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6話:周恩来の業績

 これらは、生前に周恩来の妻の鄧穎超「とうえいちょう」と互いに約束していたことであった。四人組によって遺骸が辱められる「はずかしめられる」のを恐れたためだと言う。周の葬儀には宋慶齢「そうびれい」も参列した。


 共産主義の国において、真に、中国人民に愛された指導者は、他に、いなかったと言える。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理「首相」を務めた。


 共産党主席毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚せず「不倒翁」、起き上がりこぼしの異名がある。1926年、周恩来は上海に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立した。


 しかし、入城した蔣介石の北伐軍に弾圧されて捕らえられ処刑される寸前に脱出した。その後、国民革命軍の南昌蜂起「なんしょうほうき」を朱徳「しゅとく」と共に指導した。1931年、軍事委員会副主席として活動、長征に妻と共に参加した。


 遵義会議では自ら自己批判をし、毛沢東が主導権を掌握するのを助けた。以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。


 日本軍の捕虜に対し

「服役期間中に態度が良好だった戦犯に関しては、早期釈放をしても良い」

「年配者や体が弱い者、病人も釈放を考慮し家族の訪中や見舞いなどを許可する」

「民族間の恨み、階級間の憎しみ、それを忘れてはいけない」


「しかし、それでも私たちは彼らを改造し、良くしなくてはいけない」

「彼らを生まれ変わらせ、我々の友にしよう」

「日本戦犯を『鬼』から『人』に変えられるかどうか、これこそ中国文化の知恵と力量に対する試練なのである」と述べた。


 管理所職員や、その家族などの多くが日本軍の被害を受けていたため戦犯を厚遇する事に反発が出たが周恩来は、復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。これは、20年後に解ると諭した。その後、元戦犯たちが日本に帰国し中国帰還者連絡会を結成。


 その代表団が日中国交正常化後に再び訪中した際、面会した周恩来はこう言ったという。

「今度、日中両国の間に国交が回復した時は、誠に喜ばしい事」

「これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものだ」

「しかし、本当の友好はこれからでありましょう」


「中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深めべき」

「その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう」

「これには、まだ、永い年月が、かかることでしょう」

「日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」


 鄧小平は周恩来が、文革期に毛沢東に妥協し、走資派粛清に協力した事に複雑な胸中だったと言われるが、周首相の没後、ジャーナリストに対しては以下のように語っている。

「周恩来は、同志と人民から尊敬された人物である」

「文化大革命の時、我々は下放『地方、農村での思想矯正』した」


「しかし、幸いにも周恩来は地位を保った」

「文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものだった」

「心に違うことをいくつも語り、心に違うことをいくつもやった」

「しかし人民は彼を許している」


「彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てなかった」

「そうしなければ中和作用をはたし損失を減らす事が出来なかった」

 周恩来は、混乱の中共時代、毛沢東の右腕として活躍し文化大革命を良いと思わなかったが毛沢東に従い、劉少奇らの粛清に協力した。


 文革勃発時に有力幹部のほとんどが、失脚、または、死亡する者さえいた中、周恩来は、最後まで地位を保った。その後、周恩来は、江青ら四人組との激しい権力闘争を強いられた。しかし、最後まで毛沢東に信任され、実権を握り続けた。


 1975年には国防・農業・工業・科学技術の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱した。その後の鄧小平による「改革・開放」の基盤を築いた。周恩来は文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走した。


 10時間以上も執務し続けることも多かった。これに孫維世「そん・いせい」の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれた。1975年秋から病床を離れられなくなった。孫維世「そん・いせい」の件とは、江青に憎まれて周恩来の養女「女優の孫維世」が、虐殺された事件の事。


 ついに1976年1月8日、周恩来は死去。彼の死後、文革により苦しめられた民衆が周恩来を追悼する行動を起こした。しかし、これを当局が、鎮圧するという第一次天安門事件が起きた。


 また、その遺骸は本人の希望で、火葬され遺骨は飛行機で、中国の大地に散布された。これだけ中国人民に愛された政治家は、いなかったであろう。

「実に、格好良い、男の人生と言わざるを得ない」

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