伯爵夫妻と二人の騎士団長
危険極まりない夜会に参加してから既に五日が経っていた。
あの日の別れ際、アイリスフィアはこれから先のことに関して特に何も言わなかったので、クロスフィードは邸に籠もってひたすら父親の仕事を手伝っていた。
アイリスフィアから、王宮に来い、などという催促がないのならクロスフィードに王宮に行く理由はなかった。
そんな事を考えながら日々を過ごしていたクロスフィードだったが、思わぬところに伏兵がいた。
「王宮に行って、レイヴンにこれを届けて来てくれ」
父であるツヴァイスウェードに呼ばれて部屋を訪ねてみれば、大きめの箱を手にした父親にそんな事を頼まれてしまった。
まさか父親が平穏を乱す存在となろうとは思わなかったクロスフィードは、『五日』という期間に呪われているのではないかと本気で思った。
その箱の幅はツヴァイスウェードの肩幅よりも少し大きく、あまり高さのない箱だったため、クロスフィードは何が入っているのかを瞬時に察した。
もうそんな時期かと思うと、その時期の悪さに泣けてくる。
ちなみにレイヴンとは、詰所の騎士団長であるレイヴンリーズの事である。
「申し訳ないのですが、今回はご自分で届けてください」
「ク、クロフィ?」
軽やかに拒否の意志を見せると、ツヴァイスウェードが途端に慌て出す。
「どうしてだい!? 毎年クロフィが届けてくれているじゃないか!? ああ、クロフィ! 何故そんな冷たい態度なんだ!? 父さんは泣いてしまうよ!?」
そう言いながら、ツヴァイスウェードは既に涙目である。
クロスフィードはそんな父親を前に疲れたようなため息を吐いた。
「すみません、父さん。謝りますから泣かないでください」
大の男がえぐえぐ泣いている姿はどう頑張っても可愛くは見えない。それが実の父親なら尚更口から出るため息は重くなる。
涙目の父親を前にどうやって断ろうかとクロスフィードが考えていると、突然扉がドンという音と共に勢い良く開かれた。
「ツヴァイが泣いてるですって!」
「エイナ様、あまり無理をなさいますとお体に障ります」
扉を吹き飛ばさんばかりに蹴り開けたその人物は、クロスフィードの母親であるエイナセルティだった。
その傍にはエイナセルティの豪快な行動に少々慌てた様子のミラフェルマの姿がある。
察するに、偶然部屋の前を通った際に会話の内容を聞かれたのだろう。
「ツヴァイ! 私が来たからもう大丈ブホッゲホッ」
「ギャーッ! エイナーッ!?」
正義の味方よろしく台詞を決めようとしたエイナセルティは、残念ながら台詞の途中で咳き込みながらふらついていた。その様子に顔を真っ青にして叫び声を上げるツヴァイスウェードは、持っていた箱を勢い良く放り投げると光の速さでエイナセルティの体を抱き留める。
伯爵家のいつもの光景である。
ちなみにツヴァイスウェードが放り投げた包みは、クロスフィードが受け止めた。
「母さん、大丈夫ですか?」
いつもの光景とはいえ、体の弱い母親の事はやはり心配なので、クロスフィードもすぐに両親の許へ向かう。
「ええ……母は、大丈夫です……。これくらいでは、死なないわ……」
と言いながら、エイナセルティはツヴァイスウェードの腕の中でぐったりしている。
本当に大丈夫だろうか。
「ああエイナ、僕を置いて逝かないでくれ!」
「大丈夫よ、ツヴァイ。貴方を置いては逝かないわ」
必死の形相で訴えるツヴァイスウェードに、エイナセルティは安心させるようにニコリと微笑んでいる。
しかしながら、ツヴァイスウェードの妻に対する溺愛ぶりは半端ないのだ。
「こうしてはいられない! ミラ、急いで医者を!」
「かしこまりました」
ミラフェルマはツヴァイスウェードの指示を受け、速やかに部屋から出ていった。
彼女は、この状態のツヴァイスウェードにどれだけエイナセルティが無事であると訴えたところで話を聞かないことは既に承知している。そのため気が済むまでやりたいようにさせておくのが最良であると知っているのだ。
ツヴァイスウェードがこの状態に陥ってしまえばクロスフィードの言葉もろくに聞かなくなるので、この場でのミラフェルマの対応は大正解と言える。
「早く部屋で休ませないと……っ。エイナ、僕のエイナ……っ、頼むから死なないでくれ!」
「全く、ツヴァイは心配性ね。私は大丈夫なのに」
慌てふためくツヴァイスウェードを見つめながら、エイナセルティは、ふふ、と何処か嬉しそうに笑っていた。
エイナセルティが生まれつき体の弱い娘だという事を承知でツヴァイスウェードは彼女を妻に迎えたのだ。そのためツヴァイスウェードはエイナセルティの事を常日頃からこれでもかと言う程に案じている状態だった。
現在でもエイナセルティが元気に生きているのは、ツヴァイスウェードの過保護ぶりも少しは影響しているのだろうとクロスフィードは思っていた。
「こんなところにいては体が冷えてしまう! ああ、もうこんなに手が冷たいじゃないか! カーティス! 暖炉の用意をしてくれ!」
春も半ばとなり、暖かくなってきた今日この頃。果たして暖炉用の薪が残っているのかが問題だが、そんな事はお構いなしにツヴァイスウェードはエイナセルティを抱え上げ、ハミルカーティスの名を呼びながら部屋から出ていってしまった。
そんな両親を呆然と見送ったクロスフィードは、手に持っている箱を見つめながら諦めたようにため息を吐いた。
「結局こうなるのか……」
どう足掻いても、王宮へ行く未来を断つ事は出来そうもなかった。
◆◆◆◆◆
クロスフィードは仕方がないので、父親から渡された(投げ捨てられた)箱を持って王宮へと向かう事にした。
レイヴンリーズ騎士団長がいるのは、王宮の北側に位置する騎士たちの詰所だ。
その場所は王宮の敷地内に存在しているがある意味独立した形で存在している場所で、王宮側にいる者たちは滅多に足を踏み入れる事がないような場所でもあった。
王宮側からではなく詰所側にある裏門から入ればアイリスフィアに会う事もないだろうと考えたクロスフィードは、直接裏門へと向かった。
門番をしている騎士と軽く挨拶を交わして裏門を通ると、早々に見知った人物に見つかってしまった。
「あれ、クロスじゃねえか」
そう親しげに名を呼ばれたため振り返ってみれば、そこにはアレクヴァンディの姿があった。
「アイリスに会いに……来たわけねえよな」
ふとアイリスフィアの名前を出され、クロスフィードは何やら嫌な予感がして小さく身震いした。
「アイリスの奴、お前が来ないから日に日に機嫌悪くなるし、あの日から変な事ブツブツ呟いてるし、俺に当たるし……。本当、勘弁して欲しいんだが……」
アイリスフィアの相手に辟易しているというように肩を落としているアレクヴァンディの様子に、憐れやら申し訳ないやらで、よく分からない感情が浮かんでくる。
アイリスフィアに会ったが最後、確実に己の首を絞めかねない事態に陥る事はアレクヴァンディの言葉で嫌という程悟った。
アレクヴァンディには悪いがアイリスフィアには今後も会うつもりはないと、クロスフィードは秘かに思いながら苦笑いを浮かべていた。
「と、ところで、レイヴン騎士団長殿はどちらに居られるだろうか? 騎士団長殿に用があって来たのだが」
早々に話を変えてしまおうと思い、クロスフィードはこの場所に来た目的を果たす事にした。
するとそれを察したアレクヴァンディからジロリと怨みがましい視線を向けられたが、彼はすぐに長いため息を吐きながら騎士団長の居場所を教えてくれる。
「団長なら闘技場の方にいるぞ。近衛騎士団長と一緒に」
「近衛騎士団長殿と?」
クロスフィードはその組み合わせに少々首を傾げた。
王宮側に詰所の騎士たちが滅多に行かないのと同じくらいに、近衛騎士たちも滅多に詰所側へは来ないのだ。それなのに近衛騎士団長が詰所側に来るとういうのはとても珍しいのだ。
「ほら、もうすぐ親善試合があるだろう? その打ち合わせだ」
「ああ、なるほど」
アレクヴァンディの言葉にクロスフィードは納得する。
この国に存在する二つの騎士団は、親睦を深めると共に互いを向上させるという名目で、年に一度、親善試合を行っているのだ。
しかし表向きは親善試合と称されているが、その裏側では騎士団同士の仁義なき戦いが繰り広げられている事は誰もが知るところである。
「ありがとう。行ってみるよ」
「え!? あの場に行くのか!?」
「? ああ、そうだが」
「お前って団長たちの仲の悪さを知らないのか?」
アレクヴァンディの言葉に、クロスフィードは、ああ、と声を上げる。
騎士団同士の仲が悪い原因の一つには、騎士団長同士の仲が悪いという理由がある。今代の騎士団長たちは特に仲が悪いと専らの噂なのだ。
「知っているが、あのお二人の場合は喧嘩するほど仲が良いというのでは?」
「仲が良いなんてあり得ないだろう!? 出会いがしらに剣抜いて斬り合いはじめるような人たちだぞ? 俺は怖くて近付けん……」
その場に遭遇した事があるのか、何かを思い出すようにアレクヴァンディは身震いしていた。
騎士団長たちは互いに剣豪で、近隣諸国からも怖れられている程にその腕前は化け物じみている。彼らの最強伝説は最早神話の域だ。騎士団長たちが斬り合っている場面に遭遇してしまうくらいなら、丸腰で猛獣と戦えと言われたほうが余程マシだ、というのが騎士たちの意見のようだった。
「君の心配は有り難いが、私は大丈夫だから気にしないでくれ」
それじゃあ、と闘技場の方に足を向けると、アレクヴァンディから大きなため息が聞こえて来た。
「……ああもう! 心配だから俺も行く」
そう言って付いてくる意思を告げてくるアレクヴァンディに、クロスフィードは苦笑が浮かんだ。
会ったのはこれが三回目であるため、アレクヴァンディとはまだ親しいと言える仲ではなかった。しかしアレクヴァンディは旧知の仲のような接し方をしてくれるので、クロスフィードは内心彼の事を好ましく思っていた。
そうしてクロスフィードはアレクヴァンディと共に、闘技場へと向かう事になった。
闘技場は詰所と同じく王宮側の北に位置する場所にある。詰所とは隣接する形で存在しているため、主に騎士たちの訓練場としても使われている場所だった。
「もう一回言ってみろ! この脳筋バカが!」
「ああ、何度だって言ってやるよ! 耳の穴かっぽじってよく聞きやがれ! この偽物腹筋野郎!」
闘技場に足を踏み入れると、けたたましい怒号が既に飛び交っていた。
彼らが、近衛騎士団長と一般騎士団長だ。
「お二人はいつも通りだな」
「何を呑気な……」
苦笑するクロスフィードを余所に、アレクヴァンディは早くも二人を見つめて顔を引き攣らせていた。
言い合いをしている二人の団長たちは、まだ剣は抜いていないものの、次の瞬間には抜剣してしまうのではないかという殺気を辺りに撒き散らしている。
闘技場にはいがみ合っている二人の姿しかなく、他の騎士たちは皆逃げ出してしまったのだろう事が窺い知れた。
「相変わらずお元気ですね」
今にも死闘が始まりそうな勢いの二人に、クロスフィードは至って普通に声をかけた。
すると今まで凄まじいまでの殺気を振り撒いていた二人の団長は、揃ってクロスフィードに向いた。
「クロス!」
「クロス!」
二人の声が重なると同時に、再び互いを射殺さんばかりに睨みつけている。クロスフィードはそんな二人の様子に再び苦笑を浮かべた。
「たまには俺の所に顔を出せと言ってるのに、何で来ねえんだよ。昔はあんなに俺の後をついて回ってたってのに」
そう声をかけてきたのは、騎士団長のレイヴンリーズだ。
彼は、燃えるような赤い髪に深い緑色の瞳をしており、悪の親玉も裸足で逃げ出すほどの大変凶悪な面構えの一般騎士である。
「妄想も大概にしろ! クロスはお前の凶悪な面にいつも泣いていたではないか! クロスは私の後を良くついて回っていただろうが!」
そう反論したのは、近衛騎士団長のヴァンクライドだ。
彼は、金色の髪に晴れ渡る空のような色の瞳をしており、屈強な戦士もビックリなほど体格の良い大変厳つい近衛騎士である。
「お前こそ妄想たくましいな! この偽物腹筋野郎!」
「喧しいわ! というか私の腹筋は偽物などではない!」
「はっ、机に齧りついてるだけのお前に本物の腹筋なんてある訳ねえだろうが! そろそろ腹がたるんできたんじゃねえの?」
「全く口の減らない男だな、貴様は! 私はお前と違ってやる事が山ほどあるんだ! 毎日毎体の鍛錬ばかりしている脳筋なお前とは違うんだ!」
そうして再び火花を散らしはじめた二人を前に、アレクヴァンディから小さく声がかけられる。
「何お前、団長たちと知り合いだったのか?」
「ああ、お二人は父の友人なんだ」
「そうなのか!?」
意外だとでも言うように目を瞠っているアレクヴァンディの様子に、クロスフィードは知らなかったのかと思いながら、手短に説明を返す。
「父はもともと近衛騎士団に属していたんだ。その時にお二人とは知り合ったらしい。父と団長たちが友人関係にある事を知っている人は、騎士団には結構いるよ」
「そうなのか? 知らなかった……。という事は、もしかしてクロスの親父さんって物凄い大物?」
いがみ合う二人の団長と友人関係にあるというだけで、アレクヴァンディには物凄く偉大な人物に見えるらしい。
クロスフィードからすれば、妻と娘を溺愛する普通の父親でしかないのだが。
「おい、アレク。てめぇが何でクロスと一緒にいるのか知らねえが、今すぐクロスから離れろ。斬るぞ」
「うえええ!? 何で!?」
いつの間にか言い合いを中断していたレイヴンリーズが、剣の柄に手をかけながら物凄い眼光でアレクヴァンディを睨みつけていた。そんなレイヴンリーズの様子に大いにたじろいでいるアレクヴァンディは、更なる窮地に立たされる。
「今だけはレイヴンの意見に同意する。アレクヴァンディ、速やかにクロスから離れよ。さもないと明日の朝日が拝めなくなるぞ」
「殺人予告された!?」
どうして自分に矛先が向かっているのかさっぱり理解できていないアレクヴァンディは、二人の騎士団長から同時に睨まれ、最早虫の息だった。
「お前、あのガキの相手してんだろ? クロスにまで手ぇ出しやがったら容赦しねえぞ」
「ごごごご誤解ですってば!」
最早眼光だけで人が殺せるのではないかと言うほどに、レイヴンリーズの殺気は凄まじいモノとなっている。そんなレイヴンリーズから距離を取るように後ずさっているアレクヴァンディは、大量の冷や汗を流しながら、懸命に誤解だと訴えていた。
レイヴンリーズが言っている『ガキ』というのは、アイリスフィアの事だ。おそらくアイリスフィアとの噂のせいで、アレクヴァンディは二人の騎士団長から今にも斬りかかられそうになっているのだろう。
クロスフィードはそれが誤解であると既に承知しているため、アレクヴァンディを庇護しにかかる。
「アレクと殿下はそんな関係ではありません」
「なんと! クロスはアレクヴァンディを庇うと!? おのれアレクヴァンディ! 貴様覚悟は良いか!」
「何でですかッ!?」
事実を言っただけだったのだが、何故か逆効果だった。
今にも命の灯を吹き消されそうになっているアレクヴァンディと、一人の騎士の息の根を止めんとしている獰猛な騎士団長二人を見つめながら、この場をどう収めようかとクロスフィードは考えていた。
するとアレクヴァンディから悲痛な叫びが聞こえてくる。
「待ってくださいよ! 殿下は『花の君』にご執心だって噂になってるでしょうが! 俺との噂なんかデマだってお二人もご存じでしょう!?」
「ああ、あの噂か? その娘、噂じゃあお前と同じ青紫色の瞳だったそうじゃねえか。結局あのガキはお前にもご執心なんじゃねえの?」
「逆効果だった!?」
レイヴンリーズの切り返しにアレクヴァンディは大いに慌てふためいていたが、クロスフィードの方もそれどころでなかった。
夜会の日から五日間、クロスフィードはずっと邸に籠りっぱなしで外の話をあまり耳に入れていなかった。
公爵邸の夜会だったのだ。それなりに噂は立つだろうとは覚悟していたが、何やらよからぬ方向に噂が行っているような気がしてならない。
「その噂、私は知らないのですが……」
「おや、クロスは知らなかったのか? かなり大事になっているから、もう知っていると思っていたんだがな」
「大事……」
クロスフィードの言葉に答えてくれたのは、ヴァンクライドだった。
ヴァンクライドの説明によれば、公爵邸での夜会に王子の同伴者としてやってきた謎の娘は、事実王子に見初められた娘であり、王子は彼女以外を娶るつもりはないと公言しているようだった。しかしそう宣言する王子はその娘の素性を一切明かさないという矛盾した行動をしているという。そしてその娘を公爵や老高官たちが必死になって探しているという話が、現在王宮では噂になっているようだった。
「とても美しい娘であったと、専らの噂だ。あの娘なら殿下も心奪われるのは仕方ないだろうと、夜会に参加していた者たちは口々に言っているようだ」
その話に、クロスフィードはアイリスフィアの真の目的を思い知った気がした。
アイリスフィアはアレクヴァンディを利用して、自身が男色家であるという事実をより強く周りに認識させていた。しかしながら、アイリスフィアはこの国のたった一人の王子だ。世継ぎ問題はたとえ本当に男色家であったとしても避けられるモノではない。アイリスフィアが成人すると同時に後宮が開かれたのだから、世継ぎ問題に関しての話は嫌という程聞いている事だろう。それが嫌で男色家だなどという噂を自ら広めていたくらいだ。アイリスフィアはその事に関しての逃げ道を常に欲していたに違いないのだ。
そんな状況の中、何の因果か、クロスフィードはアイリスフィアに最悪な形で出会ってしまった。アイリスフィアからしたら、クロスフィードは都合のいい人物だった事だろう。
クロスフィードに女装させ、公爵邸での夜会でレイラキアよりクロスフィードを優遇すれば、当然周囲の目はクロスフィードに注がれる事になる。
おそらくアイリスフィアはそれを狙っていたのだ。
アイリスフィアがその娘以外を娶るつもりはないと公言すれば、世継ぎ問題に頭を抱えていた老高官たちは、光が見えたとばかりにその娘を血眼で探す事は目に見えている。男色家などと噂されていた王子がようやく女に興味を示したのだから、是が非でもその娘を見つけ出そうとするのは当然の行動だった。
クロスフィードは知らないところで己の身に危機が迫っている状況に顔を青くした。
噂の話を聞く限り、アイリスフィアは娘の正体を明かしてはいないという事だったが、アイリスフィアの目的はこの状況を如何に引き延ばすかにあるのだから、アイリスフィアがクロスフィードの事を誰かに話す事はないだろう。しかし問題は、その娘は公爵や老高官たちに探されているという事実だった。
探されている娘はクロスフィードだ。クロスフィードは男として日々を暮らしているため見つかる可能性は低いと言える。しかし万が一、王子が連れていた娘がクロスフィードだと突き止められてしまった場合は、クロスフィードだけでなく、伯爵家そのものが抹殺されてしまう。
新たに開拓されていく様々な未来の道筋には、一筋の光もありはしなかった。
「噂と言ってもほぼ事実だな。まあ、『花の君』って呼ばれるようになった話は、本当に噂だろうがな」
ヴァンクライドの話に付け加えるように、レイヴンリーズがそんな事を告げてきた。
話を聞いてみると、名前も素性も一切分からない娘であった事と王子が未だにその娘に関して何も言わないことなどから、『花の娘』が戻って来たのではないかという話にまで飛躍し、その娘は『花の君』と呼ばれるようになったらしい。
『花の娘』とはこの世界に古くからある『レイヴァーレ』という童話に登場する人物で、花から生まれたとされる不思議な娘だった。
この国と同じ名前のその童話はこのレイヴァーレ王国の建国当時の話であると伝えられているモノで、その内容は『花の娘』が三人の人間と共に酷い戦に立ち向かい、見事世界を救った英雄として語られている。
『花の娘』はこのレイヴァーレ王国と深い関わりを持つ娘だと伝えられており、戦の終結後この世界から消えてしまったとされる『花の娘』は、いつか必ずこの世界に戻ってくるのだという事が物語の最後にも語られている。
今回そういった話が元で、『花の君』などという呼び名が付けられたようだった。
そんな『花の娘』であるが、彼女が本当に実在したか否かは定かではない。しかし物語に登場する三人の人間は本当に実在した人物である事は、この国が存在している事で証明されている。
三人の人間は、この国の初代国王とその実妹、そして初代国王の友人が物語で語られている人物であると言われている。
三人の内の一人、初代国王の友人にしてこの国の『守護者』となったその人物が、今でも『花の娘』の帰りを待っているという話はとても有名だ。現にこの国には『守護者』という役割を持った人物がいる事は確かで、その『守護者』の存在で『花の娘』の存在はより真実味を帯びていると言っても過言ではないのだ。
ちなみに、『守護者』という役割を担っている人物は王家の人間と一部の者たちにしか接触しないという話なので、その人物が誰であるのかは公にされてはいない。
「そのご令嬢が本当に『花の娘』であったなら、国が揺らぐな」
「『花の娘』なんている訳ねえだろう。あれは物語の中の偶像だ」
「まあ、あの方もいつも通りだしな……。しかし一体何処のご令嬢であるのか……」
「そんなの知るかよ。……だがまあ、その娘は公爵の小娘より先にあのガキと踊ったって話だろう? この話を聞いた時は、その場で直に見てみたかったと心底思ったね」
クツクツと笑いながら凶悪な笑みを浮かべるレイヴンリーズの様子に、クロスフィードはその場にこの人がいなくて本当に良かったと心底思った。
「ふん。お前のような奴に公爵から招待状が届く訳がなかろう」
「当り前だ。万が一届いても行かねえよ、あの野郎の邸なんか。お前だって招待されてんのに行ってねえだろうが」
「誤解を招く言い方は止めろ! 私の場合は、兄上が行くから私は行かなくてもいいだけだ!」
そうやって会話をしている二人を余所に、クロスフィードはアレクヴァンディからこっそりと耳打ちされる。
「噂の『花の君』ってお前の事だよな?」
「残念な事に、非常に不本意であるが、そうだろうな……」
アイリスフィアから女装しろと言われた時、アレクヴァンディもその場にいたのだ。当日クロスフィードはアレクヴァンディに会ってはいないが、噂の人物が誰であるのかを知っているのは当然の事だった。
噂がある以上、たとえ詰所側にいるといっても長居は無用だと考えたクロスフィードは、この場にやって来た目的を早く済ませてしまおうと、再び言い合いをはじめている二人の騎士団長たちに声をかけた。
「レイヴン殿に用があるのですが、クライド殿、少しレイヴン殿と話してもよろしいですか?」
「何だ、俺に用があったのか。つか、俺に話があるのに、何でクライドに断り入れんだよ。こいつの事なんか無視しろ」
「本当に脳筋バカだな、お前は! クロスは私の事を立てくれているというのに!」
そう言ってヴァンクライドは、ふん、とレイヴンリーズから顔を逸らすと、クロスフィードに向いた。
「こいつとの話も終わったから私はそろそろ王宮に戻るよ。たまには私の家にも遊びに来てくれ。息子たちもクロスが来るのを楽しみにしているんだ。ああそれと、こいつとの話が終わったら速やかに帰るんだぞ? コイツは歩く害悪だからな」
「はっ、クロスにとってはお前の方が害になるんじゃねえの? その点俺の周りは世界規模で見ても安心極まりない場所だがな」
「私はお前自身が危険極まりないと言っているんだ!」
「うるせえんだよ! 王宮に戻るんだろう? さっさと消えろ! これ以上俺の領域に留まるんじゃねえ!」
「いつからこの場がお前の領域になったというんだ! 脳筋バカもここまでくるといっそ病気だな!」
「やろうってのか! ああ?」
「上等だ! 受けて立ってやろう!」
全く話が進まなかった。