5.晩餐会のあとで
(はーあ、疲れた)
乳母のゾーイは食堂から自室に帰ってくるまで押し黙ってしまって、私を自室に通すなり、すぐに戻ります、とだけ告げて、足早にどこかに去って行ってしまった。
ゾーイがいない代わりに、自室で待機していた赤茶色の髪のメイドが手早く私の複雑なドレスを脱がせ、ささっと良い匂いのするホットタオルで身体を拭く。なんとなく恥ずかしかったが、されるがままになっていると、そのまま手早く長袖のネグリジェに着替えさせられた。着せ替え人形になった気分。
「着替えさせてくれてありがとう」
すべて終わったころにそう声をかけると、驚いたように赤茶色の髪のメイドはピタリと動きを止めた。そして、ギギギ、とぎこちない動きでこちらを見る。キレイな薄茶色の大きな猫のような目。
「お嬢様が喋ったァ!?」
「えっ」
「お嬢様が! 私に! ありがとう、って!」
キーともワーともつかないような奇声を発すると、メイドはそのまま私のドレスやら下着やらを抱えて一目散に部屋から走り去ってしまった。
呆気にとられていると、いきなりガチャリとドアが開く。先ほどのメイドの顔がのぞいた。
「あっ、お嬢様! 言い忘れてました! お休みなさいませ!」
「えっ……。ええ、お休み」
「キャーーーーーーーッ! かわいい声!」
パタン、とドアを閉めると、また奇声を発しながら赤茶色の髪のメイドが廊下を走っていく。うーん、嫌われてはいないようだけど。
(あの子、この城でこんなに騒いで、怒られたりしないのかしら)
若干ハラハラしつつ、私はくずれ落ちるようにふかふかのベッドに飛び込んだ。思わず安心して深いため息が漏れる。落ち着いたとたんに、情けなさが胸いっぱいに広がっていった。
(私が生きてる世界は、たぶん『エタ☆ラブ』の世界で間違いないはずだけど、思いついた弾みに声に出ちゃったのはまずかったわね)
私はどうやらあの晩餐会のルールを破ってしまったらしい。アイゼンテール家の夕餉では「子供は一言も発してはいけない」という暗黙のルールがあったようなのだ。結果から言えば、うっかり私が独り言を発したせいで、晩餐会で私は父親であるローラハム公に叱責を受けてしまった。
(家族の夕ご飯ってもっとこう、和気あいあいでやるもんでしょ)
結局あの夕餉で、アイゼンテール家の面々は、ほとんど会話を交わすこともなく終了した。家族同士の食事というより、会合か何かに限りなく近い。
少なくとも私がいた世界の家族とは、家族で集まれば大抵騒がしくなるものだった。元の世界を思い出して、鼻の奥がツンとする。ここ数年、仕事が忙しくて実家に帰ることがほとんどなかったのだ。今思えば、とんだ親不孝ものだ。
早くこの世界を救わなければ、帰ることはできない。
(早く、帰りたい)
私がこの世界を救うなんて、まったく想像もつかないけれど、とにかく今はできることをやるしかないのだ。死にたくないし。
もう一度ため息をつきたくなったが、ドアをノックする音がして私はあわててベッドに腰を下ろす。さすがにフワフワの布団にうずもれてゴロゴロしている姿は見せられない。
「ゾーイです。入りますね」
ゾーイがそっとドアを開け、部屋に入ってくる。ゾーイは先ほどの準正装の恰好から、地味な色のメイド服に戻っていた。手にはお盆と、その上に大きなマグカップが乗っている。
「それはなあに?」
「ホットミルクです。きっと気分が落ち着きますわ」
そっと暖かいマグカップを私に渡すと、ゾーイは座りますね、と断ってそっと私の隣に座った。
私はおとなしく湯気がたつ温かい飲み物に口をつける。温かい牛乳の味がする。それから、少し香辛料や甘味料が入っているのかもしれない。飲んですぐはほんのり甘いのに、後味が辛い。舌が心地よくぴりぴりとした。胃のあたりからほわほわと身体中が温まる。
私はホッと吐息をついた。
「おいしい」
「まあ、それは良かったです。でも、ミルクでおひげができていますよ」
ゾーイはニコニコと微笑んで私の口の周りの牛乳を指でなぞるようにふいてくれた。ゾーイは私が大失敗をしたのに、こんなにも優しい。私はふと、罪悪感に駆られて泣きそうになる。
「ゾーイ、あの……ごめんなさい!夕ご飯の時、私が急に独り言を言ってしまったばっかりに、ローラハム公の機嫌を損ねてしまって、あなたが喋る機会を奪ってしまったわ。もしあなたが上手に報告できれば、もしかしたら恩賞をもらえたかもしれないのに」
「まあ、エリナ様ったら、そんな……」
「本当に、ごめんなさい……」
「謝らなくても良いのです。なにもエリナ様は悪くありませんからね」
「でも、でも……」
「いつものことじゃないですか。先に話していたロイ様とルルリア様の乳母二人が、結託してエリナ様の報告のお時間を削ったのです。あの長々としたお話が悪いのですよ。あの二人、同じようなことを何度も違う言い回しで繰り返してただけですわ。聞いていてあくびが出そうでしたもの」
まったく、と腕を組むしぐさをして、ゾーイはいたずらっぽく微笑んでみせる。
「エリナ様が気に病む必要はないのです。ローラハム公には私から改めてエリナ様の近状をお手紙で書きますからね」
「うん……」
「そんなことより、今日はたくさん夕ご飯を召し上がられて、私はびっくりしましたよ。がんばりましたね」
(えっ、あれでたくさん食べてたの!?)
普段の私ならあの十倍くらい食べるし、なんなら今、リラックスしてきて若干おなかがすいてきたほどだ。
でも、この痩せこけた薄い身体も、この身体の持ち主が極端に小食だというならもっともな話だった。
私は思わず口を開く。
「ねえ、ゾーイ。こんなに静かな夕ご飯が普通なの?」
「えっ」
「家族の夕ご飯って、もっとお話ししたり、笑いあったりするものではないの?」
一瞬、私たちの間に気まずい沈黙がおりた。ゾーイは優しげな顔を曇らせ、それから優しく私を抱きしめる。
「そうですね。このアイゼンテール家の夕ご飯は、一般的なお家とは少し違っているかもしれません。でも、格式と伝統のあるお家ですから、どうしてもしかたないのですよ。ローラハム公もお忙しくていらっしゃいますし……。実は今夜も御夕食の後に来訪があって、遅くにはもう首都に出立されるようです」
「でも、独り言を言っただけで、あんなに私にキツい言い方しなくていいじゃない」
「エリナ様……」
「私、みんなの前でローラハム公にあんなに言われて、怖かった……」
「……ええ、怖かったですよね。誰だってあのローラハム公に叱責されれば震え上がりますわ。普通の貴族たちであれば、ローラハム公が一睨みすれば意見をコロっと変えてしまうほど、一目置かれているのですし……。エリナ様はよく耐えましたね。あまりこういうことを言ってはいけないけれど、今日の大公のエリナ様に対するお叱りは少し厳しすぎましたわ。さぞかし辛かったと思います」
優しくゾーイに思いを受け止めてもらい、私は自分がやっと辛かったのだ、と気づいた。思いを一気に吐き出して、安心した途端、ポロポロと泣き出してしまう。
(そうだ、私は不安だったんだ……)
慣れない世界でいきなりよくわからない奇妙な晩餐会に参加し、いきなりいかついオジサンに怒られ、周りは敵だらけだということに気づいてしまった。
一度涙が出てしまうとなかなかひっこまず、私はゾーイの腕の中で子供の用に泣きじゃくった。中身の私はそこそこ大人だけど、間違いなく身体は子供なんだから、今日くらいこの姿に甘えよう。
嫌がるそぶりは見せず、優しいゾーイは私の頭を撫ぜ続けてくれた。
「思いっきり泣いてもいいんですよ。ここでは誰もエリナ様が泣いても責めません。私は、どんな時でもエリナ様の味方ですからね」
「本当に?」
「ええ、お約束します。メイドのミミィだって、エリナ様のこと大好きですからね」
私はしゃくりをあげながら頷く。
(ああ、あの奇声を上げた赤茶色の髪のメイドさんはミミィっていうのね、たぶん)
きっとミミィにはまた会うだろう。今日はいきなりしゃべりかけてびっくりさせてしまったかもしれないけれど、次会った時に落ち着いて話してみよう。ミミィが落ち着いていてくれるといいけれど。
ふかふかのベッドの上でしばらくゾーイに甘えていると、たくさん泣いたからか私はかなり瞼が重いことに気づく。
「私、眠いかも……」
「ええ、そろそろ寝る時間ですから。ホットミルクも飲みましたし、このまま寝てしまいましょうね」
「ありがとう、ゾーイ。明日はゾーイの分のホットミルクも持ってきてね。私だけ飲むのではなくて、二人で飲みたいわ」
「ええ、わかりましたわ。明日は二人で飲みましょうね」
ゾーイに促され、ふかふかの布団にもぐると、すぐに眠気はやってきて、私はすぐにうとうとし始める。昼寝もしたはずなのに、私は疲れ果てていることに気付く。よっぽどこの身体は疲れやすいのかもしれない。
「おやすみなさい、優しい私のお嬢様」
どこか遠いところで、優しくゾーイが私につぶやくのが聞こえて、今度こそ私は深い夢の世界に落ちていった。