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名誉ある非常事態

 公爵邸に着いたのは、すっかり陽も落ち、夜空に星の瞬きが見えるようになった頃だった。


「お前は一切喋るな」


 移動中の馬車の中で、クロスフィードはアイリスフィアからそう命じられた。

 そうやって遊ばれるのかと眉根を寄せながら、クロスフィードはそれに頷きを返した。


 おそらくこちらが慌てふためく様を見て愉しむつもりなのだろうと考えたクロスフィードだったが、その挑戦には敢えて乗った。

 クロスフィードは貴族の子女としての教育もちゃんと受けている。故に貴族の子女として恥ずかしくない振る舞いは心得ているのだ。

 完璧に女を演じる事など造作もない事だと心の中で不敵な笑みを浮かべるも、クロスフィードは自分が女である事を思い出し、ふと悲しくなった。


「手を」


 先に馬車を降りたアイリスフィアにそう言われ、クロスフィードはその手をとって馬車を降りる。

 馬車を降りた時点から、クロスフィードは男である自分から女である自分に切り替えた。


「さすがに踵の高い靴は履いてこなかったか」


 クロスフィードにだけ聞こえる声でアイリスフィアがそんな事を呟いた。

 クロスフィードは一般の女性たちより背が高い。故に敢えて踵の低い靴を履いてきていたのだ。

 アイリスフィアはクロスフィードより背は高めだが、それでもクロスフィードが踵の高い靴を履いていたならばその背を越えてしまっただろう。

 クロスフィードが『クロスフィード』であるとばれないようにするためにも、少しでも背が低く見えたほうがいいのだ。


「俺より背の高い女も見てみたかったがな」


 ニヤリと笑うアイリスフィアの表情にクロスフィードは口を開きかけたが、言葉はグッと呑み込み、睨むような視線を送っておいた。






 アイリスフィアにエスコートされながら会場へと足を踏み入れると、その場にどよめきが起こった。

 それは当然だろう。来るはずのなかった王子が後宮に入っていない娘を伴って現れたのだ。驚かないほうがおかしい。


「お越し頂けるとは思っておりませんでした。仰って下されば迎えをやりましたものを」


 そう言いながらいち早く近付いてきたのは、主催者のケイルデレイ公爵だった。その少し後ろにはレイラキアの姿も見える。

 レイラキアも参加していた事を改めて知ると、クロスフィードは早くもこの場から逃げ出したくなった。


「気にするな。俺もたまにはこんな風に参加してみたかっただけだ」


 アイリスフィアはそう言って人の良さそうな笑みを浮かべていた。その笑みに、クロスフィードは内心そんな顔も出来たのかと驚いていた。

 クロスフィードの前ではハッと鼻で笑ったり、フッと不敵に笑ったりといった笑みしか見せなかった。一体この差はどういう事かと考えると、それだけアイリスフィアにとってのクロスフィードが犬畜生だという事だろう。大変不愉快である。


「それでそちらの方はどなたですか?」


 この場に来た以上避けては通れないその質問に、クロスフィードは背に嫌な汗が流れていくのを感じていた。

 公爵は穏やかそうな表情を崩さないが、その眼光には相手を見定めようとする鋭さが見えた。その様子から公爵がクロスフィードの正体に気付いていないことが分かるが、居心地が悪い事に変わりはなかった。

 クロスフィードは今すぐにでも逃げたい衝動に駆られながらも、それを表情に出す事なく淡い笑みを浮かべていた。

 アイリスフィアに『喋るな』と言われている手前、クロスフィードは口を開くことが出来ない。


「彼女の素性は明かせない。そういう約束でパートナーを務めてもらう事に了承してもらった」


 アイリスフィアの言葉に嘘はないが、あまりにも直球過ぎないかとクロスフィードはヒヤヒヤしていた。


「殿下、この場で後宮に入っていないご令嬢をエスコートする事は……」


 少々渋い顔付きになった公爵の視線の先にはクロスフィードがいる。その視線が若干上の方に向いているのは、『アイリスフィア』の髪飾りを見ているからだろう。

 その髪飾りが意味するところを公爵は盛大に勘違いしているに違いないと思うと、クロスフィードは泣きたくなった。


「レイラは公爵がエスコートするようであったし、後宮にいる娘たちでは俺のパートナーは務まらん。だから彼女に頼んだんだ。異論はあるか」

「いえ、そのような……。ただ、後ほど私にはこの方がどなたのご息女かお教え願えないでしょうか? 彼女のこれからのためにも」


 先程までの視線とは打って変わって案じるような物言いをする公爵に、クロスフィードはその気遣いを感じた。


 王子がエスコートするという事は王子に見初められたと同義だ。現状後宮に入っていないとしても、未来の王妃に一番近い存在となる事は最早確定事項となる。

 もしクロスフィードが伯爵令嬢としてこの場にいたならば、後宮入りは免れなかっただろう。


 王子にエスコートされたという事は、王子のモノという認識を周囲に植え込む事にもなる。そうなると後宮に入る以外の縁談はなくなる事は必至だ。王子が見初めた娘に縁談話を寄越すような命知らずな貴族はいない。


 公爵はそういう事を見越して、先の言葉を告げたのだ。


「その必要はない。彼女とは今宵限りだ」

「そうは参りません。彼女の事を思えば、すぐにでも後宮に――」


 それだけは勘弁してくれ、とクロスフィードは淡い笑みの下で叫んでいた。


 たとえ伯爵家を疎んでいようと、公爵は大変いい人だった。

 何処の令嬢かも分からないような娘の将来を案じてくれるばかりか、後宮入りまで考えてくれるとは、本当に伯爵令嬢としてこの場に立っていたらその温情に涙したかもしれない。

 しかし今のクロスフィードにとって、その優しさは逆に首を絞める荒縄となるだけだった。


「君も貴族の子女であるなら分かるね?」


 王子の態度を見兼ねたのか、公爵はクロスフィードに話を振ってきた。

 クロスフィードがどうしたものかと内心焦っていると、アイリスフィアが代わりに口を開く。


「言い忘れていたが、彼女は口が聞けない。彼女への質問は俺が代わりに答えよう」


 そうきたか、と胸の内でツッコミながらクロスフィードはアイリスフィアにチラリと視線を向けた。

 そう宣言されてしまえば、クロスフィードはもうこの場で口を開く事は出来い。しかし声で正体を知られてしまう事もあり得るかもしれないので、アイリスフィアに『喋るな』と言われたのは、ある意味救いだったのかもしれないと思い直す。

 とはいうものの、アイリスフィアの返答次第では窮地に立たされてしまうという、非常に緊張感溢れる状況である事には変わりない。


「ただ、彼女への無礼は俺への無礼だと心得て質問しろ」


 クロスフィードはギョッとして思い切りアイリスフィアに向いた。しかし王子はその整った顔に柔らかい笑みを浮かべてクロスフィードを見つめ返してくる。


 やられたと思い、咄嗟に視線を逸らしたが、それはもう意味のない行動だった。


 周囲の者たちからすれば、アイリスフィアの言葉はどう考えてもクロスフィードを庇う行為に見えた事だろう。そして先程の笑みで、アイリスフィアはクロスフィードに想いを寄せているのだと盛大に勘違いしてくれたに違いない。

 考えれば考える程に最悪な現状しか見えてこない現実に、クロスフィードは頭を抱えたくなった。


 アイリスフィアは本気で『クロスフィード』で遊んでいる。


「せっかく来たんだ。一曲踊りたいのだが?」


 話を切り上げたいと暗に滲ませているアイリスフィアの言葉に、公爵はまだ何か言いたそうにしていたが、王子の言葉に従った。


「これ以上は無粋ですね。ではレイラと――」

「いや、彼女と踊らせてもらう」


 アイリスフィアを快く送り出そうと思っていたクロスフィードは、その言葉で固まった。


「最初はエスコートしている相手と踊るのが礼儀だ。彼女が先に決まっているだろう」


 さも当然と言わんばかりの口調で告げるアイリスフィアに、クロスフィードは本気で殴りたい衝動に駆られた。


 アイリスフィアが言うように、最初はエスコートしている相手と踊るのが礼儀だ。しかしレイラキアを差し置いてクロスフィードが先に王子と踊るのは非常に不味いのだ。

 本来ならば王子と踊れるという事は大変名誉な事ではあるが、如何せん状況が最悪だ。まともな思考の持ち主ならば、誰もが喜びよりも先に己の境遇の悪化に目眩を起こすだろう。


 クロスフィードはアイリスフィアの袖をクイクイと引っ張って振り向かせると、それはダメだと言うように静かに首を振った。

 本当は千切れんばかりに首を振りたいのだが、そこは我慢だ。


 しかしアイリスフィアはそ知らぬ顔で恐ろしい事を告げてくる。


「お前が気にする事はない」


 お前は気にしろよ、と叫びそうになる言葉をクロスフィードは懸命に呑みこんだ。

 その言葉に、社交界から伯爵家を抹殺するつもりなのだろうかと、クロスフィードは本気で勘ぐってしまった。


 現状、未来の王妃はレイラキアであるという認識は誰もが抱いている事だった。そんな中でレイラキアを差し置いてアイリスフィアと先に踊ってしまえば、未来の王妃はレイラキアではないのだと周囲に公言するようなものなのだ。しかも公爵家主催の夜会となれば、それはレイラキアに恥をかかせると共に、公爵家まで貶めるような行為となる。

 まだ後宮に入っている誰かと言うのなら話は別だが、言うまでもなくクロスフィードは後宮になど入っていない。


 アイリスフィアの行為が如何に公爵家に対しての無礼となろうとも、彼は次期国王だ。いくら公爵家と言ってもアイリスフィアに文句を言う事は憚られる。

 では誰に文句がいくのか。

 それはアイリスフィアにエスコートされているクロスフィードに決まっているのだ。


 現状、アイリスフィアの隣にいるのがクロスフィードである事は知られていない。しかし仮にアイリスフィアの隣に立っているのがクロスフィードではなく何処かの令嬢だった場合、その令嬢の家は公爵家から睨まれる事は避けられず、それに便乗する形でその他の貴族たちからも今後の付き合いはなくなるだろう。

 それほどに公爵家が周囲に与える影響というのは強いのだ。公爵家に睨まれてしまえば、貴族家として死ぬも同然だ。

 それは現在の伯爵家がいい例だろう。別に公爵家に睨まれている訳ではないが、公爵家と少なからず蟠りがある事は周知の事実だ。そういった事情と二十年前の事件のせいで、伯爵家は今や落ちぶれた貧乏貴族なのだ。


 確かにエスコートしている相手と最初に踊るのが礼儀ではあるが、この場にレイラキアがいる以上、アイリスフィアはレイラキアと踊るべきなのだ。

 しかし、そうする事が一番の平和的解決になるというのに、アイリスフィアは笑みを浮かべたままクロスフィードの手を取っている。


「行くぞ」


 そう言って問答無用で手を引いてくるアイリスフィアに、クロスフィードは少しばかり抵抗した。

 これはやり過ぎだ。

 そう抗議するように視線を向けると、不意に顔を近付けてきたアイリスフィアに耳元で恐ろしい事を告げられる。


「この場でお前の正体を明かしてもいいんだぞ」


 その言葉に、クロスフィードは一気に血の気が引いた。

 この状況でそんな事をされてしまえば、確実に伯爵家が潰される。


 青褪めるクロスフィードの様子を余所に、アイリスフィアはクロスフィードの手を引いて行く。

 クロスフィードはもうその手を拒む事は出来なかった。


 周囲の視線がとても痛い。


「足踏むなよ」


 手を引かれるままに広間の中央までやって来ると、アイリスフィアが不意にそんな事を言ってきた。

 周囲の視線で体に穴が開きそうになっているクロスフィードは、その言葉に無性にイラついた。

 思い切り踏みつけてやろうかと本気で考えたが、この状況でそれをするのは得策ではない。失態を見せるくらいなら完璧を見せたほうがまだマシだ。この場で失態を犯すという事はアイリスフィアにも恥をかかせる事になるのだ。この場で王子がエスコートする娘が愚鈍であると思われるのは避けるべきだとクロスフィードは判断した。

 たとえ性悪陰険意地悪王子が相手であろうと、相手に恥をかかせる事は淑女としての矜持が許さなかった。


 公爵が指示を出したのか、止まっていた奏者たちの演奏が再開される。その曲に合わせて、クロスフィードはアイリスフィアと共に踊る。


 クロスフィード達以外に踊っている者はいない。


「驚いたな」


 アイリスフィアからそんな言葉が聞こえて来たが、クロスフィードはそれを無視してステップを踏み続ける。

 貴族の子女としての教育も受けて来たのだ。クロスフィードが女方のステップが踏めない訳がなかった。しかしその事を知らないアイリスフィアは、クロスフィードが女として文句なしの踊りを披露している様子に、満足そうな笑みを浮かべていた。


「意外に踊り易い」


 そんな事を言いながら体をピッタリと合わせてくるアイリスフィアに、同じ事を考えていたクロスフィードは少々悔しそうに眉根を寄せた。

 アイリスフィアとのダンスは非常に踊り易かった。アイリスフィアのリードは完璧で、さすが王子と言わざるを得ないものがあった。

 アイリスフィアは宴や夜会などには滅多に顔を出さないような人物であるため場数を踏んでいる訳ではないだろう。しかしこちらが合わせやすい動きと足捌きは文句のつけようがなく、クロスフィードはそれだけで腹が立ってくる。


 踊っている最中やたらと体をくっつけてくるアイリスフィアにクロスフィードは少々眉根を寄せて睨むような視線を送るが、当の本人はその視線を軽く受け流してしまう。何とも憎らしい。

 しかしその行動が見つめ合っているように見えている事実を、残念ながらクロスフィードは気付いていなかった。


 そうして曲が終わり、互いに動きを止めると、広間に盛大な拍手が鳴り響いた。


「なかなか良かったぞ」


 満足気に笑みを浮かべるアイリスフィアの様子に、それどころではないクロスフィードはムスッとした表情で王子を睨みつけた。

 踊りきってしまった。ただその事が、クロスフィードにとっての絶望だった。


「そんな顔をするな。美人が台無しだぞ? どうせバレはしないんだ。お前が下手を打たなければな」


 無駄にいい声でそんな事を囁くアイリスフィアに、クロスフィードは目の前の男を殴りたい衝動を抑える事に大変苦労した。


 そんなやり取りの後、再びアイリスフィアに手を引かれて広間の中央から離れると、夜会に参加していた人たちも、それぞれ夜会を楽しみはじめていた。しかし余程アイリスフィアの事が気になるようで、視線は常に王子に向いていた。

 アイリスフィアに挨拶に来る者はまだいない。それはアイリスフィアがまだレイラキアと言葉を交わしていないからだ。本来ならレイラキアと一曲踊った後を見計らって挨拶をと思っていたであろう貴族たちは、アイリスフィアがレイラキア以外の娘と踊ってしまったために挨拶の機会を失っているのだ。


「アイリス」


 クロスフィードが周りの痛い視線を懸命に無視し続けていると、不意に声をかけてくる者がいた。

 そちらに視線を向けると、そこには美しく着飾ったレイラキアの姿があった。


「事前に言ってくれればわたくしが相手を務めたのに」


 纏っている赤いドレスは胸元が大きく開いており、その豊満な胸を惜しげもなく強調するような意匠になっていた。

 アイリスフィアの好みはこのくらいの胸なのだろうかとふと考えてしまったクロスフィードは、無さ過ぎず有り過ぎない己の胸にチラリと視線を落してしまった。

 男として生きているのだから、これくらいが丁度いいのだ。

 クロスフィードはそう自分に言い聞かせた。


「相手くらい自分で決める」

「またそんな意地悪を言って」


 仕方がないなというような苦笑を浮かべるレイラキアの様子に、クロスフィードは二人が昔からの知り合いなのだろう事を察した。


 レイラキアはアイリスフィアが生まれた時から婚約者のような立場にあった。

 父親の公爵は、国王が亡くなった後で生まれたアイリスフィアの代わりに国王代理として国政を担ってきた人物であるため、その娘であるレイラキアが妃候補に上がるのは当然の事だった。

 魔力量は貴族の中では普通というくらいだったが、その他の条件が他の娘たちよりも優れているため、後宮でもその地位は揺らぐ事は無いのだ。

 レイラキアはアイリスフィアより一つ年上という事もあり、幼い頃から共に過ごす時間も多かったのだろうと、クロスフィードは考えていた。


「アイリスはわたくしと一曲も踊ってくれないのかしら?」


 そう言って小首を傾げる姿は、とても可愛らしく見えると共に、妖艶さも醸し出している。男ならその仕草だけで完全に絆されてしまうだろう。

 しかしそんなレイラキアの仕草を前に、アイリスフィアは思い切り顔を顰めていた。


「少しくらい休ませろ」

「あら、それほど疲れているようには見えないわよ?」


 ふふっと笑みを浮かべるレイラキアに、アイリスフィアは眉間の皺を更に深くしていた。


 レイラキアはレイラキアなりに周りの事を気にして自ら誘ってくれと言っているのだろう。夜会に参加している貴族たちは、本来の相手であるはずのレイラキアがまだアイリスフィアを踊っていない事実に困惑気味なのだ。レイラキアを差し置いてアイリスフィアが他の娘と踊ってしまった事でレイラキア自身は気分を害しているだろうに、それをおくびにも出さずに自ら王子の無神経な行為を払拭しようとしてくれているのだろう。


 公爵がいい人なら、その娘も大変出来た人だとクロスフィードは思った。


 クロスフィードはアイリスフィアの袖を引いてこちらを向かせると、踊って来い、と目で訴えた。アイリスフィアには思い切り睨みつけられたが、それでもレイラキアと一曲踊ってもらわなければ、クロスフィードとしても困るのだ。


「……分かった」


 嫌々というように承諾を告げるアイリスフィアは、クロスフィードから離れ、レイラキアに手を差し出した。それに応じるレイラキアの手を取って、アイリスフィアは再び広間の中央へと戻って行った。

 それを見送ったクロスフィードはようやくアイリスフィアが離れてくれた事に少しばかりホッとしていた。しかし気を抜いてもいられないので、隙を見せないようにその場に佇み、二人の踊る様子を見つめていた。

 周りの貴族たちは腫れものに触る事を嫌がっているのか、誰も近づいては来ない。それが唯一の救いだった。


 二人の踊りはとても優雅で美しかった。

 先ほど同様にアイリスフィアのリードは完璧で、それに沿ったレイラキアのステップも華麗だった。


 そんな二人の完璧な踊りを目の当たりにしたクロスフィードは、アイリスフィアと踊っていた時の自分はどういう風に見えていたのだろうかと少しばかり気になった。


「少しいいかい?」


 不意に声をかけられたため少々身構えながら振り向くと、そこには両手にグラスを持った公爵の姿があった。


「まさか殿下がこんなに綺麗な子を伴っていらっしゃるとは思ってもみなかったよ」


 渡されたグラスを思わず受け取りながら、クロスフィードは苦笑する公爵を見つめた。


 アイリスフィアが誰だか分からない娘を伴って登場したとなれば誰だって驚くだろう。アイリスフィアには男色家の噂があるのだ。女を伴って、という部分だけでも公爵にとっては予想外の展開だったに違いない。


 クロスフィードは無性に居た堪れなくなってしまい、思わずグラスに入っていた酒に口を付けた。


 さすが公爵家。出されている酒も上等で美味い。


「殿下の我儘に付き合ってくれたのだろう? 君くらいのご令嬢がいる家は多いが、口が聞けないとなると私では心当たりがなくてね。殿下はあんなふうに仰っておられたが、出来れば何処のご令嬢であるのか教えてもらえないだろうか?」


 アイリスフィアが連れて来た娘だからこそその素性を気にするのは最もだとクロスフィードも理解している。しかしクロスフィードはその質問に答える事が出来ないのだ。それはアイリスフィアに『喋るな』と言われているからではなく、伯爵家のクロスフィードだと知られるわけにはいかないからだ。


 そうしてどうやってこの場を乗り切ろうかと思っていた矢先、別の声が公爵に返事を返す。


「彼女の素性は明かさないと、はじめに言ったはずだが?」


 その声にハッとしてそちらを向けば、広間の中央で踊っているはずのアイリスフィアがいた。

 気付けば曲が変わっていたため、踊りきったのだろう事はすぐに察したが、レイラキアの姿が見えない事に一抹の不安がよぎる。


「アイリス! わたくしを置いて戻るなんて、失礼だと思うのだけど」


 続いてやって来たレイラキアの言葉に、クロスフィードは目眩がした。

 今の今まで踊っていた相手を放り出して戻ってくるなどあり得ない。

 レイラキアもその事には少々怒りを見せている。当然だ。


「ちゃんと、戻る、と断りを入れただろう」

「そういう事を言っているのではないわ」

「ではどういう……っ」


 言葉の途中でアイリスフィアが突然自身の胸の辺りを掴んだかと思ったら、辛そうに長い息を吐いていた。それを目の当たりにしたクロスフィードは咄嗟にアイリスフィアの顔を覗き込むように顔を傾け、その体を支えるように手を添えた。

 大丈夫か、と尋ねそうになった口を懸命に閉じ、クロスフィードはアイリスフィアの様子を窺った。


「平気だ。そんな顔をするな」


 酷く優しげな声音に少々目を瞠って驚いてしまったが、そんな事を気にしている場面ではないと思い直し、すぐにアイリスフィアの状態を確認する。しかしさほど呼吸は乱れておらず体に異常も見受けられないので、クロスフィードは少しばかりホッと息を吐いた。


「殿下、ご気分が優れないのでしたら部屋を用意させますが」

「結構だ。だが、今日のところはこれで失礼させてもらう」


 公爵にそう告げたアイリスフィアに手を取られたクロスフィードは、手に持っていたグラスを近くのテーブルに素早く置くと、手を引かれるままに王子と共に出口へと向かう。


 公爵に別れの挨拶をする事すらも儘ならなかったクロスフィードは、これで正体が知られたら本当に抹殺されてしまうだろうなと思いながら、最悪の未来の道筋が開拓されてしまった事実に、最早涙も出なかった。






◆◆◆◆◆






「アイリス、体は本当に大丈夫か?」


 馬車の中で二人きりになったのを見計らい、クロスフィードはようやく口を開いた。


 言ってやりたいことは山ほどあったが、それよりもクロスフィードはアイリスフィアの体調のことが気になって仕方がなかった。


 アイリスフィアは幼少の頃から病弱で人前にも滅多に出て来なかったような人物だった。しかし会ってみたら嫌味を連発出来るほどに元気な姿だったので、先程の辛そうな様子を見るまですっかり病弱であった事を忘れていたのだ。


「念の為、王宮に帰ったら主治医に診てもらえよ。自分が大丈夫だと思っていてもそうじゃない時だってある……どうしたんだ?」


 向かい側に座っているアイリスフィアが奇怪なモノでも見てしまったかのような表情で見つめてくるので、クロスフィードはどうしたのかと首を傾げた。


「何で俺の心配をする?」


 告げられた言葉は、クロスフィードにとっては意味不明なものだった。

 何でそんな事を聞くのだと更に首を傾げれば、アイリスフィアは、ああ、と不満そうな声を上げ視線を落とした。


「今さら俺に媚を売るつもりなのか? 先程の咄嗟の演技といい、よくやる」


 ハッと鼻で笑い、不機嫌そうに顔を歪めているアイリスフィアの様子に、クロスフィードは思い切り眉根を寄せた。

 先ほどという事は、公爵邸で心配した事を言っているのだろう。しかしそれが演技だと言われるのは心外だった。


「辛そうにしていたのだから心配するのは当然だろう。咄嗟に演技が出来るほど私は器用ではない」

「令嬢の前では巧みな演技を披露していたではないか」

「な……っ、あれは――」


 クロスフィードは不機嫌さを隠しもしないアイリスフィアの様子に、反論しかけた言葉をグッと呑み込んだ。

 言っても無駄だと思い一度息を吐くと、クロスフィードは視線を落としながら口を開いた。


「私の母も体の弱い人だから、辛そうにされると心配せずにはいられないんだ。それが誤解を招く行為になるとは思わなかった。もう心配するような言葉は言わない」


 それだけ告げるとクロスフィードは口を閉ざした。

 何を言ってもアイリスフィアにとっては捻れた意味に取られるのだろうと思うと、下手な事は言えないなとクロスフィードはため息を吐いた。


 そうして互いに黙ったままでいると、不意に小さな声がクロスフィードの耳に届いた。


「……悪かった」


 嫌味しか出てこないと思っていたその口から謝罪の言葉が出てくるとは思わなかったクロスフィードは、目を瞠ったままアイリスフィアを見つめた。


「あれは、帰る口実を作るために一芝居うっただけだ。体は何ともない」


 フイと顔ごと視線を逸らせるアイリスフィアの横顔は、拗ねたような表情をしながらも先程までの不機嫌さは見られなかった。


「そうか。よかった」


 クロスフィードはそれだけ告げると、アイリスフィアの横顔を見つめながら小さく苦笑した。


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