表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/54

3話:晋平の結婚とオイルショック

 1972年2月4日、20歳になりN証券八王子支店に証券口座を開き、小遣いと給料からの貯金100万円と父から借りた100万円の計200万円を送金。その後、三輪沙織さんと休日に映画を見に行ったり、銀座に出かけたりしデートした。


 沙織さんに、君は、今後、どうするのと聞くと大学職員として働きながら株投資で稼ぐと話した。やがて1972年、宮入は、10月12日、MB銀行を受験。1ケ月後の11月12日、内定の知らせが届いた。


 この頃、宮入晋平の妹の圭子は、中央大学経済学部の受験を考えていた。その後、1974年を迎え、高尾の氷川神社初詣に行き、両親は、家内安全、晋平は仕事での成功を祈願。2月下旬、妹の圭子は、中央大学経済学部の受験し合格した。


 妹の圭子は、家から35分かけて中央大学に通い始めた。晋平は、4月からMB銀行八王子支店に勤務した。この頃、1972年6月、自民党の田中角栄の書いた「日本列島改造論」が話題となり始める。


 田中角栄は、この「工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる 『地方分散』 を推進する事」を主旨とした事実上の政権公約を掲げた。


 そして同年7月の総裁選で勝利し内閣総理大臣に就任。田中が総理の座を射止めたこともあって当初91万部を売り上げ、年間第4位のベストセラーとなった。この本は、1968年に田中角栄が、自由民主党、都市政策調査会長として発表した「都市政策大綱」をベースとして書かれた。


 その「都市政策大綱」には、後の国土事務次官、下河辺淳や自治官僚の武村正義らが深く関与した。この影響で、日本のバブルの機運が醸成された。やがて1973年の秋、第4次中東戦争の勃発に伴うアラブ産油国「OAPEC」の石油戦略で石油価格が高騰し世界経済に大きな衝撃を与えた。


 オイル・ショックは、安価なアラブ原油に依存していた西側先進工業国の燃料不足、原料不足をもたらし生産が低下して急激な物価上昇を招いた。10月6日にエジプト軍とシリア軍が南北からイスラエル占領地を攻撃し第4次中東戦争が勃発。


 しかし、イスラエル軍が反撃し10月8日には南ではカイロに迫り北部のゴラン高原を再度占領。直ちに、国連の調停作業が始まり10月23日に休戦協定が成立し、シナイ半島のイスラエルの占領、ゴラン高原には国連平和維持軍「PKF」の駐留が決定。


 この間、サウジアラビアを初めとするアラブ諸国は、石油戦略を展開してイスラエル及び、その支持国に圧力をかけた。まず10月16日、石油輸出国機構「OPEC」の中東6カ国は原油の公示価格をバレル当たり約3ドルから5ドル強へ、一挙に70%も上げた。


 このため「狂乱物価」と言われインフレが発生した事を第1次オイルショックと呼ぶ。その翌日、アラブ石油輸出国機構「OAPEC」は、アメリカとオランダなど親イスラエル諸国に対する石油輸出の禁止を宣言。この石油戦略を主導したのはサウジアラビアのファイサル国王とヤマニ石油相。


 サウジアラビアは、当時、親米的だったが、第3次中東戦争「1967年」以来のイスラエルのシナイ半島・ゴラン高原・ヨルダン川左岸などの占領が続いていることに対するアラブ側の不満が高まっていることを無視できずアラブ諸国の唯一の優位な力である産油国であることを生かした。


 そしてイスラエルとアメリカに圧力をかけ有利な休戦条件に持ち込もうとした。10月23日に休戦協定が成立したがイスラエル軍の占領地からの撤退は実現せず。その後も石油戦略は継続され12月22日にはOPECの中東湾岸6カ国は74年1月1日から原油の公示価格を130%引き上げ。


 バレル当たり11ドル65セントと決定。この決定について国際石油資本「メジャーズ」には、何の相談もなく、また、それ以降も原油価格でメジャーズに二度と相談されなくなった。これによって発生した激しいインフレを抑えようと、日本では、日銀が、公定歩合を9%まで引き上げた。


 この金融引き締めによって景気が悪化し不況に陥ることになった。そして、1974年11月22日金曜、証券会社の担当者から宮入晋平に、三菱商事株が安いと言われ165円で1万株買いを指示し165万円で買え残金が35万円となった。


 1994年3月、あっと驚くニュースが飛び込んできた。それは、フィリピン・ルバング島から小野田寛郎陸軍少尉が奇跡の生還。1974年に一連の捜索活動に触発された鈴木紀夫がルバング島を訪れ、2月20日にジャングルで孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ