薄墨の章 多賀国府 ~鷹戸屋山~
頬に当たる風の冷たさは初冬の空気の冷たさの所為ばかりではなかった。
登任のはやる気持ちを汲んだ訳ではなかったが、人馬を載せた巨大な筏船は、日高見川の水面を滑るように進んでいた。
昨晩からの強張った表情のまま、前方の川面を見つめる主をよそに、周りの者たちは一様に、明るい色に包まれていた。
「ようやく国府に戻れる。」
それが皆の正直な気持ちであった。
「はやく戻らねば。」
しかし、登任の胸の内は違っている。何かに追い立てられるように、帰府への思いばかりが突き上げてきた。
行きとは違い、瞬く間に衣川柵の手前、白鳥舘前の河岸に着岸した。
舘主たる則任が先に到着しており、上陸の手はずを差配した。
「われらは此処まででございます。」
頼良の命により、見送りの軍団を率いてきた貞任が、衣川関の関門を出て桟橋を渡った所で留まり、巨体を曲げて言った。
「次郎殿、たいそう世話になった。これからも、朝廷の政に沿うよう、励まれよ。頼良殿にもそうお伝え願いたい。」
登任はそれだけ言い置いて、残雪の鼻先を南へと向けた。
此治城で一泊した国守一行は、阿久利川を通って更に南下し、名古曽の峠を越えて鷹戸屋山の麓をまわり、国府へと帰着した。
翌朝、待ち構えていたように秋田城介平繁成が、国守着任の祝に来府した。
永承五年(一〇五〇年)、今年の九月に秋田城介として赴任した繁成は、登任の妻の甥である。
そもそも繁成の血筋は、天慶ニ年に平将門と藤原純友が起こした承平天慶の乱において、藤原秀郷と共に功のあった平貞盛、繁盛兄弟に繋がり、繁成の父の維茂もまた、余五将軍と称される武門の家柄であった。
歴代は、鎮守府将軍や陸奥守に就いており、陸奥と出羽に代々縁が深い。
また承平天慶の乱以来、常陸に多くの所領を得た家でもあったため常陸平氏の一つに数えられる。地理的に近い陸奥国南部浜通りの、海道平氏との繋がりも深かった。
登任が着任以来、国府を留守にしていたため、帰府を待って駆けつけたのであった。
「叔父上、陸奥守御着任誠に祝着至極にございます。また、無事に検注を終えられたとのこと、重ねてお祝い申し上げます。」
繁成は登任より十ほど若い五十代であった。
登任は国守に除目されたあと四年間は遥授して、都に在りながら国府から在庁官人によって送られてくる租税を受け取っていた。
懐に入ってくる財は期待以上のものであったが、一度珍奇なものに触れてしまうと更に欲が出てくるのが人情というものである。
聞くところによると、出羽守は藤原為通以来空席であり、今年ようやく源兼長が遥授したという。
出羽国は早くから朝廷に帰順し、啓けた土地であったため比較的民心も安定していた。
陸奥国側は、延暦二十二年(八〇三年)にようやく坂上田村麻呂によって、斯波城(志波城)が日高見川と厨川(雫石川)の合流地近くに造営されたのに対して、それより七十年前の天平五年(七三三年)に、出羽国府のはるか北方に、出羽柵(秋田城)が造営されたことからもそれが伺える。
そのため、出羽守は遥任国司となる場合が多く、一種の名誉職の様相を呈していた。
しかし、元慶二年(八七八年)に起こった蝦夷による叛乱によって、朝廷による直接支配の領域は後退を余儀なくされ、政治基盤は、毛賀美川(最上川)の河口付近である、出羽郡井口の国府まで南下することとなった。
以来、御物川(雄物川)の河口近くの丘上に在った、かつての秋田城は在地の俘囚等が北辺守護を名目に蟠踞することとなった。
したがって国府より北側の経営は事実上、横手平野にある雄勝城(払田柵)において、出羽介(秋田城介)が、出羽権掾も兼ねて、軍事・国政両面で当たる訳であったが、実情は源頼範以来三十年以上も任じられるものはなかったのだった。
源頼範の父満仲は、いずれ武門の筆頭として発展していく清和源氏の中で、多田源氏の祖であり、この職が対蝦夷(俘囚)対策として、軍事色の強い役職であったことが判る。
一方で兼長は歌人であり、このことからも出羽守が名誉職であることが伺える。
「遠路ご苦労であった。峠越えはさぞ難儀であったろう。」
登任は、目の前の白いものが混じりはじめた甥の頭を見ながら、言葉をかけた。
「なんのあれ程の峠道、さほどでもございません。何より馬で越えれば造作も無いこと。」
面を上げた繁成は、日に焼けて精悍さを増した顔で、快活に応えた。
「出羽の馬も、陸奥に劣らず良い馬ばかりです。」
繁成は目尻を下げた。
「さもあろう。だが、馬扱いについては、俘囚等の技には敵うまい?」
登任は頷きながらも、少々寂しげに言った。
「これは慮外なことを仰せになられます。この繁成、武門の家の者として武技は言うに及ばず、馬技に於いても他者に引けを取るものとは思ってもおりませぬ。ましてや、俘囚ごときに遅れをとることなどあるわけがございませぬ。如何に叔父上とはいえ、口が過ぎますぞ。」
登任の寂しさを気弱さの現れと取ったのか、繁成は眉を上げた。
「そうはいっても、お前は見ていないから言えるのだ。あの天を翔ける龍の如き軍団の様を・・・。」
登任の握った拳が、自然と慄えていた。
「おじうえ・・・。」
温厚な好々爺然とした登任しか見たことのなかった繁成は、思わず叔父の顔を凝視した。
その目は虚空を見つめて、見開かれているままであったが、焦点は何処にも合ってはいなかった。
「叔父上。」
繫成は、もう一度はっきりとした口調で声をかけた。
「・・・・お、おう。繫成、そういえば。」
半瞬の間があって、我に返った登任は、取り繕うように問いかけた。
「ところで、長月(九月)には雄勝城に入ったと聞き及んでおったが、出羽国は どうじゃ?出羽は北海を通じて、宋や高麗、遼とも往来があるというが、さぞや珍しいものが得られたのではないか?」
慄える右の拳を左の掌で包んで、右の甲をさすりながら登任が言った。
「たしかに、渡嶋や津軽を通して、都では目にしたことのない珍奇なものがあまた手には入りました。ただ・・・。」
問に答える繁成の目元が少し険しくなった。
「それは良かったではないか。儂が都におる間に、お前が城介に任じられるよう、八方手を尽くした甲斐があったというものじゃ。それなのに、まるで不満げな顔をしておるの?」
登任は己の欲深さを棚に上げて、繁成の表情に物欲しげな感情を見てとったと思い込み、声音を固くした。
「余五将軍維茂公をはじめ、平家の方々は陸奥、出羽に縁が深い。そう言って喜んでおったではないか。」
登任はさらに言い募った。
「たしかに、父祖以来馴染みの土地柄ゆえ、田堵も多く、見知りの者も多く居ります。ですが、今やそれらの多くは彼の地で俘囚主を称する清原の者共に心服しているのです。その上、他家の領家や本所の田堵のほとんども、実際には清原の家のものとなっておる有様なのです。」
今度は、繁成の拳が、慄えていた。
「陸奥の検注がどのようなものであったかは知りませぬが、わたくしが雄勝城で受けた仕打ちは酷い有様でした。秋田、河辺、山本の三郡は言うに及ばず、平鹿、雄勝のニ郡までもが居合検注で、清原光頼、武則、頼遠、武貞、武衡ら清原の親子が居並び、さらには吉彦秀武、それと斑目史郎と言ったか、その弟の吉彦(吉美候)武忠らにまで囲まれて、十以上の目玉で睨まれながら、有無を言わせず検注を終わらせおったのですぞ。」
繁成の顔は、こみ上げる怒りで真っ赤であった。
「雄勝城の城介館に居る間も、警護のためと言いながら、奴らめの一族郎党たる、橘や深江の者共が常に囲み、心休まることは有りませなんだ。」
忙しく変わる顔色が、心なしか青白くなっていた。
陸奥国側を支配していたのが安倍氏であったように、出羽国に勢力を張っていたのは清原氏であった。
清原氏は、元慶二年(八七八年)五月に秋田城下で起きた蝦夷による乱鎮圧に功績のあった、清原令望の子孫で、舎人親王の後裔、真人の姓をもつ家柄と称していた。
現当主は俘囚主を自称する、清原光頼である。
乱鎮圧後、朝廷の威信の空白地帯になっていた出羽国府より北側に、横手平野を拠点として一大勢力を広げていたのが清原氏である。
当然、同じ俘囚主たる安倍氏との繋がりも深く、光頼の叔母は安倍頼良の父忠良に嫁いでいるし、同じように妹は頼良に嫁いでいる。また弟の武則の正室は、頼良の娘(有加らの姉)であった。
一方で常陸平氏や海道平氏との繋がりも伺えるのだが、それは安倍氏においても同様であり、別の機会に述べる。
ちなみに、前出の吉彦氏や橘氏らの母親も、光頼の姉妹である。
それから三日ほど国府に滞在した繁成は、如何に秋田城介たる自分が清原氏に蔑ろにされているかを、切々と登任に訴えた。
「いずれ段々と朝廷の威光を判らせていけば良いでわないか。」
はじめは口角泡を飛ばす甥を、なだめすかしていた登任も、次第に奥六郡で受けた仕打ちを思い出し、やり場のない怒りを持て余すようになっていた。
「出羽国府での、二月の祈年祭が終わりましたら、また伺います。」
そう言って繁成は、多賀国府をあとにした。
繁成が雄勝城へ帰って一週間ほどした頃、経清と永衡が国守に呼ばれた。
「おお、経清と永衡か。こちらへ参れ。」
登任の脇には文官が控えていた。
平伏したままにじり寄った二人は、主の言葉を待った。
「面を上げよ。」
目の前の登任は、繁成がいた時の不機嫌さはすっかり無く、以前の柔和な好々爺の表情をしていた。
「随分と待たせてしまって、相すまなかった。各々、約束であった曰理郡と伊具郡の郡司を命ずるゆえ、より一層の働きよろしく頼む。」
唐突な沙汰に驚く二人に、見事な檀紙(陸奥紙)に書かれた国符が授けられた。
「過分のご配慮、恐悦至極にございます。」
畏まって国符を受け取った経清と永衡の二人は、普段はあまり手にしたことのない、厚手で美しい白色の紙に書かれた符を見つめながら、経清の室へと戻っていった。
「どうやら、このような良い紙をふんだんに使えるのが余程嬉しいと見える。」
室に戻り相対して座すると、永衡が言った。
「確かに、我らだけでなく矢継ぎ早に多くの者に郡司や郷長を授けているというから、この紙を使いたくて仕方がないのであろう。」
経清も先程授けられた符を見ながら応えた。
「ただ少し気になるのは、安倍との繋がりが薄い者を選んでいるように見えることだ。」
永衡がいつになく真剣な面持ちで、同じように手にした符を見つめながらつぶやいた。
そのつぶやきを聞いた経清は、腹の底に冷えのような感覚を覚えた。
『先夜、我が娘らを助けてくれたと聞いた。この礼はいずれまた。』
膽澤での別れ際に、頼良にかけられた言葉が蘇った。
「そういえば、秋田城介様が『与党は多い方が良い。』と仰言っていたという。お二方とも、余程此度の検注で身につまされたものとみえる。」
経清の思いをよそに、永衡は続けた。
「ということは、我らも国守の与党ということか・・・。」
どこか割り切れぬ思いの経清がつぶやいた。
「わしはどちらの与党にも組みした覚えもないが、業つくばりの爺さんの一党とみられるのもあまり気分の良いものではないなあ。」
鋭いのか鋭くないのか、永衡は頭の後ろで手を組みながら、上を見上げて呑気な声で言った。
「そこではなかろう。」
呆れて経清は永衡を睨んだ。
「まあな。」
手を組んだまま、目線だけ経清へ向けて永衡は応えた。
年越の祓は、鹽竈社で行われた。
現在では、鹽竈社の表坂(表参道)の石段がある斜面と、かつてその斜面の麓に在った祓川を挟んだ向かい側の岡(融ヶ岡)の際に、祓戸社があるが、言い伝えでは旧暦六月三十日に半年間の罪穢を祓い清める夏越の祓が行われていたという。
ただしこの頃は、鹽竈社自体が祓戸大神そのものでもあり、数日前に再び顔を見せた宗任に即されて、登任は不承不承社へと詣でたのだった。
今回も前ほどではなかったが、参拝後には、やはり腰の抜けたような状態になった登任は、ふらつきながらも、ようやく国府に帰着すると、そのまま歳を越し、慌ただしい正月を迎えた。
この月は元日より様々な儀式や行事が執り行われる。
そのような中、ある異変が起きた。
それは、---登任にとっては屈辱以外なにものでもなかった。
宮中においては、元日の朝に天皇が大極殿において皇太子以下の文武百官の拝賀を受ける行事、朝賀がある。同様に、天皇に直接拝礼するのがかなわない各国の国衙においては、国司が郡司らを率いて政庁にて天皇を遥拝した後に、国司が郡司以下の拝礼を受けるのが習わしであった。
この年の朝賀には、登任が新たに任命した郡司や郷長はみな参賀したが、その他の者たちは揃って名代の者を遣わしたのである。
そしてなにより、安倍頼良もまた宗任を名代としたのだった。
拝礼を受ける内に、登任の顔は蒼白となっていく。
「弟御はいかがした?為時どの。」
右の口の端を震わせながら、登任は平伏する金為時を見据えた。
「申し訳ございません。愚弟為行は、年末より体調を崩し床に臥せっております。折角の新年のご挨拶、罷り越すこと叶わず、本人になり代わりお詫び申し上げます。」
為時はそう言って、色黒の顔をさらに低くした。
「揃いもそろってみな、からだが優れぬという。頼良殿などは、病に罹ったことなど無いように見えたがのう。のう、三郎殿?」
登任は、宗任の方を見やって声を絞り出すように言った。
「はっ。父のみならず、兄貞任をはじめ兄弟みな流行病に取り憑かれてしまい、此度は誠に面目次第もございませぬ。」
宗任も為時同様、頭を更に低くした。
「儂を、国守をなんと心得る・・・・。」
登任は返す言葉も見つからず、口唇を震わせた。
その頃、多賀国府の遥か北方の膽澤鎮守府では盛大な宴が催されていた。
南は菊多郡や磐城郡の郡司、郷長。
北は糠部や津軽、渡嶋から俘囚や蝦夷の長が参集していた。
さらには、宋や高麗、遼の異人も見受けられたのだった。
頼良をはじめ、安倍兄弟を囲んで年明けより始まった宴は時を追う毎に盛り上がり、府内はいうにおよばず、府外の街中までも、その賑わいが広がった。
街中では市が立ち、この時ばかりは上下の別なく異国の珍しげな物を買い求めたり、面白おかしい様々な大道芸を楽しんでいた。
「有加姉さま、あの髪飾りは何で出来ているのでしょう?」
肩までようやく伸びた垂髪の少女---一加が、すぐ後ろを歩く有加を振り返って小首をかしげた。
郡司らの前で舞を披露した三姉妹は、父の許しを得て府外の街へ繰り出したのだった。
「そのように、急くと何かにつまずいて転びますよ。」
初めて見る物ばかりではないのだが、賑わう雰囲気にそそられてつい小走りになる妹に、中加が声をかけた。
一加を追いかけて、中加も駆け出す。
そんな二人の妹の姿を、有加は優しい眼差しで追って微笑んだ。