が。剣の腕も魔法の腕も誰もに認められた、強く気高い守護者様が。


――かわいい、なんて!


そう、かわいいのだ。こちらの返事を今か今かと待っている彼の姿があまりにもかわいらしくて、アマーリエはこらえきれずに噴き出してしまった。そして、不意打ちにきょとんと瞳を瞬かせるエストレージャの手から、そっと中身はチーズクッキーだという包みと、ささやかながらも美しい花束を受け取る。


「ありがたく、頂戴いたします」


先日断ったお礼の品々に、エストレージャの気持ちがこもっていなかった、とは言わない。言えるはずがない。彼はあんなにも嬉しそうにアマーリエにお礼をしようとしてくれていた。けれど、受け取るわけにはいかなかった。お礼が欲しくて成した仕事ではないのだから。けれど、今回のお礼は、素直に受け取ろうと思った。だって、今回のお礼には、先日のお礼の品々以上に、エストレージャ自身の本当の気持ちが込められているように思えたからだ。チーズクッキーも花束も、彼の大切な心のかけらのように思えたから、受け取らないわけにはいかなかった。

嬉しいです、と笑いかけると、ボッと青年の顔色がもっと赤くなる。あらら? と首を傾げれば、彼はそのまま、先日よりももっとずっと嬉しそうに破顏した。

 

「あっありがとう……!」

「まあ、守護者様、それは私の台詞ですよ」

「えっ、あっ、そ、そう、なのかな?」

「はい、そうですとも。ありがとうございます」


そうして何度も互いにお礼を言い合って、こらえきれなくなって二人で笑った。

アマーリエはそのままエストレージャに送られて作業場に戻ったのだが、同僚達に「せっかくだから休憩してこい!」とまたしても追い出され、なぜかエストレージャと一緒に、チーズクッキーをおともにお茶をすることになる。

本来緊張すべきはアマーリエのほうであるはずなのに、なぜかそれ以上にすっかり緊張し切りのエストレージャを相手に、アマーリエは不思議なひとときを味わったのだった。

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