エピローグ 『愛してる』
ピポパ……プルルルルルルル
独特の電子音が鳴る。時代が進んでもやはり電話の存在はなくならない。人が社会的な生き物である以上、形はどうあれそのコミュニケーションツールは残り続けるだろう。
(こんなに緊張するのは、いつぶりだろうか)
不思議と電話をもつ手に力が入る。やる必要があるのだろうかと考えもしたが、このまま行けばきっと後悔する。そう思った。
緊張からだろうか。つい腹部をさすってしまう。そこにはうっすらと手術跡がのこっているのが感じられた。現代の医療には頭が上がらない。
いきなり電話をかけて失礼ではないだろうか。一瞬そんなことも考えた。しかし考えても埒があかないため電話することにした。それに時間がない。今を逃せば、じきに扉が閉まってしまうかもしれないのだから。
(そもそもあんた達の勝手な願いでこっちはとんでもない目に遭ったんだ。何を気を使う必要がある)
彼や彼女の電話番号を所持していたことは完全にたまたまであった。むしろこれまでの関係性を鑑みればすぐに捨ててもおかしくはなかった。だがそれでも捨てることなく、普段から使うメモ帳にしっかりと記録してあった。
「もしもし」
女性の声がする。少し歳をとっただろうか。かれこれ十年以上話してすらいないのだ。声が変わっていても不思議ではない。
「もしもし」
電話の向こう側で女性が不思議そうにもう一度言う。なんて言っていいだろうか。うまく言葉が見つからなかった。
「……もしもし」
「……っ!?」
満を持して声を出すと、向こうで驚いたような息が聞こえる。それが親というものなのか。第一声で相手が誰なのかを察したのだろう。もっとも彼女が分かったのは彼が出たメディア関連の露出を、全て追っていたからなのだが。
「久しぶり……」
「母さん」
「はあ……やっと終わった」
イエリナは一日の業務を終えて、大きく息を吐く。既に外は真っ暗になっており、ランプの燃料も既に尽きかけていた。
(本当……一向に仕事が減らないわね)
イエリナはどこか呆れてしまうように書類の山を見る。自分が今日片付けた仕事だけでも既に山のようになっている。それにもかかわらず、明日にはまた同じように仕事が増えていくのだ。
(きっと、贅沢な悩みなんでしょうけどね)
イエリナがまだ一人で町の運営をしていた頃は、それなりに忙しくはあったがそれでもそこまで仕事に溢れているわけではなかった。
それから少しして小領主に住民達が攫われだして、佐三が助けてくれた。そしていろんな事があり、彼はいなくなった。
不思議なものだ。彼に会う前の自分が、この町が、どんなだったのかをあまりよく思い出せない。思い出すのは彼と会ってからの日々ばかり。そのくせ彼がいなくなった後も、彼のことは忘れられない。
イエリナは席を立ち、自分の部屋に向かっていく。久しぶりに塔の上にでも上ってみよう。既に夏が近づいており、最近は夜も暖かい。寒がりのイエリナでもそんなに問題にはならないだろう。それに丁度いい気分転換になる。
イエリナは暗く静かな政庁の廊下を進み、自らの部屋に入る。そして大切に掛けてある白い外套を優しく手に取った。
今の季節、夜に外出でもしない限りこの白い外套を着る機会がない。気分転換はある意味で口実だった。
彼が寒がりの自分にくれた、数少ない贈り物。王都に出向いたときに指輪も頼んだはずだが、彼はフィロの騒動でそれどころではなく結局もらえずじまいだった。
イエリナはしばらくその外套を手に持ったまま眺めていた。その感触を、その色を、その存在を確かめるように。
「……よし!行こう!」
イエリナはそう言うと再び歩き出す。
目指すは塔の上。全てが始まるきっかけとなった結婚、その契約がなされたあの場所へ。
はあ、はあ、はあ、はあ
息を切らしながら螺旋階段を駆け上がる。最近机仕事が多かったせいだろうか。少し駆け上っただけで息が切れてしまう。
「ふ~。やっとついた」
イエリナは階段を上り終え、手すりに手を掛ける。塔の上からは寝静まった町並みが広がっている。
今は真夜中。佐三や普通の人間ではその町を見ることはできないだろう。しかし猫族であるイエリナにはわずかな光で十分に町の景色を見て取ることができた。
(昼間とは違う……この町ってこんな顔もするのね)
イエリナはいつもとはどこか違う町の様子を興味津々で眺めている。普段ならばこの塔はベルフのお気に入りの場所である。それだけに最近ではほとんど彼専用の場所と化していた。ここに来るのも久しぶりである。
「……………」
イエリナは何を考えるわけでもなく、ただそこから見える景色を眺めている。仕事や普段の忙しさを離れ、こんな風に時間を使うのは久しぶりのことであった。涼しい風と、外套の温かさがかつてのことをイエリナに思い出させた。
(サゾー……)
イエリナは外套をぎゅっと握る。今までためてきた感情の渦が、堰を切ったようにあふれ出してきた。
「サゾー……サゾー……」
涙が溢れてくる。時間がどれだけ経とうとも、その想いは決して色褪せることなどなく、日々強まっていくようであった。
(会いたい……彼に会いたい)
もう会えることはないのだろうか。早くどうにかしないと、この感情に押しつぶされてしまう。イエリナはそう感じた。
笑った顔も、怒った顔も、ふざけた顔も、真剣な顔も。全部が好きだった。もっと見ていたかった。一緒にいたかった。
この数年、異常な程に忙しい日々に自分を置いていた理由を思い出した。思い出すべきではなかった。忙しい間だけ、手を動かしているときだけ彼を忘れられた。
でも本当の意味で忘れたわけではない。決して忘れることなどできない。それもそのはずだ。彼の代わりなど、この世界のどこにも、いやどの世界にだって存在しないのだから。
自分が愛した松下佐三は、代わりなど存在しないのである。
(本当……代わりがいないって弱いわね)
佐三がよく言っていたことを思い出す。『必要性』と『代替性』。力関係をきめる要素である。
今確かに、イエリナは佐三を必要とし、その代わりはいなかった。
(本当……私って……)
イエリナはその場で座り込み膝を抱える。そして声を押し殺しながら泣いていた。いつまでも、いつまでも。
そしてしばらく経った頃、日がまた昇り始めた。
(もう……朝だ)
イエリナはほのかに感じる日光の温かさで顔を上げる。
まだ始業まで時間がある。今日の仕事のためにも、少しでも休んでおこう。イエリナはそう思って立ち上がった。
(……眩しい)
イエリナは目にかかる日光を手で遮る。塔の上にかかる日の光のせいで、景色が少し見づらかった。
そのせいであろう。町の外から近づいてくるその存在に気付くまでに、すこしばかり時間を要してしまった。
(あれは……ベルフさん?今帰ってきたのね)
光でよく見えないが、あそこまで大きな狼はベルフで間違いないだろう。いつも通りの堂々とした歩みで町へと近づいてくる。しかしいつもよりどこか歩くのが速い気がしないでもなかった。
(何かいいことでもあったのかしら)
イエリナは注意深くベルフの方を見る。するとベルフの上に、人影が見えた気がした。
心が跳ねる。イエリナは一目散に階段を駆け下りた。
塔を飛び出し、町の通りを駆け抜けていく。
「ああイエリナ様!おはようござ……って、あれ?」
朝の早い仕事の人はもう既に起きて支度をしている。しかしそんな住民達が挨拶をする間もないほどにイエリナは猛スピードで町を駆け抜けていく。
「あ、イエリナ様。おはようございます」
「おはよう。ごめんなさい、急いでいるから通してください」
イエリナはそう言って門を通り抜ける。門を出た頃にはうっすらとベルフの姿が見えていた。
はあ、はあ、はあ、はあ。
どうしてもっと速く走れないのだろう。最近運動していなかった自分が腹立たしい。イエリナはベルフの元に行くわずかな時間さえも永遠の様に感じた。
視界がぼやける。涙で前がよく見えない。弱い女め。どうして肝心な時に泣いてしまうのだ。彼の姿がよく見えない。
ベルフのおぼろげな輪郭が近づいてくる。ぼやけた視界だが、それで十分だった。
この気高き白銀の狼が、みずからの背に乗ることを許した相手など、どの世界を探しても一人しかいない。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
息を切らしながら、ベルフの前に来る。ベルフの上に乗った人が、ゆっくりとその背中から下りた。
「夢じゃ……ない」
イエリナは何度も目を擦って涙をふき、彼を見る。間違えようがない。自分が愛したその人が、いま目の前に立っていた。
彼がゆっくりと近づいてくる。何を話したらいいだろうか。突然のことすぎて言葉が出てこない。
(おかえり?それとも、久しぶり?どうしよう。何を話していいか分からない!)
イエリナは頭の中が真っ白になる。すると彼の方から近づいてきた。
そして彼は何も言わず、イエリナを強く抱きしめた。
「へっ」
イエリナの声が漏れる。しかし彼はさらに強くイエリナを抱きしめた。
「……正直、今更帰る場所があるのかとも思った」
彼が話す。
「もしかしたら別の男がいるかもとか、とっくに忘れられてるかもとか」
「そんなこと……」
「でも……そんなことはどうでもよかった」
彼が続ける。
「俺にはどうせ、お前しかいないんだ」
そう言って佐三はにっこりと笑いかける。イエリナは顔が燃えてしまうのではないかと思うほど熱くなるのを感じた。
「それにしてもその外套、随分色褪せたな」
佐三が笑いながら言う。
「しょっ、しょうがないじゃない!これしか貴方にもらったものがないんだから!」
イエリナがムキになって言い返す。それを見て佐三はケラケラと笑っていた。
「色々話したいことはあるけど、まずイエリナに渡したいものがあるんだ」
そう言って佐三はスーツの胸元から小さい箱を取り出し、イエリナに開けてみせる。
「これって……」
「指輪だ。結局買ってなかっただろ?この世界に一つしかない、別の世界から買ってきた指輪だ。一生に一度のものとしては、十分だろ」
佐三はしたり顔でそう言う。しかしイエリナはそんなことを聞く前に佐三に抱きついていた。
「おっとっと。イエリナ危ないから飛びつくなって……」
「うれしい。ありがとう!」
イエリナの言葉に、佐三は少し気恥ずかしそうに頬をかく。ベルフはそれをどこか楽しそうに眺めていた。
「でも、よく覚えていたわね。サゾーならてっきり……」
「おいおい。俺をなんだと思っているんだよ」
「だって、こういうことにはまるで頭が回らないから」
「…………」
否定はしない。自分がそういう人物であることは、最近理解できている。
佐三はかるく咳払いをした。
「覚えてるってそりゃ、契約の履行は商人の……」
そう言いながらイエリナを見る。もう契約というのでは正確ではない。彼女と、本当の意味で夫婦になりたいのだ。利権とか、見返りとか、そんなものはどうだっていいのだ。
佐三は言い直す。
「……約束を守るのは夫のつとめだ」
佐三は自分でどこか恥ずかしくなってくる。しかしこうなれば自棄である。どこまでもやってやるだけだった。
「イエリナ」
「……はい」
佐三は真剣な表情でイエリナの手を取り、指輪をはめる。そしてまっすぐその瞳をみつめて、想いを伝えた。
「愛してる。俺と結婚してくれ。前みたいに打算じゃなく、愛し合う夫婦として」
イエリナは俯いて何も言わない。しかし意を決して顔を上げ、返事をした。
「……はい」
「……っ!?」
佐三の顔が明るくなる。それを見てうれしくなる自分がいた。イエリナはつい勢いで再び佐三に抱きついてしまう。
「おっとっと。だから勢いが強いって」
「ご、ごめんなさい」
イエリナは慌てて離れる。しかしまたすぐに佐三をだきしめた。今彼はここにいる。その存在を確かめるように。
「……サゾー」
イエリナは手を放し、佐三をみつめる。佐三の顔が近いところにまで来ていた。
「なんだ?」
佐三がきいてくる。
「愛してる」
イエリナが言う。すると佐三が優しく笑った。
「俺もだ……」
「愛してる」
二人の唇が重なった。
異世界の愛を金で買え! 完