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そもそも、アマーリエ・リタ・プラネッタ伯爵令嬢は、行儀見習い目的の侍女として王宮に仕えるはずだった。

なんとか無事にデビュタントを終えたものの、プラネッタ領は王都から遠く離れた辺境だ。アマーリエとの婚姻に利を見出す貴族はほぼほぼ皆無と言っても過言ではなかった。

年頃のかわいい娘が、花の盛りを故郷であるとはいえド田舎で過ごさせるのはあまりにも不憫だと、両親は頭を抱えた。

ならば、と声を上げてくれたのが、古くから懇意にしている王宮仕えのとある魔法使いだった。

行政に携わる王宮において、国の中でも随一とされる優秀な魔法使いが集う黒蓮宮に努めるその御仁が、「自分が後見人になるから、アマーリエ嬢を王都に寄こしてみないか」と提案してくれたのである。


――お母様はともかく、お父様の悩みっぷりはすごかったわね……。


つい遠い目になるアマーリエである。思い出すだに我が父ながらあまりにも哀れに憔悴しきった姿だった。

それも仕方のないことであったとは、解っているけれど。なにせ当時は、ほんの数年前に、五百年ぶりに復活してしまった魔王を、聖剣に選ばれし勇者様が、頼れる仲間達とともにようやく討伐してくださったばかりのころだった。平和を取り戻したと言われても、それでもまだこの国の政情は、本来の安寧を取り戻すのに、もう少し時間が必要だったのだから。

だがしかし。だがしかしだ。そうやって何もせずに領地に引きこもっていても、何も状況は変わらない。

最終的に、アマーリエ自ら「王都へ行って、将来の旦那様を見つけてまいります!」と担架を切ったのが決定打となった。本人がそう言うのならば、と、両親、というか父はようやく諦め……もとい、納得してくれた。

見渡す限りの小麦畑が広がるド田舎でたわむれに手折られるのを待つよりも、いっそ華やかな王都で、たとえたった一人きりであろうとも王宮で行儀見習いの侍女として働きつつ、なんとかかんとか将来の夫となるべき存在を射落としてくるほうがアマーリエのためであると。

それが、アマーリエを心から愛してくれる両親の苦肉の策である。

いざプラネッタ領を発とうとしたその日、馬車に乗り込もうとしたアマーリエに、年の離れた弟と妹は、「あねうえ、いっちゃいやです」「おねえさま、いかないで」と泣き叫びながら取りすがり、アマーリエも両親も数少ない使用人達もぎちぎちに良心が締め上げられた。

そう、それが四年前の話だ。

アマーリエは今年、十九になる。

故郷を思い出させてくれる、ゆるく波打つ小麦色の長い髪はバブーシュカに無理矢理押し込み、鮮やかな朱色の瞳を細めて、一針、一針、魂を込めて真紅の生地に針を刺す。


――我らが『生ける宝石姫』様のためのドレスだもの。

――私がその縫製に携われるなんて、なんて誉れなのかしら!


きっと今の自分の姿を見たら、故郷の両親は「何故!?」と大きく声を張り上げることだろう。気持ちは解る。アマーリエ自身だってまさか自分がこんなことになるだなんて思っていなかった。

そう。アマーリエ・リタ・プラネッタ伯爵令嬢は、現在、行儀見習いの侍女ではなく、お針子として王宮に仕えているのである。

当然、『未来の旦那様』なんて見つかってもいない。旦那様どころか婚約者もいない。このままでは自他ともに認める立派な嫁かず後家になるわねぇ、と、誰に指摘されるまでもなく自分が一番よく理解していた。

何がどうしてどうなってそうなったかと言うと、話は、アマーリエが王宮に登城を始めたばかりのころにさかのぼる。すなわち四年前だ。当時は確かに自分は行儀見習いの侍女だった。

初めて配属されたのは、なんとこの国を治める尊き王族が住まう紅薔薇宮。がちがちに緊張する日々に疲弊していたころ、たまたま目にしたのが、同僚のお仕着せの侍女服のほつれ。故郷たるプラネッタ領でも、アマーリエの縫製の腕前は評判だった。幼い弟妹の衣装から、果ては両親の正装まで、趣味の域を軽く飛び越える勢いで、仕立て屋と一緒になって作っていたのが功を奏した。なんとなく懐かしくなって同僚のほつれを繕ってあげたら、それが一度や二度ではすまなくなり、ついでに頼んでくる人々も多岐にわたるようになり、気付けば侍女長の耳にまでその腕前は届き、最終的に「針子として勤める気はないか」と直接打診される運びとなった。

本来であればとんでもなく失礼な打診である。行儀見習いの侍女と、針子風情では、身分が天と地の差だ。だからこそ、侍女長は「もちろん断ってくれて構わない」と言ってくれたのだろう。けれどアマーリエはその打診を受け入れた。提示された給金が破格であったことに加えて、「魔王復活の名残で、王宮には人手が足りていない」という事実を、ひしひしと身に染みて感じていたからだ。

おひとよしね、とかつての同僚達はアマーリエに呆れていたが、構わなかった。今となっては形式だけとなった侍女服をまとったお針子娘は、新たな同僚達に好意的に迎え入れられ、そうしてなんと、こうして魔王討伐の立役者の一人でもある、麗しの巫女姫のドレスにまで携わることを許されたのだから!


「…………よし、と。ふふ、やっぱりこのフリルは三段じゃだめ、五段じゃなきゃ」


ようやく作り上げた真紅のドレスのスカート、その裾の大きく波打つ豪奢な五段フリルに心からの満足とともに頷く。我ながら上出来だ。宝石姫がこのドレスをまとって、その銀の枝のような足で歩まれるたび、このフリルは薔薇の花びらが舞うようにひるがえることだろう。

考えるだけで胸が弾む――――のは、いいのだけれど。


「やだ、もう真っ暗じゃない」


窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。一緒に作業していたはずの同僚達は、男女問わず一人として残ってはいない。

そういえば最後まで付き合ってくれた腕のいい裁断師が「根詰めすぎないようにね」と苦笑していたような気がするけれど……ううん、すっかり集中しきっていたせいで、その助言をまったく無意味なものにしてしまった。


「早く帰らなきゃ。門限に間に合わなくなっちゃう」


アマーリエは現在、地方から出てきて王宮に努める貴族の令嬢が住まうための寮に居を構えている。

王宮から少しばかり歩いた場所に位置する、男子禁制の『桃菫宮』と呼ばれる離宮は、故郷の屋敷の自室よりもよほど立派な造りだが、その分、規律は厳しい。門限破りなどもってのほかだ。

寮の代表も担う侍女長には、アマーリエはその門限破りの常習犯として、完全に目をつけられている。それでも今のところ無事で済んでいるのは、その侍女長が、アマーリエに針子という役目を任せたからに他ならない。

「あなたの腕は信用しています。そして、あなたの人となりは、信頼したいと思っていますよ」と、つい先日、針仕事に熱中するあまり、午前様になって寮に帰還したときに、眠りもせずにアマーリエを待っていてくれた彼女の言である。

思い出すだけで震え上がるような怒りを秘めた声音に、やはりぶるりと身体を震わせて、アマーリエは手早く荷物をまとめて職場である工房を出た。

すっかり夜のとばりがおりた空は真っ暗で、大きな青い月と、満天の星々が輝いている。頬を撫でる風は優しくひんやりとしていて、針仕事に没頭し切っていた頭を心地よく冷やしてくれる。

人通りなんてまったくない。こんな時間なのだから当たり前だ。王宮の周りはいっそ空恐ろしくなるくらいのしじまに満ちていて、ほう、と吐息を吐き出す。

夏が過ぎ、秋の足音が少しずつ近付いてくるこの季節が好きだ。故郷のプラネッタ領では、小麦がそろそろ黄金色に染まり始めるころだろう。もう四年も帰っていない自分を、家族はいつも手紙で心配してくれている。


「そろそろ長期休暇でも取ろうかしら?」


上司からも侍女長からも、「休みを取れ」と繰り返しすすめられていることだし、次の大きな仕事……そう、この国でも重要な祭事の一つとされる、《プリマ・マテリアの祝宴》が終わったら。そうしたら久々に故郷に顔を出せるのではないだろうか。本来の目的をすっかり忘れて故郷にいたときと何一つ変わらず針を刺すばかりの放蕩娘を、きっと両親は呆れているし、弟妹は怒っているし、何より、心からとても心配してくれているのだから。


「休暇申請は早いほうがいい……」

「こんな時間に危ないなぁ」

「え?」


わよね、と、そう続けるはずだった。けれどそれはかなわなかった。目の前に突然、見知らぬ男性が現れたからだ。鼻につく酒気に思わずむっと眉をひそめる。すごい臭いだ。よほど酔っていると見た。夜目にでも解る赤く染まった顔はやにさがり、にやにやとこちらのことを見下ろしている。本来であればそれなりに整った顔立ちだろう。だがこれでは残念なことにすっかり台無しだ。

身なりは悪くない、どころか、困ったことに一級品。針子として働くアマーリエの目はごまかせない。この衣装。間違いない。


――青菖蒲宮の騎士様じゃない!


青菖蒲宮。それは騎士の中の騎士と認められた誉れ高き騎士が集う王宮騎士団のための宮だ。目の前の青年は、その証である青のマントこそ身にまとっていないものの、確かに王宮騎士団の一員であることは明らかだった。


「お嬢さん、夜分遅くにおひとりでご帰宅とは、さぞかしご不安でしょう。よければこの私に、お嬢さんの護衛を務めさせてはもらえないかな?」


どこからどう見てもかなり酔っぱらっているようにしか見えないのに、青年の動きは驚くほど俊敏だった。大きく足を踏み出したかと思うと、あっという間にこちらの腰に片腕を回し、もう一方の手でこちらの手の掴んでくる。

動きそのものは確かに洗練された優美なものであったが、未婚の乙女に対する対応としてはあまりにも不躾だった。

強制的に身近になったことで、一気に酒の臭いが色濃くなり、普段から酒をたしなまないこともあってぞわりと全身が粟立った。


「は、放してくださいませ……っ! わ、わわ、わ、私はだいじょ、ぶ、ですので……!」

「はは、照れているのかい? かわいいな。遠慮なんていらないよ。でも、そうだな。お礼に、送り届けた先のお嬢さんの部屋で、紅茶の一杯でも淹れてくれたら嬉しいのだけれど?」


この青年は一体何を言っているのだろう。酔っぱらっているからだと言い張るにしても過ぎた暴挙だ。

なんとか彼の腕から抜け出そうと身をよじっても、そんな些細な抵抗は器用に封じ込められてしまう。


――や、やだ……!


じわりとまなじりに涙がにじむ。いつもいくら遅くなっても、こんな相手に出会わなかったのは、ただ運がよかっただけなのだと今更思い知らされる。

同僚や侍女長が「年若い娘なのだから明るいうちに帰りなさい」と口を酸っぱくして繰り返してくれていたのは、こういう目に遭わないように、と、アマーリエのことを心から心配するがゆえだったのだ。それなのに、「我が国の王都の治安のよさは折り紙付きなんですから!」なんて笑って流していた自分の愚かさが悔やまれてならない。

これで「未来の旦那様候補に出会えたわ!」なんて喜べるほどアマーリエは能天気ではないのだ。自分を拘束……そう、さも丁寧に、丁重に、寄り添ってくれているように見せかけながら、その実、自分のことを逃がさないようにしかと拘束してくる青年の瞳の奥に宿る、いたいけな花をたわむれに手折ろうとする残酷な光に気付かないでいられるわけがない。


「さ、お嬢さん。ああ、もしかして桃菫宮にお住まいかな。もう門限も過ぎているだろう? そうだ! ならばこのまま、ぜひ私がひいきにしている店へご案内しよう」

「お、お構いなく……! 放してください!」

「ほらほら、照れないで」


必死の抵抗もなんのその、青年はアマーリエを操り人形でも相手にするかのように、アマーリエの足取りを自身の足取りに重ねてしまう。

その足が向かう先は、もちろん桃菫宮などではない。このまま進めば王都でも指折りの繁華街だ。


――冗談じゃないわ!


「放して!」

「っ痛ッ!?」


もうためらってなんていられなかった。掴まれていない方の手、すなわち利き手である右手、その手首に常に仕込んでいる縫い針を引き抜き、青年の手に容赦なく突き刺す。

まさかそんな真似をされるとは思っていなかったらしい青年が驚きの声を上げた。同時に彼の手の力が緩んだのをいいことに、その腕から抜け出す。


「このっ! 生意気な! この私が遊んでやろうというのに……!」

「――――っ!」


酒ではなく怒りのせいで顔を赤く染めた青年が、あろうことか手を振り上げた。騎士の中の騎士が聞いて笑わせる。彼の手は次の瞬間、容赦なくアマーリエを打ちのめすだろう。

その衝撃に耐えるために、せめて、と、ぎゅうと目をつぶる。

だが、想像した痛みも衝撃も、アマーリエを襲うことはなかった。そのかわり。


「うわっ!? なんだこいつは!?」

「……え?」


おそるおそるまぶたを持ち上げる。そのままアマーリエは大きく目を見開いた。


「…………犬?」


そう、犬だった。それも、子犬である。まだ幼い、子供の両腕でも軽く抱え上げることができるに違いない大きさの子犬だ。その子犬が、低く唸りながら、青年に飛び掛かっているのである。


「やめっ! やめろ! クソッ! やめろと言っているだろう、この野良犬風情が!」


小さな身体にあるまじき、すさまじい勢いだ。青年に何度振り払われても、勇猛果敢に彼に立ち向かっている。

その様子を、アマーリエは呆然と見つめることしかできずにいる。

やがて音を上げたのは、『騎士の中の騎士』であるはずの青年のほうだった。口汚く子犬のことを罵りながら、ほうほうのていで夜の闇の中へと逃げ込んでいった。子犬は彼を追いかけることなく最後までその背中を見送り、そしてその瞳をアマーリエへと向ける。


「ひっ」


金色の目が、じぃと見つめてくる。その毛並みは見事な白銀、ピンと伸びた耳は凛々しく、おしりから伸びるしっぽがゆらりと優雅に揺れる。

誰もが賞賛するに違いない、愛らしい子犬だ。アマーリエにとっては恩人だ。そんなことは解っている。誰よりもよく解っているとも。だがしかしだ。

ととと、と軽い足取りで近寄ってくる子犬を前にして、さああああああっと頭から血の気が引いた。


「だめ! 来ないで!」


口からほとばしるのは、ほとんど悲鳴のような拒絶の言葉だ。きょとん、とまるで人間のように美しい金色の瞳を瞬かせる子犬を前にして、アマーリエはさらに声を震わせる。


「わ、私、犬、だめなの! 無理なの! お願い、来ないで……!」


がくがくと膝が笑う。気を抜いたらこのまま腰が抜けてしまいそうだ。

何がなんだか解らなくとも、この子犬が自分のことを助けてくれたことは確かだ。感謝すべきである。けれどそれはそれ、これはこれ。

アマーリエ・リタ・プラネッタ伯爵令嬢は、筋金入りの犬嫌いだった。

思い起こせば十年前、故郷であるプラネッタ領における屋敷には、家族総出でかわいがっている犬がいた。アマーリエの髪と同じ小麦色の毛並みの、大きな犬だった。

その犬は家族どころか領民からも深く愛されていたが、それ以上にその犬自身が、アマーリエのことをそりゃあもう愛していた。懐いていただとか大好きだっただとかいうレベルではない。心の底からその犬はアマーリエを愛してくれていた。だが、その愛し方が問題だった。アマーリエが泣こうが叫ぼうがところかまわず追いかけ回し、押し倒し、全身全霊で愛を振りまいてきた。

自分よりも一回りは大きな犬に追いかけ回されるその恐怖。押し倒されて泥にまみれたり破れたりして無駄になったドレスは数知れず。

それは、誰もに愛されたその犬が、まだ幼かったアマーリエのトラウマになるには十分すぎる理由だった。

そのトラウマは払拭されることなく今日まで続いている。目の前の子犬すら、アマーリエにとっては先ほどの青年よりも恐ろしい相手であるとはお解りいただけただろうか。

顔を真っ青にさせて身を固くし、ただ子犬が去るのを待つばかりでいると、やがて子犬は小さく一声鳴いた。

何故だろう。「解った」と、言われた気がした。

ぎゅっと両手で拳を作り、全身を緊張でこわばらせながら、細心の注意を払って子犬の横を通り過ぎる。

一刻も早く寮へ帰りたかった。自然と急ぎ足になりながら、アマーリエはつい、背後を振り返る。そして、心の底から後悔した。


「なんでついてくるの!?」


決して近くはない距離だが、同時に決して遠くもない、一定の距離を保って、子犬がついてくるのである。

やはり先ほど「解った」なんて言われた気がしたのは気のせいだったのだ。とんでもない勘違いだった。都合がよすぎる思い違いだった。

いよいよ半泣きになって急ぎ足を駆け足へと速度を上げる。だがそれでもなお、子犬との距離は変わらない。


――いやあああああああっ!


かくして、夜闇の中での不本意極まりない追いかけっこが始まった。脳裏によみがえる幼き日のあれそれがまた恐怖を呼び起こさせる。

どうしてこんなことになってしまったのだろう。ただちょっとフリルを増やしたかっただけなのに。

そう自責とともに自問するアマーリエの涙にぬれる朱色の瞳に、ようやく、本当にようやく、寮である桃菫宮の門扉が映る。

ああ、これでやっと。安堵のあまりとうとうぽろりと涙をこぼして、また背後を振り返る。


「あ、あれ?」


てっきりすぐそこまで迫ってきているに違いないと思っていた子犬は、なぜか立ち止まっていた。これまでの勢いが嘘のようだ。

ただじっとこちらを見つめてくるばかりの子犬に、これ以上背中を見せるのはためらわれた。あえて寮の門扉に背を向け、子犬と向かい合う形になって、じりじりと後退するこちらを見つめていた子犬は、アマーリエの背中が門扉にぶつかるのを待っていたとでも言わんばかりに、その瞬間、また一声鳴いた。それこそまるで、「よかったね」とでも言うように。

そのまま子犬はくるりとこちらに背を向ける。どうやらアマーリエを追いかけ回すのに飽きてくれたらしい。

息を呑みながら、月明りに浮かび上がる見事な毛並みを持つ小さな背中を見つめていたアマーリエだったが、気付けば思わず「待って!」と声を上げていた。

子犬相手に何を言っているのだろう。さっさといなくなってほしいし、そもそも言葉だってろくに通じるはずがないのに。それなのに、子犬は、アマーリエの呼び声に応えるようにぴたりと足を止め、その小さな頭をこちらへと振り向かせた。

きらきらと輝く綺麗な金色の瞳。ごくりを息を呑んでから、そっと口を開く。


「あ、ありが、とう」


繰り返すが、本人……いや本犬がどういうつもりであったのかは不明だとはいえ、子犬がアマーリエの恩人であることは事実である。

恩人には礼を尽くすのが道理だ。いくら大嫌いな犬が相手であったとしてもだ。

震える声で紡がれたお礼の言葉に、子犬はなんだか驚いているようだった。そして、また、一声鳴いた。


――……もしかして、笑った?


気にすることはないと、そう言われた気がしてしまった。そんな馬鹿な、とアマーリエが硬直するのを置き去りにして、今度こそ子犬は、まるで流れ星のような残像を描いて、夜の闇に消えた。

その姿を最後まで見送ったアマーリエは、交代のために持ち場を離れていた守衛に声をかけられるまで、呆然と立ちすくんでいたのだった。

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