お願いしたい事
朝、瑠璃は目が覚めると、真っ先に携帯電話を手に取り、時間を確認した。
「よし、今日はちゃんと起きれたぞ」
前日に、朝食の時間に遅れた事を気にしていた瑠璃は、絶対に時間前に起きようと思っていた。朝の支度を整え、リビングに向かうために、自室の扉を開けると、同じタイミングで対面の扉が開いた。
「おはよう――」
瑠璃の目の前には小百合がいた。休日は、本館に小百合しかいなくなるので、別館に泊まるようにしているらしい。そして、その部屋は、瑠璃の対面の部屋だった。昨晩最後に見た小百合の子供のような表情は見られず、いつも見た事のある表情をしていた。ひょっとしたら昨晩の事は夢幻だったんじゃないかと瑠璃は思ってしまったが、すぐに否定された。
「――瑠璃ちゃん」
「あ、おはようございます」
瑠璃は、名前で呼ばれた事を聞いて、やっぱり昨日の事は夢でも幻でも無いと気が付いた。こうして名前で呼ばれるようになって、いつもとは違う表情を見せてくれたりして、前よりは仲良くなれたのかなと思うと、嬉しい気持ちでいっぱいになっていた。
翌日、今日からしばらくは乙成と一緒に仕事をする事になっている。仕事に少し慣れ始めた瑠璃は、初日より疲れることも無く仕事を進められた。小百合の部屋に行く時間となり、まだ数えるほどしか行っていないが、長い時間一緒にいた事で、小百合と接する事にも慣れ始めていた。いつもの様に部屋に招き入れられると、小百合にお願いしたい事があると告げられた。
「あの、瑠璃ちゃん、一つ……お願いしたい事があるのだけど、聞いてもらってもいいかしら?」
「お願いですか? はい、ボクに出来る事なら大丈夫です」
「ありがとう、全然難しい事ではないのだけど、その……えっとね、手を……握らせてもらえないかしら」
「手ですか? はい、そのくらいならいくらでも大丈夫です」
瑠璃は迷いなく、小百合の前に手を差し出した。その手を小百合は、神妙そうな表情をしてそーっと握ってきた。
「――うん、大丈夫。ちゃんと触れた」
ぽつりと呟くように小百合がそう言うと、瑠璃は小百合が男性恐怖症だった事を思い出した。日数は少ないが、長い時間を共にし、少しは仲良くなれたかなと思っていた瑠璃は忘れてしまっていた。
「あ、そういえば……その、触っても大丈夫だったんですか?」
「うん、それを確かめたいと思ってね。あなたと一緒にいる事に慣れを感じていたから、触っても大丈夫か確かめたかったの。少し前までは、男性が近くにいる事さえ考えられなかったけど、最近は、瑠璃ちゃんが近くにいてくれたからすごく前向きになれたのよ」
「ボクがいる事で少しでも力に慣れたのならよかったです」
「少しだなんて、とっても力になってくれているわ。……今日ね、車で送迎してもらってる時に窓から外の方を見ることが出来たの。他の人からしたら普通の事だと思うけど、私はね、そんな事さえほとんど出来なかった」
瑠璃の手を握る、小百合の力が強くなるのを感じていた。
「でもね、瑠璃ちゃんが来てくれたから、それが出来るようになったの。今までは向き合おうと思ってるだけで、実際には怖いと思ってしまって避けてばかりだったけど、今はちゃんと向き合うことが出来たの。それは瑠璃ちゃんが来てくれたおかげなのよ」
「今まで見る事も避けていたのなら、今の様に手を握ることが出来たのはすごいと思います。変わろうと思う事も大変な事だとは思うのですが、その思いを行動に移すのはもっと大変です。それを実行に移せたのは、お嬢様の力だと思います。でも、その力の一つにボクがなれていたのなら嬉しいです」
「ふふっ、ありがとう。大人みたいな事をいうのね。……って瑠璃ちゃんは大人だったわね」
子供じゃないですよ、と瑠璃は言ったが、笑いながら流された。その表情は、前日に見たような子供のように無邪気に笑っている姿を見て、自然と瑠璃も笑っていた。
「次はどんな事をしたいか目標とか決まってるのですか?」
「そうね、次は、抱きしめるとか……まって、恥ずかしいから今のは無しで」
「お嬢様がよければいつでも大丈夫ですよ」
「なんだか慣れている様に言うわね……。瑠璃ちゃんは抱きしめたり……えっとハグって言う方が言いやすいからそういうわね。ハグする事には慣れているの?」
「慣れてはいますね。かわいいと言われてハグされたり、頭を撫でられたりする事はよくあります……」
「あ! 頭を撫でるなら今できるかも。撫でさせてもらってもいいかしら?」
瑠璃は、どうぞ、と言いながら頭を差し出した。さっきの手を握るときとは違って、スッと手が頭にやってきた。
「――うん、大丈夫。瑠璃ちゃんの頭を撫でたい人の気持ちが、なんだか分かる気がするわ」
「そんなにボクって撫でたくなるような頭をしているのでしょうか?」
「ふふふ、そうね。かわいいからって言うのはもちろんあるのだけど、瑠璃ちゃんは、優しさが滲み出ているから、仲良くなりたい、近づきたい、っていう気持ちもあるのでしょうね」
「そういう事なら良い事だと思っても良いのでしょうか?」
「ええ、もちろん。あなたの事を悪い気持ちを持って撫でる人はいないと思うわ」
「それならよかったです。……それはそうと、いつまで撫でるのですか?」
話しをしながらも小百合はずっと瑠璃の頭を撫で続けていた。
「うーん、もう少し? あともう少しだけ撫でさせてもらえないかしら?」
「もう少しだけですよ」
それから結局、夕食の時間になるまで小百合は瑠璃の頭を撫で続けた。ここまでずっと撫で続けられた事は無かった瑠璃は、そんなに撫でるのは良い物かと疑問に思っていた。撫で終わった小百合は、少し疲れたと言っていたが、表情は楽しそうに見えていた。そんな小百合の姿を見た瑠璃もつられて楽しい気持ちになっていた。




