Chapter 1. 少年、入学する -5
「大丈夫だ。息子よ、もう大丈夫だ」
メイドたちが救急薬を持って駆けつけてきた。父親はシャンをそっと横たえた。
シャンは幼い頃の夢を見た。ゆりかごの上から細く長い指がシャンの頬をなでた。懐かしいハミングが聞こえてきた。
「ねえ、母さんがあなたのお兄ちゃんを生んだ時、どんな夢を見たか知ってる? 巨大な獅子が山を飲み込む夢を見たのよ。だから名前をリオにしたの」
そのリオ兄さんは今、拳法の達人となりフォースマスターという称号を獲得した。母親の声はさらに続いた。
「二人目を身ごもったときは巨大な白い鳥が湖の上を飛ぶ夢を見たわ。だからシラサギという意味のエロンって名付けたのよ。5歳の頃から剣をふたつもオモチャのように振り回していたけど、今は本の方に興味が向いたようね」
エロン兄さんはソードマスターになる代わりに皇室軍師になった。母さんは知っていたんだろうか、エロンの将来の姿を。
「三人目のときは数百頭の黒馬が私のスカートへ駆け込む夢を見たわ。平原を埋め尽くすほどのたくさんの黒馬がよ。でも言うことは聞かないしイタズラっ子だし、私がいなくても大丈夫かしらね」
母さんはそのとき、すでに自分が先長くないことに気づいていたようだ。そのときゆりかごの後ろで何かが割れる音が聞こえた。
「アルゴ! 母さんがそれ触っちゃいけないって言ったでしょ?」
しばらくお尻を叩く音がゆりかごの上から聞こえてきた。アルゴ兄さんはその頃から泣くことがなかった。
トラブルメーカーの兄さんは、今は大陸間を行き来する仲介商を営んでいて、若いうちから巨富を築いていた。
ゆりかごに沿って黄色い菜の花が揺れている。母さんの白い手が再びシャンの頬をなでた。
「シャン、私の可愛い息子。あなたが生まれたときの夢は……本当に特別だったわ」
風が吹くと白い手が柔らかい毛布を取り出してかけてくれた。暖かかった。
「だってね、巨大な龍神様が現れて蓮の花をくわえて飛び立ったのよ? 私はあなたがてっきり娘だと思ってシャインと名付けたんだけど……ちょっと後悔してるの。でもね、私の息子よ……」
強くなりなさい。
誰よりも強く、美しく育ちなさい。
菜の花が絨毯のように波打っている。子守唄が心地よく揺らいでいる。シャンはあくびをすると母親の胸の中でぐっすりと眠りについた。
「はっ!」
目覚めると早朝だった。丸一日気を失っていたようだ。
とても懐かしい夢を見た。
シャンは自分の手首をまさぐった。傷はすでに癒えていた。
その日からしばらくして母さんは息を引き取った。幼いシャンもまた余りに虚弱だったため母親の後を追う運命だった。
シャンを生き伸ばせるため父親と兄たちは中央山脈を駆けずり回りあらゆる薬材をかき集めた。トラの心臓が効くと聞けば山の主であるサーベルタイガーを仕留めてその心臓を煎じて飲み、クマの胆汁が効くと聞けば南方の山脈まで足を伸ばして伝説の魔獣・キングベアーと対決した。
そんな最中、フォースマスターとなったリオはキングベアーのマナストーンをすべてシャンの薬代に費やした。
シャンは生き返った。それらの薬効のおかげでシャンは軽い風邪が肺炎にまで発展することがなくなり、小さな傷ぐらいはすぐに癒えるようになった。しかしそれでもシャンの不運まで解決されたわけではなかった。
シャンはその代償として一生、マナが使えない身体になった。
「ママー、いたいの?」
シャンは微笑みながらカイをなでた。
「ううん、大丈夫だよ」
カイはシャンの懐へ潜り込んだ。
「ママー、すきー。でも、からだつめたい」
「へえ、そう?」
「つめたいの、すきー。ひんやりー」
シャンはカイをなで続けた。そのとき邸宅の敷地内へ見慣れぬ人影が足を踏み入れた。皇室が遣わせた伝令だった。
5.
伝令が携えてきた手紙には、驚いたことに皇帝直筆の書簡が記されていた。ほとんどの場合、書記官が皇命を受けて書き写すのが習わしだったため、直筆書簡は極めて珍しかった。それほど今回の出来事を重要に捉えているという証拠だった。
皇命を要約すると、次のようなものになる。
『シャン=アルテリオンは皇室直属アカデミーのドラゴンスコラーへ入学せよ』
ドラゴンスコラー。メイジとマジックナイトを育成する魔法アカデミー。そこへ入るためには生まれる前から予約しないといけないと言われるほどの名門中の名門だった。
心の準備をしていたとは言え、いざ皇命を賜ると4人の父子たちの表情は苦虫をかみつぶしたようになった。
まずは皇宮へ向かって一礼した後、長男リオが言った。
「俺がシャンをおぶって夜逃げでもしたほうが……」
「やめておけ、息子よ」
父親はため息をついた。内心覚悟はしていたものの、ついに来るべきものが来たという思いだった。
今でこそ一線から身を引いて隠居生活を送っているとは言え、若い頃は一世を風靡した暮らしだった。当然、ドラゴンスコラーについても彼は聞き及んでいる。
名門、それも名門中の名門。
創立以来、数多くの英雄と王を輩出してきたアカデミーだ。
名の知れたメイジやマジックナイトは例外無くここの出身であったし、ここを卒業したエリートたちと一戦を交えたことも少なくなかった。
しかし、アカデミーというイメージとは裏腹に、実際に魔法を習うということは危険極まりないことだった。しかもシャンはマナの資質や剣の資質が買われて入る訳ではない。ただ単なるドラゴンテイマーという資格で入ることになる。
いくら人間の知能を持っていてインペリアル級の竜が竜言を使って人間に化けられるとは言え、本質的には野獣だ。主人を親のように従うのと、命令に服従するのとは問題の次元が違う。
竜を操るというのは名誉なことではあるが、命より大切なわけではない。
運命が変わるかもしれない。しかしより悪くなることもある。今も最悪なのに、それより悪くなるなんて。想像すらしたくない。
これは賭けだった。一人だけの末子をこのまま見送るには危険すぎる。
リオが言った。
「本当に縁起でもねぇ……」
その言葉に父親はリオを睨みつけた。この邸内で「縁起でもない」は禁句中の禁句だった。特にシャンに関しては。
父親は考え込んだ。
剣も魔法もままならない子が、皇族すら滅多に手に入れられないというインペリアル級の中をただ「偶然」手に入れたのを、果たして他の貴族たちがただ指をくわえて見ているだろうか、と。とはいえ皇命に逆らえばシャンの人生だけでなく家門全体にも累が及ぶだろう、と。
いずれにせよ四面楚歌だ。
やがて父親が口を開いた。
「シャンよ、お前は行きたいか?」
父親の問いにシャンはカイの頭をなでた。肩に乗せられるほど小さいカイはシャンになでられながらネコのように喉を鳴らした。実際、結論はすでに出ている。問題はそれを口にする勇気。シャンは生まれて初めて自分のための決定を下した。
「行きたいです、父さん。新しい世界をこの目で見たいです」
シャンの答えに長男と次男は悲鳴を上げた。
「ダメです! 絶対に!」
「この兄の目の黒いうちは決してそんな危ない真似を……」
その時、待ち構えていたかのように三男アルゴがかまどの灰を持ち込んで長男の顔めがけて投げつけた。
「うぎゃ! お前、気は確かか?!」
「目が黒いうちがダメなら、目ぇ白くしたるわ~」
「もう勘弁ならん、殺ス!」
父親は長男vs.三男の乱闘をしらけ顔で見守りつつ、シャンに再び訊いた。
「危険かもしれないんだぞ。それでも行くか?」
それでもシャンはうなずいた。この機会を逃したらいつ再びチャンスが巡ってくるか分からない。
「行きます」