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81.夜の国へのガイド

 ルルリアやロイから差し入れされた物資のおかげで、いよいよ薄暗い地下の監獄が少々居心地のいいビジネスホテル並みになってきたある日、事態が急転した。

 

「エリナ、起きなさい」


 ある日、いつも通り気持ちよく眠っていた私を、誰かが急に肩あたりを揺すって起こした。私は眼をこすりつつあくびをする。

 私を起こしたのは、ソフィアだった。


「あれ、ソフィアお母さま?」

「緊急事態よ。あと数時間で、ローラハムがブルスターナから帰ってくると連絡があったわ」


 私はソフィアの言葉に硬直する。ソフィアはいつも通り無表情だったものの、声音には若干の焦りがあった。

 

「知っての通り、ローラハムは、あなたを殺そうとしていたわ。おそらく、もうエリナのことは亡き者にしたと考えているでしょうね。だから、あなたが生きていると知れば、次こそあなたを殺そうとするでしょう」

「そうですよね……」


 考えてみれば当然だ。このまま、ぬるま湯につかるようにずっとこの監獄ライフを続けることはできないだろう。

 ソフィアは手に持っていた何かを私に押し付けた。


「これを着て、早く逃げなさい」

「逃げるって、どこに……」

「夜の国よ」


 予想だにしていなかったソフィアの一言に、私は驚く。


「えっ、夜の国!? どうして!?」

「ローラハムは、このカウカシア王国にあなたがいる限り、どんな手をつかってでも必ず見つけ出して殺すでしょう。でも、夜の国なら絶対に見つからない。あなたは、安全になるまで夜の国で身を隠しなさい。夜の国への道は、ガイドが教えてくれるはずよ」

「ガイド?」

「東棟の庭園にまず行きなさい。さあ、急いで」


 ソフィアに急かされて、私はバタバタと渡された服に袖を通した。いつも着ていたようなフワフワのドレスではなく、村人が着るような簡易的で動きやすそうな服だ。ぶ厚いコートと、編み上げのブーツまで用意されている。

 その間に、ソフィアは複雑な呪文を唱え、私の背中を触った。暖かな空気が私を包む。強力な魔法だ。


「こ、これは?」

「これで良し。あなたはもう少しで透明になるわ。あなたはこれから半日、誰からも見つからないはずよ」

「わあ、すごい便利な魔法ですね!」

「あなたもやろうと思えばできるはずよ。私の可愛いエリナは、とても才能があるようだから」


 ソフィアはひんやりとした手で私の前髪をかきあげ、まじまじと私の顔を凝視したあと、ゆっくりと膝をつき、私を抱きしめる。


「……これくらいしかできなくて、ごめんなさい。短い間だったけれど、話し相手になってくれて楽しかったわ。もっと早く、あなたとこうして話す時間をとればよかった。……きっとこれから、寂しくなるわ」


 ソフィアの声は泣くのをこらえているように、震えていた。

 私はおずおずとソフィアの背中に腕を回す。細い体は頼りなく、今にも折れてしまいそうだった。


「……お母さま、ルルリアお姉さまも、ロイお兄さまも、本当にいい人たちです。きっといい話し相手になってくれると思いますよ」

「……でも、私は今まで、あの子たちに母親らしいことは何もしてあげられなかった。いまさら、一緒に過ごしたいなんて……」

「大丈夫ですよ。二人とも、お母さまのこと、すごく尊敬していますから」


 私が微笑むと、ソフィアは表情に乏しい顔に、笑顔らしきものを浮かべた。かなりぎこちないものの、これがソフィアの精いっぱいなのだろう。

 そのうちに、私の身体がみるみる透け始め、ソフィアが私の背中を押す。


「さあ、行きなさい。ここは私に任せて。できるかぎり、時間稼ぎはします」

「はい、お母さま」

「……ヤツェクによろしくね」


 ソフィアはそう呟き、パタン、とドアが閉まった。


(ヤツェク……? なんだか聞いたことがある名前ね)


 私は首を傾げつつ、そっと薄暗い廊下を歩き出す。久しぶりの部屋の外は、身震いするほど寒かった。

 私は足音を立てないように注意しながら、地下をでる。

 階段を上がったところで見張りの兵士とうっかり鉢合わせしてしまったものの、兵士は私に気づかずに私の目の前を通り過ぎていった。そのまま廊下を進んでいくと、数人のメイドや侍従たちとすれ違う。しかし、やはり誰も私に声をかけることはない。どうやら、私は本当に誰からも見えないらしい。


「なんか、変な気分……」


 私はぽつりとつぶやいて、慣れた城を歩いていく。

 ルルリアやロイの部屋につながる大階段の前を通った時、一瞬二人に挨拶をして行くべきかどうか迷った。二人とも、私を心配しているはずだ。


(でも、今の私は誰にも見えないしなぁ……。止めておこうっと)


 声をかけてしまえば、確実に大騒ぎになるのは目に見えていたため、私は後ろ髪を引かれる思いで先へ進む。

 ソフィアからかけてもらった魔法のおかげで、私は堂々と玄関から城の外に出ることができた。久しぶりに陽の光を浴びた私は、少し伸びをして、東棟の庭園に向かう。運動不足が災いしてすでにへとへとだ。

 カウカシア王国の北にあるオルスタは、もう少しで春が来る時期だというのに、まだあちこちに雪が積もっていた。眼を上げれば、オルスティン山脈が雪に包まれているのが見える。


(夜の国は、あの山の向こうか……。ここよりも確実に寒そうだし、これからどうなるんだろう……)


 一抹の不安を抱えた私はため息をつきそうになったものの、すんでのところでこらえた。前途多難なのは確かだけれど、今は悲観しても仕方ない。

 やがて東棟の裏にある庭園にたどり着いた。枯れ木ばかり目立つ庭には誰もおらず、シンとしていた。


「ガイドって誰だろう……」


 庭の片隅で思わずぽつりとつぶやくと、


「オレ、だ」


 と、後ろから答えが返ってきた。低い男の人の声だ。

 振り向くとそこには、黄金の眼を持つモップのような見た目をした仔犬がこちらを見て尻尾を振っていた。


「オスカー!」


 私は思わずオスカーに抱き着く。


「オスカー! 久しぶり! オスカーは私が見えるのね?」

「ウン」

「怪我をしたって聞いたわ。大丈夫だった?」

「ダィジョウ、ブ」

「よかった」


 私は安堵のため息をつく。

 ブルスターナから私を追ってボロボロになりながらオルスタに帰ってきたと聞いたけれど、見たところ、オスカーはかなり元気そうだった。ロイの的確な手当てが功を奏したのだろう。

 オスカーは私の手からぴょん、と飛び降りると、身体をブルリと震わせる。すぐに光り輝く煙がオスカーの身体を包み込み、瞬く間に背の高い褐色の肌をした黄金の眼の男が姿を現した。


「コレカラ、夜ノ国」

「えっ、お母さまのいうガイドって、オスカーのことだったの?」

「ウン」


 そう言って、オスカーは私を大事そうに背負う。


「ソフィアサマ、ェリナヲ、タノムッテ」

「えっ、お母さまのことを知ってるの?」

「アトデ、ハナス。ト、トリアエズ、シュッパツ」


 オスカーは私の返事を待たずに地面を蹴ると、オルスティン山の方向へまっすぐ駆けていく。どうやら、私を目的地まで運んでくれるようだった。

 あっという間に、見慣れた城が遠くなっていく。


(……きっと、ゾーイやミミィが心配するだろうな)


 胸の内がキリキリと痛んだ。

 安全になるまで夜の国に身をひそめるようソフィアは私に言ったけれど、果たしてそんな日はくるのだろうか。

 それに、婚約者のシルヴァのことも引っ掛かる。あの心配性で過保護な婚約者は、誰よりも私を心配しているに違いなかった。なんとかして私が無事であると伝えたいけれど、今の状況ではそれも難しい。

 名残惜しくなってアイゼンテール家の城の方を振り返ると、城の上空に、夕日に輝く立派な竜が羽ばたいているのが見えた。ローラハム公がブルスターナから帰還したのだ。


(あの楽しい思い出の詰まったお城はもう、安全な居場所ではなくなってしまったんだわ……)


 親切なメイドたちや優しい料理人たち、姉のルルリアや兄のロイの顔が、胸の中に浮かんでは消えていく。

 もう二度と会えないかもしれない、と一瞬センチメンタルな気持ちになりかけた。

 しかし、そんな気分はすぐにどこかに飛んでいった。


「えっ、待って、オスカー! 前を見て! 谷! 谷があるわよ!!」

「シッテル」

「止まって、とまっ」


 オスカーが私を抱いたまま、とんでもなく深い谷を飛び下りた。心臓がふわりと浮く感覚がして、私たちは下へ下へどんどん落ちていく。


「えっ、待って、オスカー待って!! 私、ジェットコースターは無理なの!! 待ってぇええええ!!」


 私の情けない悲鳴が、オルスティン山にこだました。

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