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82.翡翠色の瞳を持つ男

 私を猛スピードで夜の国へと運んでいたオスカーがようやく足を止めたのは、夜がとっぷり更けたころだった。川辺なのか、水のせせらぎが聞こえる。

 キョロキョロあたりを見回したものの、今どのあたりにいるのかまるで見当もつかない。第一、私はオスカーの背中でほとんど意識を失っていた。だから、道中の記憶もない。

 とにかく、確かなのは、アイゼンテール家の城を出てかなり遠くに来たということだけだ。もしかしたら、オルスティン山を越えたあたりかもしれない。ここまでくれば、間違いなくローラハム公は私を見つけることはできないだろう。

 オスカーはそっと私を地面におろしたものの、私は情けなくその場にへたり込んだ。地面がグラグラ揺れている気がするし、胃の当たりがとんでもなくムカムカする。

 上がった息を整え、川に顔を突っ込んで水を飲んでいたオスカーが、心配そうに黄金の瞳で私を見つめた。


「大丈夫、か?」

「そんなわけないでしょ……! 猛スピードで山を駆け下りて、そのまま谷に落ちるんだもの! 心臓が口から飛び出て死ぬかと思ったわよ……」


 私に責められたオスカーが、眉毛をハの字にした。


「でも、エリナ生きてる」

「もう、そういう問題じゃない! ここからは自分で歩くからね」


 ぷりぷりしながら私はなんとか立ち上がると、当てずっぽうで歩き出す。オスカーはオロオロとした様子で、私の横に並ぶ。


「そんな怖かったか? ごめん……」


 彫刻のような完璧な顔貌に、分かりやすくしょんぼりした表情を浮かべて、オスカーは大きな背中を丸めた。どんなにかっこいい男の人の姿になろうと、オスカーはどことなく犬っぽい雰囲気が漂ってしまうから不思議だ。元の姿は犬だし、当然と言えば当然なのだろうけれど、

 しばらく無言で歩いたものの、あまりに横を歩くオスカーがしゅんとしているので、だんだん気まずくなってきた。


(言い過ぎたかしら……。なんだか私が悪いような気がしてきたわ……)


 しばらく沈黙が続いたものの、ついにきまずさに耐えられなくなった私は、オスカーを見上げる。


「ねえ、オスカー。お願いだから、そんなに落ち込んだ顔をしないで。せっかくオスカーが運んでくれたのに、文句ばっかり言ってごめんね」

「じゃあ、抱っこしてほしいか?」

「それは遠慮させてもらうね! ……って、そんなにがっかりした顔しないでよ!」

「オレ、エリナ落とさないように、頑張ったのに」

「落とさないでいてくれてありがとうね」


 どうしても背負われたくない私は、さりげなく話題を変える。


「思ったんだけど、オスカーってば、すごく喋るのすごく上手になってない?」

「うん。夜の国が、近いからな」

「えっ、そうなの?」

「うん。魔力が満ちている。空気がうまい。力がみなぎる」


 オスカーは鋭い八重歯をにゅっとのぞかせて、嬉しそうに微笑んだ。

 確かに、オルスタにいた時より、オスカーの顔色は格段に良かった。私も、なんとなく足取りが軽い。それに、肌に当たる風か不思議とぽかぽか温かい。


(これって、もしかして空気中に魔力がふくまれてるってことかしら?)


 試しに、薄暗い森の小道を照らすため、魔法を使って火をおこす。すると、いつもの何倍も大きな炎が私の指先で揺らめいた。


「うわあ、すごい!!」


 私は歓声をあげて次々に魔法を放つ。いつもよりも格段に魔法の威力が強い。その上、魔法のコントロールもしやすかった。

 調子に乗って風の魔法で身体を浮かせて遊んでいると、さすがにオスカーがグルル、と不機嫌そうに唸る。


「遊んでる暇ない」

「はぁい」


 私は大人しく頷いて地面に着地する。色々試してみたい気もするけれど、確かに今はそういうことをしている場合ではなかった。

 そうはいっても、深い森の奥のはずなのに、不思議と私の心は落ち着いていた。

 私は思いっきり深呼吸して、目を細める。


(なんか、懐かしいような……?)


 そこは確かに初めてきた場所のはずなのに、どことなく懐かしい。エリナの古い記憶が、ここに来たことがあると告げている。



 深い森の中をしばらく進むと、急にあたりがひらけて明るくなった。そこだけぽっかりと広場のようになっていて、苔のような丸い物体が宙に浮かんで光っている。広場の真ん中には大きな、古い木がどっしりと根を下ろしていた。どこからか、ささやいたりクスクス笑ったりする声がかすかに聞こえる。


「おい、連れてきたぞ」


 オスカーは広場の木に近づくと、上を向いて重々しく言った。

 その途端、強い風が吹き荒れ、木立がザワザワと揺れた。私が驚いてオスカーの腕を掴むと、オスカーは私を安心させるように微笑んでみせた。

 ふいに、目の前の空間が陽炎のように歪み始める。私は、強い魔力を感じてたじろぐ。


「な、なに?」

「大丈夫だ」


 オスカーが落ち着いた様子で答えた。

 歪んだ空間から、なにかがはじけたような音がした。その次の瞬間、目の前に黒いマントを身に纏った長身の男性があらわれる。


「!?」


 私は驚いて目を見開いた。

 突然あらわれた男の人は、これまで見てきたどんな人よりも美しい。長いまつ毛に縁どられた切れ長の目も、まっすぐ通った鼻筋も、程よく甘さのある唇も、完璧な造詣だった。整った顔貌は、若々しい感じもするし、かといって齢を重ねた人ならではの色気もある。長い艶やかな黒髪が、動くたびにさらさらと肩口からこぼれた。

 美しすぎて、禍々しささえ感じる男は、私に少し微笑みかける。


「人間という生き物は、本当にすぐ成長する」


 囁くように低い声で、男の人はそう言うと、滑るように音もなく私の前に移動した。

 長い指が、私の顎をとらえる。


「顔をよく見せておくれ。……ああ、顔かたちはソフィアに似ているが、瞳は私の色なんだね」


 瞬き一つせず、光のない翡翠色の瞳が私をじっと見つめている。確かに、エリナの瞳の色と、目の前の黒髪の美しい紳士は同じ色の瞳をしている。


「あ、あなたは……?」

「おや、察するに事情を詳しく聞いていないな? ソフィアらしい。あの人は、本当に最低限しか話そうとしない悪癖がある」

「お母さまの知り合い?」

「……本当に、何も聞いていないんだな」


 背の高い男は、少し目を見開く。その面持ちには不快そうな色はなく、ただ面白がっている様子だった。

 私は翡翠色の瞳をじっと見つめる。


「あなたは、誰?」

「前置きが長くなってしまったな。我が名はヤツェク。夜の国を統べる魔王にして、君の父親だ」


 そう言って、ヤツェクと名乗った男はゆったりと私に笑いかけた。


「ようこそ、エリナ。そして、お帰り。この夜の国は、君を歓迎する」

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