86.夜の国の女王
夜の国の森は、今日も不思議な妖気が漂っていた。私の前を歩くオスカーがこちらを振り向く。
「エリナ、大丈夫? 疲れてない?」
「ええ、今は大丈夫。でも、もう少しで休憩しましょ」
「わかった」
オスカーがコクリと頷くと、私の手をひいて岩の上を歩くのを手伝ってくれた。
私とオスカーは、夜の国の森を散策している。
事の始まりは、私のわがままだった。私がオスカーに外に出たいと無理に頼み込んだのだ。
『屋敷にいてもやることはほとんどないし、私は夜の国のことが知りたいの』
そう必死で頼む私に、オスカーは最初嫌そうな顔をしたものの、渋々といった顔で最終的に頷いてくれた。こうして、私は1日に一度だけ、屋敷の外に出て散策するのが習慣になったのだ。
夜の国の森は原生林に近く、散策というよりか、ほぼ山歩きに近い。私は魔法を使って道を作ったりしながら、少しずつ行動範囲を増やしていっている最中だ。
ふいに、少し離れた茂みから物音がしたので、私は足を止めて目を凝らす。
「あっ! 蛇! ねえ、あれって大蛇よね? 初めて見た!」
私はオスカーに声をかける。7つの首を持つ蛇が、私たちの目の前を悠然と通り過ぎようとしていた。オスカーが驚いた顔をする。
「そうだ。エリナ、詳しいな」
「お父さまの書斎にあった本に、大蛇のことが書いてあったの」
私は目を細めて、しばらく熱心に大蛇を観察した。大蛇はこちらに気づくと、ゆったりと鎌首をもたげて、一礼する。私も一礼を返すと、大蛇はスルスルとこちらに寄ってきて、リンゴのような赤い木の実をそっと私の足元に置いた。
「これ、くれるの? ありがとう」
私が木の実を拾ってお礼を言うと、大蛇は満足げにクルクル回る。それなりに意思の疎通がとることができるのだ。
夜の国の住民たちは、そろって不気味な見た目をしているものの、高い知能がある。私のことも、どうやらきちんと魔王の娘として認知しているらしい。そのため、皆それなりに敬意を持って接してくれている。
(しかもみんな、見た目は怖いけどそこそこ親切なのよね……)
一度だけ、オスカーとはぐれて迷子になった時があったが、その時は通りかかった乙女妖精が総勢でオスカーを連れてきてくれた。私の食料も、どこからともなく夜の国の住民たちが屋敷に届けてくれているようだ。
大蛇からもらった木の実をポケットに入れる私に、オスカーがからかうような笑みを浮かべた。
「最初はアイツらを怖がって、見るたび毎回悲鳴を上げてた。もう、怖くはないか?」
「さすがに、もう怖くないよ。みんないい子たちだって知ってるし」
最初のうちは、夜の国の住民たちが恐ろしくてたまらなかったのも事実だ。しかし、夜の国の住民たちの本性を知っている今、恐怖は薄らいでいる。
第一、この魔力が満ち溢れた森では、私はほぼ向かうところ敵なしだった。大抵の脅威は魔法で何とか対処できるだろう。
(そう思うと、カウカシアにいるより、こっちにいるほうが安全なのよね……)
私は内心苦笑しながら、ちょうど見つけた適度な大きさの岩に腰を下ろす。
「オスカー、ここで休憩しましょう」
「それが良い。俺もひと眠りしたい」
オスカーも犬の姿に変身し、私の傍らに寄り添う。気まぐれに寄ってきた風妖精が、私の銀髪を風で揺らした。いたずらな風妖精たちは人懐っこく、よく私に寄ってくるのだ。
風妖精たちの心地よい風を感じながら、私は大蛇にもらった赤い木の実をかじった。少し酸っぱいけれど、食べられないほどではない。
風妖精たちが欲しがるので、私は木の実の半分を譲って、残りの半分を平らげる。オスカーは気持ちよさそうに目を細め、うたた寝をし始める。
平和そのものだった。
中空に不思議な色の苔が時々紫色に光り、風妖精たちが歌っている。目に映る光景は見慣れないものばかりで少し奇妙だけれど、美しかった。
「夜の国は、カウカシアの敵じゃない。むしろ、カウカシアが勝手に夜の国の敵になったのよ。カウカシアと夜の国の国境なんて、本当は守る必要なかった」
私は静かな薄暗い森の中で呟く。川のせせらぎだけが私の独り言を聞いていた。
「私たちは正しい知識がなかったから、夜の国や、この国の住民たちを怖がっていただけだったんだわ」
「勝手に怖がってくれたほうが、こっちとしては好都合だがな」
私の独り言に、耳あたりのいい低い艶のある声が返事をした。私はパッと振り返る。
「お父様!」
「やあ、かわいいエリナ。風妖精にずいぶん懐かれたね」
片手をあげて木陰から現れたのは、夜の国の王、ヤツェクだった。相変わらず、そこにいるだけで並々ならぬオーラを感じる。慣れていないとたじろいでしまいそうだ。
ヤツェクはマントを翻し、私の隣に腰を下ろしてちょこん、と体育座りをする。美貌も形無しの仕草に、私は思わず笑みをこぼす。
ヤツェクは私と同じ目線の高さまで背を丸めて、優しく微笑んだ。
「オスカーは寝ているようだが、いつもの散歩かな?」
「ええ。今は少し休んでいるところです。お父さまは、今日のパトロールはおしまい?」
「ああ。乱獲者の数が減ったようでね。皮肉なことに、ここ数日は我々を見張るための第一騎士団が、我々を守ってくれているらしい。乱獲者もさすがに第一騎士団には見つかりたくないようだ。しばらくは安泰だろう」
第一騎士団、という言葉に、私の胸の奥がキリリと痛んだ。婚約者のシルヴァの横顔が浮かぶ。きっとシルヴァは、私を心配しているに違いない。
私のかすかな表情の変化に気づいたヤツェクが、心配そうに私の顔を覗きこんできた。
「そんな悲しい顔をして、どうしたんだ?」
「いえ、第一騎士団と聞いて婚約者のことを思いだしてしまって」
婚約者、という言葉に、ヤツェクがあからさまに顔を曇らせた。
「シルヴァ・ニーアマンのことか?」
「えっ……!? なぜ彼の名前を知っているんですか?」
「それくらい知っているよ。愛しの一人娘の情報は、なるだけ把握しようと心がけていたからね。一度だけ、シルヴァ・ニーアマンとは会ったこともある」
「ああ! そう言えばそうでしたね!」
私はポン、と手を打つ。
婚約パーティーの前日に、確かにシルヴァは魔王と遭遇している。数十年ぶりの魔王の出現に、第一騎士団は騒然となったらしい。
もちろんまさか一人娘の婚約者を一目見るためにわざわざ魔王がお出まししたとは、カウカシア王国中の誰も考えもしなかっただろう。シルヴァも災難だったとしか言いようもない。
「まあ、私は婚約者なんて認めていないけれど……」
悔しそうにヤツェクがボソリと呟いた。私は苦笑した。
「まあ、ローラハム公が決めたことですから」
「クソ、ローラハム公め。何かとつけて忌々しい男だ。どうせ、君の魔法に制約があるのも、あの男のせいなんだろう?」
「えっ?」
私は驚いて聞きかえす。
「私の魔法って、制約がかかってるんですか?」
「なんだ、気づいていなかったのか。君の魔法には色々制約がかかっているよ。おそらく、複雑な魔術によるものだ。解いてあげたいけれど、生憎人間の魔術は専門外でね。下手にいじると君の魂が傷ついてしまう」
ヤツェクの言葉に、私はとりあえず頷いた。自分の魔法に制約がかかっているなんて知らなかった。あいかわらず、自分自身のことすら謎だらけだ。
(まあ、いくら制約がかかっているといえども、私の魔法の力は十分過ぎるほどに強いし――……。って、あれ? そう言えば、過去に戻る魔法だけは使えなかった気がする……)
思い当たる節が一つだけあった。それは、母のソフィアが教えてくれた「過去に戻る魔法」だ。魔力を著しく消費する古の魔法は、いくら練習しても使えなかった。一度だけヤツェクの屋敷で練習してみたけれど、やはりその魔法が発動することはなかったはずだ。
(もしかしたら、制約がかかっているのは過去に戻る魔法なのかもしれない……。でも、どうして?)
考えにふけろうとしたその時、ふいにヤツェクの長い指が私の頬に触れ、それから私の銀髪を愛おしそうに触れる。
急に撫でられた私は、首を傾げた。
「お父さま……?」
「ああ、勝手に触れてすまないね、私の可愛いレディ。でも、なんだか君が私の横にいるのが信じられなくて……。私はずっと一人だったからね」
ヤツェクは恥ずかしそうに微笑む。
「いや、一人ではないな。この国の民がこんなにも大勢いる。彼らは私の家族同然だ」
「……夜の国の住民たちは、みんな親切ですよね。あっ、さっきも、大蛇に木の実をもらったんですよ!」
「そうか。大蛇はなかなか気難しいのに、エリナのことを気に入ったんだな」
「そうなんですかね? 私は、なにもしていませんが……」
「君の魔力は、優しくて暖かい。夜の国の民も、それに気づいているんだ。……なあ、エリナ。君はこの国のことをどう思う?」
「えっ……」
「この国の民は、君のことを受け入れつつある。良いことだ。私は、君にこの国にずっといてほしいからね。ここなら、絶対に安全だし、永遠に生きながらえることだってできる」
私は驚いて顔をあげた。ヤツェクの翡翠色の瞳が、じっと私を見つめる。
「私と一緒にここを守ってくれないか。そしてゆくゆくは、夜の国の女王となってほしい」
ヤツェクの表情は、真剣そのものだった。私は即座に返事ができず、言葉を詰まらせる。
確かに、薄暗いこの森は、平和そのものだ。醜い権力争いも、面倒くさい王宮儀礼も存在しない。住民たちは、私を慕ってくれているし、私の命を狙うローラハム公から、このうっそうとした森は守ってくれる。あまり多くは望めないけれど、衣食住も過不足ない。
それに、夜の国の魔王の血をひいている私は、カウカシアで迫害される可能性もある。なぜなら、カウカシアの国民は夜の国の魔物たちをひどく恐れ、軽蔑しているからだ。
そう考えると、ここは私にとって、生きるには申し分のない場所だった。ヤツェクからの提案はこの上なく魅力的な申し出のはずだ。そんなことくらい、十分過ぎるほどわかっている。
(それなのに、……私はカウカシアに帰りたいと、思ってしまう――……)
私はそっと俯いた。
「……ごめんなさい、お父様。この国のことは好きです。でも、少し考えるのに時間をください。カウカシアにも、大事な人たちがいますから」
「ああ、もちろんだ。すぐに回答が欲しいわけではない。じっくり考えるがいい。なんせ、この国には時間だけはたっぷりあるんだ」
そう言って、ヤツェクはゆったりと微笑む。その微笑みは、どこまでも甘やかで見惚れるほどに気高く、寂しそうだった。私は思わず、「やっぱりこの国にずっといます!」と言ってしまいそうになる。
(きっと、ソフィアお母さまはこの優しい笑みに惹かれたんだろうなあ……)
まあ、この魔王様は汚屋敷に住んでいるんだけれど。
ヤツェクとしばらく喋っていると、ふいに、遠くで甲高い鳴き声がした。一瞬で先ほどまでの笑みを消し、剣呑な顔つきになったヤツェクが立ち上がる。遠くを見やった。
「やれやれ、愛娘との時間もおちおちゆっくりとれやしないな。しつこい連中め」
ヤツェクの纏っていた空気がガラッと変わり、先ほどまでの穏やかな表情は見る影もない。私にまとわりついていた風妖精たちが、怯えたように逃げ出す。眠っていたオスカーも、さすがに顔を上げ、不穏な雰囲気に唸り声をあげた。
私は慌てて立ち上がってヤツェクを見上げる。
「どうしたんですか?」
「侵入者だ。ちょうどいい。エリナもいっしょに来るかい?」
「えっ」
「ローラハム公の『裏稼業』とやらの正体を御覧に入れよう」
そう言って、ヤツェクは私の腰あたりを掴むと、前触れもなく一気に跳躍した。





