5話:ベトナム戦争と周恩来の死
この攻勢に対しアメリカからの大規模な軍事援助が途絶え弱体化していた南ベトナム軍は、充分な抵抗ができなかった。その後3月末に古都フエと南ベトナム最大の空軍基地があり貿易港であるダナンが、南ベトナム軍同士の同士討ちや港や空港に避難民が押し寄せるなどの混乱のもと陥落。
すると、南ベトナム政府軍は一斉に敗走を開始。4月10日には中部高原の主要都市であるバンメトートが陥落。グエン・バン・チュー大統領はアメリカに軍事支援を要請するが、アメリカ議会は軍事援助を拒否。
4月中旬には南ベトナム政府軍が「首都であるサイゴンの防御に集中するため」として、これまで持ちこたえていた戦線も含め主な戦線から撤退を開始。南ベトナム政府軍は、アメリカからの軍事援助も途絶え装備も疲弊していた。
そのうえ士気も落ち進撃の勢いを増した北ベトナム軍を抑えられず総崩れ、北ベトナム軍はサイゴンに迫った。この様な状況を受け、ホワイトハウスは。南ベトナムの戦災孤児をアメリカやオーストラリアに運び養子縁組を受けさせる「オペレーション・ベビーリフト」を4月4日に開始。
しかしその第1便となるアメリカ空軍のロッキード「ギャラクシー」貨物機が、マニラに向けてタンソンニャット国際空港を離陸した後に墜落し乗客乗員328人中戦災孤児を含む153人が死亡。しかしこの作戦はサイゴン陥落直前の4月26日まで続けられた。
そして3300人の戦災孤児が混乱する南ベトナムを離れた。フォン大統領との和平交渉を4月23日に正式に拒否し存在意義を失ったフォン大統領は4月29日に、就任後わずか8日で辞任。後任として穏健派のズオンバンミン将軍が就任した。
しかし、ミン新大統領による和平交渉は北ベトナム政府代表団により拒絶された。南ベトナムの首都であるサイゴン陥落による混乱を恐れた南ベトナム政府上層部の家族や富裕層は、あわてた。そして、4月中旬以降、次々と民間航空便で南ベトナム国外への脱出を図った。
しかし、この時期になるとサイゴン北部のタンソンニャット空軍基地も包囲され攻撃が及んできた。そのため空港を発着する民間航空機の運航や「オペレーション・ベビーリフト」も北ベトナムのホー・チ・ミン作戦における最終段階『サイゴン総攻撃』で4月26日で全面停止になった。
また一般市民も南ベトナム政権の崩壊が避けられないと悟り南ベトナムの通貨であるピアストルを金・ダイヤモンド・アメリカ合衆国ドルに交換しピアストルの通貨価値が暴落した。
フリークエント・ウィンド作戦に関するアメリカ軍の公式記録では、延べ682回にわたるアメリカ軍のヘリコプターによるサイゴン市内と空母との往復が記録されている。それによると1300人以上のアメリカ人が脱出に成功。
その数倍から十数倍の南ベトナム人も脱出。なお作戦中に海中投棄されたアメリカ軍や南ベトナム軍のヘリコプターは45機に達した。在留日本人は、アメリカ人や南ベトナム人の撤退を行う事だけでアメリカ軍が手一杯。日本が、直接参戦してないので米軍は救助を拒否。
アメリカ軍とともにベトナム戦争に参戦していた韓国人は、「アメリカ人や南ベトナム人の退去活動で手一杯であること」を理由に日本人と同じくアメリカ軍機による撤退への同行が拒否された。
その結果、駐南ベトナム特命全権大使以下の在留韓国人が反韓感情が根強く残るサイゴンに残されが、国際赤十字指定地域とされサイゴンの病院に避難し迫害を受けなかった。その後、1976年1月8日、日中国交正常化を成し遂げた中国の巨頭、周恩来元首相が亡くなった。
彼は、1898年生まれ、日本に留学し当時の日本を見て回った。その後、毛沢東の下で実務を取り仕切った。1975年には国防・農業・工業・科学技術の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱し、後の鄧小平による「改革・開放」の基盤を築いた。
周恩来は、文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走。十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。1972年に膀胱癌が発見されたが、その後も休むことなく職務を続けた。しかし、病状は悪化の一途をたどった。
1974年6月、北京の解放軍第305病院に入院。病室でも執務を継続。1975年秋から病床を離れられなくなり1976年1月8日、周恩来は死去。彼の死後、文革によって苦しめられていた民衆が、周恩来を追悼する行動を起こた。
これを中国の当局が、鎮圧するという第一次天安門事件が起こった。また、その遺骸は本人の希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。




