二人の関係と加わる関係
日暮れ前に王都に着くと、詰所に戻るというアレクヴァンディにクロスフィードはそのままついて行く事にした。
そんな訳で、詰所側から王宮へと入ったクロスフィードは、馬を返してくるというアレクヴァンディより先に西の端にある小屋へと向かった。
誰にも会わないように慎重に歩みを進め、とりあえず誰にも見咎められる事なく小屋へと着く事ができたクロスフィードは、安堵の息を吐きながら小屋へと入る。
「アイリス、いるか?」
そう声をかけながら仕切られている布を除けてみると、アイリスフィアは確かにその場所にいたが、彼からの返事はなかった。
「アイリス? 寝てるのか?」
長椅子に横になり開いた本を顔に乗せているアイリスフィアの様子に、クロスフィードはそっと本を退かしてみる。すると案の定、アイリスフィアは規則正しい寝息を立てながら眠っていた。
「まあ、何もなさそうで良かったか」
アイリスフィアの寝顔に小さな笑みを浮かべたクロスフィードは、二度目の拝見となる王子の寝顔をまじまじと眺めた。
「男なのに寝顔まで綺麗だな……。しかし睫毛長いなあ」
そんな事を呟きながら、顔にかかっていた髪を払ってやろうとアイリスフィアに手を伸ばすと、その手をいきなり掴まれた。何事だと驚く間もなくそのまま手を引かれ、気付いた時には長椅子に横になっていたのはクロスフィードの方で、覆い被さるような体制で腕を抑えつけてくるアイリスフィアに見下ろされていた。
「何だ、クロフィか……」
まさかアイリスフィアに抑え込まれるとは思っていなかったため、クロスフィードは寝起きとは思えないその俊敏な動きに驚いていた。
「刺客対処の護身術でも習っているのか?」
「……ああ、まあな」
相手がクロスフィードだと分かったからか、アイリスフィアは再び眠そうに目蓋が下がっている。そんな王子を見上げているクロスフィードは、病弱で貧弱だと言われていようが護身術のような武術の心得はちゃんと持っているのだという事を知り、アイリスフィアも自分の身は自分で守れそうだという事に安堵した。しかしそれと同時にその身が危険に晒されない事を切に願った。
そうして少しばかりアイリスフィアを見上げていたが、ふとある疑問が浮かんでくる。
「伯爵邸で寝ていた時は、何をやっても起きなかったのに……」
そう呟いてみると、ああ、とアイリスフィアから声が聞こえてくる。
「あの時は王宮ではなかったし、別にいつも警戒しているわけじゃない。だが、これからは少しばかり警戒心を持とうと思って……。小屋にいる事すら忘れていた……」
少し意識をしただけでこれだけの変わりようなのだから、アイリスフィアにとってはそれだけの覚悟を持って昨夜の宴に参加したという事だろう。
しかし寝ている時まで警戒しなければならないというのは、それだけの危険が今後起こり得るという事なのだろうとクロスフィードは胸の内で思った。
そしてそんなアイリスフィアの安眠を妨害してしまった事を申し訳なく思った。
「起こして悪かった」
「いや、そんな事は……」
「うおうい!?」
突然変な叫び声が聞こえてきたため、クロスフィードとアイリスフィアが声のした方に視線を向けると、慌てた様子のアレクヴァンディがあわあわと口を戦慄かせている姿を見つけた。
「待て待て待て待て。アイリス、こういう事には順序ってもんがあるだろ!? いきなりはいかん! ダメだ! 互いの立場をちゃんと考えろよ!? というか未遂だよな!?」
一人で何を焦っているのだと首を傾げていたクロスフィードがアレクヴァンディからアイリスフィアに視線を戻す。すると同じように視線を向けてきたアイリスフィアもどういう事だというように首を傾げていた。
クロスフィードがアイリスフィアに押し倒されているかのような状態で互いにキョトンとしていた二人だったが、次の瞬間アイリスフィアだけが状況を把握して顔を一気に赤くした。
「いや、これは、その、ち、違う! これはそう意味で押し倒した訳ではなくてだなっ! いつかはしたいが今は違う!」
目の前の男の口から本音がポロリと零れているが、クロスフィードはアイリスフィアがどうして慌てているのかが分からない為、彼が何を弁解しているのかすら分かっていなかった。
「とりあえず、クロスの上から退け」
アレクヴァンディの声が近くから聞こえたかと思ったら、それと同時にアイリスフィアが上から退く。クロスフィードが起き上がりながら視線を向けると、王子が騎士に首根っこを掴まれていた。
少々面白い光景だった。
「いきなりで驚いたが、やはりアイリスも男だな。ああやって抑え込まれると私では簡単に振り解けそうになかったよ」
どれだけ男として生きていようと、男と女の力の差はやはりどうにもできないのだという事をクロスフィードは改めて知った気がした。
しかしそんなクロスフィードを余所に、アレクヴァンディの纏う空気が一気に冷えはじめる。
「おい、アイリス。クロスが女で嬉しいのは分かるが、無理矢理抑え込んで事に及ぼうとするとはどういう了見だ、ああ?」
「誰が無理矢理事に及ぼうとするか! そんな事する訳ないだろう!」
やいやいと二人で言い合っている様を見つめながら、クロスフィードはようやくアレクヴァンディがとんでもない誤解をしている事に気が付いた。
「……誤解しないでくれ、アレク」
そう言って、先ほどの行為はアイリスフィアが護身のためにとった行動だという事を説明すると、ようやくアレクヴァンディはそうだったのかと納得してくれた。
「なんだ、てっきりアイリスが我慢できずにクロスを押し倒しちまったのかと思ったよ」
あはは、と笑うアレクヴァンディにそんな訳がないだろうと口を開きかけたクロスフィードだったが、それはアイリスフィアから弁解の言葉に遮られる。
「俺はそんな事は決してしないと断言する! 誓ってそんな事はしないからな! お前が嫌がるような事は決してしない!」
信じてくれと言わんばかりのアイリスフィアから勢いよく詰め寄られたクロスフィードは、当り前だろうというように口を開く。
「そんな事は分かっているから、いちいち断言しなくてもいい。私とアイリスがどうこうなるなどあり得ないだろう」
クロスフィードは事実を言っただけだが、アイリスフィアの表情が見る間に不機嫌さを帯び始め、眉間には思い切り皺が寄る。
「何故そう思う?」
如何にも機嫌が悪いと言った感じの表情でそんな事を訊いてくるアイリスフィアが、不機嫌さを隠そうともせずにドカッと隣に腰を下ろす。その様子を見ていたクロスフィードは、何故そんな事を訊くのだというように少しばかり首を傾げた。
「何故って、私がどうして男のフリをして生活しているのかアイリスも知っているだろう? それに兄弟がいないから女であろうと伯爵家の跡取りは私だ。王家に嫁ぐ訳にはいかない」
「それはお前の都合であって俺の都合ではない」
「何を言っている? アイリスだって伯爵家の娘を娶る事は出来ないと分かっているだろう?」
「だから何故そうなる」
「どうしたんだ? 何故そんな事を訊きたがる?」
アイリスフィアも分かっている事情であるはずなのに、やけに突っかかって来る王子にクロスフィードは眉根を寄せた。
「……では仮に、私がアイリスに嫁いだとしよう」
この際はっきり言っておいた方だいいだろうと思い、クロスフィードは現状を説明する。
「伯爵家は知っての通り、二十年前の事件のせいで王家との縁は断絶しているに等しい家だ。その理由はアイリスも十分知っているだろう? そんな家の娘が王子に嫁いだらどうなると思う? 周りは王子の正気を疑うだろうね」
「そんなのは黙らせればいいだけの話だろうが」
更に突っかかってくるアイリスフィアの様子に、クロスフィードは、はあ、とため息を吐いた。
「なら、私側の話で進めようか。もし私が王家に嫁いだら、周りは私を排除しようと躍起になるだろうね。もし子供が出来てしまえば、それこそ大問題だ」
「爺共は世継ぎ問題を重要視している。俺の子なら問題など」
「確かにアイリスの子なら例外なく王家直系の子となる訳だから、アイリスに子供ができれば世継ぎ問題は解決するな。だが問題はそこじゃない。問題は、私がアイリスの子を産むというところにある」
そう言って、クロスフィードは少しばかり目を伏せた。
「伯爵家には二十年前の罪がある。そんな家の娘が王家に嫁ぎ、子を産み、その子が王位継承権第一位にでもなってみろ。すぐにその子は命を狙われて死んでしまうよ。それでなくても私自身が周りから疎まれているんだ。子供が生まれる前に私が王宮から追い出される方が先だろうね。それならまだいいが、最悪、どこかの家の刺客に殺されてしまうかもしれないんだよ」
何て事は無いというようにそう告げると、アイリスフィアは目を見開いて驚愕していた。その様子に、アイリスフィアがそこまで考えていなかった事を知った。
現状、伯爵家は公爵家に疎まれている。そんな中、公爵家の令嬢であるレイラキアが入っている後宮にクロスフィードが入ってしまえば、新たな問題に発展する事は目に見えている。まして、『花の君』の正体はクロスフィードだ。その事を知られた上で後宮に入る事になれば、それこそ身の危険は倍増する。
現在『花の君』は王子の想い人とされいる。『花の君』が後宮に入るという事は、同時に王子の寵姫と見なされる事になるのだ。
寵姫がいると王子は他の娘に見向きもしなくなる。そう考える者は少なくない。もしそんな事になってしまえば、自分の娘を王の妃にと考えている貴族たちから本当に命を狙われてしまう可能性は高い。
子を産む以前に自身の生存確率すら危うくなるというのに、王家に嫁ぐなど頼まれても御免だった。
「私はまだ死にたくないし伯爵家を守る義務があるから、頼まれても王家には嫁がないよ。これで分かってもらえたか?」
そう訊いてみるが、アイリスフィアは眉根を寄せながら視線を落とすばかりで、何も言ってはこなかった。
その様子に、クロスフィードは小さく息を吐く。
「心配するな、これは仮の話だ。こうして一緒にいる分には何も起こりはしない。まあ会っている事は秘密だがな」
そう言って肩を竦めて苦笑してみたが、アイリスフィアの機嫌は悪いままだった。
「前から思ってたんだが……」
アイリスフィアの代わりというように口を開いたのはアレクヴァンディだった。
いつの間にかその場に座っていたアレクヴァンディは、足の低い卓に肘をつきながら視線を向けてくる。
「クロスって後宮に入るための条件全部満たしてるよな?」
女だと知られてしまった以上この騎士がその事に気付かない訳がないと思いながら、クロスフィードは諦めの笑みを浮かべた。
クロスフィードの魔力量はかなり多めで、伯爵家の娘という事で身分もある。そして父親は王妃の騎士を務めていたし、母親は王妃の親友だった。加えて、伯爵家前当主、つまりクロスフィードの伯父は国王の右腕として宰相を務めていた人物だったのだ。もし伯父であるアインヴァークが今でも宰相を務めていたならば、政治的側面で見ても王家と婚姻する娘としては申し分ない条件を持っていたことだろう。
「条件だけで見ればそうかもな。だがその条件も、今では無意味なモノだ」
兄弟のいないクロスフィードは伯爵家を継ぐ義務がある。そのため、王家からの申し出があったとしても、それに応じる訳にはいかなかった。そして何より、二十年前の事件で国王暗殺の犯人とされたのはクロスフィードの伯父だ。王家と婚姻どころか、伯爵家存続のための婚姻すら危うい状況であるのに、王家に嫁ぐ嫁がないという話し自体が無意味なのだ。
「仮に二十年前の事件の犯人が別にいて、伯爵家の跡継ぎになれるような縁者が現れたとしたら、クロスは王家に嫁げるんじゃないか?」
「そうだな……。二十年前の事件の犯人が伯父じゃないと分かって、いきなり弟ができるなら、後宮に入る事になるのかもね」
そんな事はあり得ないと思いながらも、クロスフィードはアレクヴァンディに言葉を返す。
すると、アイリスフィアが何事かをブツブツと呟きはじめた。
「二十年前の事件さえどうにかなれば障害はなくなるのか……? 伯爵家の跡取り問題はの方は俺たちがたくさん子供を作れば、一人くらい伯爵家に……」
アイリスフィアが勝手に幸せ家族計画を脳内で繰り広げているのだが、何を言っているのか聞きとれないクロスフィードがそれを知る事はない。
「というか、どうして私が王家に嫁ぐという話になっているんだ? あり得ないだろう、そんな事」
アイリスフィアには想い人が既にいる事を知っているクロスフィードは、自分が王家に嫁ぐなど万に一つもあり得ないと断言できるだけの確信を持っていた。
しかしそんなクロスフィードを余所に、王子と騎士は二人して明後日の方向に視線を向けていた。
「まあ仮にって話だから気にするな。な、アイリス」
「あ、ああ、その通りだ。今は気にしなくていい」
今は、の部分に盛大な引っかかりを覚えたが、クロスフィードは敢えて無視する事にした。
「そう言えば、エミルからしばらくクロフィは王宮へは来ないと聞いていたんだが……」
不意に話題を変えてくるアイリスフィアがそのまま言葉を続けていく。
「昨日の今日だから来ないほうが良かったんじゃないか? いや、あの、来て欲しくない訳じゃないんだぞ? また俺の知らないところで辛い目にあったらと思うと気が気じゃないんだ」
その言葉に一瞬キョトンとしたクロスフィードだったが、次の瞬間には思わず笑みが浮かんでいた。
出会った頃の傍若無人ぶりを知っているだけに、アイリスフィアが相手を気遣えるまでに成長を果たしたという事には感動すら覚える。
だからこそ、何かやらかしていないか心配で来たという本音は口が裂けても言えなかった。
「本当はしばらく様子を見ようと思っていたんだが、今日はアレクもいなかったみたいだし、少し心配で……」
「ん? どうしてアレクがいなかった事まで知ってるんだ?」
「それは隣町でアレクとばったり会って、ここまで一緒に帰って来たからだが……」
「隣町……? 一緒に帰って来た……?」
そんな呟きを漏らすアイリスフィアの鋭い眼光がアレクヴァンディを射抜く。すると騎士からの怨みがましい視線はクロスフィードに向けられた。
「クロフィと隣町で何をしていたんだ、アレク」
「何もしてねえよ……。会ったのは本当に偶然だ。俺は団長の使いで行ってただけだし」
「じゃあクロフィは何で隣町に行っていたんだ?」
「どうして俺に聞くんだよ!? 本人に聞けよ!」
何故か不機嫌さが割り増ししてしまったアイリスフィアの様子に、クロスフィードの口からはため息しか出て来なかった。
「私は頼んでいた品物を取りに行っていただけだよ」
そう言って、クロスフィードは懐から小さめの包みを二つ取り出した。するとその包みに興味を示したらしいアイリスフィアが口を開く。
「それは?」
「これは私からの感謝の印だ」
はい、と一つの包みを手渡すと、アイリスフィアは受け取った包みを凝視していた。
「何の感謝だ?」
「親善試合の時のだよ。あの時の礼がしたかっただけだから、気にせず受け取ってくれ」
近衛騎士団内の大掛かりな粛正のきっかけとなったのはクロスフィードの一件があったからだった。それに加えて、あの時の三人はその後も団内の粛正のためにいろいろと動いていたのだから、手伝える事が何もなかったクロスフィードは何か感謝の印を示したかったのだ。
「開けてもいいか?」
「どうぞ」
そう返すと、アイリスフィアは包みを開け始める。そして出て来たモノを手に取ると、まじまじとそれを見つめていた。
「アイリスは読書家みたいだし、栞にしたんだ」
「銀板の透かし彫りか。見事だな」
「それ、『アイリスフィアの花』だな」
アイリスフィアが持っている栞を見ていたアレクヴァンディから声が聞こえてくると、クロスフィードは、そうだ、と肯定を返す。
「あの町には馴染みの金物屋があってね。そこの店主に頼んで彫ってもらったんだ。ついでに私のも作ってもらったんだよ」
そう言って、クロスフィードは自分のための栞を取り出した。
その栞にはアイリスフィアが持っている栞とは違う絵柄が彫られている。
「前に話しただろう? この花が『クロスフィード』だ」
クロスフィードは透かし彫りの絵柄が良く見えるように掲げながら、アイリスフィアに栞を見せた。
房を作るように小さな花が密集しているその花は、かつてアイリスフィアに話した薬草の花だった。
するとそれを見たアレクヴァンディから声が聞こえてくる。
「クロスの名前も花の名前だったのか? まあお前は女だった訳だし、不思議じゃねえよな」
「まあ、そうなるね」
生まれた娘に花の名前を贈る事は珍しくない。クロスフィードも例に漏れず花の名前を貰った訳だが、その花の名前が女らしくなかったという事だけが少しばかり悲しいところだった。
「なあ、クロフィ」
「何だ?」
「その、お前の栞とこの栞、交換してくれないか?」
その言葉に、アイリスフィアが自分の名前が嫌いだったと言っていた事を思い出したクロスフィードは、『アイリスフィアの花』の栞など嬉しくなかったのだろうかと思った。
「すまない。それなら別のものを用意するから……」
少しばかり視線を落としながらそう告げると、アイリスフィアから慌てたような声が聞こえてくる。
「ち、違うぞ! 気に入らなかったとかそういう訳じゃない! お前からの贈り物なんだから嬉しいに決まっているだろう!」
アイリスフィアは、そういう事じゃない、と言って言葉を続ける。
「俺が『クロスフィードの花』の栞を貰うから、お前には『アイリスフィアの花』の栞を持っていて貰いたいんだ」
「それは構わないが……。絵柄が気に入らなかったのか?」
「そうじゃない。俺が『クロスフィード』を持っていたいんだ。お前にも『アイリスフィア』を持っていて貰いたい」
「そうか……? 分かった」
少々首を傾げながらも、アイリスフィアがそれを望むならクロスフィードに拒む理由はなかった。
「ありがとう。大切にする」
栞を交換すると、礼の言葉を告げながらアイリスフィアが『クロスフィードの花』が彫られている栞を大事そうに見つめていた。それを認めると、喜んでくれているようで良かったという思いが浮かぶ。
とりあえず『アイリスフィアの花』が彫られている栞を懐にしまい、クロスフィードは残っている包みをアレクヴァンディにも渡す。
「こっちの包みはアレクに」
「え!? 俺も貰っていいのか!? というか、別の場所で渡してくれると有り難かったんだが……」
何で、というように首を傾げているクロスフィードは気付いていない。アイリスフィアが射殺さんばかりの眼光で、貴様は何を貰いやがったんだ、というような視線をアレクヴァンディに向けている事を。
「その、有り難く頂く」
若干視線を泳がせながらも包みを受け取ったアレクヴァンディは素早く中身を取り出している。
そんなに急いで開けなくてもいいだろうに、とクロスフィードは少々首を傾げた。
「これって懐剣か?」
「ああ。アレクは騎士だからもう持っているだろうとは思ったが、よければ護身用にでも使ってくれ」
アレクヴァンディは鞘から剣を引き抜きながら、その刃先をじっくりと眺めていた。
「へえ、いい剣だな。使うのが勿体ないくらいだ」
「使う場面に遭遇しないのが一番いいんだけどね」
そう言って肩を竦めて見せると、剣を鞘に収めたアレクヴァンディから、そうだな、という言葉と共に苦笑が返って来た。
「アレクには親善試合の時も世話になったし、昨日も助けてもらったから、今度は私がアレクの力になるよ。困った事があれば何でも言ってくれ」
「ん? ああ、昨日の貸しはエミルに払ってもらうから気にするな。昨日の事に関しては、俺にも打算的なモノがあった訳だし……」
「打算?」
打算的な事を考えていたという事は、あの行動にはアレクヴァンディにとっても利益があったという事だ。
その事を知ると、目の前の騎士にも何か目的があったのだろうかと思わずにはいられなかった。
それはアイリスフィアも同じようだった。
「それは、アレクにも目的があったという事か?」
和やかだった雰囲気が一気に一変し、アイリスフィアが少しばかり硬い口調でアレクヴァンディに問いかけた。すると騎士の口から衝撃の事実が告げられる。
「アイリスの助けになればと思った事は事実だが、ついでにエミルに貸しを作ろうと思ったのも事実だ」
はっきりとそう言い切ったアレクヴァンディに、クロスフィードとアイリスフィアは揃ってキョトンとした。
「考えてもみろよ。正攻法でアイツに貸しなんか作れると思うか? それを逆手にとって借りを作られるのがオチだろうが」
アレクヴァンディが言うように、エミルディランはそういった事に関しては天才的な能力を発揮する。そのため貸しを作ろうとして借りを作る羽目になってしまうだろう事は、残念ながら容易に想像ができる事だった。
「昨日は結局事無きを得る事ができたんだろう? なら良かったじゃねえか。まあ、これからが大変なのは言われるまでもないが……。アイリスもようやく腹を括った訳だし、分が悪くても何とかなるだろ。クロスがいればエミルもこっちに付くだろうし」
上手く話をはぐらかされてしまった感は否めないが、彼には彼の事情があるのだろうとクロスフィードは秘かに考えていた。
アレクヴァンディが過去の事件を調べている事をクロスフィードは知っている。その事件記録を貸したのはアイリスフィアなので、王子もまたその事を知っているだろう。そういった事情はそれぞれが抱えているモノで、その全てをさらけ出す必要はないとクロスフィードは思っていた。
アレクヴァンディがどうしてエミルディランに貸しを作りたかったのかは分からないが、王子の害になるような事をしている訳ではないというのは確実だ。目的が何であれ、アレクヴァンディが何かとアイリスフィアの事を気に掛けている事実は、クロスフィードも既に分かっている。
「とはいっても、結局何からはじめるんだ? とりあえず後宮問題片付けてみるか?」
「いや、今はまだその辺りに手を出さない方がいい。下手に手を出して『花の君』が見つかったら事だ」
「そうだな。アイリスの想い人が正式に後宮に入れるようになるまでは、後宮問題は後回しにしておいた方がいいだろうね。私も見つかりたくないし」
アイリスフィアがアレクヴァンディに言葉を返した事で、クロスフィードも変わってしまった話題に乗る事にする。
しかし何故かアレクヴァンディがいきなり驚きの声をあげた。
「アイリスの想い人!? 何だそれ、他にもいるって事なのか!?」
他にも、という事はアイリスフィアの想い人は一人ではないという事になる。クロスフィードはその事実に驚きを隠せなかった。
しかしクロスフィードが何かを言う前に、アイリスフィアから勢いよく言葉が飛んでくる。
「誤解を招く言い方はやめろ!」
「じゃあクロスが言ってる奴は誰の事だよ」
「……それは俺が聞きたい」
途端に項垂れてしまうアイリスフィアを目の当たりにしながら、一人だけ話が見えないクロスフィードはどうしたのかと首を傾げる事しか出来なかった。
「アレクはアイリスの想う相手を知っているのか?」
「ん? ああ、まあ、何というか……知っている」
クロスフィードはアイリスフィアに想い人がいるという事は知っているが、それが誰かまでは知らないのだ。そのため、アレクヴァンディが言っている人が事実アイリスフィアの想い人なのだろうと思った。
「アレクはその人が誰か知っていたのか。出来ればいつか私もお会いしてみたいものだが、無理だろうな……」
私は伯爵家の人間だし、と言う言葉を続けながら、クロスフィードは小さくため息を吐いた。
しかしそんなクロスフィードを余所に、騎士と王子は揃って何とも言えない表情でクロスフィードを見つめていた。
「前途多難だな……」
「……長期戦は覚悟の上だ」
アレクヴァンディとアイリスフィアが何事かを言い合っていたが、それをクロスフィードは聞き取る事ができなかった。
「何を話してるんだ?」
「別に何も」
そんな言葉がアレクヴァンディから返ってくると、アイリスフィアからは盛大なため息しか聞こえて来なかった。
「まあ、当面の問題は俺に直属の騎士が付くという事だな。とりあえずそれを何とかしない事には動くに動けなくなる」
話題を元に戻すアイリスフィアが面倒そうにため息を吐いている。それを目の当たりにしたクロスフィードは、そんな話もあったなと思いながら口を開く。
「もう決まったのか?」
「いや、まだだ。エミルが言うには、フィルエイダ子爵の三男が有力らしいが……」
今回、王子直属の騎士が選出されるという話は、王子であるアイリスフィア本人には知らされてはいなかった。アイリスフィアが選ぶのではなく公爵や高官たちが選出するという事は、つまりは王子を監視する者という事になる。それを思うと、公爵たちも王子に好き勝手をされては困るという事が窺い知れた。
直属の騎士の話は親善試合が行われる前からあったようなので、おそらくはアイリスフィアが公爵邸での夜会に参加した事がきっかけとなり、公爵たちも動きだしたのではないかとクロスフィードは推測していた。
言うなれば、あれがアイリスフィアにとって反撃の第一歩だったのだから。
「フィルエイダ子爵の三男というと、ファイスレイド殿か……。なかなか隙のない選択だな」
「子爵は爵位で言えば下から二番目。上位貴族たちに意見できるだけの地位ではない、か。しかもその子爵家が、これを機に上位貴族たちとの繋がりができれば儲けもんって考えるような家だって言うなら、こっちに寝返る可能性も低くなる訳だな。まあ、俺はその子爵様を知らねえから、確かな事は言えないが」
「大体それであっていると思うよ」
アレクヴァンディの言葉にはクロスフィードも同じ意見だった。
現状、王子であるアイリスフィアの権威は公爵よりも下だ。それはアイリスフィアを取り巻く状況からも明らかだ。そうなると、貴族たちが公爵に付いた方が得をするという考えを持ってしまう事は避けられない。そんな中で、王子直属の騎士になれるという誉を手にした騎士とその生家が、王子ではなく公爵側に付く事は目に見えている。それでなくても今回の騎士選出はアイリスフィアの意見は全く無視されているのだから、選出された騎士ははじめから公爵側に付いていると考えた方がいい。
「で、実際その三男坊はどんな奴なんだ?」
「私は会った事はないが、確かとても真面目な性格で騎士の鑑のような人物だと聞いた事がある。まあ、裏では鉄の仮面を付けていると言われているほど表情が変わらない人物らしいが」
「お前、よく知ってるな……」
そんなアイリスフィアの言葉に、クロスフィードは少しばかり口を尖らせながら言葉を返す。
「失礼だな。伯爵家だって一応貴族家だ。社交会から爪弾きにされているからと言って、情報収集の場が全くないという訳ではない。それなりには貴族たちの情報を持っているよ」
貴族社会において情報は命だ。いつ何時何があるか分からないのだから、社交界から爪弾きにされている貧乏貴族だろうと、伯爵家だって情報収集は常に行っている。
「まあ実際、こちらに取り込むのは簡単だろうからそう心配しなくてもいいんじゃないか?」
「何故そう言える?」
「何故って、アイリスは一度それに成功しているだろう?」
「?」
何の事だというように首を傾げているかつての意地悪王子を見つめながら、クロスフィードは思わず笑ってしまった。
「私が成功例だろう? もう忘れたか?」
そう告げてみると、ハッとしたような顔をしたアイリスフィアが、次の瞬間には何ともバツが悪そうに視線を泳がせていた。それをクロスフィードと同じように笑いながら見ていたアレクヴァンディが言葉を継ぐ。
「クロスの時みたいに弱みに付け込んで抱き込んじまえば、後は絆されるのを待てばいいって訳だな」
「要はそういう事だな。とりあえず直属の騎士になった者の弱みを見つける事からはじめればいいんじゃないか?」
「……お前ら、黒いな」
この場面だけ見れば、誰もがこちらが悪者だと思うだろう。しかしそれもまた手段としては必要なのだという事をクロスフィードは知っている。その事に関してはアレクヴァンディも同意見だという事を先の会話で理解した。しかし肝心のアイリスフィアは二人の会話に引き気味だった。
「正攻法で勝てる相手ではないからな。使う手段に黒いとか白いとか言っていたら何も出来ないよ。犯罪に手を染めないというのは絶対条件だが、多少の卑怯は有りだ」
「クロスの言う通りだな。クロスと初めて会った時の事を思い出せ。あれを直属の騎士になった奴にもやればいい。簡単だろ?」
「素直に承諾できない何かが胸に残る……」
顔を引き攣らせているアイリスフィアの様子に、クロスフィードは思わず苦笑が浮かんだ。
アイリスフィアは最初こそ性悪陰険意地悪王子だと思っていたが、その実、根は優しく素直なところがある事を知った。アイリスフィアの本心を言えば、正攻法で勝ちたいという思いがあるのだろう。それが分かるクロスフィードは、この王子はそのままでいて欲しいと心から思った。
しかしそんなクロスフィードの思いとは裏腹に、アレクヴァンディは何やら意味深な視線をアイリスフィアに向けていた。
「そうは言うがな、アイリス。直属の騎士を味方に付けない限りクロスと会えなくなるんだぞ?」
「な、何故だ!?」
「何故ってお前……。考えてもみろ。公爵側の人間と伯爵家の人間が一緒に仲良く雑談なんかできる訳ねえだろ」
大袈裟に言えば、直属の騎士となる人物は公爵側の間者だ。その騎士がいる限りアイリスフィアの行動は公爵に筒抜け状態となる。それが分かっているのに、アイリスフィアとクロスフィードが現在のように親しくしているところなど見せられる訳がないのだ。
昨夜の宴でアイリスフィアは公爵が来るよりも前に参加していたという事実は既に知られている事だろう。しかしまだしらを切る事ができる状態ではあるため、王子と伯爵家が繋がっているという確証を持たせるような事は避けるべきなのだ。
そういった事をアイリスフィアも察したようで、その顔色が見る間に絶望の色に変わっていく。
そこまで絶望視しなくてもいいだろうにとクロスフィードが思っていると、アレクヴァンディから更に追い打ちがかけられる。
「直属の騎士を丸めこんで味方に付けない限り、アイリスはクロスと接触できないからな。見かけても声すらかけられないという状態が続く訳だ。手段選んでちんたらやってたら、いつまで経ってもクロスと過ごせる日々は戻って来ないぞ。もしかしたら会えない間にクロスに縁談話が転がって来るかもしれないだろう? それこそ望むところじゃないだろうが」
「何故そこで私の縁談話が出てくるのか分からないんだが……」
アイリスフィアに対して関係ない事まで力説しているアレクヴァンディの言葉に、クロスフィードは一人困惑していた。
しかし騎士の力説は何故か王子には届いていたようで、アイリスフィアが途端に深刻な表情になる。
「それは忌々しき事態だ。早急に手を打たないと……」
妙にやる気を出しはじめるアイリスフィアを前に、クロスフィードはどうしてそこでやる気になるのかが分からなかった。
確かにやる気になってくれた事はいい事だが、やる気の方向が明後日の方向を向いていない事だけを願う。
「まあ、弱みを見つけるまでが大変だと思うが……。とりあえず、誰が騎士になるのかはまだ分からないんだから、今の内に対策案を考えておけばいいんじゃないか?」
「そうだな! 一日でも早くクロフィが戻って来られるように対策を練らないとな!」
「騎士をこちらの味方に付けるための対策を考えろ……」
王子のやる気は、既に明後日の方向を向いていた。




