9.乳母の気持ち
今回はエリナの乳母、ゾーイ目線の話になります。
私、ゾーイ・ガナダはいつも母なる彗星に大事な人たちの幸福を願っております。
夫のジョージ、成人した優しい2人の子供たち、そして私の大事なお嬢様、エリナ・アイゼンテール様に――……
「どうか、末永い健康と一番の幸福を」
特にここ数年は私のお嬢様、エリナ様の幸福ばかり願っている気がします。エリナ様の乳母としてアイゼンテール家に仕えてこの10年、私は私が仕えるかわいそうなお嬢様にずっと心を痛めてきたのです。
アイゼンテール家の末娘でありながら、エリナ様は冷遇されていました。
仕事に没入するあまりに家族のことを顧みない、領主の父親。
子供には全く関心がなく、自室に閉じこもってばかりの母親。
両親のエリナ様への態度を見て、前にならえで末の妹に冷たく当たる兄と姉。
エリナ様には、『とある事情』があるとはいえ、この処遇はあまりに酷だと私はずっと訴えてまいりました。しかし、私の言葉はついに聞き入れてもらえず、幼いエリナ様はだんだんと心を閉ざし、ついに与えられた部屋の中だけで息を殺すように生活するようになってしまいました。
与えられた部屋は他のアイゼンテール家の方々の部屋からは遠く、エリナ様はめったに人前に出ることはないので、アイゼンテール家は2人兄妹だと勘違いされている方も多くいらっしゃるようでした。
賢いエリナ様は自分の境遇をきちんと理解し、抗うことなく受け入れました。子供らしい笑顔は消え、年相応の子供よりもうんと小さくて細く、儚い、かわいそうなお嬢様。
食事をとりたがらないエリナ様に、私は手を変え品を変え、何か召し上がっていただけるように、食事ごとにとにかくたくさんのお膳を出しました。少しでも食欲がでれば、と祈るような気持ちで遠い台所とエリナ様の部屋を何度も往復し、毎日の食事を揃えました。
やがてエリナ様は人との交流も厭うようになり、家庭教師の方の講義と食事以外は自室から人払いをなさるようになりました。
部屋の中ではいつも人形のように座っているか、ベッドの上でお休みになっているかどちらかで、ただ無為に時間が過ぎるのを待つのみのようでした。
この城の外にも広がっている世界があるということを知ってほしくて、アイゼンテール家の広い図書館から、できるだけ子供向けの本を取り寄せ、繰り返し読み聞かせをしました。エリナ様は無反応で、まるで、精巧な人形のように大人しく私の横に座っておられました。
「かわいそうなエリナ・アイゼンテール様にどうか、星々より祝福を与え下さい」
私は星々が見えないほどどんよりと吹雪く空に、祈るのです。エリナ様の幸福を。
今日は数年に一度の聖なる夜だというのに、相変わらずこの城は静かでした。
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と、いうのは数週間前の話。
聖なる夜の明けの日、私は驚きの光景を目にしました。
「ゾーイ、少し教えてほしいことがあるのだけど、良いかしら」
なんと、お昼寝から目覚めたエリナ様が自分から本を手に取っており、私に質問してきたのです。驚きのあまり一瞬固まってしまいましたが、それだけではありませんでした。その夜のアイゼンテール家の晩餐会ではエリナ様はご家族の前で言葉を発し(ご自分からあのような場で言葉を発せられたのは実に3年ぶりです!)、大公様からはきついお叱りを受けてヒヤヒヤしたものの、エリナ様はいつものような無表情でやり過ごすことなく、お部屋に戻って涙を流されたのです。
(まるで、子供のように)
いえ、エリナ様は子供なのです。いくら大人びていようと、齢は10歳を過ぎたばかり。まだ大いに泣いたり笑ったりすることが許されるはずの年なのです。 私の膝にしなだれかかってなくエリナ様の美しい髪の毛を撫でながら、私は心の底から安堵しました。
度重なる冷遇に疲れ果て、感情をすり減らして、ただ時間を過ごすだけだったエリナ様が、ついにやっと、心の奥底でずっと眠らせていた「自我」を得たのだ、と私は思いました。
(何があっても私は、エリナ様のの味方でいよう)
私はそう、改めて決意したのでした。
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お嬢様の食欲はみるみる回復し、笑顔もよく見せるようになり、いろいろなお言葉をくださるようになりました
。お食事を私たちと一緒に召しあがりたい、食事は減らしてほしい、とご自身のお気持ちもお話してくれるようになりました。食事毎に大量のお膳を給仕していた私たちの負担は大幅に減りました。
家庭教師の方も驚くほどに勉強に意欲を見せ、積極的に質問をしてはスポンジのように知識を吸収していらっしゃるようです。時には家庭教師の方がうなるほどに鋭い質問もしているようで、家庭教師の方々も並々ならぬ意欲で一層エリナ様への教育を励んでいらっしゃるようでした。
「信じられません。元から優秀な子供であると思っていましたが、ここまで優秀だとは。特に算学に関しては素晴らしい才能をお持ちですよ。私からは何も教えることがないほどです」
興奮げに立派にたくわえた口ひげをしごきながら、家庭教師の方が教えてくださいます。そうでしょうとも、と私は胸を張って頷きました。
コロコロ変わる表情はたいへん可愛らしく、こちらを気遣いながら話される言葉からは大人びていて、並々ならぬ利発さが感じられます。
エリナ様につけられたたった一人のメイドのミミィが嬉しそうに私に話しかけます。
「ゾーイ様!お嬢様がまるで別人のように変わられましたね」
「ええ、本当にそうですね。でも、あまりご本人の前でそういうことは言わないのよ。エリナ様は本当に敏い方です。もしかしたら私たちの些細な言動を気にされて、元に戻ってしまわれるかもしれないから。私たちはそっと見守って、支えていきましょう」
「はい、そうですね!お嬢様は賢い、自慢のお嬢様です。ミミィはずっとおそばで見守ります!」
エリナ様のお部屋には、急ごしらえではありますが、ミミィと私のために2脚の椅子が置いてあります。
人間嫌いのお嬢様が、私たちのために用意するように命じてくださった椅子。それはエリナ様が与えてくださった、私たちの大事な居場所のような気がいたしました。
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「ゾーイ、今度聖なる夜のケーキのレシピを教えてほしいの。もちろん、時間があるときでいいんだけど」
そうエリナ様がおっしゃられたのは聖なる夜がしばらく過ぎたころでした。あのケーキは特別レシピで、この城ではおそらく私しか作ることができません。私の出身地エナで食べられる素朴な伝統料理です。私が作ることができる程度のお菓子ですので、そう大して難しいお菓子でもありませんが。
いつの間にか厨房に顔をだしていたエリナ様は、我が物顔で厨房に立ち入り、慣れた様子で調理人たちに挨拶をしました。
「ちょっと厨房借りていいかしら?」
「おう、妖精嬢。今日は何作るんだ?」
「今日はゾーイに聖なる夜の日に作ってくれたケーキを作ってもらうの」
「なーんだ、今日は新しい料理じゃないのか」
薄い茶髪で釣り目の若い調理人が気安くお嬢様に話しかけましたので、私は思わず憤慨します。
「まあ、そこのあなた、調理人の身分でエリナ様に馴れ馴れしいんじゃなくって? 口調にはお気をつけなさい! エリナ様はアイゼンテール家の貴いお方、本来はこのような場所にいるはずの方ではないのよ」
「いいのよ、ゾーイ。その、お友達ができたみたいでうれしいの」
「まあ……」
エリナ様の口からお友達、という言葉が出てきて私は驚きました。確かにエリナ様くらいのお年であれば、年の近いご友人は必要なはずです。私はとりあえず頷きましたが、エリナ様は我々のような下々のものにも分け隔てなくお優しいので時々私は心配になります。お友達が欲しいのであれば、早くお茶会デビューをしていただかなくては。
厨房でのケーキ作りはスムーズに進みました。お嬢様は厨房のどこになにがあるのかかなりしっかり把握されており、そのうえ、気安くお嬢様に話しかけてきたガウスという料理人も手早くサポートに入ってくれたためです。
「焼きあがるまで時間があるな。紅茶でも出すか」
「エリナ様はやけにこの厨房に慣れてらっしゃいますわね」
「そりゃあ、妖精嬢は俺たちの師匠だからなー。そこら辺の調理人より手際もいいし、ずっと調理場に常駐してほしいくらいなんだけど」
どうやら知らない間に、私の知らないところでエリナ様はご自分の世界を拓かれているようで、私はガウスにふるまわれた紅茶を飲みながら、一抹の寂しさを覚えました。
エリナ様はガウスに細かい工程を聞きながら、几帳面に私の作ったケーキのレシピをメモしています。横顔を見ていると、精巧な人形の様だった時の面影はすっかりなくなり、明るい快活なお顔をされていました。まるで別人のようです。
(そういえば、こうやって知らない横顔を見せはじめたころに、いきなり子供は巣立っていくのよね)
私の2人の子供たちもそうでしたもの。なんとなくしみじみしている間に、ケーキが焼き上がり、我先にとオーブンに駆け寄ったエリナ様を軽くいなしながら、ガウスがケーキを取り出し、きりわけてくれました。
エリナ様がするりと横から手を伸ばして、ケーキをパクリと食べてしまいます。はしたないですよ、と一言小言を言おうとした瞬間、エリナ様は顔をほころばせながら、
「ああ、おいしい。これ、ずっと大好きだったの」
そう、言ってくださいました。
(ああ――…)
私は自然と落涙してしまいます。
(この人の乳母で良かった)
今までの行動がすべて報われたような気持になります。
毎年、エリナ様にはこのケーキを聖なる夜にお出ししていました。食べていただける年もあれば、食べていただけない年もありました。それでも、私は聖なる夜にせめて少しでもエリナ様に喜んでほしいと心を込めて作っていました。
そして今、ようやく、答え合わせができたのです。
「ゾーイ、どうして泣いてるの? どこか痛いところがあるの?」
私がほろほろと泣き出してしまって、ガウスもエリナ様もかなり驚かれたようでしたが、私はあわてて何でもないです、と手を振りました。優しいお嬢様は、可愛らしく首をかしげます。
(エリナ様はこのケーキが好きで、喜んでくださっていた)
その事実一つで、過去の私の頑張りがすべて報われたような気持ちでした。毎日運んだたくさんのお膳も、聞かれているかどうかすらわからなかったたくさんの絵本たちも。
きっと、聖なる夜に、母なる彗星が私の願いをかなえてくださったのです。
(そうだ、ローラハム・アイゼンテール大公に手紙を書かないといけないわ)
いかに、アイゼンテール家の末娘が素晴らしく、強い人であるか。今までと違って、自慢のような長い長い手紙になってしまうかもしれませんが、私は書かなければならない、と強く決意したのでした。
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