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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ツァラトルサン

やるべきこと

自称『魅力的で感じがよくて愛らしい』、自分勝手で偏屈クズで煽りカスの少女、ツァラちゃん。 ツァラちゃんの金魚のフン、ルサンちゃん。 二人がトボトボと歩む、別にどーってことない日々を描いただけなのに、ユーモアとエスプリが見え隠れする不思議な小説。


春の終わり。

放課後。

日中に溜められた陽の熱が物質から放出される時分。

アスファルトと同じように、瞼の表皮が少し冷めた頃。

身の小さな変化に反応した過敏な神経が、突っ伏して寝るルサンちゃんを覚醒させた。


ビクッと飛び起きた。

飛び起きたので、机の腹に膝を打ち付けた。

痛い。

それで。

時計を見ると午後17時。

「…何時から寝てた?」

「私の介抱が終わってすぐから」


あぁ。


一限から六限にかけて、今日もツァラちゃんは居眠りをするか、手遊びをするか、どこかに出歩くか、ルサンちゃんにちょっかいをかけるか、そればかりだった。

滅茶苦茶をする友人を、自己責任だと放っておけばいいのに、ルサンちゃんはいつもフォローをする。

今日も。

代わりにノートを取って、当てられたら回答して、流石に宿題だけはやってこないツァラちゃんが悪いと見放しているが(答え見せてと言われたら見せる、しかし彼女はそれすらしてこない)。

随分のお節介を働くのである。

これに加えて、ルサンちゃんは日頃の学習に一切の手を抜かない。

予習をし、復習をし、発展学習をし、分からない部分も気になる部分も全て調べ尽くして納得し尽くす。何を聞かれても適切に回答出来るようにする。宿題は一度も忘れたことがない。更に、読書をよくする。

大人の期待に完璧に答えられるように、いつも脳を鍛えている。

ツァラちゃん無しでも恐ろしく疲れる毎日を送っている。実際にはツァラちゃんは存在してしまっているから、更に疲れる途方もない毎日を送っている。


だから、彼女の身体は常に休息を求めている。ただ、彼女の規律正しい精神がそれを許さないだけで。

今日ばかりは仕方がなかった。

穏やかな春の終わりの中でも、今日は一段と穏やかな日で、如何なる状況にある誰もが地球をゆりかごにして眠りこけてしまう日であった。

いつも精神を機敏に働かせるルサンちゃんですら、授業の終わりと共に崩壊させてしまう日であった。


「ずっと見てたの?」

「よだれ垂らしてた」

「…起こしてよ」

口から机にかけて伝う己のよだれを、袖で拭う。

そして、ツァラちゃんを睨む。

…彼女がツァラちゃんに不満だった理由は、友人に恥辱を見られたからではない。

「たとえば私が君を起こしたとして、君は依然眠いままだ。であるにも関わらず、君はきっと寝ない。そう、君は眠いのに寝ない人間だ」

「早く起こしてくれたら、早く家に帰れて、そしたら早くベッドで眠れた」

「自習への義務感を前にして?」

「…」

「ほら、寝ない」

「眠ることと食べること、それからトイレ。最も原始的な快楽であるこれらは、如何なる存在にも妨げられるべきでない。それらは原始的であるが故に、身体の最も根幹の構成と、心の安定を左右するのだから、遮られてはならない。だから、たとえ私であってもね、すやすや眠る君を起こすことは許されない。この簡単な理屈が横たわる時点で、君の性分なんか関係なく、私は君を起こさなかったよ」

「君の不健康を正せるのならば、私は君からどんな不満をぶつけられても構わないと考えている。私の行動の如何なるは君のためにある」

「だから私を睨むな。いいね?」


目覚めたばかりの相手に一切の配慮もなく長文をまくし立てる彼女を、やはり睨みながら、ルサンちゃんは改めて思った。

ツァラちゃんとはいつもこうなのだ。


勉強も読書も知らない脳のどこから結集させたのか分からない、豊富な情報と深い思慮を以て構築した屁理屈を、相手の事情なんて鑑みず立て板に水にくっちゃべる。

それはどんなに大したこともない話題に対しても行われる。彼女はあらゆる事物と事象に自分のアイデアを適用させる。

良く言えば、自分の考えを持っている人。悪く言えば…。

…ルサンちゃんはこれを良く思っていない。

ツァラちゃん曰く、そこには強い信念と優れた精神があるのだそうが、読み解くに、その実態はただの無責任と快楽主義。

ツァラちゃんに胆力はない。部活も勉強も頑張らない。だからといって遊びに熱心な訳でもない。何も成し遂げたことがない。きっと、雑誌一冊すら熱心に読み込んだ試しがない。

適当な苦労に耐えうる神経を持ち合わせていない彼女からしたら、普段のルサンちゃんが守る規律と自律とは、辿り着くことを諦めた土地で、ゴールに至る気のないマラソン。そもそも目的地から見える風景の感動を知らず、ゴール後の達成感と疲労感を知らない。

ただ漫然と、これらの苦労を実行する人々をドキュメンタリーとしてテレビで見て、屁をこきながら鼻で嗤う少女。それがツァラちゃんの正体なのだ。


常に努力や責任の向かう方向とは逆に歩むから、ほんの少しでも生産的でなく、出来ることは人に迷惑をかけることだけ。

彼女は悪癖を反省しない。だから、これからもそうあり続ける。培われた腐った性根が再生することは決してない。


悪く言えば、自分勝手で、偏屈を理由に動かないクズで、簡単に他者を煽るカス。人としての価値はない。

そんな少女がツァラちゃんなのだと、ルサンちゃんは理解している。






水を飲みなされ、と何処からか出されたコップ一杯の水を無視して、ルサンちゃんは凝り固まってしまった身体をほぐしながら、帰り支度をしていた。

今晩に使う教科書とノートと、体操着の上に弁当箱まで詰め込もうとしたから、カバンはぎゅうぎゅうになってしまっていた。己に歯向かう反動的な荷物と格闘をしていた。

対してツァラちゃんは、ルサンちゃんの隣に座り、中身がスッカスカのカバンを膝に置いて、取っ手を弄って手遊びをしながら、なんだか忙しそうな彼女の様子を眺めていた。

寝過ごしてしまった分の苦労を今晩に取り戻さんと息まくルサンちゃんを見て、のほほんとしていた。

「温かくて良い日だねぇ」

「こんな日に背を向けて、人工光に照らされながらせっせこテスト勉強するなんて、間抜けの所業だね?」

「…ツァラちゃん、だからあなたは毎回赤点しか取れないんだよ?テスト勉強はしなよ。今月末は中間テストだよ?分かってる?」

「ふむ」

「じゃあ聞くが、100点満点のテストペーパーが、一体どうしたらこの温かみの代用になるというんだね?燃やすのかね?すぐに燃え尽きちゃうよ。それともこれで身体を包む?災害時に新聞紙や段ボールで暖を取るみたいに。でもテストペーパーなんてどうしたって数教科分しか枚数を用意できないのだから、きっとビキニよりもペラペラな防寒にしかならない。どう考えても、テストペーパーは陽の温かみの代替にはならないと思うんだがね」

「陽の暖かさより将来の方が大事でしょ。落ちぶれるツァラちゃんをざまぁみろとは思うけど、見たくはないよ、私」

「"落ちぶれる"とは何だ?この陽の光を感じる余裕がない程に焦燥を持つことこそ、真に"落ちぶれる"ことじゃないか?」

イラっとした。

「そういう姿勢のままだと、大変なことになるって言ってるの!」

「"大変なこと"ね」

「なるほど。君のような人間はよく誤解をしているが、殆どの場合において感覚は外界に絶対的だ。たとえば、頬をつねる。すると、金持ちは痛がるが、貧乏人はどうだろう?もちろん痛がる。ハンバーガーを食べたら?聖職者も盗人も美味しいと思う。大統領も国民も、『最強のふたり』には感銘を受ける。このように、感覚は社会的要素のあらゆるから独立をしているし、絶対的だ。しかし感覚は相対的にもなり得る。それは、心の疲弊や精神的な病質を抱える者と、そうでない者を比較した場合に見える差異だ。この違いだけは、痛いものを痛くないと思わせたり、美味しいものを美味しくないと言わせたり、感動できるものに感動できなくさせる。…それで、君の言う"大変なこと"とは一体何なんだい?痛みに気づけないこと、好物を堪能できないこと、胸を打たれないこと、そして陽の光が暖かいことを知り得ないこと。それ以上の困難なのかい?」

「…あぁもう!ツァラちゃんはいつもそうやって!屁理屈ばっかり!」

「そんなんだから昨日もお金がないって言って私の家にご飯をたかりにきたんじゃない!」

「それはまぁ…うん…」

「それだから私はやるべき範囲分の勉強が出来なかったし、今日だって起こしてくれなかったから!もう…どうしていつも私を困らせるの!」

「うん…」


黙ってしまった。

彼女は仙人のふりをしたダメ人間でしかないから、内に一本の強靭な芯を持ち合わせていないから、自分が不利な状況には黙ることしかできない。

…何度改めて考えても、彼女とは出来るならば付き合うべきでない人間だ。

何もせず、自分勝手で、いつも誰かに何かを頼ろうとするのだから、存在するだけで周囲を疲れさせる。

金も飯も勉学も、何に対しても獲得のための努力をせず、誰かに恵んでもらうことを期待するしかしない。行動しなければ死んでしまうとしても、ツァラちゃんはやはり自分を顧みない。そして死に、それはそれで周囲に迷惑をかける。

だからツァラちゃんには友達が一人もいない。誰も彼女と付き合おうと考えない。面倒な害を被りたくないから。

彼女という存在を取り扱うにあたっては、それが一番賢明なのだ。それが一番正解で、誰もがそうして、出来る限り彼女の存在を遠くに追いやることに務めるのだ。






ただ、ルサンちゃんを除いては。


失せた饒舌が言った。

「もしかして、君にとって昨日は嫌な日だった…?」

喜びに敏感なツァラちゃんは、悲しみにも敏感である。

それ故に、先の怒声をきっかけに、既にして分かりやすく動揺し、オロオロし、小さくではあるが泣いてさえいた。

頭が痛くなった。

「嫌とか嫌じゃないとか、そういう話はしてないでしょ…」

「そういう話だろう」

「私がたびたび君の家に訪れては、結果的に君の努力や苦労の何もかもを邪魔する要因になっていることは、私も理解している。というか、理解してやっている」


…ツァラちゃんが家に来る日に、ルサンちゃんは自分に一切の鞭を打てない。大体の場合で、ツァラちゃんは何らか面倒な用事を持ってやってくるし、何も無かったとしても、話しかけてきたり、くっ付いてきたり、適当なことを要求してきたりするために、やはり事前に計画していたことは何もできない。

昨日もそうで、出来る限り良い成績を取りたいと考えているルサンちゃんの勉強計画のことごとくは、ツァラちゃんの「お腹空いた」だとか「抱っこしろ」だとか「かまえ」だとかに霧散させられた。生産性の観点からすれば、昨日の彼女とはルサンちゃんの損失にしかなっていなかった。

「分かってやってたんだ…あれ…」

「…ただ、どんなときでもルサンちゃんは、怒りはしても嫌悪感は催していないようだったから…だから、その…」

視線を下げ、肩を震わせ、手をモジモジさせ、悲しみの中で身体全体を最もマシな場所に置こうともどかしくなっている彼女。

どうしてか、あまり見たくない。

「もういいよ、別に」

「"いい"とは…?」

「怒ってるけど、ツァラちゃんのことは嫌いじゃないから」

「だからもういいよ、別に」


鼻っ柱が折れた、情けない様子の彼女を前に、ルサンちゃんは知り得る彼女の愚かしさや被った実害を材料に更に責め立てることが遂にできず、甘い言葉でこの場を終結させてしまう。

不本意というわけではない。

いつもこうしてしまうのだ。

本心から、こうしてしまう。

なんというか、だめなのだ。

それは彼女の思考上において上手く言語化が出来ていない感情で、どのように説明してよいのか、全く分からないものではあるが。

ルサンちゃんはツァラちゃんをこれ以上責めてはいけないのだ。

これ以上責めてしまうと、ルサンちゃんは遂に彼女を嫌いになってしまって、ツァラちゃんは遂に一人ぼっちになってしまう。

すると、私は一体どうなってしまうのだろうか?

よく分からないが、多分、本当の意味でだめになってしまう。何もできなくなってしまって、何も感じられなくなってしまって、やがて消えてなくなってしまう。

なんというか、だめとはそういう駄目なのだ。


ルサンちゃんは、先ほどツァラちゃんが出してくれた水を飲んで見せた。そうして一息ついて見せた。

「もう怒ってない」

「もう怒るのはやめた」

哀れが顔を上げる。

「そうか…?」

「…ならいいか、ならいいか、あはは」

途端にパッと明るくなったツァラちゃんは、瞳に溜まった涙を拭って、頬を伝う涙の跡を拭って、いつもの自信ありげな様子を取り戻した。

その過程に反省や改善の工程はない。今のままでいても良いと、飼い主から許可を貰っただけで、決して躾けられた上に何かを学んだ訳ではないのだから。二人の間は何も変わっていない。

まだ、ツァラちゃんはダメ人間だし、ルサンちゃんは振り回される。


「うーん」

「良くないよなぁ、こういう関係」

「いいじゃないか、いいじゃないか、あはは」

ため息をついた。

今はこれでもいいかと、半ば諦めることにした。とにかく、見たくないものが目の前から無くなって良かったと思うだけで終わることにした。


「あ、だからと言って今日も家に来るとか言わないでよ。今日こそはダメなんだから」

「えー」






荷物をまとめ終わったら、とにかく帰ろうとツァラちゃんを促した。

早く帰って、出来る限りのことをやらなければいけなかった。そのために今日はツァラちゃんの要望を予め断ったのだ。

肩にかけたパンパンのカバンを改めてかけ直した。今日頑張れば、明日にはきっと余裕ができて、今日よりも優しくツァラちゃんに接することが出来るはずだからと意気込んだ。


教室を出ようとしたとき、自分たちとは反対側のドアが勢いよく開いた。

担任の先生が、バケツと何らかの缶と、ハケのようなものを携えて教室に入ってきた。

「お、やっぱりいた!」

「ちょうどいいタイミングで出会ったなルサン!…ツァラはどうでもいいけど」

「いやぁ、偶然ってあるもんだなぁ。まぁ、話し声が聞こえてきてたから、二人がまだ教室に居ることは分かっていたんだが…」

ルサンちゃんは指名されている理由がよく分からないようだった。目の前の課題に意識が向きすぎていて、眼前の不幸に気づけていなかった。一方でツァラちゃんは状況を理解してにやけていた。

目的物に話しかけ続ける先生。

「手に持ってるこれ?床用のニス。いやぁ、本当なら冬休み前の大掃除のときなんかに塗っとかなきゃいけなかったのに、うっかり忘れちゃってたんだよねぇ。それでまぁ、いい加減やれーって学年主任に怒られちゃってねぇ…。それで…」

「へぇ、大変そう」

大変そうだなぁって思った。

「大変なんだよ!だから助かった!僕はニス塗り以外に色々と仕事を抱えているからね、どっちかっていうとそっちをしなきゃいけなかったんだ!」

「そうなんだ」

そうなんだぁって思った。

「だから、はいこれ」

軽快な足取りでルサンちゃんの下に駆け寄った先生は、ボケッと話を聞いていた彼女に持ち物の全てを預けてしまった。

「は?」

「いやぁ、大変だなルサン!」

「は?」

預かったものを返すべく腕を前に差し出したが、その時点で先生は既に教室を飛び出す体勢にあった。

「手伝っておいてくれ!ルサン!君が…あー、君たち二人が頑張れば最終下校時刻までには塗り終えられるはずだから!」

21時まで働けと言うのか?

「いや先生…私たちテスト期間…」

「それじゃあ、後はよろしく!帰る時間にはきっと真っ暗だから、二人とも気を付けて下校しろよ!」

愚か者は走り去って行った。

振り返らず、脇目も振らず、恥知らず。


隣で、別種の愚か者が爆笑していた。

「…」

何?

「何あいつ!何考えて生徒にこんなことしやがんの!?」

「あはははは!!!」

「ははは…あー、まぁ、ルサンちゃんが断り切れない性格してるってのはクラスの誰もが知っていることだからね。先生も当然知っている」

それで?

「そりゃあ、つけこんだんでしょ。いつもの調子で。日直でもない君に授業の準備を任せる調子で。学級委員でもない君をクラスの話し合いのまとめ役に指名する調子で」

「…それで?何?なんなの!?いつもの調子で?今の私は束縛されたってこと?何なのそれ!意味分かんない!先生って生物にはそんな簡単に人の時間を奪える権利が備わってるの!?ねぇ!?」

ルサンちゃんは手持ちの忌々しい仕事道具を床に投げ散らかして叫んだ。

「あ、怒った」

「そりゃ怒るよ!怒るわ!バカ!身勝手に仕事押し付けてきやがって!しかも生徒に!生徒にだぞ!?何だアイツ!先生として尊敬される気があんのか!?ねぇんだろうな!お前のことなんて嫌いだよバーカ!バーカ!何が『色々と抱えてる仕事~』だよ!何もかも失敗に終わって閑職に追いやられろ!それかシンプルに援助交際とかしてんのがバレて捕まれ!何でもいいから先生やめろ!二度と教卓に立つんじゃねぇ!バカ!バカバカ!もう!嫌い!もう!」






一通りの汚い怒声と悪口と愚痴とを放って、脱力感だけがルサンちゃんの中に取り残された。

ポカンとして、疲れ切った彼女は、肩にかけたカバンを自分の机に戻し、先ほど放り投げた道具類を拾い始め、黙々と行動を始めた。

作業のために机を教室の端に動かし始めた。

「え?やるの?なんで?」

ツァラちゃんは半笑いで尋ねた。

「…だって、あんなんでも先生だし。先生に頼まれんだし…まぁ」

「嫌じゃないのか?面倒じゃないのか?理不尽だと思わないのか?」

「そりゃあもう!…でもねぇ」

納得はしていない、という顔をしながら、机を移動し終え、埃掃除を始め、終わらせ、ニス塗りを始めた。

無表情で、やる気の無い彼女ではあったが、極めて優れた手際に従って、作業は着実かつ迅速に進んでいた。

厄介な頼み事がよく舞い込んでくる所以が分かる見事な働きっぷりだった。

「ふうん」

ここまで全く何もせずに、ボケっと彼女を眺めているツァラちゃん。

「…ツァラちゃんもやろうよ」

「一応でも、頼まれたから?」

「そう」

ルサンちゃんの机に腰を掛け、足を組んで答える。

「それは道理にかなわないね。依頼に醸し出される強迫観念とは、個が疑似的に作出した空想でしかない。実のところ、頼むという行為は相手を強制する行為じゃなくて、信頼する行為でしかないのだよ。思うに、先生は鞭を用いず私に仕事を頼んだ時点で、これを全く遂行しない私という場合が存在することを念頭に置くべきで、またこのリスクについて甘受すべきだったのさ」

「というか、口ぶりからして先生は、私が頼まれても何もしない人間だってことを想定済みだったろう?宿題も何もしない普段の私から将来の仕事ぶりを想像できていなかったようだよ。そもそも信頼すらされていないんだ。もはや頼まれてすらいない。で、そんな依頼に私が強迫されて、義務感を見出すとでも?」

「要するに?」

「やらない」

「やれ」

「がんばれ」

「いや…」

「がんばれ。私、どんなルサンちゃんの姿も好きだよ」

「たとえば今の愚かな姿でも、私は愛してるよ」


…ルサンちゃんは手を止めた。

愚かだと言われたことが気になった。

異見があるわけではない。客観的に見て、今の自分は愚かだと思う。

理不尽な強制に義務を感じて、決してやりたくないことを黙々と達成している。ただ一人で、不平や不満は口にしても、泣いたり、暴れたりはせず、他人のための人形である。

逆に、そうでないツァラちゃんは愚かではない。客観的に見て、決して愚かではない。

ただ、不思議なのは、この単純な現状に、言われて初めて気がついたこと。これに疑問を抱いて手を止めた。

どうして今まで気がつかなかった?言われなきゃ分からないくらい難しいことか?

「ツァラちゃんは…」

「ツァラちゃんは、今の私を見て愚かだと思う?」

「そりゃあもう愚か!私じゃない、誰が見たって愚か者さ!」

「そうだよね…」

「…何でだと思う?」

「ふむ、では言うが」

「今の君は"真面目"でないから愚かなのだ」

「…確かに、君の行動のいくつかには、不満と怒りを入口とするものがある。たとえば、私にせがまれて飯を作るとき、君は事前にいくつかの小言を私に言う。他に、私が君の勉強や読書を邪魔したとき、君は一度怒った後に、私にかまい始める。こういった順序を持った行動がいくつか存在する。渋々私を甘やかすという行動。しかし、これらは見目の一方で愚かな行動と即決されるわけではない。ネガティブな感情から入っているにも関わらず、自発的な行動とは思えないにも関わらず。どうしてだと思う?」

「先の例と、只今の君とを比べて、今の君が愚かな理由。それは、今の君は強制力のままであり、例のように心のままでないからだ」

「比べてみると、前者の場合、君は非自発的な行動に対して最終的な決定を自らで下すことが出来ている。還元すると、私に何かを要求され行動させられるとき、君は何だかんだ言いつつも『やってやるか』と自ら行動を決定し、動き始めている。それは心のままと言える。しかし、今の君はただ『やるべきだから』と行動している。そこには自己による行動への最終的な可否の決定判断の過程はなく、心身は有無を言う間もなく動き始めている。それは心のままでなく、ただ感情を己以外に支配され、無気力に操られているに過ぎない。それは愚かだと言える」

「どちらもネガティブな感情が横たわっているにも関わらず、こんなにも明確な違いが存在する」

「これらの間にある決定的な差異は、実のところ客観的な観察では見つけることが難しい。特にルサンちゃんのような、自分を律することが得意な人間はこれを見つけるのが苦手だ」

「心の意見に反して規律や道徳を受動的に飲み込むことに慣れ過ぎている、自分以外の何かが望む方向に自らを進めることに慣れ過ぎている、君のような人間は、行動前の心境が結果に影響を及ぼさないことを知っている。最終的には行動に移るのだから、それ以前に何を考えていようが関係ないと理解している。そういう、自らにとって不利益になる真実を当然のように受容している。そんなようだから、心の状態を蔑ろにし、心に従った判断を蔑ろにする癖がついている。だから差異に気づかないし、うっかり自分の望まない方向に進んでしまっても、それは自発的な受動的行動と同等だと勘違いをする。そうして、他者に言われるまで、自分が愚かであることを知らない」




「…つまるところ、私は君を"不真面目"だと言うのだ。"分別の無さ"はエスプリの無さで、嫌悪感への麻痺だ。それは愚かで嗤えることであり…」

「そして…」

「だからこそ…」

ルサンちゃんはツァラちゃんの詭弁を黙って聞いていた。

ツァラちゃんは勉強をしない。読書もしない。行動もしない。だから、多くの物事を知っている訳はなく、経験もない。

だから今語られていることはきっと詭弁で、ツァラちゃんは決して仙人ではなく、無責任な快楽主義者に違いない。


…しかし、彼女の言葉には妙な力がある。

彼女の言葉とは、真なる彼女の内心と感覚の深淵によって紡がれたもので、極めて高純度を誇る“ツァラちゃん”であり、それは奇妙にも毒のような効果を心身に働かせる。

黙って聞いていると、心の隙間に入り込み、徐々に聴者を弱らせ、狂わせていく。そして死ぬ。

それがどうしてか、心地良い時がある。

真に望んでいた言葉を提供されたと感じることがある。

良いことではない。

毒は間違いなく心身に悪影響しか及ぼさず、果てに己の性質を大きく変化させてしまう。腐る。

しかし、たとえば、嫌なことを忘れたいとお酒を呷ることや、あまつさえ薬物を打つことは、確かに非常に不味いことで非難されるべきことであるが。

一方で、摂取者に快楽と安心感を与え、喜びと解放を与えることもまた、間違いないのだ。

自身に醜さが生み出されるとき、心地良さは来たる。

時にそれは、社会的成長によりもたらされる飴よりも酷く甘いことがある。

我慢して聖人や英雄になるよりも、将来なんて考えずに廃人になる方が気持ちが良いことがある。

酒や薬で溶ける身体を見ながら、人は心の底から笑うことができる。


ツァラちゃんはルサンちゃんに変化をもたらす。

折り目正しさや風紀の良さは、付き合う程に確実に失われる。

彼女は徐々に貶められ、腐る。そして本心に近づいていく。






「やめた」

19時を少し過ぎた時分。

教室の七割ほどに一回目のニスを塗り進めたくらいのころ。

ルサンちゃんはハケをバケツに投げ捨てた。

そのまま、カバンを手に持って、だらんとして、ツァラちゃんの方を向いた。

「帰ろっか」

「うん」

教室はそのままに、二人はゆるりと校門をまたいだ。






ツァラちゃんのお腹が鳴った。

彼女は確認するように財布を開いて、中を見た。

紙幣入れは空。

小銭入れに転がっていたのは、100円のたった1枚と数十円。

全て手のひらに取り出して、ルサンちゃんに見せて、笑いかけた。

「コンビニで肉まん買ったら終わりだね?」

「買うの?」

「買うだろうねぇ?」

「なんで言い草が他人事なの?」


「…で」

「晩御飯は何食べたいの?」

「?」

「今から作り始めるんだから、あんまり凝ったものは言わないでよね」

「…あぁ」

「じゃあ、肉まんは止めておこう」

「そう」



…犬を飼う感覚のような。ヒモを飼う感覚のような。ダメな関係性。

ツァラちゃんは確かにダメ人間で、しかしそれを望んでやってしまうルサンちゃんは、同じくらいダメ人間なのかもしれない。

ただ、ルサンちゃんにとって、ツァラちゃんの面倒を見たり、要望を聞いたり、そして一緒にいることは、どうも不可分に思えて、不可欠のように思えてしまう。

どうしてなのだろう。自分とは真逆の存在を援助し、増長させ、あまつさえ加担までしてしまうなんて、彼女のスタンスを鑑みれば忌むべき行為であるはずなのに。

不良学生からの悪影響を避ける、温室育ちの優等生のような姿勢こそ、優秀なルサンちゃんが本来取るべき姿勢であるはずなのに。

ツァラちゃんといると、いくつかの感情が心を渦巻き、モヤモヤとする。そうしてはならないという感情と、そうすべきという感情と、そうしたいという感情と。

それらの感情が、一体どういう名前のもので、どのように整理すべきものなのか、只今のルサンちゃんには分からない。

確かなのは、ツァラちゃんと一緒にいるとき、そうしようと努めているとき、ルサンちゃんにはなんだか自分を大事にできているような実感があることだけだった。

それだけで、別にいいと考えてしまうのは、きっとツァラちゃんの発する毒なのだろう。


春の終わり。

放課後。

暗がりで冷えた風は、ルサンちゃんの肌にも気持ちの良いものであった。


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