白銀の風
「いない!いない!……イエリナ様がっ……」
ナージャは目を覚ましたとき、いつも隣で眠っているイエリナの姿がいなくなっていたことにすぐに気付いた。
「どうしたんだ、ナージャ?」
「イエリナ様がいないの!」
従者の女衆がナージャの様子に気付き、駆け寄ってくる。
「落ち着け、ナージャ。イエリナ様が朝方散歩に出かけることなんてよくあることだろう?」
女衆の一人がナージャをなだめて落ち着かせようとする。しかしナージャの心配は募るばかりであった。
「イエリナ様、昨日の夜、いつもと違った。わからないけど、いなくなっちゃいそうな、そんな顔してた」
「いなくなるって……」
女衆はそんなはずはないと考えていたが、ナージャが余りにも真剣に思い詰めているためイエリナを手分けして探すことにした。
そしてナージャの予感は的中していた。女衆がいくら周囲を探してもイエリナの姿は見えず、その姿を見たという者さえいなかった。
「イエリナ様……ひょっとして一人で……」
従者の一人が言葉を漏らす。ナージャはそれを聞いて一目散に走り出した。
「あ、ナージャ。待て!」
ナージャは制止を聞かず、全速力で門へと向っていた。
(イエリナ様!イエリナ様……!)
ナージャは息を切らし町の外に出る。ナージャは幼いながらも賢い少女であった。それ故どうしてイエリナが形見のドレスを着ていたのか、夜に一人起きていたのか、今朝の状況と判断してある程度察しがついていた。
(大領主様にお願いすれば……きっと……)
ナージャが向っていたのはイエリナがおそらく出向いた方角ではなかった。この辺りの領地をしきる大本の領主、この地域全般を統括する大領主の屋敷である。距離にして片道二日ほどかかるが、獣人族が休みなしで行けば一日程度でいくことのできる距離である。
(大領主様ならきっと……きっと……)
ナージャは自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返しながら、一縷の望みを胸にひたすらに走り続ける。無論この地域の大領主も人間であり、わざわざ猫族のために動いてくれる保証はない。それどころか面倒ごとは御免とばかりに黙殺する可能性もある。
それでもナージャは走るしかなかった。それ以外に方法がないのである。
「きゃあっ!」
ナージャ不意に身体の自由を奪われ、宙に浮いた感覚を覚える。そして自分の身が網によって捕らえられ宙づりになっていることに気付いた。
(まずい!このままじゃ……)
そう思ったのもつかの間、罠が作動したことに気付いて小領主の兵士達が近づいてくる。
「いやっ!来ないで」
ナージャはツメで縄を切ろうとするが、罠は獣人対策として特殊な加工が施されておりそう簡単に穴を開けることはできなかった。
「お、また雌か。大量大量!」
「それもまた可愛らしい獣人だ。やはりこの町は当たりだな」
兵士達はは下品な笑いを浮かべ、すぐそこまで来ていた。ナージャはなんとか脱出しようと試みるが手が震えて、うまく動かせなかった。
(お願い……誰か)
兵士達がすぐそこまでやってくる。
(誰か…………)
ナージャは目をつむり、すがるように助かることを願った。
「誰か……お願い……」
そう呟いたときであった。
あたりに強い風が吹いた。
風が止み、いつまでたっても何も起きないのでナージャは目を開けてみる。するとそこには意識を失った兵士達が倒れていた。
そしてその傍らには人狼の男が一人立っていた。
「大丈夫か?今おろしてやる」
そう言うと男はナージャが全く切れなかった網をいとも簡単に切り裂き、ナージャを下ろした。
「怪我はないか?猫族の少女よ」
「あ……はい。大丈夫です」
ナージャは少しぼーっとして頭が働かなかったが、すぐにイエリナのことを思い出した。
「いけない!イエリナ様が……」
「イエリナ?猫族の長か」
「朝からいないんです。どこを探してもいなくて、きっと皆を助けるために……一人で」
男は泣いているナージャに事情を聞き、おおよそのことを把握する。
「サゾーの懸念が当たったか……急いで良かった」
男がそう呟くと、後ろから別の兵士足音が聞こえてくる。ナージャは身構え、男の裾をつかんだ。
「大丈夫。彼らは味方だ」
男は大きく手を振り、兵士達に居場所を伝える。兵士達の内、隊長格らしき数名が男の元へやってきた。
(この兵隊達……大領主様の兵だわ)
ナージャは兵隊の胸元についている紋章を見て判断する。しかし何故大領主の兵がここにいるのか、そして自分を助けてくれたこの人狼が何者なのかは想像もつかなかった。
「この少女を保護してやってくれ。私は主人と共に小領主の本丸へ向う。街道沿いの野営におそらく捕らえられている猫族が大勢いるはずだからそちらも頼む」
「わかりました。私たちはそちらに向います。ご武運を」
隊長格らしき兵士が指示を出すと、兵士達が移動し始める。
「さて、お嬢さん目を閉じていてもらいますか?」
「へっ……?こう、ですか?」
男はナージャにお願いし、目を閉じてもらう。ナージャが目を閉じるのを確認すると男は大きく遠吠えを行う。
(な。何を……っては、ははは、裸!?)
ナージャが薄く目を開くと目の前に裸の男が立っていた。ナージャは一瞬目を強く閉じるも、好奇心からまた薄く目を開けて逞しくも均整のとれた男の肉体を見てしまう。
そうとは知らず、男は見る見るうちに大きな狼へと姿を変えた。
「お嬢さん、目を開けて大丈夫ですよ。後はこの人達に保護してもらってください」
狼になった男はそう言うと踵を返してナージャに背を向ける。
「あ、待ってください」
「ん?何かな?」
ナージャの言葉に狼が振り返る。
「あの、お名前を……」
「ああ、これは失礼」
狼はナージャに向き直って話す。
「北の森に住む人狼族で名はベルフと言います。今はわけあってとんでもない悪人に仕えておりますが」
そうとだけ言うと狼は風のような速さで駆けだしていった。
ナージャはその強く、礼儀正しい、白銀の如く美しい毛並みをした狼を見えなくなるまで見つめていた。
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