見えない素顔
「おら、バカ犬。飯だぞ」
佐三は今日のまかないをもってドアを開ける。部屋の中にはぼんやりと窓から月を眺めている人狼がいた。
「これだけか?」
「これだけだ」
「…………」
「…………」
「…………少ねえ稼ぎだな」
「上等だ、ゴラァ!」
男達の取っ組み合いが始まる。人狼の傷は既に大分癒えており、以前まで巻いていた包帯もほとんどとれていた。
「あんた達うるさいよ!部屋で暴れるようなら出てってもらうからね」
下の階から酒場のオーナーである夫人の声が聞こえる。しかし佐三があっさり組み伏せられることでその騒ぎはすぐにおさまる。
これが彼等の日常だった。
時を遡ること二十日前、佐三が市場で大立ち回りを演じ、この人狼を購入した時のことである。佐三の買い出しを待つ夫人は唐突に血だらけの男を連れて帰ってきた佐三に腰を抜かしたのは言うまでもない。
事の顛末を聞いた後、夫人はどう対処したものか決めかねていた。人狼はかねてより縁起が悪く、恐れられてきた存在である。そんなものが酒場にいたのでは商売に悪影響を与えかねない。故に当初は住まわせることには否定的であった。
(しかしあんな風に頼まれちゃね)
夫人はその時の佐三の様子を思い出す。彼がどのような人間であるか、それなりに生きてきた夫人には分かっているつもりだった。
佐三は典型的な商人気質だ。変なプライドなどもたず、利によって動いている。その合理性は商売をするには重要な能力である。夫人はそんなところをかって、佐三の下宿を許していた。
しかしあの日に関しては違っていた。彼は何を交渉するわけでもなく、ただ頭を下げた。この人狼を住まわせてくれと。おそらく彼にとっても予定外の事だったのだろう。何か別のオプションを提供するわけでもなく、ただひたすらに懇願した。
そしてその意思はこれまで以上に堅かった。夫人は今までにない佐三の様子に不意を食らってしまい、ついつい下宿をゆるしてしまったのだ。いつか必ず追い出さなければならない。頭ではそう考えていた。
(また暴れてる……こりない連中だね)
夫人は上の階に向って大声で注意する。しかし注意とは関係なしに、その騒ぎはすぐに収まる。おそらく、あの人狼が佐三を押さえつけたのだろう。奴隷に手を上げようとする人間は数多くいるが、それに返り討ちにあっているのは王都広しといえど佐三だけだろう。
「バカな男達だ」
夫人はそう言ってベッドに入る。明日も朝からやることは多い。寝ることのできる時間は一瞬たりとも無駄にはできないのだ。
夫人はすやすやと眠りに落ちた。
(この男は一体なんなのだ?)
人狼はベッドに寝る男を見ながら、壁にもたれかかるように座る。奴隷に対して鎖は付けず、それどころか労働すらさせていない。もっとも時々外に出るときに手伝いをさせられたり、酒場の仕事を分担させられたりしたが、それ以上のことはなかった。あくせく働くその男と比べたら、どちらが奴隷なのか分かったものじゃなかった。
「……どうした?」
「……っ!?」
ベッドに寝ている佐三が唐突に声をかける。
「お前……、起きていたのか?」
人狼が尋ねる。
「いや、なんとなく視線を感じた」
佐三は体を起こして自らが買ってきた奴隷を見る。その様子はいつになく真剣であり、今までの様子とは異なっていた。
「なあ」
佐三が問いかける。
「お前、ここ出て行くつもりだろ?」
「……っ!?」
「図星みたいだな」
人狼は図星をつかれ、思わず体が反応してしまう。佐三はポリポリと頭をかきながら話を続けた。
「怪我も治ってきた頃だろ?お前の身体能力……見たことはないが凄いんだろ?だったらいつ逃げてもおかしくない」
「お前、気付いていたのか?」
「ああ。おかげでここ数日は寝不足だ。いつ抜け出されるもんか分かったもんじゃないからな」
佐三が大きな口を開けて欠伸をする。人狼は気になっていることを聞くことにした。
「じゃあ、何故鎖もなにも付けずに、俺を放置しているんだ?」
「付けて欲しかったか?」
「真面目に答えろ」
佐三が「やれやれ」とばかりに答える。
「信頼関係を損ねる」
「信頼……だと?この俺とか?」
思いがけない言葉に人狼は耳を疑う。自分たちは種族も異なり、ましてや自分は人間に捕らえられてきた身である。そんな中で信頼などという言葉が出てくるとはまったく予想外であった。
「もういいだろ?腹を割って話そう」
佐三はそう言って続ける。
「俺はお前を欲しいと言ったが、それは正確ではない。俺は雇用したいのであって、奴隷を欲している訳じゃないんだ」
「雇用……?」
「そうだ。契約に基づく雇用関係だ」
人狼はまったく合点がいっていなかったが佐三は構わず話を続けることにした。
「俺には成さなければならない目的がある。その目的のためにお前を雇いたいんだ」
「それは……奴隷とは何が違うのだ?」
「何もかも違う。契約はあくまでお前の意思でもって行う。強制された契約では、いざという時に役に立たない」
「だから、奴隷ではダメだと?」
「そうだ」
佐三がはっきりと答える。人狼は何も言わず黙り込んだ。
(馬鹿げている)
人狼はそう思った。この男は禄に知りもしない、ましてや種族も違う男を信用している。いやそれだけではない。信頼関係まで作ろうとしているのだ。馬鹿げているとしか言い様がない。
今自分がその提案を断り、今すぐにでもここから逃げ出したらどうするつもりなのだろうか。彼の足では、自分に近づくことすらできずに逃走を許すだろう。そんなこと、いくらバカな人間でも分かるはずだ。
(なのにこいつは、俺が絶対に逃げないと言わんばかりに振る舞っている。命まで賭けておいて)
もっとも佐三が信用しているのはこの人狼ではない。この人狼が逃げることはないと判断した自分の決断に対してである。
しかし人狼にとっては同じ事であった。いかなる考えであろうと、この男がどこまでも馬鹿げた態度をとっていることには変わりなかった。
(見えない……一体こいつは何を考えているんだ)
その感情はかれにとっては初めてのものだっただろう。あれほどまでに鋭い目をしていた男が、今はそれとは真反対のことを言っている。普段はヘラヘラと仕事をこなしており、あのときの様子がまるで嘘のようにすら思えた。底知れぬ闇のようなものが彼に潜んでいる、そう思った。
「悪いが……俺には帰らなきゃならない場所がある」
「…………」
「もう随分遠くに運ばれちまって、場所すらも分からないが、俺は帰らなければならない。だからその提案は受けられない」
「………そっか」
佐三は少し考えてから話す。
「じゃあ、無理には誘わん。ただもう少し体を治してから出て行くんだな。これに関しては、主人としての命令だ」
佐三はそう言ってベッドに横たわる。そしてすぐにすやすやと寝息を立ててしまった。
(まったく、分からん男だ)
人狼は窓から見える月を眺める。皆も同じように見ているだろうか。
王都から見える月はあの頃とは違って、ひどくもの悲しく見えた。
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