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89.追手

「エリナ、もう少しでいつも屋敷から見える川だ」


 苔むした地面を注意深く歩く私に、慣れた様子で先を歩くオスカーが振り返って声をかけた。風妖精ウンディーネたちが、からかうように私の周りを飛び回り、私の髪を揺らす。

 第一騎士団の設営地からの帰路は、途中、私が一瞬道を間違えかけたハプニングはあったものの、行きほど時間がかからなかった。しかし、私は体力がないのですっかりへとへとだ。


『せっかくだし、パトロールついでに歩いて帰ろうよ。急いでるわけでもないし』


 そんなことを提案した数時間前の私を殴ってやりたい。頼めばオスカーが背負って運んでくれるだろうけれど、自分が言いだした手前、なんとなく頼みにくい気もする。第一、オスカーに背負われて運ばれるのは大嫌いなジェットコースターに乗るよりも怖いのだ。

 ふと後ろを振り返ると、オルスティン山に夕日が沈んでいる。空には一番星が燦然と輝いていた。

 明日には、東の空にヴィニア彗星が巡るだろう。ヴィニア彗星が空に巡る日は、カウカシアでは聖なる夜(オーリニヒト)という祝日になる。


(そういえば、オルスタに一時的に滞在している騎士団長や第一騎士団の騎士たちは聖なる夜は、どうするのかしら……。それに、あの密猟者の二人も、家族がいるでしょうに……)


 聖なる夜は、本来であれば、家族で過ごす行事だ。第一騎士団の騎士たちは、遠征している今、家族とは聖なる夜を過ごせないため、きっと仲間うちでささやかに祝いあうのかもしれない。

 私たちに捕らわれたあの密猟者の二人は、聖なる夜を牢屋で過ごすことになるのだろう。それだけは、なんとなく哀れな気がする。


(まあ、人の心配より私の心配よねえ……)


 私は内心ため息をついた。最近のゴタゴタですっかり忘れていたけれど、聖なる夜、つまり明日の夜にこの体の主(エリナ)に会う約束をしていたのだ。

 彼女が今の状況を知ったら、怒り狂ってしまうかもしれない。なんたったって、夜の国の魔物をひそかに密猟していたことを、白日のもとにさらそうとしているのだ。長年権力を意のままにしてきたアイゼンテール家は、近いうちに失脚する可能性もある。


「はあ、あの子(エリナ)になんて説明しようかな……。今から憂鬱……。っていうか、仕事大丈夫なのかなぁ……」


 私は小声でつぶやいた。オスカーが、怪訝そうにくるりと振り向く。


「さっきからブツブツ何を言ってるんだ?」

「な、何でもない! こっちの話」

「ふぅん。……それはそうと、いつまで変身しているつもりだ?」


 オスカーは私の身体を指さす。そういえば私は、大人の姿に変身していたのだ。すっかり忘れていた。


「確かに、もうそろそろ元に戻っても大丈夫よね。でも、大人の姿のほうが楽なのよ? ほら、手足のリーチが違うから、岩とか登りやすいし、川も飛び越えやすいの」

「その姿、なんとなく落ち着かない。胸の当たりがモゾモゾする……。だから、いつものエリナがいい」

「まったく、しょうがないなあ」


 私は苦笑して、魔法をといた。すぐに身体がシュルシュルと音をたてて小さくなる。私は、すっかり小さくなった手をグーパーさせてため息をついた。


「はー、これで良し、と……。オスカー、これで満足してくれる?」

「うん、こっちのほうがいい」

「えー、大人の私だってなかなかいいでしょ? 騎士団長からも美女って言われたわよ?」


 私の一言に、オスカーはとりあわず、軽く鼻を鳴らしてスタスタと先に進み始めた。風妖精たちがコロコロと笑う。


「もう、オスカーったら!」


 苦笑してオスカーを追おうとした私の目の端に、ふと黒い影がよぎった。動きからして、夜の国の魔物ではない。


「――ッ!?」


 私が反応するより前に、黒い影は私に猛然と向かってきた。一瞬で異変を察知したオスカーがとっさに私の腕を掴もうとしたものの、黒い影が私を抱えて後ろざまに跳躍するほうが速かった。

 一瞬の出来事に、なす術もなく捕らえられた私は、ハッと我に返って慌てて抵抗した。


「ちょ、ちょっと、なに!? 離して!!」

「エリナ!」

「えっ」


 懐かしい声が私の名前を呼んだのに驚いて、私は目を見開いた。

 黒い影は長身の人間の男だった。見上げると、無造作に束ねられた黒髪が、風になびく。

 彼は私を守るように仁王立ちすると、剣を構える。夕時の赤い太陽の光を、剣身がギラリと反射させた。


「し、シルヴァ様!?」


 私の声が、川のほとりに響いた。驚きすぎて、情けなく声がひっくり返る。


「な、なんでここに……」

「それはこっちのセリフだ! まったく、俺の婚約者殿はいつもこうだから困る!」


 シルヴァはいつも通りの飄々とした口調で答えた。


「なんで、ここに?」

「それはこっちのセリフだ。――おっと!」


 私を軽々と抱え、シルヴァはオスカーからの鋭い攻撃をかわした。

 渾身の一撃をかわされたオスカーは、苛々したように唸ると、空に向かって遠吠えをした。森にオスカーの遠吠えがこだまする。一斉に、あたりにいた風妖精たちが怯えて散っていく。

 わずかな間をおいて、なにもなかった目の前の空間がいきなりぐにゃりと歪んだ。強い魔力を感じた。

 見覚えのある光景に、私は青ざめる。


(オスカーはお父さまを呼んだんだわ!)


 私は慌てた。ここで魔王ヤツェクが登場すれば、シルヴァは二人を相手に戦わざるをえなくなる。明らかに分が悪い。


「オスカー、攻撃をやめなさい!」


 私は殺気を放つオスカーに叫ぶ。オスカーが地団太を踏んで怒声をあげた。


「どうしてそいつの味方をするんだ! 食い殺してやる!」

「落ち着いて!」


 私がピシャリと答えると、オスカーは渋々といった様子で攻撃の手を止め、荒い息を吐く。シルヴァはそっと、私を胸元に引き寄せた。

 その瞬間、歪んだ空間から、なにかがはじけたような音がして、黒いマントを身に纏ったヤツェクが姿を現した。


「なぜ、人間がここに? しかも、エリナを人質にとるなんて、やってくれるじゃないか」


 低い、囁くような魅力的な声は、あきらかに、夜の国に踏み込んだシルヴァのことを歓迎していない様子だ。その上、私がシルヴァに捕まったと勘違いしている。

 シルヴァは魔王の突然の登場に、驚いた顔をしてたじろいだ。


「魔王ヤツェク……」

「シルヴァ・ニーアマン。若く、勇敢な騎士よ。会うのは二回目か。私の娘を、さらいに来たな? そのように、か弱いエリナを人質にとるとは、卑怯な真似を」


 ヤツェクは前触れもなくすーっと人差し指で明後日の方向を指さした。その途端、強い魔力が辺りにたちこめ、私はシルヴァから引きはがされ、ヤツェクの傍らに移動させられる。


「お父さま、誤解です! 私はか弱くありませんし、それにシルヴァ様は私を無理やりどうこうしようとしたわけでは……」


 私はそう叫んだけれど、遅かった。シルヴァが苦しそうに喉のあたりを掻きむしると、膝をついた。ヤツェクが魔法を使ったのだ。

 ヤツェクは苦しむシルヴァを睥睨した。


「エリナに傷をつけようとする人間は、さすがに生かしてはおけぬ」

「お父さま、止めてください!」


 私はヤツェクの腕にすがりつく。とたんに、禍々しい魔力の気配が一瞬途切れ、シルヴァが大きく息を吐いた。しかし、未だに喉がヒューヒューと鳴っている。


「シルヴァ様! お父さま、なにをしたの?」

「喉を潰した。このまま放っておけば、いずれ死ぬ」

「なんですって!?」


 私は慌ててシルヴァに駆け寄ろうとしたものの、オスカーが厳しい顔をしてそれを阻止した。


「オスカー、離して! シルヴァ様を助けてあげないと」

「ダメだ」

「お願い! シルヴァ様が死んじゃう!」


 懇願する私に、オスカーは首を振るばかりだ。

 ヤツェクはゆっくりと私を見下ろす。私と同じ翡翠色の瞳は、ぞっとするほど光がなかった。


「お父さま、誤解です! 話を聞いて!」

「誤解などではない。……エリナ、こいつからは、あの忌まわしきローラハム・アイゼンテールの魔術具の気配がする。あの密猟者たちが持っていた、魔術具と全く同じ気配だ」

「なんですって……?」

「おそらく、あの騎士はローラハム・アイゼンテールの差し金でここにいるんだろう」


 重々しく告げるヤツェクの声を遮るように、シルヴァは「違う!」と叫んだ。その途端に、苦しそうに咳き込んで、地面にうずくまった。肩で息をしている。うまく呼吸ができないのだ。私は思わず、私の腕を掴んでいるオスカーの腕をぎゅっと握った。


「オスカー、どいて! お願い!」

「エリナ、昔から俺は思っていた。どうせアイツ、アイゼンテール家の権力目当てだ。だから、助けてやる必要なんてない」

「それは……」

「ローラハム公の魔術具まで持っているんだぞ! 明らかに敵だ! エリナを無理やりカウカシアに連れ戻して、ローラハム公に引き渡そうととしているんだ」

「でも……」


 私は一瞬口ごもる。

 確かに、オスカーの言うことは一理あった。万が一シルヴァとローラハム公が繋がっていた場合、ここでシルヴァを魔法で助け、カウカシアに帰してしまえば、私の命が危ぶまれる。私が夜の国にいると分かれば、私を殺すべく、ローラハム公はあらゆる追手を夜の国に送るだろう。

 それでも、私は二人を安心させるように強張った笑みを浮かべると、ゆっくりと首を振った。


「もしかしたら、オスカーが言う通り、本当はシルヴァ様はローラハム公の手先かもしれない。最終的に、裏切られるかもしれない。……でも、それでも、いい。とにかく、助けないと!」

「エリナ、しかし……」


 懇願する私に、なおもヤツェクは言い募る。しかし、ヤツェクが反論する前に、私は口を開いた。


「お父さまお願い。……私、夜の国の女王になってもいいから。だから、……シルヴァ様を助けさせて」


 私の一言に、オスカーとヤツェクは息を飲んだ。

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