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結局、子犬に追いかけまわされた末にやっとの思いで寮に帰宅したアマーリエは、あの後、侍女長から大目玉を喰らう羽目になった。うっかり青菖蒲宮の騎士に絡まれてしまった件について口を滑らせてしまったことも災いした。「だからあれほど言ったでしょう! ああ、何か間違いでも起こっていたら、私はあなたのご両親に顔向けできません!」と、侍女長はそのまま二時間にわたってアマーリエに説教してくれた。彼女の怒りはそのままアマーリエに対する心配の表れであることは明らかであったから、反論なんてできるわけもなく、粛々と「申し訳ございません……」と平謝りすることしかできなかった。
ーーーーとは、言うものの。
人間とは喉元過ぎればなんとやらというやつで、アマーリエはその後もお針子が集う作業場に夜遅くまで閉じこもって作業するのをやめられなかった。なにせもうすぐ《プリマ・マテリアの祝宴》だ。一般的には《祝宴》と略されて呼ばれるその祭事は、王都を中心に催される、五年に一度のとっておきのイベントである。
《プリマ・マテリアの祝宴》は、我が国において五年に一度、一週間もの間、昼夜を通じて誰もが仮装し、本来であれば常人にとっては不可視の隣人である精霊との逢瀬を楽しむ機会となるのだ。
人間が住まう『人間界』と呼ばれる世界と、魔法使いでもない限り本来は直接関わり合うことのない精霊が住まう『精霊界』がまじりあう、ほんのわずかな秋の七日間。その間、人間と精霊は同じ世界線の上に並ぶこととなる。それが《プリマ・マテリアの祝宴》だ。
精霊は気まぐれで遊び好きであり、基本的に人間の道理は通じない。二つの世界のあわいが曖昧になるこの期間において、精霊が人間に対してあくまでも”お遊び”で、結果として害をなすこともありえるのだ。
だからこそ人間は、精霊からの干渉――すなわち、精霊にさらわれたり惑わされたりしないように、ヒトならざるモノの仮装をする。その仮装は多岐にわたり、妖精や獣の姿から、絵物語の住人の姿まで、それはもうさまざまだ。禁色すら許される無礼講の仮装に誰もが興じるが、唯一の約束事がある。それは、大人は必ず仮面を着けねばならないということだろう。まだ精霊と近い存在である子供達と異なり、人間界のことわりに染まった人間は、精霊にとっては恰好の”遊び相手”だ。顔を隠すことで大人達は自身の在り方を守り、そうして七日間、人間界にやってきた精霊達とともに、昼夜を問わず続く舞踏会に参加するのであるーーーーと言われているものの、実際は大人も子供も入り混じる無礼講のお祭り騒ぎみたいなものよね、と、今年初めて王都の《祝宴》に参加することになったアマーリエは思っている。前回の《祝宴》では、王都においてとんでもない事件が起こったとかなんとかなんとなく聞いているが、当時まだプラネッタ領にいたアマーリエは詳しくは知らない。とにもかくにもその前例を繰り返さないように、という万全の体制が求められているらしいのは、確かなのだけれど。
だがその万全の体制以前に、アマーリエには大きな課題が山積みだった。なにせその《祝宴》において、ひっぱりだこになるのが、仕立て屋やデザイナー、そしてアマーリエのようなお針子達なのだから。繰り返すが、五年に一度のお祭り騒ぎである。誰もが「我こそはもっとも美しい仮装を!」と意気込んで、
あらゆる手段を講じて仮装を用意するのだ。王都中の個人の仕立て屋ばかりではなく、王宮勤めのそのたぐいの職人達まで、《祝宴》のためにさまざまな衣装を用立てるよう求められる。
となれば当然アマーリエも例に漏れない。王宮勤めの方々から、次々依頼されるあらゆる衣装を作るために、同僚と一緒になって朝早くから夜遅くまで、それこそ馬車馬のように働いているのが現状だ。
となれば当然、やはり帰宅が遅くなるのは、言わずとも知れた自明の理であった。
「今日は二着仕上げたから……ああでも、もっとレースを増やしてほしいって仰ってたわよね。今から染めを注文して間に合うかしら?」
今日も今日とて、作業場から出たらもう外はすっかり暗くなっていた。夏が過ぎ去り秋が近づくこの季節、日はどんどん短くなっていく。せめて夕焼けが見られるくらいの時間には帰宅しようと思っていたはずだったのに、実際はこれだ。ああ、月明かりがまぶしい……と空を見上げてため息を吐いたアマーリエは、そしてその視線を、つつつつつつつ、と、慎重に動かして、自身へと向けられているまなざしの方向へと向けた。
「なんでまたいるのよ!?」
ぶわっと粟立った全身を自らの両腕で抱きしめて、悲鳴交じりに問いかける。返答はない。かわりに、小さな身体にしてはずいぶんと立派な尻尾がゆらりと揺れた。
そう、アマーリエの視線の先にいるのは、白銀の毛並みの子犬である。言うまでもなく、先日騎士の青年に絡まれた際に助けてくれた子犬だ。それはいい。いや怖いものは怖いのでよくはないのだが、それでも感謝はしている。問題はその後だ。
「どうして今日もいるの!? 私、本っ当に犬はだめだし無理だって言ってるじゃない……!」
もはや絶望感すら入り混じる声音でうめくと、子犬は困ったように小首を傾げた。よほど賢い子犬なのだろう、おそらくはオスと思われる彼は、こうしてアマーリエの言葉に的確に反応してくれる。嬉しくない。
それもこれもなにもかもどういうわけだか解らないが、初めて出会ったあの夜以来、子犬は、アマーリエの帰宅時間になると作業場に現れるようになった。毎夜毎夜、まるで何もかも把握しているかのように、ぴったりアマーリエが王宮の作業場を出てくる時間になると、子犬は現れ、そのまま寮までついてくるのである。とんだ悪夢だ。本当になぜ。
こちらがどれだけ身を震わせて言葉を尽くしても、子犬は必ず現れて、アマーリエが寮である桃菫宮に辿り着くまで、付かず離れずの位置でついてくる。ただ何をするわけでもない。後ろをついてくるだけ、と言えばそれまでだが、大の犬嫌いを公言するアマーリエとしてはたまったものではない。
「も、もういいのよ? 私、ちゃんと一人で帰れるから……」
真っ向から拒絶しても通用しないならば、もうなだめすかして納得してもらうより他はない。努めて穏やかな声を装って、やはり一定の距離を保ったまま、アマーリエは子犬に笑いかけた。思い切りひきつった笑顔に、子犬は小さく鼻を鳴らした。「大丈夫じゃないと思う」と、明確な言葉にされずともはっきりと断じられている気がした。感心を通り越していっそ腹立たしくなるくらい賢い子犬である。
そのまま子犬はたしっと小さな足を踏み出す。ひっとアマーリエは後退した。たしったしったしっ。ずんずんと迫ってくる子犬に、口からほとばしりそうになる悲鳴を乗り込んで、アマーリエは踵を返して走り出す。
かくして、今宵も決死の追いかけっこが始まった。
ーーだからどうしてこんなことに!?
侍女服の長い裾をさばきながら走るアマーリエの後を追う子犬は、決してアマーリエに追いつかないが、付かず離れずの位置をキープして追いかけられるのもそれはそれで本当に恐ろしい。いつ飛びかかってこられるか解ったものではない。こちらは息を切らして走っているのに、子犬は悠々と余裕たっぷりなのがまた恐怖を誘う。
そしてようやくアマーリエが寮の門扉にたどり着くと、子犬はぴたりと足を止める。ばくばくと心臓を高鳴らせるアマーリエをじっと見つめてから、子犬は今宵も夜の闇に消えていく。
きらめく白銀の毛並みの背を、最後まで見送るのが、気付けばアマーリエにとっての、帰宅のルーティンとなっていた。
「……やっぱりもっと早く仕事を切り上げればいいのかしら?」
寮の自室で頭を抱えて呟いても、名案は思い浮かばない。定時通りで帰れば、あの子犬に遭遇することもなくなるのだろうか。一人でとぼとぼと夜道を帰宅するのが常だったかつてが懐かしい。あの子犬のおかげで、無駄に体力がついてしまいそうだ。なぜ自分のことを追いかけ回すのだろう。幸いなことに、いつもあの子犬は、寮までしか追いかけてこないし、寮へと向かう道以外の道へとアマーリエを追い込むような真似もしないけれど……と、そこまで考えて、ん? と首を傾げる。
もしかして。まさかとは、思うけれど。
「帰り道を送ってくれてるつもり、とか?」
それこそ、誇り高き騎士様のように、未婚の乙女が夜道を一人歩くのは危険だとでも思って?
「……まさかね」
だって相手は子犬だ。妙に気に入られているような気はするが、それにしてもそこまでされる覚えはないし、そもそも犬嫌いの自分にとっては、たとえ本当に子犬なりの親切心であったとしても、心の底から遠慮したいお気持ちである。
ああ、それにしてと今日も疲れた。山積みの依頼に、トドメのような追いかけっこ。アマーリエは軽く湯浴みを済ませて、夕食を取ることも忘れて、ベッドに沈んだ。
《祝宴》が終わるまではこの忙しさは変わらないだろう、という見解が、アマーリエをはじめとしたお針子衆の共通認識だった。
夜が明けて、かすむ目をこすりながら、いつものように登城して作業場へと向かう。今日のノルマはなんだったかしら、と、アマーリエが作業場の定位置である窓際の作業台の前に腰を下ろした、そのときだ。
「アマーリエ! おめでとう!」
席に着くなり、この作業場の代表の一人として最近抜擢されたばかりの新進気鋭のデザイナーが、アマーリエの元に駆け寄ってきた。
彼は平民出身だが、この作業場では誰もが平等な創造者とされ、身分についてとやかく言う者はいない。伯爵令嬢であるアマーリエも、平民ばかりの周囲からへりくだられることも、逆に軽んじられることもなく、一人のお針子として認められている。
だからこそ遠慮なくアマーリエのことを呼び捨てにしているデザイナーは、こちらの両手を掴んでぶんぶんと力強く振り回してきた。朝からなんとも元気である。というかおめでとうとは何のことだ。「私、何かしたかしら?」と思いつつ、とりあえず首を傾げてみせると、デザイナーはさらに深い満面の笑みを浮かべる。
「大抜擢だよ、アマーリエ! きみは、姫様のための《祝宴》の衣装の担当に指名されたんだ!」
「……!?」
誇らしげに声高々に告げるデザイナーに、聞き耳を立てていたらしい周囲の同僚達がどよめいた。口々に裁断師やお針子達が「おめでとう!」「すごいじゃない!」と祝福してくれる中で、アマーリエはぽかんと口を開けるばかりだ。
「ど、どうしてまた私が……?」
生ける宝石姫と呼ばれる我が国の至宝、麗しの姫君のための、《祝宴》の衣装。もちろん彼女にも仮装が求められるのは誰もが知る事実だが、その衣装を誰がどう担当するかは、以前からちょくちょく話題になっていた。先達て成婚されたばかりの、次代の女王陛下。この国のーー国内外を問わず、彼女の衣装に携わることを、あらゆる仕立て屋界隈の人間が夢見ている。そんな栄誉に自分が選ばれるなんて、にわかには信じられない。なにせアマーリエは、現状としてお針子扱いであるとはいえ、その道を極めているとは言い難い。《祝宴》の衣装は、言ってみれば、着る者の度量が試される勝負服でもある。麗しの姫君の衣装ともあれば、想像を絶する技量が必要とされるだろう。普段のドレスならばいざ知らず、よりにもよって《祝宴》のための衣装を、触れるどころかこの手で縫うだなんて、そんなこと想像すらしたことがなかったのに。
ーー私にそんな大役が務まるわけないじゃない!
いくらなんでも荷が重すぎる。姫のためを思うならばこそ、ここは丁重にお断りすべきではなかろうか。
そんなアマーリエの逡巡は、デザイナーにとってはお見通しであったらしい。彼はいたずらげににんまりと笑って、ぴっと人差し指をアマーリエの鼻先に突き付けた。不意打ちに目を白黒させると、彼はククッと喉を鳴らして笑う。
「アマーリエ。このあいだ、僕がデザインした姫のドレスの裾に、きみが提案してフリルを足しただろう?」
それも二段も、と、わざとらしく強調して付け加えられたその言葉に、ぎくっと大きく身体が強張った。
思い当たる節がないとは言えなかった。忘れられるはずがなかった。姫のためのドレス。王族だけが身にまとうことを許された、深紅の美しいドレスだった。
目の前の彼がデザインしたあのドレスは、非の打ち所がないほと見事なものだったけれど、いざ完成を前にして、裾のフリルが物足りなく感じられたのだ。デザイナーはあえて姫の美貌に寄り添うために楚々としたデザインを目指したというが、アマーリエは、彼女の他を圧倒する飛び抜けた美貌をより引き立てるならば、もっと豪奢にすべきであると進言したのである。
話し合いは途中から苛烈な討論へと至ったが、最終的にアマーリエが勝利し、そのアマーリエが自らフリルを二段追加する栄誉を賜った。そう、それが、青菖蒲宮の騎士に絡まれ、不思議な子犬に助けられた、忘れようにも忘れられないあの夜である。
その夜を経て完成したくだんのドレスがどうしたというのだろう。もしかしてもしかしなくても、生意気な真似をしてくれたなとお怒りのお言葉を頂戴することになるのだろうか。いや、それならばアマーリエが姫の衣装の担当に抜擢される理由にはならない。
だから一体どういうことなのかと頭の上にいくつもの疑問符を飛ばしていると、デザイナーはバッと大きく両腕を広げた。いつものことながら彼は感情表現が派手である。
「悔しいことに、あのドレスの、特にきみが手を入れた部分を、姫がいたくお気に召されてね。デザインは私に任せてくれたが、その縫製はぜひきみにと直々に姫様が命じられたんだよ。なんならアレンジを加えてもいいときたもんだ! ああ! まったく悔しいね!」
わっ! と顔を両手で覆うデザイナーだが、指の間から覗く彼の顔は笑っている。鼻歌まで聞こえてくるあたり、どうやら彼は嘆いているのではなく、心の底からこの状況を楽しんでいるのだろう。対するアマーリエとしては、突然降ってわいたあまりにも身に余る栄誉に戸惑うことしかできない。流石にアマーリエ一人にすべてを任せるというわけではないだろうが、姫の衣装制作における監督者に任命されたと認識していいだろう。
――わ、私が姫様のお衣装を……!?
とんでもないことになってしまった。おろおろと助けを求めて周囲を見回しても、誰もが笑顔でうんうんと頷きを返してくるばかりだ。どうやらアマーリエが監督者となることに対して異存がある者はいないらしい。そんなことって、と今度は呆然としてしまうアマーリエの肩を、デザイナーはぽんと叩いた。
「きみなら大丈夫だ。期待しているよ。一緒に頑張ろう、アマーリエ」
まさか断られるだなんてかけらも思っていないに違いない、力強い鼓舞である。もともと押しに弱いアマーリエは、逆らえるはずもなくあえなく敗北した。
かくして、アマーリエは、その日から《祝宴》に向けて、姫君のための衣装に専念することとなった。生地を一から選び、染色の現場にも同席し、デザイナーとともにテーマを決めてああでもないこうでもないと言い合いながらデザイン画を作り上げた。
王宮屈指の裁断師により、姫君のためだけの布は裁ち切られ、そしていよいよアマーリエの本領発揮だ。
毎日があっという間に過ぎていく。夜遅くまでたった一人作業場に残り、限界まで針仕事に打ち込み、ふらふらと疲れ果てて帰宅する日々。
その帰り道にはやはりくだんの子犬がいた。もう追いかけっこする気力も残されていないとはいえ、それでも恐ろしくてならない大嫌いな犬だ。力ない声で「近付かないで」と伝えると、子犬は心得たように、ふらふらとぼとぼと歩くアマーリエの後ろを、やはり一定の距離を保ちながら寮までついてくる。
恐怖は常につきまとい、けれど疲れ果てた身体では逃げることもできない。そんなアマーリエを、まるで気遣うかのように、子犬は吠えたてることもなく、ただ静かについてくるだけだ。そんな日々が、気付けば当たり前になっていた。触れることも声をかけることもできないけれど、拒絶する必要はないのだと、そう、いつしか思えるようになっていた。
姫君のための《祝宴》の衣装が、ほぼ完成と言っても過言ではなくなったのは、ちょうどそのころだった。
「もうあと少しで完成なのだから今日は帰ったほうが」と誰もが口を揃える中で、「あと少しだからこそです!」とアマーリエは結局今日もとっぷりと日が暮れた作業場で、衣装に向き合って、きらめくクリスタルビーズを縫い付ける。
そう、あと少しだ。デザイナーと話し合い一から作り上げたこの衣装は、きっと姫にとてもよく似合うだろう。そんな確信とも言える自信があった。
「透明なビーズだけじゃなくて、遊色のビーズも絶対あったほうが素敵よね。明日一番に発注をかけなきゃ」
うんうん、と頷いて、いったん針を針山に刺し、しげしげと衣装を見つめる。見れば見るほど上出来だ。もしかしたら、ううん、絶対に、お針子としてのアマーリエの最高傑作となるだろう。故郷の両親には「自分の衣装はどうするつもりなのか」と頭を抱えられそうだけれど、我らが宝石姫のための衣装なのだから、きっと納得してくれるはずだ。
そう自分に言い聞かせ、ようやく肩から力を抜いたアマーリエの耳に、コンコン、とためらいがちなノックの音が届く。当たり前だが、扉の向こうに誰かいるらしい。こんな時間にどなたかしら、と首を捻りつつ、「どうぞ」と声をかけると、ゆっくりと扉が開かれた。
「――――このような時間に失礼する」
それは、凛と澄んだ、耳に心地の良い青年の声。衣装を作るための道具や材料でこれでもかと散らかった作業場にはふさわしからぬ声であり、そして、その声の持ち主もまた、この場にはふさわしからぬ存在だった。
自分が呼吸を忘れて彼に見入っていることに、アマーリエは遅ればせながら気が付いた。開かれた扉のすぐ向こうに立っている青年から、目が離せない。
珍しいアッシュグレイの髪は長く伸ばされてうなじでまとめられ、背中に流されている。光の加減で銀色にも見えるその髪は、まるで流星を集めたかのようだった。アマーリエよりも軽く頭一つ分は高い身長、その見上げるべき場所に位置するかんばせは凛々しく整い、けれど優しくも穏やかなやわらかさがあった。何よりも目を引くのは、彼の見事な黄色の瞳だ。鮮やかなその色は、まるで星のように、薄暗い作業場の中ですら輝いている。執務官でもなく魔法使いでもなく騎士でもない服装だが、その上品な身なりは自然と見る者に好感を抱かせるに十分なものだ。
――ど、どなた……?
アマーリエとて年頃の乙女だ。突然こんな美青年が訪ねてきたらどぎまぎしてしまう。だがそれはほんの一瞬のことで、すぐに硬く身を強張らせて身構えることとなった。何せ、アマーリエのそばには、精魂込めて作り上げた、宝石姫のための衣装があるのだから。この衣装の制作が始まるにあたって、作業場への出入りは固く制限されるようになった。にもかかわらず、見ず知らずの青年は、ここまでたどり着いた。怪しい。怪しすぎる。
キッと表情を険しくするアマーリエとは対照的に、青年はこちらの顔を認識すると、何やら驚いたようにその綺麗な黄色の目を瞠った。ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返してこちらを見つめてくる彼に、流石に居心地が悪くなって視線を逸らすと、青年はハッと息を呑み、上流階級の子息としての見事な一礼をしてみせた。
「突然の来訪、失礼する。俺はエストレージャ・フォン・ランセント。クレメンティーネ姫の守護者として、かのお方の名代としてこの場に来また者だ。……入っても、いいだろうか?」
穏やかながらも堂々とした名乗りとともに、おずおずと青年――エストレージャ・フォン・ランセントと名乗った青年は問いかけてくる。アマーリエは反射的に頷いた。頷かないわけにはいかなかった。
エストレージャ・フォン・ランセント。その名を知らぬ者はもはやこの国にはいないに違いない。作業場にこもりきりになって針仕事にばかりいそしみ、うわさ話にはてんで縁のないアマーリエすら知っている。
彼こそが、数年前、この国の守護神たる女神の巫女であるクレメンティーネ姫の守護者として任命された、古き神の末裔にして先祖返りと呼ばれる、尊き存在――――!
――そんなお方がどうして!?
よりにもよってこんな時間に、アマーリエしかいないときに、なぜ現れたのか。すっかり混乱状態に陥ったアマーリエを、困ったように見つめた青年、もといエストレージャは、ゆっくりと作業場に入ってくる。そのまま彼は、アマーリエの隣に並ぶ。ひえええええとおののくこちらの心境に気付いていないらしく、彼はアマーリエの前のトルソーが身にまとっている、我らが姫君のための衣装を見つめ、ほう、と感嘆の吐息をこぼした。
「……話には聞いていたけれど、すごいな。なんて見事なドレスなんだろう。モチーフは、薔薇だよね?」
「は、はい。此度の姫様の仮装は、『薔薇の女王』で、満場一致でございました」
最高級の真紅のビロードを惜しげもなくたっぷりと使い、スカート部分はゆたかなドレープをいくつも作り花弁を表現し、上半身には同じ生地で作られた小ぶりの薔薇が何輪も誇らしげに咲き誇っている。
朝露にぬれた先染めの薔薇を表現するために、一粒一粒、細心の注意を払って、つい先ほどまでアマーリエはビーズを縫い付けていたのだ。
次代の女王陛下にこれ以上なくふさわしい衣装だ。エストレージャもそう思ってくれているらしく、彼は深く頷いて「絶対にお似合いになるな」と笑った。その笑顔にやはりどぎまぎしてしまうのだが、その感覚は長くは続かなかった。エストレージャの黄色い瞳が、真剣な光を宿して、アマーリエを捉えたからだ。
思わずびくりとすると、彼はその尊き身分には似つかわしくない、いかにも申し訳なさそうな顔になる。そして彼は、意外すぎる表情に戸惑うアマーリエの前に、懐から取り出した『それ』を示してみせた。
「この時間は、姫の衣装の監督者が一人で作業していると聞いていたんだ。だからこそ、俺が一人で来た。『これ』を、ドレスに仕込んでもらうために」
「……!」
エストレージャの手の上の『それ』――――てのひらに収まる程度の大きさの、小さな抜身のナイフだ。あらゆる無駄をそぎ落とした銀の刃の先端は、昏く変色している。それは、そのナイフが、毒に染まっていることの証。
――暗器を、衣装に!?
ひゅっと息を呑み言葉を失うアマーリエに、エストレージャは真剣な、そしてどこか悲しげな表情で続ける。
「本来ならば、こんなものなど必要ないと、守護者たる俺こそが断言しなくてはならないことは解っているんだ。けれど、前例がある。あれから数年経ったとはいえ、まだ姫に対する不穏分子がいないとは限らない。これは、姫と、その御夫君、そして守護者としての俺の総意だ。姫の衣装の監督者であるあなた……アマーリエ・リタ・プラネッタ嬢。この件について、他言無用で、あなたにも協力してもらいたい」
辛そうな声だった。悔しそうな声だった。その声音に、ああ、そういえば、とアマーリエは思い出す。数年前、あろうことか姫の婚約式典の最中に、彼女に害をなそうとした輩がいたと。幸いなことにその事件は防がれたが、《祝宴》という誰もが浮足立つ機会を狙って、また暴挙に及ぶ存在がいないとは限らないだろう、ということくらい、世情に疎いアマーリエでもなんとなく解る。
叶うことならば知りたくなかったし、関わり合いたくなかった事情に一枚噛むことを求められるのは、正直なところ大変不本意だ。けれど、我らが姫君のためならば。そして、目の前の、心から誰よりも自身の至らなさを悔やんでいる様子の青年の姿を見せられたら、ああ、もう、仕方ない!
「……かしこまりました」
「っお願い、しても、いいのか……?」
「はい。それでは、袖口のレースをさらに大きくして、枚数も増やしましょう。このような小ぶりのナイフでしたら、やはり手首に仕込むのがもっとも実用的かと」
「…………ごめん。せっかく、一生懸命、デザインを考えてくれたのに」
先ほどまでのかしこまった口調がどんどん崩れていく青年に、アマーリエはつい噴き出してしまった。そういえば姫君の守護者様は市井育ちでいらっしゃったわね、と数少ない情報を思い出しつつ、にっこりと笑ってみせる。
「姫様ほど魅力的な方ですもの。美しい薔薇には棘があるもの。護身用の暗器、むしろ姫様の魅力を引き立てる装飾の一つとなりましょう。必ずやこの衣装、ご納得いただけるものをご用意しますわ」
そうだとも。依頼人の要望に応えてこそのお針子だ。幸いなことにアレンジは自由にしていいという許可ももらっていることであるし、こうなったら完璧に暗器仕込みの最高の衣装を作り上げてみせようではないか。
ぐっと拳を握って意気込んでみせれば、エストレージャはまたぱちぱちと瞳を瞬かせ、こちらの顔を凝視してくる。なんだか覚えのある視線のような気がしたけれど、それにアマーリエが思い至る前に、彼はようやく、ふ、と、気が抜けた笑みを浮かべた。
「美しい薔薇には棘がある、か。そうだね。だからあなたも余計に魅力的なのかな」
「…………はい?」
今、とんでもなく想定外のことを言われたような気がしたが、気のせいだろうか。んんんん? あれ? と首を捻ると、エストレージャは前言を撤回することなく、アマーリエの右の手首へと視線を送った。
「仕込み針、そこにあるだろう?」
「え、あ、は、はい……って、いいえ、あの、確かにここに縫い針は仕込んでおりますが、それは職業柄で、決して姫様のような薔薇の棘ではございませんよ。み、魅力だなんてそんな、恐れ多い……! 姫様のようにお美しい方ならばともかくですね、あの、ですから……」
間違っても『魅力』だなんて、そんなご大層なものではない。いくら言葉を尽くしても足りないくらいに否定すべき案件である。それなのに、エストレージャは、不思議そうに首を傾げるのだ。
「魅力って、容姿のことばかりではないだろう? あなたが真摯に仕事に取り組む姿勢は立派だし、あなたの作品は誰かを喜ばせることができる、どんな魔法にも負けない奇跡なんじゃないかな」
当たり前のことを言うように、大真面目に彼はそう続け、そして、やっぱり大真面目に、まっすぐにアマーリエを見つめてきた。
「そんな奇跡を、自分の努力で起こせるあなたは、十分魅力的だと思うけれど、違うのかな?」
彼はそう言って、さらに首を傾けた。アマーリエは思った。
――そんなこと言われましても!!!!
肯定するにはあまりにも不遜で、けれど否定するにはあまりにももったいなくて。顔が熱くて熱くてたまらない。こんな風に真っ向から自分の仕事を認めてもらえたのなんていつぶりだろうか。侍女長の推薦でお針子になったアマーリエは、最初から、「できて当然」だと思われていた。どんな精緻な依頼を完成させても、いつだってせいぜい「さすがだな」くらいが関の山だった。それなのに、目の前の青年は、『魔法にも負けない奇跡』だなんて、途方もない賞賛をくれたのだ。これで嬉しくならないほうがどうかしている。
――私、夢でも見ているんじゃないかしら。
まさか誰もに慕われる守護者様に認めてもらえるなんて。胸の奥が熱くなって、どうしようもなく浮足立ってしまう。そう、本当に、浮足立ってしまったのだ。
慣れない賛辞につい後退してしまったアマーリエの足が、床に落ちていた滑らかな絹のはぎれを踏み付けた。そのままつるりとはぎれごと足はすべって宙に浮く。
――うそっ!?
普段ならばあり得ない失態である。このままでは間違いなく、床に思い切り倒れ込む。下手をすれば、姫の衣装すら巻き込んで。それだけは避けなくてはならないのに、もう既に浮いた身体はどうしようもなく、アマーリエは声にならない悲鳴を上げた。
――――けれど。
「……あなたはやっぱり、放っておけない人なんだね」
「…………え?」
気付けばアマーリエの身体は、エストレージャの腕の中にあった。倒れ込む寸前で、彼の腕が自分の身体を抱え込むように支えてくれたのだと遅れて気付く。は、と吐息をもらせば、くつくつと小さな笑い声が至近距離で耳朶を打った。エストレージャだ。
「無事でよかった。立てる?」
「は、はい。あり、がとうございま……いたっ!?」
「あ」
努めて平静を装ってエストレージャから離れようとしたのだが、それはかなわなかった。転びかけた拍子に、頭のバブーシュカからこぼれた長い小麦色の髪が、あろうことか彼の手首のボタンに絡まっていたのだ。なんたることだろう。ひえっと息を呑み、慌ててアマーリエは作業台の上の糸切りばさみを手に取った。
「申し訳ございません! すぐに切りますから……!」
「ま、待って、切るってまさか髪を!?」
「はい!」
我ながらとてもいい返事だった。その返事に対し、気が動転しているアマーリエ以上にエストレージャは顔色を変えた。彼の手がさっとアマーリエの手から糸切ばさみを奪い、そして。
「切るならこっちだよ。ああ、驚いた」
彼はためらうことなく、アマーリエの髪が絡む自身のシャツの手首のボタンを、ぶちりと引きちぎった。止める間もないあっという間の出来事に唖然としていると、彼は「それじゃあ、姫の衣装の件、任せたよ」と立ち去ろうとする。そんな彼の袖を……そう、ボタンが取れてしまった袖を引っ張って引き留めたのは、ほとんど無意識の所業だった。
きょとんとこちらを振り返るエストレージャを見上げながら、アマーリエは手首から縫い針を引き出し、作業台から糸を選び出す。
「すぐに縫い付けさせていただきます」
「え、いや、これくらい自分でできるし、あなたが帰るのがまた遅くなってしま……」
「構いません。少しだけ、お時間を」
会話をしながら、了承を得る前にアマーリエはエストレージャのボタンを再び元の姿に戻してしまう。手早く強靭に縫い付けられたボタンを驚いたようにしげしげと見下ろして、エストレージャは「すごいな」と深く頷いて、こちらへと視線を向けてやわらかく微笑んだ。どきり、とアマーリエの胸が大きく高鳴る。
「やっぱりあなたの手は魔法みたいだ。きっとどんな相手でも、あなたを意識せずにはいられないだろうな」
しみじみと心から感心したようにそう呟いた青年は、そうして、不意に大真面目な顔になる。反射的に姿勢を正せば、彼はなんとも重々しい口調で、さらに言葉を紡いだ。
「今日ばかりではなくて、普段も、夜遅くに一人で帰るのはやめた方がいい。自覚がないようだから何度でも言うけれど、あなたは、魅力的なんだから」
……褒められているのは解るが、同時に、叱られているのも確かなような気がした。なんと返せばいいのか解らず言葉を探すアマーリエに、「帰り道、気を付けて」と言い残し、今度こそ青年は去っていく。
一人残されたアマーリエは、そうしてようやく、張りつめていた糸が切れる音を聞いた。へなへなへな、とその場に座り込み、遅れてやってきた緊張に高鳴る鼓動に胸を押さえる。許容量を大きく超える出来事ばかりだった。いやだがしかし、とにかく、姫のための衣装については必ず細工を施さなくてはならないし、いつまでも座り込んでいるわけにはいかない。ああでも、本当に驚いた。こんなことがあるなんて、と、大きく溜息を吐いてから、不意に気付く。
「――どうして私が、普段から夜が遅いのを知っていらしたのかしら?」