35.最大のピンチ
「きれいな村……」
デイ男爵から借りた穏やかな性格の鹿毛の牝馬に乗り、私は小さく呟いた。秋の爽やかな風を頬に感じる。
デイ男爵の領土、エナは美しい領土だった。こじんまりとした西洋風の素朴な建物に、小さくとも色とりどりの品物をとりあつかう市場、そして美しい森と川。寒々としたオルスタの平野に見慣れてしまった私には、どの風景を切り取っても新鮮に思える。
「お嬢様、ようこそエナへ!」
「何もない場所ですが、ゆっくりしていってくださいね」
すれ違う住民もみな気さくに話しかけてくる。これはおそらく、この一帯を治めるデイ男爵が住民たちに近しい存在であることも理由の一つだろう。身近に貴族がいるからこそ、このように私たちにも親しげに声をかけてくれるのだ。
青毛の立派な体格の馬に乗り、先を走っていたシルヴァがこちらを見て大きく手を振ると、Uターンしてこちらに戻ってきた。
「ここからの道は森に出るようだ。いったん馬に水を飲ませておこう」
「はい」
私が頷くと、シルヴァはひらりと馬から下りて私が馬から降りるのに手をかしてくれた。情けないことに、乗馬に不慣れな私はまだ一人で馬から乗り降りすることができないのだ。私が無事に地面に足をおろすと、シルヴァが二匹の馬を川岸まで連れて行く。二匹の馬は頸をそろえて川岸の水を飲み始めた。先日の大雨のせいか、水は増水し、濁っている。足場がかなり悪くなっていたため、私はシルヴァの後を追って慎重に進む。
「乗り降りに難があるとはいえ、御者なしでそこまで馬を繰れるとは大したものだ。しかし、なんで乗馬を始めようと思ったんだ?」
馬の背を撫でていたシルヴァが不意に追いついた私に質問する。
「馬に乗れたほうが、何かと便利かと思いまして」
「まあ、移動には便利だよな」
シルヴァの含みのある一言に私は黙る。本来の貴族令嬢であれば、馬車で移動すれば良いため、乗馬のスキルは必要ない。
「……あの、乗馬なんて貴族令嬢らしからぬ趣味だとは常々思っています。本来は、お姉さまのように、刺繍とかダンスとかやるべきだとは思われるかもしれませんが、乗馬もなかなか役に立つと思うんです。現にこうやって効率的に領土を視察できてますし……」
シルヴァが私の言い訳がましい返答に肩をすくめて笑う。
「大丈夫。ハナっから俺の婚約者殿にお嬢様らしさなんて求めてないさ。だって、自分の婚約パーティーも自分で何とかしちゃう子なんだから」
クックック、とシルヴァは笑う。どうやら私はからかわれたらしいと気づいて、思いっきりむくれてしまう。
「ほーら、そんな拗ねた顔をするな」
「拗ねてません!」
どうもこの年上の婚約者と一緒にいると調子が狂う。これなら最初に出会った時のように猫を被ってもらっていたほうがまだマシだ。
馬たちが水を十分飲んだらしく、顔を上げてこちらを見る。シルヴァは再び私が馬に乗るのを手伝ってくれた。
「このまままっすぐ進めば、例の崩壊した橋に突き当たるようだが、引き返すか?」
「いえ、邪魔にならないのであれば、ぜひ見てみたいです」
「俺の婚約者殿も物好きだなあ。どうせ橋がグシャグシャになってるだけだぞ……」
シルヴァは呆れた顔をした。私はそれを無視して馬を走らせ始める。
エナの森を通る道はきちんと整備され、馬で走りやすいように舗装されていた。おそらく、重い木材を馬車で運ぶためだろう。チラチラと木漏れ日になって振ってくる秋の日差しが心地良い。
しばらく走っていると、じきに人の声が聞こえ始めた。
「ああ、ここね……」
崖に沿った緩いカーブを抜けると、大きな川に面した谷と一部が崩壊した橋に突き当たった。川は大きくカーブしていて、谷の下では濁流が岩々にあたってゴウゴウと轟音をたてている。
肝心の崩壊した橋は途中まではしっかり形を残していた。頑丈そうな石造りだ。しかし、川の半分からこちら側の岸までは、見るも無残に根こそぎなくなっている。あまりの濁流の強さに耐えきれなくなったのだろう。
数人の男の人たちが、半壊した橋を前に、難しい顔で腕を組んでいた。
「あ、領主様のお客様じゃないですか!」
私たちに気づいた一人の男の人が私ににこやかに声をかけた。その声で、腕を組んで川向いを睨んでいたデイ男爵も振り向く。馬上から挨拶することはマナーに反するため、私達は馬からおりて手綱を適当な場所にくくると、挨拶を交わした。
男爵は笑顔でこちらに近づいてくる。
「やあやあ、我が領土、エナはどうだ? 何もないだろ!」
「いえ、素晴らしいですわ。住民の皆さんも優しいですし、景色もきれいです」
「いやあ、そういってもらえると、何もないと自負している我が領土ながら、存外に誇らしいな」
わはは、と闊達に笑う男爵だったが、笑顔に若干暗い影があった。
(当たり前よね。こんなに橋がぐちゃぐちゃになってるんだし)
橋の向こうには、今まで通ってきた道と同じように舗装された道が見えた。つまり、この橋は川向うの森とこちらの森をつなぐ唯一の橋だったのだ。
「あの川向いの道に行くには、この橋を渡らないといけないんですよね」
「ああ、そうなんだよ。あの道に行くには、この崩壊した橋を渡る必要があったんだが、ここまでやられてしまうと、いやはやなんとも……」
「修復までに時間がかかりますか?」
「……半分橋が残っていることは僥倖だったが、それでも完全に修復できるまで五年、いや、十年になるかもしれないな。もしかしたら息子の代までの大事業になるやもしれん」
私はデイ男爵の言葉を聞いて驚いたが、よくよく考えてみれば当然のことだった。この世界にはトラックやクレーン車の類はないのだ。再び橋を造るには、途方もない労力がかかるだろう。
「この橋は先々代が苦労してかけた橋と聞いているが、とにかく長らく我が領土の重要な場所だった。まさか、こんなにも簡単に崩落するとはなぁ。あちらの山に行けないのはかなりの痛手だ。ただでさえ少ないうちの領土の収入が、山一つ分また減っちまう」
デイ男爵は心底困ったようにこめかみをおさえた。林業を生業にしているこの領土にとって、山は貴重な財産源だ。その山に5年も10年も行けないとなると、収入の損失も莫大だろう。その上橋の建築費用もかかってくるのだから、デイ男爵の当惑も当たり前のように思えた。
そのうち、住民の一人に呼ばれた男爵は軽く非礼を詫びて、足早に去っていく。
「これで満足したか?」
隣に立っていたシルヴァが片眉を上げて、小さな声で聞いてきた。私は頭を振る。
「せっかくだから、お邪魔しない程度にもう少し見ておきたいです。もしかしたら、私に何か手伝えることがあるかもしれないですし」
「手伝えること、ね。まあ、くれぐれも危ないことはしてくれるなよ」
そういうと、シルヴァは谷底をのぞこうとした私の首根っこを掴む。
「きゃっ、何するんですか!」
「さっそくこれだから目が離せない。今は足元がぬかるんでいるし、足を滑らせやすい。谷底の川が急に増水して流される可能性もあるから、命が大事なら、谷側は歩かないでくれ」
そう言うと、シルヴァは私を道の内側に追いやる。
「シルヴァ様、ちょっと私に対して過保護ですよ。足元にも気を付けていますし、谷底からここまで高さもありますから、鉄砲水もここまでくることはないと思います」
「そりゃ、大事な婚約者殿だから過保護になるのも当然だ、小さなレディ」
シルヴァはそう言うと、少し自嘲するような笑みを浮かべる。
「……いったんはその命、失いそうになったんだ。過保護になるのも当然さ」
「春に私が倒れたことですか? あれはシルヴァ様のせいではありません。私が体調管理を怠ったからです」
「まあ、体調不良に気づけなかった俺にも多少責はある」
「そんなことはないで……」
す、とそう言いかけて、私は急に黙る。手足が急に冷え、ぞっとするような嫌な予感がした。
(え、何?)
私は周りをぐるりと見渡す。嫌な予感に満たされた頭がズキズキと痛いほどだった。
(……崖のほうから嫌な感じがするような)
私はさっと振り返った。
緩やかで苔むした崖からは絶え間なく水が流れ出し、地が震えるような異様な音する。何かが擦れ合わさるような異臭も立ち込め始めていた。手綱を枝にかけている馬たちが落ち着かない様子で嘶いている。
(――もしかして、)
「……土砂崩れ!」
「……!?」
「これ、理科の授業で習ったわ! 土砂崩れの前触れよ! みんな、今すぐ崖から離れて!」
「はあ!? リカってなんだ?」
「とにかく崖から離れないと! みんな、土砂崩れが起こります! 崖から離れて!」
私の甲高い声に、少し離れていた場所にいたデイ男爵がいち早く気づくと、すぐに住民たちに逃げるように指示する。住民たちは焦った様子でほうほうの体で逃げ出した。シルヴァも私の手をつかむ。
「俺たちも……」
「ダメ、馬を逃がさなきゃ!」
「馬鹿野郎! そんな時間はない!」
「見殺しになんかできない! 大丈夫です、後から追いかけます!」
私はシルヴァの手を振り切って馬たちに走り寄った。鹿毛の馬が不安そうに私の顔に鼻面を寄せてくる。
「大丈夫、大丈夫。今助けるから」
焦る気持ちで手綱を外そうとするが、なかなかうまくいかない。ポロポロと崖の上から雨のように小石が降って私の体中に当たった。地鳴りの音が耳にうるさいほどだ。時間がないのは分かっていた。
「何が大丈夫だ! 全く、俺の婚約者殿はよっぽど死にたいらしい!」
横からがっしりとした手が伸びてきて、馬の手綱を難なく外す。シルヴァだ。
「シルヴァ様!」
「残念だが馬に乗っている暇はないな。……お前たちは先に行け!」
二匹の馬はシルヴァの号令で駆けだした。あっという間に二匹の馬は道を駆け抜け、崖から遠ざかっていく。
「逃げましょう」
「言われなくても、そうするつもりだ!」
そう言って、シルヴァは私の腕をつかむと走り出す。先ほどまで馬をつないでいた場所があっという間に土砂に埋もれたのが見えた。繋いだ手も見えないほどの土煙があたりに充満する。
ふいに、足元にあった何かにつまずいて転ぶ。どうやら崖の上から落ちてきた岩石につまずいたらしい。はずみで、シルヴァとつないでいた手が離れる。
「私を置いて逃げてください!」
「馬鹿言うな!」
シルヴァが私に駆け寄る。
「逃げて!」
私の絶叫を無視して、シルヴァはかばうようにして私を抱き寄せた。
シルヴァの肩越しに、もうもうとした土砂が見え、轟音が、すぐそこまで迫っていた。
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