20話:開田高原へドライブと夏祭りと旧友の話
2014年7月23日9時、駅近くの喫茶店の前に、宮入は、プリウスで乗り付けた。すると吉沢と藤井と見城が、待っていて車に乗り込んだ。そして、辰野から国道153号線で伊那へ行き、手前を右折して361号線に入り、木曽に入った。
その後、木曽町紙谷の交差点を左折して19号線に入った。19号線を木曽福島方面に直進し、木曽大橋で右折して木曽川を渡った。途中でトイレ休憩を入れて約1時間30分、その国道361号線を直進して木曽福島スキー場抜けて、しばらく行くと開田高原に入る。
そこから標高の高い開田高原の西原地区に11時頃に到着。一休みして、さらに奥の「高根乗鞍湖」に行き、湖がよく見える場所で途中で買ってきたパンやおにぎりで昼食を食べた。高根乗鞍湖は、湖畔の周りは山々が囲み自然がいっぱいだった。
帰りは、木曽福島の店で、お茶を飲み五平餅を食べたが、実に旨い。帰りは、来た道を戻り、伊那を出て、左折して、辰野に18時頃に到着し解散した。その後、7月25日、塩尻の夏の風物詩とも言える「塩尻玄蕃まつり」に出かけた。
この祭りは、昔、塩尻の桔梗ヶ原にいたという「狐の玄蕃之丞」にちなんだ市民祭で、大勢の踊り連が商店街を曲に合わせて練り歩く。祭りは、第1部「GEMBAよさコン」と、第2部「塩尻玄蕃おどり」の2部構成となっている。
よさコンは、高知で生まれた「よさこい」に、ちなんでいる。「よさこい」とは、土佐弁で「夜に来てください」という意味。よさこい祭りの歴史は、戦後、経済復興、地域おこしを目的に、高知県商工会議所が中心となり誕生した様だ。
それが日本中に「よさこい」として日本中に広まった。8月になると、8月2日土曜の「松本ぼんぼん」という一種の盆の踊りに出かけた。松本市内の地区名を織り込んだ、はんてんを着て「松本ぼんぼん」に合わせて踊る盆踊り的なイベント。
松本ぼんぼんの、お囃子が、連続して3時間以上流れ続け、それに合わせて、ひたすら踊り続けて、ねり歩くお祭りである。途中に、休憩があるが、合計30分、ほぼ踊りっぱなしという、過酷な、お祭り。
8月13日の岡谷太鼓まつりにも仲間4人を乗せて、出かけた。8月4日の晩、宮入は、吉沢さんに誘われ、辰野駅近くのスナックで、身の上話を聞かされた。彼女は、高校を出てから、名古屋のデパートの中の紳士服店に就職して働いた。
22歳の時3つ年上の名古屋の栄の高級居酒屋で修行していた三枝基裕が洋服を買いに来るようになり仲良くなった。その後、彼の働く居酒屋に通った。2年後、実家の下田の実家の父が倒れたので帰れと連絡が入った。
そこで、吉沢さんと一緒になって下田の店を手伝って欲しいと言われた。そこで、1975年4月に結婚し下田について行った。その頃は、社員旅行などの団体さんをはじめ、観光客が多く順調に経営していた。
1980年代になり景気は、さらに良くなり1985年からのバブル時代には、大盛況になり、新しく2つの店を出店し、三枝の店は繁盛し、資産も増えた。しかし1991年過ぎの頃、バブルが崩壊し、社員旅行がなくなった。
そのため、社員旅行や女の子とお忍びで温泉旅行に来ていた中年のバブル紳士達が来なくなった。 そして数千万円の借金をして出した2つ店が赤字になり一人っ子で気の小さい亭主は、赤字になると、すぐ店を売り本店だけにした。
そして、本店でも観光客の減と地元客の減のダブルパンチで、遂に大赤字。ちょうど、その頃、三枝の父が脳溢血倒れ、母が、悲嘆にくれ食事をしなくなり半年後、病院に入院したが、衰弱して亡くなった。
この頃になると三枝は、奥さんと2人で店を営業したが、お客が増えない。亭主は、酒におぼれた。その後、朝起きてみると冷たくなり脳溢血で病院に運ばれたが、数日後、亡くなった。そこで残された、彼女が、店を不動産屋に安く売った。
そして、今後、どうしようか、悲嘆にくれた。三枝の家を処分しようと片付けをすると数冊の預金通帳が出てきて残金が1千万円あった。それがわかり、店と家を売り、合計2千万円の遺産を手にした。当地の弁護士に依頼し、遺産を受け取る手続きを取った。
その後、下田を去って、辰野の自分の故郷に戻り、実家の両親と一緒に住んだ。そして、数年前に両親も亡くなり、1人ぼっちになったと聞いた。この話を聞いて、宮入は、吉沢さんが不憫に思えた。