訪問者と過ごす緊張感あふれる平和な時間
次の日。
クロスフィードは午前中に父であるツヴァイスウェードから頼まれていた仕事を片付けてしまったので、午後は読書でもしよう思いたった。そのため、新しい本を父親に借りようと思い、既に読み終わっている本を手にクロスフィードは自室を出た。
本当は王宮へ行った方が良いのではないかと思ったクロスフィードだったが、昨日の今日でもしもばったりレイラキアに会ってしまっては己の首を絞める事になりかねないと思い、今日はやめておこうと決めたのだ。
そうして父親の部屋を訪れたクロスフィードは、扉を叩き、中からの返事を待ってみた。しかし一向に返事が返ってこなかったため、クロスフィードはいつものようにその扉を開けた。
父親であるツヴァイスウェードが不在の場合は勝手に入る事を許してもらっているため、クロスフィードは返事がなかった部屋の中へと足を踏み入れる。
中に入ると、案の定、父親の姿は見当たらなかった。
「母さんの所にでも行ってるのかな?」
そんな事を呟きながら、クロスフィードは本棚へと足を向ける。
ツヴァイスウェードは、叶うなら妻と片時も離れたくはない、と言って憚らないような人である。暇さえあればエイナセルティの許にすっ飛んで行くのは日常的な光景だった。
それを十分に知っているクロスフィードは、父親が部屋にいない理由はそれしかないと確信を持っていた。
「まあ本を返すだけだから、いなくても問題はないしな」
クロスフィードは本棚のガラス戸を開け、借りていた本を棚に戻した。そして借りていく本を物色していく。
クロスフィードは幼い頃から読書が趣味で、暇さえあれば本を読んでいるような子供だった。
しかしそれは仕方がない事でもあった。
伯爵家の罪はクロスフィードが生まれた時からあるものだったので、クロスフィードに友と呼べるような者はいなかったのだ。
外で遊ぶにしても、部屋で遊ぶにしても、いつも相手は両親か使用人夫妻、たまにレイヴンリーズやヴァンクライドも相手をしてくれていたが、それでも一人の時間の方が多かった。そのため、クロスフィードは本を読む事で時間を潰すことが多くなったのだ。
そして今では立派な本の虫と化している。
「あ、これは読んだ事がないヤツだ」
父であるツヴァイスウェードも読書家で、定期的に新しい本を仕入れている。そのため、幼い頃から父親の本を読み尽くしているクロスフィードにとっては、新しい本が読めるという事はとても有り難かった。
「夕食の時にでも借りたと報告しておこう」
確実に母親の許にいるだろうと思っているクロスフィードだが、それでも二人の邪魔をする事はしたくないと思っているので、このまま本だけを借りて行こうとその本を手に取った。
「……ん? 何だ?」
本を引きぬくと、本棚の奥に何かが置いてある事に気が付いた。少し興味を引かれたクロスフィードは、数冊の本を抜き出し、それを近くにある卓の上に置くと、奥に在ったそれを手に取った。
それは乳白色の小瓶だった。
乳白色をしているため中身は見えないが、少し振ってみると中で水音が聞こえた。
「香水……ではないよな」
香水瓶ほどの大きさではあるが、香水瓶は透明度のある瓶が使われる事が一般的であるため、香水ではないだろうと判断する。
では薬瓶だろうかと考えて、クロスフィードは少しばかりの不安を覚えた。
本棚の奥に隠すように置いてあった事を考えると、嫌な予感が脳裏を過る。
「クロフィ」
不意に名を呼ばれ、ハッとして振り返ると、部屋の入口の辺りにツヴァイスウェードの姿があった。
「父さん……」
「父さんの部屋を漁るのは感心しないね」
そう言いながら足早に近付いて来るツヴァイスウェードに、クロスフィードは持っていた小瓶を静かに奪われる。
クロスフィードはそんな父親に思わず口を開いた。
「父さん、それは何ですか? 薬、なんですか?」
クロスフィードは父親が何かの病を患っているのだろうかと思うと、不安でたまらなかった。
ツヴァイスウェードの性格を考えると、家族に心配させまいと秘密にしているという可能性があるのだ。それを思うと、クロスフィードは小瓶の事を聞かずにはいられなかった。
不安げな瞳を向けながら返事を待っていると、ツヴァイスウェードから観念するようなため息が聞こえてきた。
「これは、睡眠薬だよ」
「睡眠薬?」
何故睡眠薬が本棚の奥に隠されているのだろうかと首を傾げていると、それを察したようにツヴァイスウェードが答えを返してくる。
「眠れない時にたまに使っていたんだ。でもそんなモノがエイナやクロフィに見つかったら心配させてしまうだろう? だから隠してたんだ。ああ、今はもう使ってないから安心しなさい」
でもエイナには秘密にしておいてくれ、と苦笑する父親の姿に、クロスフィードは素直に頷いた。
睡眠薬を使っていたという事はツヴァイスウェードには眠れない時期があったという事だった。
それはおそらく、二十年前の事件があった辺りなのではないかとクロスフィードは思った。
その事件で、ツヴァイスウェードは兄を亡くしたのだ。
「そうそう。エイナの体調が良いから、これから買い物に行こうと思っているんだ。クロフィも一緒にどうだい?」
話題を変えるように告げられた言葉に、クロスフィードもそれ以上、小瓶の事に対して質問をやめた。
「いえ、遠慮しておきます。今日は読書をしようと決めているので。ああそうだ。これ、借りて行きますね」
クロスフィードも少しばかり行こうかとも考えたが、体調の関係であまり外出が出来ないエイナセルティと二人きりで外出させてあげたいという思いの方が勝り、今回は遠慮する事にした。
「お二人で楽しんで来て下さい」
「そうかい? でも父さんはエイナとクロフィに挟まれて買い物を満喫したいんだよ? 妻と娘の二人に両側から腕を組まれるのは、この上ない父さんの幸せなんだぁ」
妄想に花を咲かせている父親を前に、クロスフィードは少々冷たく言い放つ。
「私は男ですので、父さんと腕を組んで歩く行為は気色が悪いだけだと思います」
「クロフィは女の子だもん! いくら男の格好していても、父さん気にしないもん!」
「大いに気にして欲しいものです……」
気持ちは有り難いが、クロスフィードからしてみれば御免こうむりたい行為である。
「私の事はどうぞお気になさらず。母さんと楽しんで来て下さい」
「そうかい……」
物凄く残念そうな雰囲気を垂れ流している父親の姿に、クロスフィードは心の中でため息を吐いた。
愛されている事は十分嬉しいと感じているが、たまに鬱陶しく感じてしまうのは許して欲しい。
「じゃあ行って来るね。夕方には戻るから」
「はい。分かりました」
そうしてクロスフィードは本を手にツヴァイスウェードの部屋を後にした。
◆◆◆◆◆
クロスフィードは窓の近くに置いてある卓について父親から借りた本を読んでいた。
春の日差しはとても暖かく、開けた窓から入ってくる微風がクロスフィードの髪を揺らす。しかしクロスフィードはそれに気付くことなく、集中して文字の羅列を目で追っていた。
そうして丁度切りが良いところまで読み終えたクロスフィードは、そろそろお茶の時間だろうかと思い、一旦本を閉じた。
伯爵家の使用人は二十年前の事件のせいで大半が辞めてしまったため、現在残っている使用人はハミルカーティスとミラフェルマの二人だけだった。そのためクロスフィードは幼い頃から自分で出来る事は自分でするように心がけてきた。そのため、茶の用意くらいは自分で出来るようになった。
「クロフィ様。どうなさいましたか?」
ティーセットを取りに厨房に入ると、夕飯の支度をしていたミラフェルマがそこにいた。
本来なら食事の用意は侍女の仕事ではないが、料理人がいない伯爵家のためにいつもミラフェルマが腕を振るってくれているのだ。ミラフェルマの料理はとてもおいしいので、クロスフィードは彼女の料理をとても気に入っている。
料理や菓子作りといった事は全てミラフェルマから学んだので、クロスフィードもそれなりには出来るようになった。
そこには茶の用意も含まれている。
「あ、お茶ですか?」
「ああ」
ミラフェルマの問いかけに答えるクロスフィードは、そのまま歩みを進め、食器棚に向かう。すると再びミラフェルマから声が聞こえた。
「お茶でしたら、私がご用意します」
「いいよ。ミラは夕食の仕込みで忙しいだろう? 自分で出来るから気にしないでくれ」
「いいえ。本日はクロフィ様だけですし、たまには私のお茶も飲んで頂きたいのです」
普段、ミラフェルマは両親の茶の用意をしているが、クロスフィードは自分で入れる事の方が多い。
それはミラフェルマの負担を少しでも軽くするためという理由も確かに在るが、自分自身でお茶を入れる事もクロスフィードは好きなので、普段は自分でお茶を用意しているのだ。
しかしながら、ミラフェルマに自分の茶を飲んでくれと言われてしまえば、クロスフィードは断る事は出来なかった。
「じゃあ頼むよ」
「かしこまりました。後ほどお部屋にお持ちします」
「分かった。よろしくね」
そうして茶の用意をミラフェルマに任せたクロスフィードは厨房を出て、自室へと戻って行く。
クロスフィードの部屋は二階にあるため、階段を上がって廊下を進む。
伯爵家は邸だけを見れば立派なのだが、中はと言えば、装飾品も少なく殺風景だ。部屋数も多いが、ほとんど使われていないため、あるだけ無駄な状態だった。
しかし幼い頃からそれが当たり前だったクロスフィードは、邸全体を遊び場として使っても誰にも文句を言われなかった事だけは、有り難い事だったと思っていた。
少しばかり昔の事を思い出しながら廊下を進み、自身の部屋へと戻ってくると、クロスフィードはその扉を開けた。
「……っ」
視線の先に、卓に付いて本を読んでいるアイリスフィアのようなモノが見えた。
バタン!
勢いよく扉を閉めた。
中に何かがいたような気がしたが、気のせいだろうか。いや、きっと気のせいだ。きっと疲れているだけなんだ。誰かそうだと言ってくれ。と、そんな事を考えながら、白昼夢でも見てしまったに違いないと訳の分からない解釈をしつつ、クロスフィードは意を決してもう一度扉に手をかけた。するとクロスフィードが開ける前に、扉が開かれる。
「何をやっている。遠慮せず早く入って来い」
「ここはお前の部屋じゃないだろうおおおおっ!」
クロスフィードは思わず絶叫してしまったが、ハッと我に返ると、出で来た人物を押し込みつつ急いで部屋の中に滑り込み、思い切り扉を閉めた。
「アイリス、何で、何して、ああもう!」
大混乱中の頭ではまともな思考が儘ならず、言いたい事も上手く言葉に出来なかった。その事にイラつきながらも、クロスフィードは俊敏な動きで窓に向かい開いていた窓を閉め、一度深く息を吐いた。
「何でアイリスがここにいる」
努めて声を抑えながらそう問えば、アイリスフィアはそんな事かというように答えを返すてくる。
「お前がまた来ると言ったのに来なかったから、俺が来てやったんだ」
「昨日会ったばかりだろうが! どんだけ淋しがり屋だ、お前は!」
何故自分が出向くという発想に行き着くんだと頭を抱えたくなったクロスフィードは、アイリスフィアは考えなしの行動を取ると言っていたアレクヴァンディの言葉は事実だったと痛感した。
現在、伯爵家にはクロスフィードとミラフェルマの二人しかいない。しかしミラフェルマは先ほど厨房で会った時、アイリスフィアの事は何も言ってはいなかった。もしアイリスフィアの訪問を知っていたとしたら、ミラフェルマから何かしらの報告はあるはずなのだ。しかしそれがなかったという事は、アイリスフィアの訪問は誰も知らなかったという事になる。
アイリスフィアは不法侵入した事が確定された。
「王宮からどうやってここまで来たんだ!?」
「王宮を抜け出して、御者を買収した」
「聞くんじゃなかった!」
王子がさらりと、買収、などという言葉を使わないでくれと、クロスフィードは今度こそ本当に頭を抱えた。
するとその時、扉を叩く音が聞こえてきた。
「クロフィ様、お茶をお持ちしましたが、何事かありましたか?」
「うおう! ミラ!?」
クロスフィードは先ほどミラフェルマにお茶の用意を頼んでいた事を思い出し、この上ない後悔の念を抱いた。
クロスフィードは咄嗟にアイリスフィアの腕を引っ張り、寝台の方へと引き摺って行く。そしてアイリスフィアを寝台に座らせると、グイッと顔を近付けた。
「いいか、アイリス。絶対に声を出すな。刺客が来ても、殺されそうになっても、死んでも声を出すなよ! 分かったな!」
「あ、ああ」
「よし!」
アイリスフィアの返事を聞くと、クロスフィードはすぐに扉へと向かった。
ミラフェルマは察しの良い侍女であるため、動揺を見せてはいけない。
そう自分に言い聞かせ、クロスフィードは扉へと手をかける。
「クロフィ様?」
「い、いや、大丈夫だ。今開ける」
クロスフィードは意を決して扉を開け、自分でもビックリなほど素早く部屋から滑り出ると、後ろ手に扉を閉めた。
「本当にどうされたんですか?」
クロスフィードの不自然な行動に、目の前の優秀な侍女は訝る視線を向けている。
クロスフィードは流れ出る冷や汗を感じながらも、懸命に冷静さを保というと努力していた。
「何かございましたか?」
「い、いや、何も」
「では先ほどのお声は」
「あ、あれは……そう! 本を朗読していたんだ!」
「朗読、ですか?」
「そうなんだ! 口に出している内に熱が籠ってしまってね! あはは」
「……そうですか」
疑いの眼差しは薄らぐ事はなかったが、ミラフェルマはそれ以上追及して来なかった。
有り難いことである。
「後は自分で出来るから大丈夫だ」
「……分かりました。何かあればすぐにお呼びくださいね」
「ああ、ありがとう」
クロスフィードはそう返すと、ミラフェルマからティーセットの乗ったトレイを受け取った。
「では私は夕食の用意がありますので、失礼させていただきます」
そう言ってミラフェルマは廊下の角へと消えて行った。
それを確認したクロスフィードは、ようやく息を吐くと、部屋の中へと戻って行った。
しかし疲れる原因は未だ部屋の中にいる。
「お前は経済書を熱く朗読するのか」
部屋に入ると、面白そうにクスクス笑っているアイリスフィアが寝台から離れ、本が置かれている卓の方へとやってくる姿があった。
クロスフィードはそんなアイリスフィアを睨むように見つめながら、トレイを卓に置いてため息を吐いた。
どうして読んでいた本が経済書だと知っているんだと思ったクロスフィードだったが、一度扉を開けた時、アイリスフィアが卓に置きっぱなしにしていた本を呼んでいた事実を思い出した。
しかしながらクロスフィードに経済書を朗読するような趣味はない。
「香りの良い茶だな」
「お前にはやらん」
「伯爵家は客に茶の一つも出さないのか?」
「お前は客じゃなくて不法侵入者だ!」
クロスフィードはこの時、どうして両親の買い物について行かなかったのだろうかと心底後悔していた。
いや、この場合は行かなくて正解だっただろう。アイリスフィアが伯爵家に不法侵入しているところを他の誰かに見られてしまえば、何かいろいろとダメな気がする。
クロスフィードはため息交じりに脱力すると、両親がいない事だけが救いだと思い直した。
「いたんだな、使用人。邸の中を歩いていても誰とも会う事がなかったから、使用人はいないのかと思っていた」
「使用人も雇えないような貧乏貴族で悪かったな!」
いつの間にか卓に付いているアイリスフィアを見下ろしながら、クロスフィードはテキパキと茶の用意をしていく。
不法侵入した上、堂々と邸内を闊歩してやがったのか、とクロスフィードは心の中で悪態を吐いた。
「クロフィ、ね」
「……っ」
卓に頬杖を付きながら面白そうに告げてくるその言葉に、クロスフィードは一瞬手が止まる。
「俺も次からはそう呼んでやる」
「呼ばんでいい!」
邸にいる時は皆クロスフィードの事を愛称で呼んでいる。それはクロスフィードの事を思い、愛称だけは女の子のようなものをと、『クロフィ』という愛称が付いたのだ。
しかしながら、ミラフェルマにも愛称で呼ばれていた事は幸いだったとクロスフィードは心底思っていた。
もし『お嬢様』などと呼ばれていたなら、その非常事態に頭を抱えるくらいでは済まなかっただろう。
「茶はまだか、クロフィ」
「お前は何処ぞの爺さんか!」
もうツッコミを入れる事すら面倒になってきたと思いながら、クロスフィードは盛大なため息を吐きつつ茶の用意を完了させた。
「ほら」
クロスフィードはアイリスフィアの前にティーカップと焼き菓子を差し出した。
ミラフェルマが用意したのはクロスフィード一人分であるため、ティーカップは一つ、焼き菓子も一人分だ。
「お前は飲まないのか?」
「見て分かれ! 一人分しか用意されていないだろうが!」
気の使いどころが完全におかしいアイリスフィアの言葉に、クロスフィードはため息をつく事すら諦めた。
クロスフィードは、全く、と小さく呟きながら、アイリスフィアの正面に腰かける。
「いいよ、気にしなくて……」
「そうか」
そう言うものの、アイリスフィアは一向にカップを手に取る事も、菓子に手を付ける事もしなかった。どうしたのだろうかと少々首を傾げたクロスフィードだったが、ふとある事に思い至る。
二十年前の事件で亡くなった国王は毒殺されたという話だ。
「私のために用意されたモノだから変なモノなど入っていないよ。何なら毒味するが」
「いや、いい」
クロスフィードの申し出を断ったアイリスフィアは、ようやくカップを手に取った。そして少しばかりその香りを楽しむと、カップに口を付けた。
「なかなか美味いな」
「そうだろう。ミラがブレンドしてくれるお茶は本当に美味いんだ」
「ミラ?」
「ああ、さっきの侍女だ」
「ふーん」
「焼き菓子も美味いから食べ……ハッ!」
どこか平和な空気に流されて現実を見失いそうになっていしまった。
クロスフィードは改めて一つ咳払いをすると、目の前で焼き菓子を頬張っているアイリスフィアに視線を向ける。
「お茶を飲み終わったら王宮に帰れよ」
「伯爵家は客をもてなすどころか追い帰すのか?」
「さっきから、伯爵家、伯爵家、と煩い奴だな! というかお前は客じゃなくて不法侵入者だろうが!」
話にならない。
クロスフィードは疲れたように深い溜息を吐きながら、力なく天を仰いだ。
本当にこの王子は何がしたいのか分からない。
「アイリスは……」
ふと口を開くが、その先の言葉を告げるのは少々躊躇われた。しかしクロスフィードはそれを聞かずにはいられなかった。
「アイリスは、伯爵家に来る事に対して、抵抗はなかったのか?」
視線を落とし、アイリスフィアを視界に入れないようにそう尋ねる。
クロスフィードは突然やって来たアイリスフィアの行動の意味を図りかねていた。
アイリスフィアにとって伯爵家は嫌悪する対象のはずなのだ。伯爵家はアイリスフィアの父親を暗殺した者の生家だ。本来なら近付く事すら嫌なのではないかと、どうしても考えてしまうのだ。
クロスフィードはアイリスフィアからの返答を待ちながら、どこか居心地の悪さを感じていた。
「俺が今この場にいる事が答えだと思うのだが?」
「え?」
ハッと顔を上げアイリスフィアに視線を向けると、その先にはいつものように不敵な笑みを浮かべているアイリスフィアがいた。
「嫌なら来ない」
そう言ってカップに口を付けるアイリスフィアの様子を見つめながら、クロスフィードはしばらくキョトンとしていた。
「そう、か……、そうだな」
アイリスフィアはクロスフィードの目の前にいる。
それが今ある答えだった。
「何だ? ニヤニヤして。気色悪い」
「う、煩い」
クロスフィードは意図せず緩んでしまっていた表情を咄嗟に引き締めると、動揺を隠すように、卓に置かれたままになっていた本を手に取った。
素直に嬉しいと思った。
アイリスフィアを前にすると、常に嫌われているのだという気持ちは消えなかった。それはやはり仕方のない事で、アイリスフィアとはそういう関係なのだとクロスフィードはずっと思っていたのだ。
他人に嫌われる事は誰だって辛い。クロスフィードはそれを悲しいほどに知っている。だからこそ、今目の前にアイリスフィアがいる事実を嬉しく思った。
ずっと嫌われているのだと思っていた相手が、どういう訳か会いに来てくれたのだ。突然の訪問|(という名の不法侵入)だったので驚きはしたが、クロスフィードはこうして誰かが訪ねて来てくれるという経験がないため、やはり嬉しい気持ちはどこかにあった。
「……はあ。夕方になる前には帰れよ」
絆された訳ではないが何を言っても帰りそうになかったので、クロスフィードは一端追い帰す事を諦めてみた。
「何しに来たかは知らないが、大方アレク辺りを護衛につけて来たんだろう?」
仮にも王子なのだから一人で来たという事はないだろうと思い、クロスフィードは言葉を続けていく。
「私が言うのも何だが、あまりアレクをこき使ってやるな。可哀想だろう」
不法侵入してきたというくらいだ。正面切って堂々と訪問する気は更々なかったのだろう。そうであるなら護衛としてついて来ている誰かは外で待たされているだろうとクロスフィードは思っていた。
それがアレクヴァンディであるなら、尚の事申し訳なくて居た堪れない。
「で、何処に待たせているんだ? 呼んでくるから場所を教え――」
「護衛など連れて来てはいない」
「……………………は?」
言葉の意味を理解するのに少々時間がかかってしまった。
「待て待て。まさか一人で来たのか?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「嘘だろ?」
「お前しつこいぞ」
先ほどアイリスフィアが、王宮を抜け出して、などと言っていた事実を思い出す。
唯一残った王家の王子が護衛も付けずにたった一人でここまで来たというなら、今頃王宮は大混乱に陥っている事だろう。
なんて事だとクロスフィードは卓に突っ伏して頭を抱えた。
「ここに来る事は誰かに告げてきたんだろうな!」
「言うわけがないだろう。俺が伯爵家に行くと言って誰が快く送り出す? 全力で止められるのがオチだ」
「そうだった!」
頭が混乱し過ぎて、当たり前の事すら忘れかけていた。
しかしアイリスフィアが伯爵家に自ら来たという事実を誰も知らないという事は非常に不味い。もしこの場を伯爵家の人間以外に知られてしまえば、王子を拐したのではないかと言うような疑いがかけられてしまう可能性がある。そうなれば、伯爵家は一巻の終わりだ。
「本当に誰にも何も言わずに来たって事か!?」
「いいや」
肯定されると思ったが、予想に反して、アイリスフィアは否定を口にする。
「アイツだけには告げてきた」
「アイツ?」
「『守護者』」
「守護者様だと!?」
その言葉に、クロスフィードはなんて恐ろしい事をしてくれたんだと固まった。
『守護者』とは、『花の娘』の帰りを待つ者としてこの国を見守る役目を担っている人物だ。『守護者』という存在は皆が知る役職ではあるが、『守護者』が誰であるのかは王家と一部の人間しか知らないのだ。
王家の人間と密接に関係していると言われている『守護者』は国王にも意見できる立場にあるため、その存在は王家同様に尊いものだとされている。
言うまでもないが、クロスフィードは『守護者』が誰であるのかなど全く知らない。
「お前本当は伯爵家を潰す気だろう!?」
「何故そうなる」
アイリスフィアが少々不機嫌そうに眉根を寄せているが、クロスフィードはそんな事を気にしている余裕などなかった。
「だってそうだろう!? 守護者様だって伯爵家を疎んでいるに決まって――」
「アイツはそんな事を思っていない」
静かに、そしてはっきりと断言するようにアイリスフィアが告げてくる。
「アイツが伯爵家に対して何かをする事は決してない。というより、アイツは何に対しても何もしない」
そう告げるアイリスフィアは、最後の一口になった焼き菓子を口の中に放り投げていた。
しかしクロスフィードは不安を拭えない。
「ほ、本当に大丈夫、なのか?」
「大丈夫だ。アイツはお前が『花の君』だという事も知っている」
「そうなのか!?」
「ああ」
さらりと爆弾発言を告げてくるアイリスフィアに、クロスフィードは目眩がした。『守護者』に『花の君』の正体が知られていたとは思いたくもなかった。
しかしそれを知っていても伯爵家に何も言ってこないというのなら、『守護者』はアイリスフィアが言うように、前回の事を黙認してくれているという事だろう。それならば今回の事も大丈夫だろうと、クロスフィードは無理矢理にでも思う事にした。
そうじゃないと身が持たない。
「アイツは俺とお前の事に関しては寛容なようだ。ただ、伯爵はあまりよく思わないだろうと言われたから勝手に入らせてもらった。まあ、幸い伯爵は留守だったみたいだがな」
アイリスフィアはカップに残っていた最後の茶を飲み干し、静かにカップをソーサーに置いた。
「父がアイリスの訪問を拒むわけがないだろう」
「その辺りは俺も知らん。まあとにかく、王宮の方は平気だ。……どうせ俺の心配など誰もしないのだから」
「ん? 今何て言ったんだ?」
言葉の最後はとても小さかったため、クロスフィードは聞き取る事が出来なかった。しかしアイリスフィアが再びそれを言い直す事はなく、どこか眠そうに欠伸をしているだけだった。
「アイリス?」
「ん? ああ、だから明日まで帰らなかったとしても、全く問題ない……」
「いや、それはさすがに問題になると思うのだが……。というか今日中に帰ってくれ、頼むから」
どこか目蓋が下がってきている様子のアイリスフィアに、クロスフィードは、はあ、と長いため息を吐いた。
「とりあえずはお前の話を信じておくが、本当にお前は何をしにここに来たんだ? 何もお前自ら来なくても……アイリス? 聞いているか?」
「ああ……」
返事は返ってくるものの、アイリスフィアは眠そうに瞬きを繰り返している。
その様子に嫌な予感がしてならないクロスフィードは、欠伸をしているアイリスフィアに声をかけようとした。
しかしそれは彼が突然立ち上がった事で阻まれる。
「眠い。寝台を貸せ」
「は!? ちょ、何を言って――」
眠そうであるにも関わらず、アイリスフィアの足取りは正確且つ素早過ぎて、クロスフィードが追いつく頃には既に寝台に潜り込んでいた。
上掛けを被り、本気で寝ようとしているアイリスフィアに困惑しながらも、クロスフィードは懸命に声をかける。
「待て! 寝るな!」
そう言って、寝台に横になってしまったアイリスフィアをクロスフィードは思い切り揺すったり、上掛けを引いてみたりと、いろいろやってみた。しかしアイリスフィアは頑なに抵抗するばかりで一向に起き上がろうとはしなかった。
「まだ話は終わってないだろう! アイリス!」
名前を読んだ次の瞬間、何をしても起き上がろうとはしなかったアイリスフィアがガバッと起き上がったかと思ったら、クロスフィードの胸倉をいきなり掴んできた。そしてクロスフィードは抵抗する間もなく、アイリスフィアの方へと引き寄せられる。
距離が近くなったその整った顔は、非常に凶悪だった。
「いいか」
物凄い低音で言葉を告げるアイリスフィアは、恐ろしいまでに目が据わっている。
「起こしたら潰す」
「何を!?」
アイリスフィアは眠くなると凶悪になるらしい事を知ると、クロスフィードはその恐ろしさに大いにたじろいだ。
しかしアイリスフィアはそれだけ告げると、クロスフィードから手を離し、再び上掛けを引き上げ、寝台に横になった。
それを呆然と見つめていたクロスフィードは、既に寝息を立てはじめているアイリスフィアに小さく呟く。
「昼寝しに来たのか、お前……」
昼寝なら王宮でしてくれとクロスフィードは心底思った。