舞い込む縁談話
とりあえず王子直属の騎士が決まったら連絡を貰える事になったので、クロスフィードは数日の間王宮に近付く事すらしなかった。
宴の時の事もあるため公爵の動向も気になるところではあるが、その辺りは今のところ目立った動きはない。しかし用心するに越した事はないので、クロスフィードはしばらく邸で大人しくしていようと思っていた。
「あれから五日経ったのか……。五日か……嫌な予感しかしないんだがな……」
これからの事を話し合った日から今日で五日目。『五日』という日数に最近いい思い出がないクロスフィードは、何もなければいいのだがと思わずにはいられなかった。
「そう言えば、そろそろ春野菜の出荷時期か……、出荷の手配をしないとな。ああ、これはもうじき種蒔きがはじまるのか。手伝いに行けるかな……」
父親から引き受けている領地運営の仕事に関した書類に目をやりながら、今年は行けないだろうなとクロスフィードは小さくため息を吐いた。
伯爵家も国から領土を賜っており、その土地にある町の領主も兼ねている。伯爵家が治めている土地では農業が盛んで、作物の出荷量は国でも一、二を争うほどだ。
もともと何代か前の伯爵家当主の趣味が土いじりだったようで、領土で作物の栽培を初めたのが事のはじまりだという。そこから次第に農業が盛んになり、今では国の食糧事情の大半を背負うまでになっている。
二十年前の伯爵家取り潰しの話が出た時、王妃と共に伯爵家を守ってくれたのがその町で暮らす人々だったようで、今でもクロスフィードは町の人々から可愛がってもらっている。それに酬いるためにも、領地運営には手を抜きたくないとクロスフィードは思っていた。
本来なら治めている町の方に住むのが一般的ではあるが、クロスフィードの家族は王都で暮らしている。それは母親であるエイナセルティの体が弱く、彼女を診ている医者が王都にいるからだった。
治めている町の方に移り住む事は可能だが、エイナセルティに何かあった時はすぐに医者に診せる事ができるようにと、王都にある別邸で暮らしているのだ。
そういった事情があり王都で暮らしている訳だが、クロスフィードも既に成人を迎えたため、近いうちにクロスフィードだけが治めている町の方に行くという方向で父親であるツヴァイスウェードとは話をしていた。そのために領地運営の仕事の殆どは、現在クロスフィードが引き継いでいる状態だった。
しかし現状それが難しくなってしまったのは、アイリスフィアが公爵に反旗を翻したからだった。戦力として選んでもらった以上、この件が片付くまではこのまま王都にいる事になる。少なくとも、アイリスフィアが王位を継ぐまでは傍にいる事ができるので、王子殿下が国王陛下になったあかつきには、心置きなく王都を離れられるだろうとクロスフィードは思っていた。
しかしながら伯爵家が治めている領地は、王都から馬で駆ければ、昼に出発してもお茶の時間には着いてしまうくらいの距離であるため、それほど遠いという訳ではない。それでもすぐに駆けつける事ができた方がいいだろうと思い、クロスフィードは現在も王都で領地の運営を行っているのだ。
「クロフィ、ちょっといいかしら?」
扉を叩く音が聞こえたので返事を返すと、部屋へと入って来たのは母親であるエイナセルティだった。
母親の手には何枚かの封書が見える。
「お仕事の途中だった?」
「いえ、そろそろ一息つこうと思っていたところだったので、気にしないでください」
そう言って仕事机から離れると、クロスフィードはエイナセルティを迎え入れた。そして窓際にある卓まで連れてくると、椅子に母親を座らせる。
「お茶を用意して来ます」
「ああ、大丈夫よ。ここに来る前、ミラにお願いしておいたから」
「そうですか」
侍女に頼んできたというのなら自分が行くまでもないだろうと思い、クロスフィードは母親の正面の椅子に腰を下ろした。
「もしかして訪問理由はいつものヤツですか?」
「そうなの。有り難い事ではあるけど、嬉しいんだか何なのか微妙よね」
そう言いながらエイナセルティは持っていた何枚かの封書を渡してきた。クロスフィードはため息を吐きつつ封書を受け取ると、途切れる事のないそれをうんざりした表情で見つめた。
「この人は新しい人ですね。この人は前にも断りを入れたのに……。この人、これで五回目ですよ!?」
封書の差出人を確認しながら、クロスフィードは初めて見る名前はともかく、見た事がある名前には思わずため息が出た。
しかしため息を吐きたくなる原因は他にもある。
「どうして男性からも来るんでしょうね……」
「世の中にはいろんな人がいるものなのよ」
母親から諭されるようにそんな事を言われても、背筋が冷える以外の感情など浮かんではこなかった。
「何回送っていただいてもお受けするわけには行きませんからね……。いくらなんでも女性と結婚するわけにはいきませんし。こうした縁談話も最近では面倒に思えて仕方ないです……」
目の前に広がる封書の中身は、クロスフィードに対する縁談を申し込みが書かれた手紙だった。
上位貴族から相手にされていないと言っても、クロスフィードの家は伯爵家。爵位を持たない下級貴族や成り上がりと言われる商家や実業家たちからすれば、この上なく魅力的な爵位だ。伯爵家が家柄相当の婚姻が望めない現状を知っている彼らが、爵位を手にできる機会を逃す訳がないのだ。
よくよく考えれば、伯爵家と縁者になってしまえば社交界から冷遇される事は容易に想像できそうだが、爵位が手に入るという事だけを見ればこの上なく魅力的に見えるのだろう。
「伯爵家にとって利益になりそうな縁談も中にはあるんですけどね。でも伯爵家の跡取りが欲しいので、相手は男の方じゃないといけませんから」
と言いながら、男性からの縁談の申し込みは横へと除けておく。
クロスフィードを男と思って縁談を申し込んで来ているのだから、この男性たちは論外だ。
「ああ……またスヴェレラ商会の会長からですか……。このご当主は本当に粘り強い方ですね……」
「あらやだ、本当ね。うちに縁談を申し込まなくても当主の娘さんなら引く手数多でしょうに……。そんなに爵位が欲しいのかしら?」
「欲しいと思いますよ。爵位があれば商売の幅も広がりますし、相手に軽んじられる事もなくなるでしょうからね」
爵位もなく貴族でもないままでは商売をするにも限界がある。貴族たちを相手に商売をするとなれば爵位がある方がより上位の貴族とも取引もできるようになるし、取引相手の格も上がる。平民だからと足元を見られる事もなくなるだろうし、近隣諸国との取引にも活用できる。
それだけ爵位というモノには利用価値があるのだ。
「ご当主は一代で財を成した方でもありますし、その能力は確かでしょう。国外にも独自の仕入れルートを持っているようですし、できればお近づきになりたいですね」
「そうね。領地で栽培する作物の幅も広がりそうですものね」
このレイヴァーレ王国は世界的に見ても大国であるため、様々なモノが集まってくる。それは食物関係も同様で、国内では生産されていない野菜や果物などは国外から仕入れているのが現状だ。
できれば国外から入ってくる作物を自国でも栽培できないかと考えているクロスフィードは、領地で新しい作物の栽培計画を立てていた。
しかし作物はただ種を蒔いて水をやれば芽が出るという訳ではない。その作物を栽培するための気候や風土など様々な条件を知らなければ育てる事は難しい。まして国外のモノとなると、自国とは条件が異なるのは当前なのだ。それを学ぶためにも、何かしらの伝手が欲しかった。
「この方に兄か弟がいればそちらの方で……」
そんな事を呟いていると、目の前から盛大なため息が聞こえてきた。
「ダメよ」
唐突にそんな事を言われてしまい、クロスフィードは、どうして、というように母親に視線を向けた。
「もう! クロフィはそういう事に関してはとことん疎いんだから!」
幼い子供のように頬を膨らましている母親を前に、父親がこの場にいれば泣いて喜びそうな光景だな、とどうでもいい事をクロスフィードは考えた。
「クロフィは好きな方いないの?」
「いませんよ」
間髪入れずにそう返すと、エイナセルティは頭を抱える勢いで長い溜息を吐いていた。
「私も人の事を言えた義理ではないけど、もう少しそういう事にも興味を持ったら?」
「別に興味がない訳ではないですよ? ただ、女としての出会いが皆無というだけで」
「……そうよね、そうだったわね」
力なく項垂れてしまったエイナセルティを見つめながら、クロスフィードは苦笑交じりのため息を吐いた。
母親が言いたい事は分かるが、男として振舞っている以上、こちらから想いを伝える事は出来ないし、相手から想いが返ってくる事もない。
「ごめんなさいね。私たちが至らなかったばかりに、貴方にまで辛い思いをさせてしまって……」
「母さん……」
クロスフィードは二十年前の事件が起こった後で生まれたため、その事件の詳細な話はあまり知らない。しかし瞳を翳らせる母親の姿を目の当たりにすると、両親もまた辛い思いをしたのだろう事が窺い知れた。
「私は結構今の自分が好きですよ? 男女両方の教育を受ける事ができましたし、領地運営の仕事もさせてもらえていますしね。私は男として仕事をしている方が性にあっているみたいです」
何の慰めにもならないが、エイナセルティを励ますように努めて明るくクロスフィードは告げた。
事実、クロスフィードは父親の仕事を手伝う事が好きだった。普通の娘として育てられていたら絶対に関わらせてもらえなかったであろう事にも男として関わる事が出来ている。クロスフィードはその事に関してはむしろ歓迎していた。
貴族社会において男女の区別は顕著だ。そんな中で、男女どちら側でも振舞える事をクロスフィードは、ある意味得をしているのではないかと思う事もあった。
事情が事情なだけに手放しでは楽観視できないが、それでもクロスフィードは今の状況を悲観してはいなかった。
「クロフィは本当に仕事が好きみたいだから、行き遅れないかが心配だわ……。ツヴァイはツヴァイで婿なんかいらないとか言うし……」
エイナセルティは何事かを思い出すように、はあ、とため息を吐いている。
一体両親の間でどんな話が繰り広げられているのかは謎である。
「私もツヴァイに会うまでは結婚なんか考えてはいなかったけど、世の中何があるか分からないわよ? ツヴァイみたいに変わった人だっているかもしれないでしょう?」
「変わった人って……」
「変わってるじゃない。子供は望めない、寿命も僅か、そんな女を妻にしたのよ? 変人よ」
そう言いながらも、エイナセルティは嬉しそうに、ふふ、と笑っていた。それを見つめながら、クロスフィードも思わず笑みが浮かぶ。
ツヴァイスウェードは何もかもを承知でエイナセルティを妻に迎えたのだ。それを思うと、クロスフィードは母親が少しばかり羨ましくなった。
「私にも父さんのような人が現れてくれるといいんですけどね」
冗談交じりにそんな事を告げてみると、エイナセルティは、うーん、と少しばかり唸っていた。
「クロフィを想っている子ならいるんだけどね……」
「女性は無理ですから」
「違うわ。ちゃんと男の子よ?」
「男の方なら尚の事無理なんですが……」
男色家など願い下げだというようにドン引いていると、そうじゃないとエイナセルティが再び口を開く。
「あの子、クロフィが女の子だって知ってるような気がするのよね……何となくだけど」
「え!? それは誰の事ですか!?」
クロスフィードは母親からの言葉に一気に冷や汗が噴き出した。
現在、アイリスフィアとアレクヴァンディには女である事が知られている。レイヴンリーズも知っていた訳だが、騎士団長は省いて考えてもいいだろう。レイヴンリーズは長い間クロスフィードが女である事を知っていたようなので、今さらそれを悟られるような事をする訳がないからだ。
しかしそうなると対象者がアイリスフィアかアレクヴァンディという事になるのだが、現状二人はその事実を口外してはいないため、エイナセルティがその事を知っている訳がないのだ。先日の宴の際、アイリスフィアは両親と顔を合わせていたが、女である事を知っているという話はしなかったと言っていたし、アレクヴァンディにいたっては両親と顔すら合わせていないため、それを悟られる確率はゼロに近い。
それを踏まえて考えると、エイナセルティが言っている人物がこの二人ではない事が分かる。
しかしそうなると、この二人以外にも女である事が知られている可能性があるという事なので、クロスフィードはかなり焦っていた。
「あの子が良い子である事は分かっているんだけど。でもね……」
「だからそれは誰ですか!?」
何やら困ったような表情を作るエイナセルティを前に、クロスフィードはその人物にはどんな手段を使っても口止めしておかなければと黒い策を脳内で巡らせていた。
そうやって母親からの回答を待っていたクロスフィードの耳に扉を叩く音が聞こえてくる。
エイナセルティがお茶の用意を頼んでおいたと言っていたので、訪問者はミラフェルマだろうと思い、クロスフィードは入って来るように声をかける。すると予想通り、部屋に入って来たのはミラフェルマだった。
「失礼します。エイナ様、クロフィ様にお客様がいらしたのですが如何致しましょうか?」
「私に客が?」
お茶を持って来てくれたのかと思っていたが、侍女は訪問者を告げに来たようだった。
クロスフィードに訪ねて来てくれる友人はいないと言っても、治めている町からの使者が来る事はある。仕事関係の客なら稀にある訳だが、どういう訳か、ミラフェルマはまずエイナセルティに窺いを立てている。その事から予期せぬ訪問者が来たのかと思い、クロスフィードは少々身構えた。
「只今旦那様が不在ですので、どうしたものかと思いまして」
「どなたがいらしたの?」
エイナセルティもスッと表情を引き締めながら、侍女に問いかけている。するとミラフェルマは簡素に答えを返してくる。
「エミル様です」
「は?」
知った名前を耳にした途端、クロスフィードは間抜けな声を出してしまった。
エミルディランとは知らない仲ではないというのに、どうして招き入れてやらないのかと不思議に思った。
「あらあら。ツヴァイがいない隙を狙って来るなんて。あの子も相当焦っているのかしらね」
ふふふ、と穏やかとは言い難い笑みを浮かべているエイナセルティに、クロスフィードは思わず口を開く。
「言葉の意味はよく分かりませんが、エミルなら入れてやりたいのですが……」
「そうね。いつも門前払いじゃ可哀想だしね」
「いつも門前で帰らせていたんですか!?」
衝撃の事実にクロスフィードは脱力しそうになったが、少し前にエミルディランが門前払いされるとかなんとか言っていた事を思い出し、それは既に現実で起こっていた事だったのだと知った。
本当に婿になろうと奮闘しているのだろうかという考えが浮かんできたが、その考えは空の彼方に投げ飛ばしておいた。
「ミラ、通してあげて」
「かしこまりました」
ミラフェルマが下がって行ったのを見送ると、不意にエイナセルティが視線を向けてくる。
「あのね、さっきの話だけど」
「あ、はい。で、誰の事を言っていたんですか?」
話を戻してくるエイナセルティの返答を待ちながら、クロスフィードも視線を返す。すると、ふと困ったような笑みを浮かべるエイナセルティから答えが返ってきた。
「エミルの事よ」
「え……?」
思わぬ人物の名前を聞いたクロスフィードは、一瞬その動きを止めた。
「エミルは私が女だと知っているんですか!?」
「確証はないんだけど……。あの子、貴方のお婿さんになりたいんですって」
「……それは彼の冗談でしょう?」
「あら、本当よ? もう何回もツヴァイとその事で勝負してるし」
何の勝負ですか、とは聞きたくないので訊かなかった。
「男のお婿さんになりたいとか……、正気か……?」
「正気で挑んでるから判断が難しいのよね、あの子。やっぱりクロフィの事知っているんじゃないかしら? ツヴァイもその辺りは分からないって言うし……」
どうなのかしらね、と唸っているエイナセルティを前に、クロスフィードも、どうなんでしょうね、とため息を吐いた。
エミルディランには昔からそうやってからかわれていたが、そうやってからかわれる前は、関わりすらも疎まれていた時期があった。
その事もあって、クロスフィードはエミルディランには付かず離れずと言った距離を保っていたのだ。
しかしながら、最近では少しばかり接する機会も増え、話す機会も増えている。
「まあ、エミルは私の事をからかって遊んでいるだけだと思いますけどね……」
「貴方は、そう思うのね」
力ない笑みを浮かべるエイナセルティからは、それ以外の言葉が返ってくる事はなかった。
そうして会話が途切れた辺りで、ミラフェルマが戻って来た。
「お連れしました。どうぞ、エミル様」
ミラフェルマに促され入って来たのは、近衛騎士の制服姿のエミルディランだった。騎士服を着てきたという事で、仕事の合間に来た事が窺えた。
「突然すみません、エイナ様。少々クロスに用事がありまして。ツヴァイ殿がいないからといって隙をついた訳ではありませんからね」
いつものようなニコニコ笑顔で断りを入れているエミルディランに、エイナセルティもまたニコニコと笑みを返している。
「分かっているわよ。ツヴァイがいない間にこの子に手を出そうものなら、命はない事くらい貴方だって分かっているでしょう?」
「ええ、もちろん。ですからクロスは正攻法で手に入れます。ああ、安心くださいね。僕が伯爵家に婿入りますから。跡取りだって何人でも――」
「……誰が産むんだよ」
物騒な言葉とぶっ飛んだ言葉を聞いてしまったクロスフィードは、思わずツッコミを入れてしまった。
確かにクロスフィードは女であるがエミルディランはその事を知らないはずなので、この場合、男同士でどうやって子供を作る気だ、というような話になるはずだ。
しかしながら、エミルディランはいつも通りの通常運転ぶりを発揮する。
「何を言っているんだい? 愛さえあれば子供はコウノトリが運んで来てくれるんだよ?」
「その伝説が事実だったなんて初めて知ったよ……」
そんな訳あるかと思いながらも、クロスフィードはむきになるだけ疲れるので、ため息を吐いて心のモヤモヤを吐き出した。
今や子供でもコウノトリ伝説は信じていないだろうに。
「クロスに用事があるのなら私は席を外すわね。ミラ、お茶はこちらに運んであげて」
エイナセルティは椅子から立ち上がりながらそう侍女に指示を出していたが、それをエミルディランが丁重に断る。
「お気遣いなく。仕事の合間に来ましたので、すぐに王宮へと戻らなければならないのです。長居は致しませんからご安心を」
「そう? では帰りの挨拶は不要よ。お仕事頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
そんな挨拶を交わし合うと、エイナセルティはミラフェルマと共に部屋を出て行った。
そうしてエミルディランと二人きりになると、目の前の騎士は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「クロスの部屋に来るのなんて何年ぶりだろう。あんまり変わってないね」
「そこまで大がかりな模様替えをする趣味もないしね。変わったのはカーテンくらいじゃないか?」
幼い頃から物を大事にするようにと言われながら育ったため、クロスフィードは今ある物を大切に使っていた。中にはガタがきている物もあるが、長年使っているためか愛着が湧いて換えられないというのが現状だった。
「ツヴァイ殿がいないからって本当に入れてもらえるとは思わなかったよ。たまにはこんな作戦に出るのも悪くないかもね」
そんな事を言いながら、エミルディランは嬉しそうにクロスフィードの部屋を見渡している。その様子を眺めながら、クロスフィードはため息を吐きつつ口を開いた。
「本当に門前払いされていたとは知らなかったよ……」
「仕方ないんじゃないかな? こうやって君と二人きりになったら、僕が君を襲うんじゃないかとか思われてる訳だから」
「お、襲うだと!? エミルはそこまで私の事が嫌いだったのか……っ」
「その『襲う』じゃないんだけどなあ……」
クロスフィードは少々怯えたような視線をエミルディランに向けていたが、それを受けている目の前の騎士は、はあ、と盛大なため息を吐きながら、そんな事はしないと弁解していた。
しかし一瞬だけエミルディランが酷く悲しそうな表情を作った事に気が付いたクロスフィードは、小さく首を傾げた。
「どうした、エミル?」
「ん? 何が?」
「あ、いや……」
そう言っていつも通りの笑みを浮かべるエミルディランの様子に見間違いだろうと思い直したクロスフィードは、気を取り直して訪問理由を尋ねた。
「ところで用とは何だったんだ?」
「ああ、そうだった。王子直属の騎士が決まったから教えに来たんだよ」
連絡待ちの状態だったクロスフィードは、まさかエミルディランがその連絡を持ってくるとは思ってなかったので、少しばかり驚いた。
「やはり手紙では難しかったか……」
「そうだね。あの王子が下手に手紙なんか書いた日には、届け先の家に多大な被害が出るだろうからね。いくら殿下でもそれくらいは分かるでしょう」
騎士であるアレクヴァンディの手紙ならまだしも、王子であるアイリスフィアの手紙となると、見つかれば公爵に検閲されかねない。しかもそれが届く先は伯爵家なのだから、知られてしまえば検閲どころの騒ぎではなくなる。
「アレクも来づらそうだったから、僕が連絡役を買って出たという訳」
「そうか。忙しいのに悪いね。しかし仕事の合間に来なくても良かったのに」
「正当な口実が手に入ったっていうのにそれを使わない手はないでしょう? それに今日はツヴァイ殿が留守だっていう情報も手に入れた訳だから、もう今日しかないと!」
「……ちょっと待て。連絡役を引き受けたのはいつだ」
「二日前だよ」
「……」
にこやかな笑みを浮かべてサラリと事実を告げるエミルディランに、クロスフィードは何とも言えない表情を作った。
二日前には既に直属の騎士は決まっていたという事実はこの際どうでもいい。そんな事より、エミルディランがツヴァイスウェードの留守を狙ってきた訳ではないと言っておきながら実際には思い切り隙を狙って来たという辺りに、スッキリしない何かが残る。
真の目的は何なのかと問いかけたところでツッコミ役は自分しかいないので、疲れる行為は避けておこうと考えるクロスフィードである。
「それで誰になったんだ?」
速やかに話を元に戻すクロスフィードは、椅子には座らず卓に寄りかかっているエミルディランを見上げた。すると、エミルディランもそれ以上余計な事は言わずに言葉を返してくる。
「フィルエイダ子爵の三男に決まったよ。予想通り過ぎて、なんか拍子抜けなんだけどね」
「ファイスレイド殿か……」
「まあ、騎士の選定には父上も参加してたから、それほど重く考えなくてもいいんじゃないかな」
「そうか。それなら少しは安心だな」
公爵たちだけで決めてしまったというのなら安心は出来ないが、近衛騎士団長も選定に参加していたというのなら、直属の騎士になった者はちゃんとした騎士と考えていいだろう。その騎士がファイスレイドという騎士であったというなら、耳に入ってくる彼の性格から考えても人選は間違ってはいないと言える。
「実際、彼はどんな人なんだ?」
「真面目で実直。騎士の鑑のような男だけど、彼の顔がね……」
「鉄の仮面?」
「そうそう。いっつも眉一つ動かさないから、表情から何かを読み取れるとは思わない方がいいよ」
「そうか……」
持っている情報との差異はなかったが、噂に違わぬ鉄仮面だという事で、弱みを見つける事は難しいかもしれないとクロスフィードは考えた。
「私からも頼んで悪いが、私の方でも探ってみると二人に伝えておいてくれないか?」
「いいよ。それくらいは引き受けてあげる」
「ありがとう。すまないね」
エミルディランはアイリスフィアの申し出に応じなかった。それはつまり、王子としてのアイリスフィアをエミルディランはまだ認めていないという事になる。傅くに値する君主であるか否かを見極めている間は、この近衛騎士が王子に手を貸す事はない。
「僕はクロスのお願いならきくからね」
「おお! それは有り難いな。じゃあ遠慮なく利用させてもらうよ」
「……正直だね、君は。まあ僕は構わないけど」
苦笑を浮かべながら見下ろしてくるエミルディランを見上げながら、クロスフィードも苦笑を返す。
「冗談だ。でも頼み事は本当にするかも」
「いいよ。君に頼ってもらえるなら嬉しいし。殿下と一緒にいる事で危険も増すと思うけど、君だけは僕が守るから」
「ありがとう。できれば私たち全員を助けてくれる事を期待しているよ」
表情に笑みは浮かべていたものの、その言葉に少しばかりの本気を感じ取ったクロスフィードは、それに気付かぬフリをして肩を竦めながら軽く言葉を返した。
「やっぱりまだダメなのかな……」
そんなエミルディランの小さな呟きは、クロスフィードの耳には届かなかった。
「ところでさっきから気になってたんだけど、これって縁談の申し込み?」
卓に広げてある手紙を一枚手に取ったエミルディランが、話題を変えるように訊いてくる。それにクロスフィードも便乗するように口を開いた。
「そうなんだ。断ってもめげてくれない家が結構あってね」
「たくさん来てるね」
「まあね。いちいち断りの手紙を書かないといけないのが、最近では面倒で……」
はあ、とクロスフィードは疲れたようなため息を吐くと、エミルディランが手に取った縁談の申し込みを見つめながらいつもの調子で返してくる。
「じゃあさ、僕をお婿さんにして身を固めちゃえばいいよ。そうすれば縁談の申し込みなんか来なくなるよ。なんていい案だろう!」
「それは君にとってだろう……」
疲れ具合が割り増しするだけの会話には、最早ため息すら出なかった。
「まあ真面目な話、クロスが面倒がる気持ちも分かるよ。僕にも縁談話は来てる訳だし、そろそろ身を固めろと周りから言われているしね。本当、面倒くさいんだよね」
苦笑しながら手紙を卓に戻しているエミルディランを見つめながら、クロスフィードも苦笑交じりに言葉を返す。
「君は令嬢たちに人気が高いから、断るのも大変だろう? エミルはどうやって断っているんだ? 出来れば一度で諦めてくれる断り方を教えてもらいたいものだよ」
「え?」
深く考えることなく告げたその言葉に、エミルディランは一瞬キョトンとした顔をした。そんな騎士を前に、クロスフィードはどうしたのかと少々首を傾げる。
「何だ? 変な事でも言ったか?」
「僕、断ってるなんて一言も言ってないけど……?」
「え……っ!?」
クロスフィードは言葉の途中で自身の失言にようやく気が付いた。
エミルディランは近衛騎士団長の長子だ。しかも彼自身は補佐官を務めているため、将来も有望だ。伯爵家とは違うのだから、エミルディランのもとに届けられる縁談話は家同士の繋がりや、政治的意味合いが強くなってくる。そうした縁談話を無下に断れる訳がないのだ。
しかしそうであるにもかかわらず、クロスフィードはエミルディランが縁談話を断っていると疑う事なく思い込んでいた。
「あれあれ? クロスは何でそう思ったのかな?」
「いや、あの、それは……」
「どうして僕が縁談話を断っていると思ったのかな?」
質問を繰り返す騎士の顔には笑みが浮かんでいる。しかしその笑みは『ニコニコ』とは表現できない。その笑みを的確に表現するなら『ニンマリ』が正解だ。
「だ、だってほら、エミルは未だに独身だし、断っているんじゃないかなあと思っただけで……。い、未だにそういった浮いた話も聞かないし、それに」
「それに?」
不敵な笑みを浮かべて面白そうに聞き返してくるエミルディランの様子は、正に遊んでいますと言わんばかりに楽しそうだ。
それをムカつくほどに感じているクロスフィードだったが、その視線は思わず下がっていく。
「君が私の婿になると、冗談ばかり、言うから……」
尻すぼみしていく言葉を告げると、クロスフィードはそのまま黙りこんだ。
いつもいつもからかうなと言っているくせに、これではまるでそうなる事を期待しているように聞こえてしまう。そう思いながらも、そういったからかいの言葉があったためにエミルディランが縁談を断っているのだと思い込んでいたのは事実だった。
婿になるという言葉に対して何かを期待していた訳ではないが、女としての心ではそういう言葉を言ってもらえる事に対して嬉しいと思う気持ちは確かに持っていた。しかし、その言葉に対する己の態度はこれからも変わらないだろうと思っている。クロスフィードは『男』であり、伯爵家の跡取り息子でなければならないのだから。
そうして少しばかり俯いているクロスフィードは、エミルディランがどんな表情を向けてきているのか気付いていなかった。
「僕は縁談話を断った事はないよ。だから上手い断り方なんか知らない」
「え……」
ハッとして顔を上げると、卓に寄りかかったままのエミルディランが少しばかり視線を落していた。その横顔に皮肉気な笑みが浮かんでいる事を認めると、クロスフィードは黙ってその横顔を見つめた。
「クロスも知ってると思うけど、僕の伯父上には娘しかいないから、侯爵家には跡取りがいない。だから伯父上は未だに僕を養子にしてあとを継がせたいみたいなんだ」
エミルディランの父親であるヴァンクライドの生家は侯爵家だ。その侯爵家は現在ヴァンクライドの兄が継いでいる。しかし侯爵家の当主には息子が一人もいないのが現状で、エミルディランは子供の頃から侯爵家の跡取りとして養子にならないかという話をされていたと聞く。
その話は現在でもされているようで、エミルディランの縁談にもその影響は出ているようだった。
「僕の縁談は殆ど伯父上が持ってくるものだから、父上も断れないんだ。だから一応話が来たら会ってはいるよ。でもどういう訳か相手の方が断ってくれるから、僕は断った事がないんだ」
いつも通りのニコニコ笑顔を向けてくるエミルディランのその笑みは、爽やかに見えて黒い。
その笑みは相手が断るように仕向けているに違いないと思わせるには十分な黒さだ。
「エミルは優秀だし、侯爵様が跡取りに欲しいと思われるのは仕方ないと思うが……」
「伯父上に子供がいないっていうなら僕も少しは考えるよ。でも息子がいないだけで娘はいるんだよ? だったら婿を迎えるのが筋ってものでしょう? 何で僕が利用されなきゃいけないのさ。本当、いい迷惑だよ」
本気で嫌そうな顔をしているエミルディランは、面倒そうなため息を吐きながらも言葉を続けて行く。
「僕にはお嫁さんにしたい子がいるから、侯爵家の養子にはなれないって言ってるのにさ」
「え……」
エミルディランの発言に、クロスフィードは一瞬言葉を失った。
いつもからかってくるエミルディランの口から『お嫁さん』という言葉が聞こえただけで、クロスフィードは胸の奥がチクリと痛んだ。
『お嫁さん』と言ったからには、エミルディランの言っている人物が自分ではない事くらいクロスフィードにだって分かっている。分かってはいるが、それを淋しく感じてしまうのは気のせいではないだろう。
「僕は伯爵家の婿になる訳だから、侯爵家なんか継げないよ」
「…………は?」
さも当然とばかりに告げられるその言葉に、クロスフィードは先程とは違う意味で絶句した。
エミルディランは結局のところエミルディランでしかなかった。
「だってそうでしょう? 僕はクロスのお婿さんになるんだから身軽じゃないと」
「そ、そういう問題か!?」
「そういう問題だよ! 僕は君のお婿さんになるって事は既に決まってるんだから!」
「そこに私の意見は無視なのか!?」
先程までの心のモヤモヤは一体何だったのだろうかと遠い目になるクロスフィードは、結局いつも通りの展開に繋がってしまう会話の内容に、心の何処かではホッとしていた。
「……少しは期待してもいいのかな」
どこか嬉しそうな笑みを浮かべているエミルディランが何かを呟いていたが、クロスフィードはその言葉を聞き取る事が出来なかった。
「ん? 何か言ったか?」
「何でもないよ」
何となくはぐらかされたような気がしなくもないが、クロスフィードはそれ以上聞き返す事はしなかった。
「そうそう、この縁談さあ」
そうやって話を変えるエミルディランが、先程手に取っていた商家からの縁談の申し込みを手に取った。
「早く断った方がいいよ」
そう言いながら申し込みの手紙を差し出してくるエミルディランから、クロスフィードは思わずそれを受け取る。
「スヴェレラ商会会長の娘にはイグルマティウス侯爵から縁談の申し出があるって話だよ。そこに伯爵家が混ざる事はない」
「イグルマティウス侯爵って、隣町の領主殿だったか」
「そう。あの侯爵様に関してはいい噂を聞かないからね。関わらない方がいいと思うよ。まあ噂だから確かな事は言えないけど」
「そうか。一応心に留めておく事にするよ。しかしこの縁談話は何度も断っているんだが、先方が粘り強くてな……。私としても困っているんだ」
「そうなの?」
どういう事だというようにエミルディランは考えるような仕草を取った。それを認めると、クロスフィードも知り得た情報から少しばかり縁談が何度も送られてくる背景を推測してみる。
「純粋に爵位を欲しているなら侯爵様の縁談話を受けた方がいいと思うが、イグルマティウス侯爵となると遠慮したいというところか?」
「だってあの侯爵様は金使いが荒い事で有名だからね。商家のご当主もそんな人に娘はやれないでしょう」
「そうだな……。目を付けられてしまっただけでも不運だよな……」
イグルマティウス侯爵は三十路手前の若き領主だ。先代の侯爵家当主が急逝に際して家を継いだと聞いている。しかしイグルマティウスはもともと派手好きで金使いも荒いダメ息子と噂されており、当主の座に就いてからはそれが更に激しくなったという話だ。
そんなイグルマティウスが治めている隣町にはスヴェレラ商会の本部があり、それなりに町の収入は潤っている。しかしその全てを手に入れるためにはスヴェレラ商会と縁戚関係になった方が早いという訳で、イグルマティウスはその娘に縁談を送ったのだろうとクロスフィードは考えた。
「まあ、安心してくれ。この縁談はもともと断っている訳だし。受けようとは思っていない」
「それは分かってるよ。ここにある縁談話は全部破談になるって知ってるし」
さも当たり前のように告げられるその言葉に、クロスフィードは少しばかり首を傾げた
「何故そう言い切れる?」
「だってここにある縁談話の相手って女の子でしょう? ……あ、男からのもあった」
横に除けていた封書を手に取ったエミルディランの顔が一気に凶悪に歪む。それを目の当たりにしたクロスフィードは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
「へえ、この人男色家だったんだ。あれえ? この人って表ではあんなにお堅い人なのに男色家なんだね。へえ、ふーん」
封書の送り主を一つ一つ確認しているエミルディランの真っ黒い笑みが怖すぎて、クロスフィードは、返せ、とも言えずに冷や汗をかいていた。
近衛騎士団長の補佐官に男色家だと知られてしまった彼らが今後無事でありますようにと秘かに願っておいた。
「それじゃあ僕はそろそろ王宮に戻るよ。やる事もできたしね」
「何をやると!?」
この場で見つけたその『やる事』というモノが何であるのかは全力で聞きたくはないが、思わず訊いてしまった。
「男からの縁談話は僕が握り潰しておくから安心してね」
「全く安心できない!」
エミルディランの顔には真っ黒い笑みが浮かんでいる。
このままでは相手の何かが危ない。
しかし困惑気味のクロスフィードを余所に、エミルディランは除けてあった手紙の束を全て手に取ると、扉へと向かって行ってしまう。
クロスフィードはエミルディランを追おうと勢いよく椅子から立ち上がったが、去っていく騎士が不意に振り返った事によりその動きを止めた。
「大事な事を忘れてたよ」
そう言って近くまで戻ってくるエミルディランがクロスフィードの目の前で立ち止まる。
エミルディランはクロスフィードよりも背が高いため、必然的にクロスフィードはエミルディランを見上げる姿勢になる。
「今日は君に縁談話を持ってきたんだった」
「え!?」
思わぬ言葉を聞いたクロスフィードは驚きながらも、少しばかり胸の奥がモヤッとする。しかしその気持ちはエミルディランの言葉であっさりと吹き飛んで行く。
「結構条件はいいと思うよ。長男だけど継ぐ家なんかないし。近衛騎士団に所属していて将来有望。容姿については何とも言えないけど、君はあまりこだわりなさそうだし大丈夫だと思う。浮いた話も全然ないよ。君に対しては常に誠実だ。どうかな?」
「どうかなって……それはどう考えても」
目の前の騎士の事だった。
「わざわざ戻ってきてまで冗談を言うとは――」
「冗談じゃないよ」
不意に耳に届いた真剣な声は、クロスフィードの心臓を跳ねさせる。
「僕は本気だ」
伸びてくる手が頬に触れると、クロスフィードは小さく肩を揺らす。するとそれに気付いたエミルディランが少しばかり困ったような笑みを浮かべた。
「僕は君の夫になりたい」
そんな言葉を口にするエミルディランの顔が真近くに迫ってくる事を認めても、クロスフィードはその萌黄色の瞳から視線を逸らす事が出来なかった。
「だから僕のお嫁さんになって。クロスフィード」
そんな言葉が聞こえた瞬間、額に柔らかいモノが触れる。
クロスフィードは何が起こったのか分からず、しばらく固まっていた。
「僕はずっと待っているから」
離れていった感触が額に熱を残していく。
頬に触れていたその手が離れて行く様を見送ると、目の前でぎこちない笑みを浮かべている騎士と視線が交わった。それだけでクロスフィードの心臓は煩く音を立てる。
「エ、エミル!? あの、えっと、何を」
「慌てるって事は、期待していいのかな?」
すぐさまいつも通りのニコニコ笑顔に戻っているエミルディランの頬が若干赤くなっている事などクロスフィードは気付かない。
クロスフィードはただエミルディランの行為に驚くばかりで、赤くなっているであろうその顔を隠すために俯く事しか出来なかった。
エミルディランが直接的な行動をとったのはこれが初めての事だった。いつも君が大事だのお婿さんになるだのといった言葉でしか言われていなかったため、それは全てからかっているだけなのだと思わせるだけの軽さがあった。しかし先ほどの行為はそれがなかった。エミルディランの表情には本気の色が見てとれたために、クロスフィードも今回ばかりはどうしたらいいのかと戸惑っていた。
「商家からの縁談は早めに断るんだよ。ツヴァイ殿がいる訳だから何かある事なんかないと思うけど、一応気を付けてね。それじゃあ」
その言葉にハッと顔を上げると、ひらひらと手を振って扉から出て行くエミルディランの後ろ姿が目に入った。
咄嗟に口を開いたクロスフィードだったが、何かを言う前に扉が閉まってしまう。
「行ってしまった……か……」
すぐに追いかける事も出来たが、クロスフィードはそれをしなかった。
先ほどされた行為が脳裏によみがえってくると、途端に頬が熱くなる。おそらく真っ赤になっているだろうその顔で、エミルディランを追いかけようとは思わなかった。
額に手を置き、先ほどエミルディランが言っていた言葉を思わず脳内再生してしまうと、あの騎士がとんでもない事を言っていた事実を思い出してしまった。
「お、お嫁さんって、言った……!?」
いつも自分が婿になると言ってからかってくるエミルディランが、初めて嫁になってくれと言ったのだ。それはつまりどういう事だとクロスフィードの頭の中は再び大混乱に陥った。
エミルディランとの一連の会話を思い出せば、今日に限って彼が不可解な事を言っていた事実にようやく気付く。
エミルディランにも女であると知られていたのだろうかと思うと、先ほどされた行為に物凄い恥ずかしさを感じた。しかし彼からは決定的な言葉を聞いていない為、その言葉がただのカマかけだという事も考えられる。
一体どちらだろうかと考えるが、明確な答えを見つける事は出来なかった。
曖昧なままでは今後の対処の仕方が困難になってくる。このまま男として諦めてもらうか、それとも女として断るべきか。もういっそ全てを話して本当に婿に入ってもらった方が手っ取り早いのではないかとさえ思えてくるが、それを選んでいいのかはクロスフィードには分からなかった。
「どうせまたからかっただけだろう……?」
もういないその人に向け、クロスフィードはそう小さく呟いた。
◆◆◆◆◆
その日、王宮では物凄くご機嫌な近衛騎士団長の補佐官が鼻歌交じりに王宮内を闊歩していたという目撃談が相次ぎ、今度は誰が犠牲になったのだという恐怖心を周りに植え付ける事になったという話は、クロスフィードが知る由もない。
ちなみに、クロスフィードに縁談の申し込みを送った男性たちには、後日、何故か新しい恋人|(男)ができたという噂が飛び交うのだが、その話はクロスフィードの耳に入る事はなかった。




