閑話 流れは絶えずして
(今朝は妙に頭がズキズキする)
ハチはベッドから身を起こし、頭を抑える。
自分が女である以上、必然的に体調の優れない日は来る。しかし自らの責務を放棄するわけにもいかない。ハチは重い体にムチを入れながら立ち上がる。
(今日の仕事はたしか……)
できれば事務仕事であって欲しい。冬の現場労働は体に負担がかかる。ハチは祈るような想いでスケジュール帳を確認する。
しかしどんなに見ても本日の仕事は先日不具合が発生した水路の改修工事の現場監督であった。
ハチは大きくため息をつく。冬の、しかも水路の改修である。実際に肉体労働をするわけではないとはいえあの寒空の下で働くのはかなり酷である。普段であれば問題はなかったが、今日に限って言えば最悪ではあった。
(……いけない!)
少ししてハチは自分の両頬を「パチン」と叩く。
(何を甘えたことを考えている!今までの仕えてきた主人に比べれば、はるかに優遇してもらっているというのに)
ハチは自分の考えを改める。働けないのであれば自分に居場所などない。自らにそう言い聞かせ、取り急ぎ準備にとりかかった。
「あれ、ハチさんは?」
イエリナは政務室に入るといつもいるはずのハチがいないことに気付く。
「今日は水路の改修工事を監督してもらってる」
佐三が書類仕事をさばきながら答える。
「こんな寒い日に……申し訳ないですね」
「まあ、犬族は比較的寒さには強いと聞いたから、彼女にお願いしたが……。まあ後で俺も行ってみよう。流石に任せきりでは指示する側としての筋が通らない」
「私もいきます」
イエリナも佐三に付いていこうとする。しかしすぐさま「クシュン」と可愛らしくくしゃみをしてしまい、佐三が笑う。
「無理するな。お前はただでさえ寒さに弱いんだ」
「でも……」
「適材適所だ。それにイエリナにも仕事が無いわけじゃない。はやくフィロに仕事の引き継ぎをしろ。そんなんじゃいつまでも仕事が減らないぞ」
「……はい」
イエリナは耳をたたみながら少ししょぼくれた様子で自らの机へと戻っていく。現在ベルフは休みであり今も惰眠をむさぼっているが、アイファは別室でチリウやその一部の団員に字を教えている。春になれば人の往来はさらに増えていくだろう。それまでに戦力はできるだけ増やしておかなくてはならない。
(フィロも含めると、ここもかなり大所帯になってきたな)
佐三は感慨深く少し手狭になった政務室を見る。元々はイエリナと佐三の机しかなく、ソファでナージャがベルフに話しかけているような閑散とした部屋であった。それがいつの間にかアイファが来て、ハチが来て、チリウが来て、そしてフィロが来た。勿論全員がこの部屋に集合している時間は希ではあるが、それぞれの机が置いてある現在では政務室もかなり賑やかになっていた。
(かつての社長室は、この部屋よりずっとずっと広かったな。まあほとんど外に出るか、来客の対応をするかであんまりデスクとして使った記憶はないが)
佐三はかつての自分の仕事部屋を思い出す。それは広く、優雅であり、それでいてどこか物寂しくもあった。
「……行くか」
佐三は上着を羽織り、外へ出る準備をする。かつてでは考えられないような質素で狭い空間。その上さらに政務室は手狭になっていく。
しかしそんな現状も佐三はどこか悪くない気がしていた。
佐三はそんな政務室の情景をもう一度確認してからゆっくりと扉をしめた。
(う……やはり、頭が痛い)
ハチはフラフラと揺れる視界の中でなんとか業務を遂行していく。
「ハチさん、この部分の改修は明後日までですよね」
「そうだ。だが今日中には最低限使えるようにはしたい。明日は主に最終確認と補強をするという形だ」
「わかりました」
そう言って作業員が走って行く。どうやら今のところ仕事はできているようだ。ハチは既に正常な判断はつかず、そんな風に自分の様子を確認していった。
「おーい、やってるか~」
丁度そこに呑気な声で佐三がやってくる。いつもなら心躍る気持ちになるが、今日ばかりはあまり来て欲しくはなかった。
「佐三様、お疲れ様です」
「おー。かなり進んでいるな。そっちこそお疲れ様」
佐三がそうやって従業員をねぎらっていく。トップの現場視察はいつの時代でも重要な仕事だ。佐三は十分にそれを理解していた。
「ん?」
佐三がハチに気付く。ハチは挨拶をしようとゆっくりと歩き始めた。しかし数歩歩いた段階で佐三が走って駆け寄ってきた。
「主殿?」
ハチがきょとんとした顔で立ち止まる。佐三はハチの目の前まで来ると前髪をどかしハチの額に手を当てた。
「……こりゃまずいな。すまん、誰か自警団の人間を二人ほど呼んできてくれ」
佐三の言葉にハチはただ呆然と聞いている。佐三は手元に紙切れを取り出して、簡易のペンで何かのメモを残した。
しばらくして従者がやってくる。佐三はいくらか従者に話をした後、ハチの方に向き直る。
「ハチ、今日は休め」
「へ?」
「雇用主としての命令だ。いいな」
「でも……仕事が」
「俺が引き継ぐ。いいからお前は休め」
そうとだけ言うと有無を言わさずに従者達にハチを連れていかせる。佐三は現場の状況を見て、声を上げながら仕事を進めていった。
ハチはそれ以降のことはよく覚えていなかった。
「あれ、ここは……」
「あ、気付きましたか?」
「あなたは確か……」
「フィロでいいですよ、ハチさん」
フィロはそう言ってにっこりと笑う。ハチは起き上がろうとするも激しい頭痛がおそってくる。
「無理なさらないでください。帰って来るなり倒れるように横になったのですから」
フィロはそう言うとハチを再び横にさせる。
「意識が戻られたようなので今水をお持ちしますね」
そうだけ言うとフィロは部屋を出て行く。ハチはそれをぼんやりと見送っていた。
(綺麗な人だな)
ハチは素直にそう思った。
柔らかそうな体に、良い匂いのする髪。話し方や所作の一つ一つに優美さが感じられる。ハチも礼儀はわきまえているが、彼女のように女性らしい所作は身についてはいない。ハチはそれを良しとしてきたが、改めてみせられると女として考えるものはあった。
(昔はそんな女性らしさに憧れなどしなかったというのに……変わったものだな)
ハチは自分の中にあるフィロへの憧れの心をどこか自嘲気味に捉えなおした。
「おっ、起きたか?」
たまたま様子を見に来たのだろうか。佐三が部屋に入ってくる。そしてゆっくりとハチの元へと歩み寄ってきた。
「主殿っ……痛っ」
「無理するな。ゆっくり休め」
ハチは佐三に言われて起こした体を再び横たわらせる。臣下として非常に申し訳ない気分がした。
「あの、工事は……?」
「ああ、俺が引き継いだよ。彼等も頑張ってくれたからさっき終わった」
「そうですか」
ハチは小さい声で呟くように答える。そして漏らすように佐三に謝った。
「……申し訳ないです」
「ん?何がだ?」
「任せてしまったこと、体調管理もおぼつかないこと……等々です」
ハチは申し訳なさそうに佐三の方を見る。佐三は呆れたように笑いながら答える。
「馬鹿言うな。常に完璧な人間などいないし、万全な人間などいない。大事なのはそこに至る準備と改善、それにリカバリーだ。だから気にしなくて良い」
「でも……」
「申し訳なく思うなら、自分の体調と相談せず人に任せなかったことを反省しろ。それと、早く治して仕事に復帰してくれ。今は人手が足りなすぎる」
「……はい」
「よし!」
佐三はそう言って「にしし」と笑う。彼は普段はとてつもない頭の切れを見せるが、時折こうした子供らしい表情や振る舞いをする。そんな様子はハチから見て、不思議と魅力的ではあった。
ハチは少しばかり掛け布団を深めにかける。尻尾は揺れていないだろうか。きっと万全の体調なら、布団の下からでもわかるくらいに振ってしまっていただろう。そんな自分がどこか気恥ずかしくもあった。
(そういえば、ベルフ殿とそんな話をしたっけな)
フィロの力の関係で夢の影響を受けていた頃、ハチは以前ベルフと話していたことを思い出す。自分がどうありたいと願っていても、やはり自分は女なのである。今自分が主人に抱いているこの気持ちが、忠誠などという綺麗な言葉で片付けられるものではないことも薄々は気付いていた。
すこししてフィロが水をもって戻ってくる。佐三はそれを確認して、政務室へと戻っていった。
ハチはそんな佐三の背中をただじっとみつめていた。
「私も変わったものだ……」
ハチは静かにそう呟いた。
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