前払い
今日はいいことばかりだった。
朝、目覚ましが鳴る直前に自然に起きられた。いつも三十分以上立って乗る電車で、乗った瞬間に目の前の席が空いて座れた。授業ではよく予習した箇所で当てられたから、ちゃんと答えられて、先生に褒められた。アルバイトでは、まだ十七歳で先輩たちより早めに上がらないといけないから、すぐ店を閉められるようにできるだけ仕事を進めておいたら、ラストまでシフトの入っている大学生の岸本さんに「柏くんって、まだ若いのに気が利くよね。いつも助かるよ。ありがとう」と言われた。
今日は気分がいい。今のうちにやっておくか。
タイムカードを切ったオレは、休憩室のパソコンで来月分のシフトを組んでいる店長に話しかけた。
「店長、お疲れ様です。先に上がらせてもらいます」
「お疲れ様、気をつけて帰ってね」店長は、忘年会および年末年始シーズンの来月のシフトを組むのが難しいのか、画面から目を離さずに返事をした。
「あの、店長」
「うん、何?」ようやく店長がオレの方を向いた。
「今日、先に怒っておいてもらえますか」
「えー、先月もう二回前払いしてるじゃん。それに柏くん、滅多にミスしないから大丈夫でしょう」
店長は腕を組んで困った顔をした。オレは両の手のひらを胸の前に合わせて懇願した。
「なるべく先に済ませておきたいんです。よろしくお願いします」
「うーん、仕方ないなあ。タイムカードちょうだい」
「あざす!」
オレは横に立てかけてあるタイムカードから自分のものを抜き取り、店長に渡した。
タイムカードの一ヶ月分の日付が並ぶ表の最右に「叱」という列がある。裏返すと先月分のタイムカードとなるが、三日と二十日の最右列にチェックマークが付いていた。そして今月分の右上の「叱り済」蘭には「二」と書かれている。
「柏くんさ」店長の口調が、先ほどまでの朗らかなものから、イライラが滲み出ているものに変わった。
「はい」
「ホール従業員の態度が悪いって、ご意見カードに複数書き込みがあってね」
店長は、机をコツコツと指で叩いている。いかにもキレているといった感じだ。
「はい」
「そのなかに、君の名前がいくつも書かれているんだよ。あまりこういう言い方はしたくないけど、どうなのかな? 身だしなみはちゃんと整えてる? お客様に挨拶してる?」
「してるつもりです」今日はいいことが沢山あったからか、店長の声が全然心に響かない。気を抜いたら少しにやけてしまいそうなほどだ。
「ちょっとここでもう一回、一通り挨拶やってよ。見てあげるから」
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか? 三名様、ご案内です。ご注文はお決まりでしょうか? 繰り返します、Aセットがお一つ、Bが単品でお一つですね。少々お待ちください。お待たせいたしました、Aセットでございます。ご注文は以上でよろしいでしょうか。ごゆっくりどうぞ。ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております」
「うん。実際のお客様の前でも、そのくらいちゃんとハキハキしてもらわないと意味ないからね」
「すみません、気をつけます」
オレが答えると、店長は大きな溜息を一つ吐いた。
「こんなんでいい?」
「はい、大丈夫です! ありがとうございます!」
「お疲れ様ー」
無気力な顔つきで、店長は再びパソコンに向かい合った。きっと、意味もなくオレを叱って、店長は疲れたのだろう。付き合わせて申し訳ないが、未来のオレのためなの多めに見て欲しい。
***
今日は嫌なことばかりだった。
昨日の天気予報では、翌日の昼まで天気は持つとのことだったのに、朝の時点で本降りの雨。駅まで歩いていると、車に水をかけられて、股から下がずぶ濡れ。替えの靴下を忘れる。タオルも忘れる。鞄の中も濡れていて、ノートの予習した部分が読めない。教科書を慎重にめくっていたのに、濡れていた部分が破ける。バイト先までのバスが遅れて、バイトに遅刻する。雨なのに近隣でイベントがあるらしく店は込んでいて、オーダーを間違えたり、運ぶメニューを取り違えたりして、クレームを受ける。
どうして、嫌なことはこうも立て続けに起きるのだろうか。
午後九時半過ぎ、あーあ、と溜息を吐きながらタイムカードを切って、休憩室を経由して更衣室に向かうところだった。
「柏くん、お疲れ。ちょっといいかな」
休憩室で夕食のまかないを食べていた店長に声を掛けられた。声色からして、よさそうな事案ではない。
「何でしょうか」
「今日の仕事なんだけどさ」
ああ、叱られる、と思った。本当に嫌なことは続くよな、と項垂れて壁に視線を投げると、壁に掛けられたタイムカードが目に入った。そして先月の自分を思い出した。
「あの、店長」と言って、オレは抜き取ったタイㇺカードの右上を指した。「オレ、先々月二回、先月一回前払いしています。だから見逃してください」
店長は一回にやっと笑った。「あのねえ、柏くん。前払いは先月分しか繰り越せないんだよ。だから、先々月確かに二回前払いしたことは覚えてるけど、先月のうちに結局それ使わなかったからパアだよ。で、先月の前払い分は、先週もう使ったよね? だからそれもなし。だから、今柏くんが前払いしている叱りは、ないんだよ」
「うそ、先月分しか繰り越せないなんて、そんなこと聞いていません」そういえば、当社は叱りの前払いは一ヶ月分までですという説明を入社研修で受けたような気がしないでもないと記憶を掘り起こしながら、オレは店長に食い下がった。
「いや、僕ちゃんと言ったはずだよ。それに雇用契約書類にも書いてあるしね」
店長はオレが直筆でサインした雇用契約書の第三条を指さした。確かに「叱りの前払いの有効期間は、前月までとする。余っていた場合でも、翌々月一日にリセットする」と書かれている。オレは顔から血の気が引くのを感じた。
「だから、今日はちゃんと話を聞いて欲しい。ほら、ここに座って」店長が、デスクの横に立てかけてあった折りたたみ椅子を組み立てて、そこに座るようオレに指示した。
ああ、何で本当に嫌なことって立て続けに怒るのだろう。




