90.守りたい人と、助けたい人
シルヴァを助けたいという、私の必死の懇願は結局受け入れられた。
私は一瞬ヤツェクを見上げた。ヤツェクの完璧に左右対称の顔貌からは、なんの感情も読み取れなかった。翡翠色の目はただ私を見つめている。私の行動をとりあえず見守ろうとしているのだろう。シルヴァにこれ以上攻撃することはなさそうだ。
ヤツェクの反応を見たオスカーは、苦り切った顔をしてぎゅっと握っていた私の腕を離す。
「エリナ、さっき言ったことは本気か?」
「うん」
「ずっと、夜の国にいるんだな」
「……うん」
頷く私を、疑うようなまなざしでオスカーは見た。身の内すらも見透かしてしまいそうな、透明な黄金の目が私の瞳を見つめる。私は視線を外さず、もう一度大きく頷くと、じっと見つめ返した。
しばらくして、オスカーは大きなため息をつく。
「わかった。でも、アイツがなにか怪しい動きをしたら、すぐに息の根を止めてやる」
「心配しないで。シルヴァ様は、大丈夫だから」
私はオスカーを安心させるように取り繕った笑みを浮かべたけれど、内心は自信がなかった。
(私は、騎士団長相手に、ローラハム公が失脚するようなスキャンダルをリークした。アイゼンテール家の権力を目当てで婚約者になったシルヴァ様にとって、それはあまりいいことではないわ……)
もしかしたら、今回の件でシルヴァには心底恨まれてしまったかもしれない。宮廷で色男として名を馳せたシルヴァが、あえて美しい貴族令嬢の手を取らず、7つも年下の私と婚約者になった理由は、アイゼンテール家の権力を手にしたかったからに他ならない。そこまでして手に入れたかったアイゼンテール家の権力を、私はあっさり奪ってしまうような真似をしたのだ。それに、ローラハム公の命令をうけて、シルヴァが私を夜の国まで追ってきたという可能性も十分ある。
(でも、目の前で苦しそうにしているシルヴァ様を、放っておけない)
私は胸の内でわだかまる猜疑心を抑えつけた。
とりあえず今は、シルヴァの命を助けることが先決だ。例え、シルヴァの命を助けることと引き換えに、カウカシアに戻れなくなったとしても。
私は地面に突っ伏しているシルヴァに駆け寄った。
「シルヴァ様!」
かろうじてまだ意識があるシルヴァが、私の声に反応して、ぜえぜえと喉を鳴らしながら、なんとか顔を上げる。
「エ、リナ……!」
「もう、大丈夫です。私が、何とかしますから……」
私はシルヴァの頭を膝の上にのせる。喉元にはまだヤツェクの魔力である黒いモヤがくすぶっていて、シルヴァは苦しそうに呼吸をしている。顔色も悪い。
「すごく苦しいですよね。……巻き込んで本当にごめんなさい」
私は震える声で謝った。シルヴァの筋ばった大きな手が、弱弱しく私の頭を撫で、それから、ぎゅっと私のローブを掴む。
「謝らなくてもいい。……だから、もうどこにも、行くな……。俺……が、守る……。ずっと、そばに……」
ここに来てなお、必死で私を守ろうとしているのだ。何と答えていいか分からない私は、ただ頭を振る。
「……今、魔法をかけます。大丈夫ですから。私が絶対、助けますから……」
私の言葉を全て聞き届ける前に、シルヴァは苦しそうに咳き込み、そのまま意識を手放す。私は慌ててシルヴァの喉元に手を置いた。
(数か月前に竜の傷を癒した魔法で大丈夫よね……?)
私は、おそるおそる魔法をかけた。
心の中の感情を全て締め出し、手元に魔力を集中させる。じんわりとした温かい魔力が、シルヴァの身体に流れ込んでいく。
(失敗しちゃったら、どうしよう……)
もう二度と会えなくなるかもしれない、という恐怖が、一瞬心を支配しそうになる。
私の使う「虚の魔法」は、余計なことを考えてしまえば、失敗してしまう。不安な気持ちをなんとか抑え込みながら、私は祈るような気持ちでシルヴァに魔力を流し込み続けた。
「お願い、神様……! シルヴァ様を、助けて」
私が小さな声で呟いたその時、シルヴァは急に大きく息を吸い込んだ。そこから、大きく荒い息を、二三度漏らす。
「シルヴァ様!」
「……エリナ?」
私の問いかけに、シルヴァは弱弱しくもしっかり答える。私は大きく安堵の息を吐いた。どうやら、回復魔法はうまくいったようだ。
すぐにシルヴァの顔色が見違えるほど良くなり、荒い呼吸もゆっくりしたものに変わる。最初は苦しげだった表情も、徐々に和らいでいく。途中まで私を見据えていた眼は、ゆっくりと閉じられ、そして徐々に呼吸は深くなっていった。
どうやら、安心して眠ってしまったようだ。
「……ふう、良かった……」
私は、とりあえず安堵して、膝の上で安らかに寝息を立てるシルヴァの額にかかった黒い前髪をはらった。
そういえば昔、こうやって膝枕したことがあるけれど、それが何十年も昔のことのように感じる。
(シルヴァ様ったら、あの時と比べるとかなりやつれている気がするわ。目の下のクマなんて、回復魔法をかけても良くならないんだもの。あまり寝ていないのかしら……)
そうだとしたら、シルヴァの不眠の原因の一つは確実に私だろう。
シルヴァがどれほどの情報を掴んでいるかは分からないけれど、私のことになると過度に心配性になるシルヴァのことだから、きっと心配をかけたことは間違いない。
「冷静に考えたら私、シルヴァ様には何も言わずにもう数か月姿を見せていない状態なのよね……」
私はシルヴァの整った顔を覗き込みながら、ポツリと呟いた。
いきなり婚約者が消えたシルヴァにかなりの心労をかけてしまったのは想像に難くない。色々考えれば考えるほど、シルヴァには申し訳なくなってきた。
シルヴァは私の婚約者になってから、トラブルに巻き込まれ続けている。いい加減、いい迷惑だろう。そろそろ見限ってもおかしくないはずなのに、それでも、シルヴァは夜の国まで私を追ってやってきてくれたのだ。自らの危険も顧みることもなく。
そして、自分が危険にさらされてなお、私を守ろうとしていた。
(シルヴァ様は、やはり過保護な婚約者のままなのね……。本当に、今までと変わらない。何も、変わっていないんだわ)
私は心の奥底からホッとした。裏切られるかもしれない、という薄暗い疑惑の気持ちが、春の日差しのもとの氷のようにゆっくりと溶けていく。
やがて、遠くで様子を見ていたオスカーが、おそるおそるこちらに歩いてきた。
「死んだか?」
「……生きてるってば! 眠ってるだけよ! ……多分ね」
「チッ」
オスカーが盛大に舌打ちしたので、私は彼を睨みつける。オスカーは拗ねたような顔をしたが、めげずに私の隣に膝をつくと、問答無用でいきなりシルヴァを背負う。私は目を丸くした。
「ちょっと、オスカー! なにするの!」
「別に、何もしない。安全なところに運ぶだけ」
「……屋敷に、連れていってくれるの?」
「ヤツェクの命令だ」
オスカーはぶっきらぼうに言う。私は驚いてヤツェクのほうを振り返る。ヤツェクは私の視線に気づくと、諦めたように苦笑する。
私は微笑んだ。
「ありがとう、オスカー……」
「フン。勘違いするな。これは俺のためだ。コイツ、このまま置いていったら、魔物たちの餌食になって、明日には骨になってる」
オスカーは凶暴ににやりと笑った。
「コイツを食うのは、俺だ。ほかのヤツらにとられるのは、癪だからな」





