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番外編 氷の魔女の母心

一時的にエリナの母、ソフィア・アイゼンテールの視点になります

 私、ソフィア・アイゼンテールは、時を戻した。

 眼を開けると、薄暗く底冷えする部屋が消え、懐かしい場所に私は立っている。窓から入ってくる西日と、埃っぽい本の匂い。得体の知れない植物は悲鳴を上げている。

 ここは、魔法を勉強する場所。ブルスターナの聖ジョイラス学園の、実験棟だ。

 そして、今の私は15歳のソフィア・ウィルシャー。稀代の秀才とたたえられる、楽と哀の魔法を使う新米の魔法使いだ。

 私は図書館から借りてきたばかりのぶ厚い本を抱えたまま、机にゆったりと座る人物に微笑んだ。


『グラヴィス先生、こんにちは』

『あら、いらっしゃい、ソフィア。なんだか疲れた顔をしているけど、お茶でもいかが? 魔力の回復を早めるには、ニールの葉のお茶が一番効くわよ』

『いえ、早く魔法のレッスンを始めましょう。今日はどんな魔法の考証をしますか?』

『今日は、ハヴォイの魔導書の320ページからやりましょう。この嘘っぱちばっかり書いてあるポンコツ魔導書の呪文が本当に発動するのか、この偉大なる大魔法使いグラヴィスが考証してあげなくてはね』


 グラヴィスが、期待と信頼が入り混じった笑みを私に向ける。きれいな蜂蜜色の瞳がキラキラ輝いた。豊かな赤毛をポニーテールにした魔法講師の彼女は、私の才能を高く評価してくれて、時々特別にワンツーマンのレッスンをしてくれたものだ。

 私は、抱えていた本を埃っぽい机の上に置くと、大きく頷いた。


『はい、先生』

『ソフィア、いい加減私のことはグラヴィスちゃんとお呼び!』

『でも、先生は先生です。尊敬している人に対して、親しげに話しかけることなんてできませんもの』


 私は注意深く答える。何十回、いや、何百回も繰り返したこの場面のセリフを。

 グラヴィスちゃんは、私の言葉にまんざらでもない様子で微笑んだ。


『ソフィアにそう言われると悪い気がしないから不思議ね。まったく、早くこの大魔女グラヴィスの弟子になっちゃいなさいよ。夜の国なんて研究してないで』

『夜の国の魔法も決して侮れませんよ』

『もう、つれない子! あなたは才能があるから、すぐに私の一番弟子になれるのに。今からでも遅くないから、私の研究所に入らない?』

『そう言っていただけるのは光栄です。ですが、早く私は自分の研究所を持って、魔法研究に貢献するのが夢なのです』

 

 記憶にある通りそう答えたけれど、私は内心深いため息をついた。


(ソフィア・ウィルシャーは結局、この夢は叶えられない)


 この時の無邪気な私に戻って言ってやりたい。『あなたはこれから先、親に決められた婚約者と無理やり結婚させられる。今やっているすべての貴女の魔法研究は全て無駄になるのよ』、と。

 だけど、一度でも言葉をたがえてしまえば、私はこの幸せな夢を見ることができなくなってしまう。

 なぜなら、この時を戻す魔法には「一度変えてしまった過去は、もう戻せない」という、制約があるからだ。

 だから、私はこの幸せな夢を見続けるために、同じ台詞をなぞり続けるしかない。一度でも気まぐれを起こして過去を変えてしまうようなことがあれば、この幸せな夢は泡のように消えてしまうだろう。

 私はグラヴィスの指示通り、ハヴォイの魔導書の研究を始めた。

 失敗しないように呪文を唱えると、空中に金色の光が飛び散る。胸の鼓動が高鳴った。


(ああ、楽しい)


 唱える呪文を魔導書のものから少し変えると、光は煙をあげながら緑色に変った。

 グラヴィスは私が魔法を使うたびに称賛の声をあげる。私は頬が赤らむのを感じた。

 現実ではもう決して味わうことのできない、高揚感が胸を躍らす。自分の魔法を探究する、もう戻ってこない過ぎ去りし日々。

 時間を操る魔法は、繰り返し同じ日々を体験するための魔法ではない。第一、この魔法は魔力を使いすぎる。一度この魔法を使うと、半日は動けなくなってしまうのだ。

 だけど、私は過去を何度も巻き戻す。

 私のやっていることを、意味のない愚かしいことだと人は笑うだろう。それでも、私は過去に閉じこもり、同じ夢を何度も見てしまう。

 グラヴィスが私の魔法を見て、思いついたように別の魔導書を開く。


『これは、呪文の再考証が必要になるわね。時間がかかりそう』

『時間がかかっても、きちんと考証をしていきましょう。過去の遺産は未来に引き継がなければいけません』


 私の言葉に、グラヴィスは花が咲くような笑顔で同意する。

 この時の私は愚かにも「立派な魔法研究者になる」という未来を信じて疑わなかった。

 グラヴィスとの魔法の試行錯誤の後、結局魔導書は呪文のスペルが間違っているのだろう、という結論に至る。


『まったく、このハヴォイってヤツ、スペルを間違いなんて基礎的なところがなってないわ。正しい魔法は正しいメモを取るところから始めないといけないのに――……って、あら』


 一瞬考えこむ素振りをみせたグラヴィスが、なにかに気づいてにやりと笑う。


『ソフィア、今日もストーカー君が来たわよ。本当に懲りないヤツね』


 そう言うと、グラヴィスは私の後ろを指さした。振り向くと、案の定、そこには金髪を乱してこちらを熱っぽい視線を送るストーカー君――もとい、未来の配偶者であるローラハム・アイゼンテールが立っていた。


『や、やあ、ソフィア! 奇遇だな!』


 ローラハムは、やたらと甲高い声で私に挨拶する。

 この時のローラハムは、ぶ厚い瓶底眼鏡をかけていて、しょっちゅう私に話しかけてくる私の一つ上の先輩だった。じきに、私が飛び級して同じ学年になるはずだ。

 美術史の授業で知り合ったローラハムは、哀の魔法使いらしいのだけれど、いかんせん魔術具に頼ってばかりで、魔力はあまり強いとは言えなかった。

 もちろん、この時の私は、近い将来このローラハム・アイゼンテールというパッとしない男と無理やり結婚させられるなんて、つゆほども思っていない。

 私は急に現れたローラハムを忌々しげに睨んだけれど、当のローラハムは全く動じず、ニコニコと微笑みながら口を開く。


『あ、あの、この後、時間がないかな? ちょっと見てほしいものがあるんだ。新しい魔術具なんだけどね。風妖精の結晶を使うと、遠いところの声が聞こえるっていう発明なんだ――……』


 ローラハムの言葉を最後まで聞かず、私は小さく舌打ちをして魔法を解く。

 眼を開けると、そこはいつもの薄暗い部屋だった。窓の外は吹雪いている。


「ハヴォイの魔導書の授業は、最後にローラハムが出てくるから駄目ね」


 ため息交じりにつぶやくと、私は長椅子に身体を横たえる。時間を操る魔法は魔力をすさまじく消費するので、しばらく休む必要があった。

 私はぼんやりと天井を見上げる。なんとなく、こうやってぼんやりと天井を見上げるのは久しぶりの気がする。


(そういえば、こうやって時を戻す魔法を使ったのは久しぶり……)


 前回過去に戻ったのは、ちょうど三週間前だ。それまではほぼ毎日過去に戻っていたというのに、ここのところ、夫であるローラハムに何故だか地下の独房に入れられた娘のエリナの面倒を見ているため、過去に戻り、思い出に浸る余裕がなかったのだ。

 元々、エリナが閉じ込められようがなんだろうが、私は静観するつもりでいた。

 私にできることはないと思い込んでいた。ローラハムの意向で、子供たちは生まれてすぐ取り上げられ、私なんかよりずっと優秀な乳母たちに育てられてきた。ローラハムに子供たちを返してほしいと訴えると、私は子供を育てるより、アイゼンテール家の嫡子を産むのが先決だと宣言され、ほぼ軟禁された。欲しいものは全て与えられたけれど、子供は決して戻ってこなかった。

 結局、私は子供たちに母親らしいことはなにもしてあげられなかった。

 だから、エリナが地下牢に入れられたと聞いても、いまさら私がしゃしゃり出るのはおかしいだろうと思い込んでいたのだ。それに、配偶者であるローラハムは、ずっと私の行動を監視していた。

 しかし、ロイとルルリアが部屋に押しかけてきて、エリナを助けてほしいと訴えた。ルルリアにいたっては、涙ながらに「エリナが死んでしまいますわ」と訴えた。

 我が子が涙を流しているのを目の当たりにして、私はやっと気づいた。

 私は、静観している場合ではなかった。


(私にも、できることがあるかもしれない……)


 私はエリナの介抱をしようと決め、ローラハムの監視をくぐり抜けて用心深くエリナの眠る地下牢に向かった。

 ローラハムに何らかの魔法をかけられたエリナは、一向に目を覚まさず、そのため、一通りの世話をする羽目になったのだ。しかし、エリナは身体が弱いと常々エリナの乳母から聞かされていたし、放っておけば衰弱死するのは目に見えていた。

 私はできる限りの魔法を使ってエリナを介抱した。そして、エリナは再び目覚めた。

 

 目を覚ましたエリナは、物おじしない、明るい娘だった。

 エリナはその出自ゆえにローラハムからあからさまに冷遇されていたとメイドたちから噂では聞いていたものの、その噂は嘘なのではないかと真剣に疑ってしまったほどだ。


「……私、あの娘が私のことを嫌いなんじゃないかと思っていたわ。恨まれても、仕方ないことをしたもの」


 私はぽつりと独り言をいう。

 でも、予想は外れ、エリナは私を嫌っている様子はなかった。

 エリナに時々気まぐれに魔法を教えてやると、信じられないほどすぐに魔法を自分のものにした。加えて、好奇心は旺盛で、知識に対して貪欲だ。

 私と瓜二つの容姿をしていることもあって、エリナと喋っていると、まるで過去の私を会話しているようだった。エリナも、最初は警戒していたものの、私に徐々に懐いている気がしないでもない。

 そんなこんなで、私は、気づけばエリナに会うのを楽しみにしていた。


「ああ、私ったら、駄目ね。現実いまを楽しいと感じてしまうなんて。……いずれにせよ、このままあの子をこの城に留まらせてはいけないのに」


 額に手をあてて、ふう、とため息をつく。

 魔力が回復しなければ動けないものの、なんとなく、早くこの部屋を飛び出して、エリナに会いたい気分だった。第一、今日魔法で過去に戻ったのも、ハヴォイの魔導書のおさらいをしておきたかったからだ。

 今日はエリナに、ハヴォイの魔導書の魔法を教えるつもりでいた。ハヴォイの魔法は、なにかと応用が効くので、知っていて損はないはずだ。

 いずれエリナがこの城を出て行っても大丈夫なように、私の持ちうるできる限りの知識を与えるつもりでいた。

 今はローラハムがこの城を留守にしているからこうやって自由にエリナと会えるものの、今後はどうなるか分からない。だからこそ、エリナには魔法が必要だった。生き抜くための魔法が。


「この城から、エリナがいなくなる……」


 おそらくあの子なら、大丈夫だろう。どこにいても、元気でやっていける気がする。

 それなのに、一瞬、胸の内にどうしようもない寂しさが渦巻いた。私はそれを無理やり無視して、手を叩いてメイドを呼んだ。

 足音を立てずに、長年仕えてくれているメイドがあらわれる。


「お呼びですか?」

「ええ。今すぐニールの葉でお茶を淹れてちょうだい」

「ニールの葉ですか? あのお茶、かなり苦いと聞いておりますが……」

「魔力を早く回復させるには、ニールの葉のお茶が一番なの」


 一瞬怪訝そうな顔をしたメイドは、何か察したようにポン、と手を打つ。


「まあ、ソフィア様は、エリナお嬢様に早く会いたいんですのね! 承知いたしました。すぐにでも用意いたします。それにしても、ずいぶん母心がつきましたね」

「……母心? そうなのかしら」

「ええ、とてもいいことですよ」

「……そう」


 私は少し俯く。

 今まで子供たちに何もしてあげられなかった私が、やっと母親らしく振舞えたらしい。


「良かった」


 私はぽつりとつぶやいた。

 胸の中が少し熱くなり、目頭がツンとする。凍ったように動かなかった口元が少しだけ緩んだ気がした。

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