誤解を解くために誤解していた事
翌日。クロスフィードは昼になる少し前に王宮へとやって来ると、すぐさまアイリスフィアへの面会の申請を行った。
誰が夜などに来るものか、とまるで戦に赴く騎士の如き決意を胸に王宮へとやって来たクロスフィードであったが、結果は予想通りのモノだった。
「大変申し訳ありませんが、本日王子殿下は体調が優れないとの事ですので、誰ともお会いになれません」
そんな断りの言葉を持ってきたのは年配の侍女だった。
しかしアイリスフィアが病弱である事は周知の事実であるため、強ち嘘とも言いきれないのが辛いところだった。
クロスフィードはいつものように人の良さそうな笑みを顔に張り付けながら、来た事だけは伝えてくれとその侍女に頼み、その場を離れた。
「来た事すら王子には伝わらないんだろうな……」
そんな事を呟きながら、クロスフィードは王宮の廊下を歩く。
正面切って面会しようとしても、これでは何年経っても会う事など叶わないだろう。しかし、このままアイリスフィアの言葉を無視する事で生じる様々な不利益を考えると、是が非でも会わなければと言う思いが強くなる。
そうして、アイリスフィアと会う方法を考えながら王宮の廊下を歩いていると、いつものようにヒソヒソと話す声が耳に付いた。
『ほら、あの人』
『ああ、伯爵様の』
『あの方の甥ね』
至るところから視線を感じるが、クロスフィードはそれを気にすることなく背筋を伸ばしたまま歩いて行く。
長く王宮で働いている者たちの方が伯爵家の詳しい罪を知っているのだろう。それ故にクロスフィードが王宮を歩いているとあまりいい顔はされなかった。
「飽きないものだな」
そんな事を呟きながら足早に廊下を進んで行く。
至る所から聞こえてくるヒソヒソ話にはもう慣れている。
言いたい奴には言わせておけばいい、というのが父親からの教えだった。決してそれだけという訳ではないが、クロスフィードもあまり気にしないようにしていた。
とはいえ、クロスフィードは貴族の令嬢たちからの人気はかなり高かった。
クロスフィードは普通の娘たちより背は高めであるため令嬢たちを見上げる事はないし、両親から受け継いだその容姿も中性的で整っている。元近衛騎士の父親から譲り受けた剣術の腕もなかなかで、教養もあり、性格も穏やかで、おまけに伯爵家の跡取り息子だ。クロスフィードという人間だけを見れば、令嬢たちにとっては理想の男性像だと言える。
しかしクロスフィードは意図してそういった人物になろうとしていた訳ではなかった。少しでも伯爵家に張り付いた印象を払拭しようと努力した結果、令嬢たちから注目を集める事となっただけなのだ。
クロスフィードは令嬢たちから『麗しの君』などと呼ばれているが、そんな事はどうでもいいと本人は思っていた。それはクロスフィード自身が女だからであって、いくら令嬢たちから熱烈なアプローチがあろうとそれを受ける事は決してないからだ。しかし男である事を確固たるものにするために、『麗しの君』というどうでもいい渾名を利用している事は確かだった。
ただ、夜会や宴に参加する際は注意が必要になってくるというのが悲しいところではある。
「さて、どうするかな……」
ようやく建物の外へと出たクロスフィードは、このまま家に帰ろうかどうしようか迷っていた。
出来れば今日中に何もかもを終わらせてしまいたいと思っているクロスフィードではあるが、アイリスフィアに会えないなら意味がないのだ。王子の自室に押し入ってやろうかとも考えたが、貞操を自ら捨てるような行為をする度胸はこれっぽっちもない。というより、そんな犯罪めいた事をする気は更々ない訳だが。
クロスフィードはあてもなく王宮の庭を歩きながら、うーん、と何度も唸っていた。
「考え事しながら歩いてると転ぶぞ」
「え? あ、うわっ」
不意に聞こえた声にハッとしたクロスフィードは、石畳の小さな出っ張りに足を取られてしまい、勢いよくつんのめる。すると背後からグイッと腕を引かれ、転倒は免れた。
「言わんこっちゃない」
「君は、昨日の……」
振り向くと、そこには昨夜アイリスフィアを呼びに来た若い騎士がいた。クロスフィードよりいくつか年上であろうその騎士は、陽の下で見ると精悍な顔立ちをしており、なかなか整った容姿をしていた。クロスフィードが見上げるような長身であるため、アイリスフィアより背は高いようだった。
昨日は夜であったし、ましてそれどころではなかったため気付かなかったが、騎士の瞳の色は少し暗めの青紫色だった。これと言って珍しくもないその瞳の色に目が行ってしまったのは、クロスフィードも騎士と同じ青紫色の瞳を持っているからだった。
王子の恋人(かもしれない)人物との共通点があると言うのは、全く以って嬉しくない事実だった。
そんな事を考えていると、騎士に掴まれていた腕が解放された。
「昨日の事で来たのか? アイツの言う事なんて無視すればいいのに」
そんな事を言う目の前の騎士に、クロスフィードはその言葉の意味を察した。
要は、俺の王子殿下に近付くな、という牽制をこれでもかというほど柔らかく言っているのだろう。
「安心してくれ。私は殿下の恋人になるつもりはないから」
「……………………は?」
たっぷり間を置いてからの一言に、クロスフィードは分かってもらえなかったのだろうかともう一度説明する。
「私にそのような趣味は無い。私はちゃんと異性が好きだ。だから君から殿下を奪うなんて事は、太陽が西から昇るくらいにあり得ない。だから安心してくれ」
誤解はちゃんと解いておかなければと思っていたクロスフィードは、この場で昨夜の騎士に会えた事を幸運に思っていた。
しかし誤解を解いたと思っているクロスフィードとは裏腹に、騎士は盛大なため息と共に口を開いた。
「待て待て。何か、いろいろと、盛大に誤解しているようなんだが……」
「誤解?」
どういう事だと首を傾げたが、すぐに人違いをしていたのだと思い至る。
「そうか、すまない。殿下が君の事を『アレク』と呼んでいたから、てっきり君が殿下の恋人と噂のアレクヴァンディなのかと思っていた」
「そうだけど! そうなんだけど! 誤解してるのはそこじゃねえ!」
肯定するか否定するかどっちかにしてくれと思いながらクロスフィードが返答に困っていると、騎士は、ああもう、と力なく肩を落とした。
「俺の名前はアレクヴァンディだが、アイリスの恋人じゃない。断じて違う。俺だって女の方が好きだ! 男好きだと思われるくらいなら女癖が悪いと言われる方がマシだ!」
「そんな事を声高に言うのもどうかと思うのだが……」
騎士改めアレクヴァンディの言葉で、彼がアイリスフィアの恋人ではないという事を彼の力説で理解した。しかしアレクヴァンディはアイリスフィアの事を『アイリス』と呼んでいる事から、少なからず親しい仲である事は明白だった。
一国の王子を一般の騎士が気安く呼ぶなど本来ならあり得ない事だった。というより、アイリスフィアの名前を気安く呼ぶ事など、誰にも出来はしないのだ。
アイリスフィアはこの国の王子であり、次期国王となる人物だ。国王の座が空席である今、未だにアイリスフィアの即位は成されてはいないが、それでも次期国王である事は決まっている。そんな人物を気安く呼んでいるからこそ、アレクヴァンディは王子の恋人と噂されているのではないかと、クロスフィードは秘かに思った。
「はあ……、全くどいつもこいつも……うげっ!?」
突然奇怪な声を上げたアレクヴァンディは、クロスフィードの背後を凝視しながらその顔色を真っ青に変えた。
どうしたのかと眉根を寄せながらそれに倣うように背後に視線を持っていくと、視線の先で立ち止まっているその人物の雰囲気に呑まれ、クロスフィードも固まった。
視線の先にいるのは、腰に作業用の鞄を下げ、ラフな格好をしている二十代後半くらいの銀髪の男だった。
微笑めば優しげな印象を与える事が出来るであろうその整った容姿には、今現在全く表情がなかった。それどころか、その無表情はこの上なく怖い。
クロスフィードは誰だろうかと思うよりも先に、この人怖い、という印象を強烈に抱いてしまった。
男はジーっとこちらを凝視しているだけなのだが、その雰囲気は飢えた獣が獲物を仕留める寸前のような凄まじい殺気に満ち溢れている。
要は、大変恐ろしい雰囲気がダダ漏れであるという事だ。
「またやられたのか……」
「?」
ぼそりと呟かれたアレクヴァンディの言葉にクロスフィードは何の事だろうかと一瞬思ったが、今は視線の先にいる男が恐ろし過ぎてそれどころではない。
銀髪の男は少しばかりその場に留まり、ただジーッと見つめてくるだけだったが、不意に視線を逸らせたかと思ったら、何も言わずに去っていった。
クロスフィードとアレクヴァンディは男の姿が完全に見えなくなると、互いに長い息を吐いた。
「い、今の人は?」
「……あの人は王宮庭師だ」
「庭師!?」
戦場の騎士もビックリな程の殺気を放っていた銀髪の男は、庭師という何とも平和な職業に就いているという。
クロスフィードもそれなりに剣の腕を持っているが、先ほどの男には全く勝てる気がしなかった。
「丸腰だったが、剣術の指南役か何かで来ている人かと思ったよ……。しかしかなり怒っているように見えたんだが、何か怒らせるような事をしてしまったのだろうか……」
確かに凄まじい殺気を放ってはいたが、それは怒りからくる怒気だった。何をそんなに怒っていたのかと考えると、クロスフィードは途端に肩を落とした。
庭に伯爵家の者がいるだけでも嫌なのだろうか。
そう思うと、クロスフィードは悲しい気持ちになった。
「別にあの人はお前に怒ってたわけじゃないから気にすんな」
まるで心を読んだかのようなその言葉に、クロスフィードは顔を上げる。
「そうだろうか……?」
「そうだよ。あの人が怒ってたのは俺の方」
「そうなのか?」
「ああ。まあ、俺が原因でっていうのは分かってんだけどな……。俺だって本当は王宮側に来たくないってのに……」
何やらブツブツと呟きはじめたアレクヴァンディに、クロスフィードはようやく一般騎士であるアレクヴァンディが王宮側にいる不自然さに気付いた。
「そう言えば、君のような一般の騎士が王宮側に居るのは珍しいな。近衛騎士たちに見られると一言言われるのではないか?」
「そうなんだよ。大体何で騎士団同士でいがみ合ってんだよ、全く」
「仕方ないだろうな。それはもう伝統のようなモノだし」
一般の騎士団に所属している者は平民からの志願者たちで構成されている実力主義の騎士団だ。
入団者は皆一様に腕に覚えのある者たちばかりのため、実力は近衛騎士団よりも上を行く。しかしいくら実力主義と言っても、騎士団に入るためにはそれなりに基準がある。それは王宮という場所に入れる以上、線引きはしっかりしておかないと大変な事になるからだ。それ故に、ただ実力が有るだけでは入団出来ないようになっているのだ。
対して近衛騎士団に所属しているのは家を継がない貴族家の次男や三男たちが多く、貴族の子息たちで構成されている貴族寄りの騎士団だ。
詰所側の騎士団の方が実力は上と言っても、近衛騎士団に所属している子息たちが弱いと言う訳ではない。近衛騎士団にも入団基準は設けてあり、近衛騎士たちもそれなりに腕は立つのだ。
そんな訳で、平民で構成されている騎士団と貴族で構成されている近衛騎士団の仲はすこぶる悪い。
身分のない者とある者が似たような立場で王宮に仕えているためか、何かと張り合ってしまうようなのだ。騎士服も、一般騎士たちは黒、近衛騎士たちは白、という色の違いしかなく、そういったところも要因の一つと言える。
そんな訳で、一般の騎士団は詰所側、近衛騎士団は王宮側がそれぞれの領分なので、そこに色違いの制服を着た騎士を見つけると、互いに攻撃対象と見なすらしい。
クロスフィードの父親もかつては近衛騎士団に所属していたが、それ以前から騎士団同士のいがみ合いは続いているようだった。
最早伝統と言っても過言ではないそのいがみ合いは、今ではそういうモノだという認識しかされていない。
「それで君は王宮側に何をしに来たんだ?」
近衛騎士たちに見つかれば嫌味をもらう事は既に了解済みだろうが、庭師にまで疎まれているとは、アレクヴァンディは王宮側では相当に動き辛いだろうに。
そう考えると、クロスフィードは彼を少々憐れに思った。
「アイリスにちょっと用があって今から会いに行くところだったんだ……っと、勘違いするなよ! 決してそういった意味で会いに行くわけじゃないからな!」
「君と殿下がそういう関係ではない事はもう十分に分かったよ」
念を押すように力説するアレクヴァンディの様子に、クロスフィードは思わず苦笑した。
しかしアレクヴァンディがアイリスフィアに会いに行くと言うのなら好都合だと、クロスフィードは考えた。
正攻法ではアイリスフィアに会う事は叶わない。そのため、アレクヴァンディがどうやってアイリスフィアに会うのかは分からないが、同伴させてもらう事は出来ないだろうかと頼んでみる事にした。
「その、急で申し訳ないが、私も同行して良いだろうか? 私も殿下にはお話したい事がある」
「貴族のお前が何で俺なんかにそんな事頼むんだよ。お前、伯爵家の跡取り息子だろう?」
アレクヴァンディは決して悪意を持ってそれを言った訳ではないと分かってはいるが、『伯爵家の跡取り息子』と言われると、少しばかり胸の辺りがもやっとする。
「私が伯爵家の跡取りだと知っているのなら分かるだろう? 私は王宮では歓迎されない身だ。さっきも体よく面会を断られてしまったよ」
そう言って苦い笑みを浮かべると、アレクヴァンディは途端にバツの悪そうな表情になった。
「悪い。気を悪くしたなら謝る。別にそういった意味で言った訳じゃないって事は言っておく」
「別に気にしてはいない。私にとってはいつもの事だしな。いちいち気にしてはいられないよ」
そう言って肩を竦めて見せると、アレクヴァンディはその表情を翳らせてしまった。
アレクヴァンディが少しでもこちらの境遇を慮ってくれているのだろうかと思うと、目の前の騎士は結構いい奴だとクロスフードは思った。
「君は結構優しいんだな」
「な、何だよ、いきなり」
「普通は私との関わりを嫌がりそうなものなのに、君は違うんだなと思っただけだ」
噂の内容を知っていて、それでも声をかけてくる者は珍しい。まして会って間もない人物にここまで親しく話しかけられる事はクロスフィードにとっては初めての事だった。
「お前こそ、俺がこんな態度でも受け入れてるし。変な奴」
小さく息を吐きつつ淡い笑みを浮かべるアレクヴァンディに、クロスフィードも苦笑を返す。
「まあ、大抵の貴族たちは怒るだろうな。貴族たちは身分や血統にこだわりが強い。だから君も、長生きしたいのなら私以外の者に対して礼を欠いた態度は慎んだ方がいいよ」
「ご忠告どうも」
とは言うものの、アレクヴァンディはアイリスフィアを『アイリス』と呼べるほどに親しいようであるので、貴族たちであってもアレクヴァンディを簡単にはどうこう出来ないだろうと、クロスフィードは思った。
「それで、その、私も君に同行してもいいだろうか?」
「ん? ああ、まあ俺は別に構わないけどな。どうせ王宮殿の中でアイリスに会う訳じゃないし」
クロスフィードはアレクヴァンディから告げられた言葉に少々目を瞠った。
「ちょっと待ってくれ。では今現在、殿下は王宮殿の中にはいないという事なのか?」
「ああ。今くらいの時間はいつも外にいるはずだ」
あの侍女はやはり嘘を言っていた。その事実を知ると、やはり正攻法では会えないという事をクロスフィードは改めて思い知った。
どうやって自分の許に辿りつくのかという事さえもアイリスフィアが楽しもうとしているのだとしたら、それはそれで腹が立つ。
クロスフィードはアイリスフィアと会った昨夜の事を思い出し、王子は余程意地悪な性格をしているのだろうなと考えてしまった。
「アイリスに会ったところで、遊ばれるのがオチだと思うが……」
「これ以上遊ばれる前に何としても言葉を撤回してもらう!」
クロスフィードはアレクヴァンディの言葉が現実にならない事を、ただただ祈るばかりだった。