王子の決意
数人の令嬢たちと踊ったクロスフィードは、ようやく休息できる時間が出来たため、どうしようかと視線を巡らせた。
ニコルベネットはまた人に囲まれていたし、アイリスフィアはエミルディランやヴァンクライド達の許で話をしている。
それを確認したクロスフィードは、そっとテラスの方から庭へと降りた。
アイリスフィアたちの許に行って話に参加しようかとも思ったが、自分が行くと邪魔をしてしまうような気がしたため、クロスフィードは話に加わる事をやめた。
クロスフィードは夜風に当たりながら一人で夜空を見上げ、星の瞬きを瞳に映す。
綺麗な月が浮かぶその夜空を見上げていると、アイリスフィアと出会った日の夜を思い出す。
あの日も月が綺麗な夜だった訳だが、あの日のクロスフィードにはのんびり月を眺めている余裕などなかった。
「こんなところにいたのか」
不意に声が聞こえてくると、クロスフィードは驚くことなくそちらを見遣る。
「アイリス」
夜空に浮かんでいるのは、満ちるにはまだ足りない欠けた月。しかし視線の先にある綺麗な二つの月は欠ける事のない満月だ。
その満月が見つめる先に、クロスフィードはいる。
「もう話は済んだのか?」
「言いたい事は告げてきた」
そう言って近くまで来たアイリスフィアも、クロスフィードと同じように夜空を見上げる。
「俺たちが初めて会った日も、今日みたいに月が綺麗だったな」
「あの時の私は月などのんびり眺めている余裕など全くなかったけどね」
今思えば笑える話だが、あの日のクロスフィードは目の前の男から逃げる為にはどうすればいいかと頭をフル回転させながら考えていた。しかしながら逃げ遂せる事は叶わず、今もこうしてその時の男が隣にいる。
「そういえば、さっきお前も踊っていたな。お前は男方の方でも踊れたんだな」
「当り前だ。男として生活しているんだから」
「そうか……、そうだったな」
どこか不満げな様子のアイリスフィアにどうしたのだろうかと首を傾げていると、彼から小さな呟きが聞こえてくる。
「……もう一度、お前と踊りたかったんだがな」
「それは無理な話だな」
クロスフィードは男として生きているため、女として宴に参加する事など出来ない。それはアイリスフィアも承知しているはずなのに、どうして僅かでもその可能性があると思えたのだろうかと、クロスフィードはいつものようにため息を吐いた。
「私が女として宴や夜会に参加する事はこれからもない。だから、公爵邸での夜会が最初で最後だっただろうね」
「あ……」
アイリスフィアが途端に言葉を詰まらせると、それを察したクロスフィードは気付かぬふりをしてそのまま言葉を続けた。
「女として初めて踊った相手が本物の王子様だった訳だから、私は幸運だったんじゃないかな」
そう言いながら、クロスフィードはふと先ほど踊った少女たちの事を思い出す。
『麗しの君』と踊りたかったのだと言って顔を赤らめていた可愛らしい少女たちは、女の子であれば誰しも抱くような願いを持っていた。
憧れの人と踊りたい。そんな少女たちの想いは、クロスフィードにもよく分かる。それはクロスフィードも女として踊りたいと思う相手がいたからだった。
クロスフィードの願いが叶う事はこれからもないだろうが、女として踊った最初の人が本物の王子だった事を考えてみれば、それはとても稀な事だったのではないかと今さらながらに思っていた。
物語の中の話ならそこから王子との恋が始まるのだろうが、現実はそうじゃない。むしろ恋物語が始まってしまったら不味い。あり得ないが。
クロスフィードはそんな事を思いながら肩を竦めて見せると、アイリスフィアの表情がキョトンとしたモノに変わった。
「俺と踊ったのが初めてだったのか?」
「そうだよ。女として初めて踊るというのに、アイリスは足を踏むなとか言うしな。あの時は本当に踏んでやろうかと思ったよ」
あはは、と小さく笑いながらそんな事を告げると、アイリスフィアの雰囲気が途端に沈んだ。
「その、すまなかった。あの時はお前の事を男だと思っていたから……」
「別に気にしてないよ。あの時は私もそれどころじゃなかったしね」
思えば、出会ってからまだひと月も経ってはいないのだ。それなのに随分と距離が近くなったモノだとクロスフィードは思わず笑みが浮かぶ。
「本当に俺としか踊った事がないのか?」
「ん? そうだよ。練習の時は父が相手をしてくれていたけど、夜会の会場でというならアイリスが初めてだった」
「そうか」
何故か嬉しそうに頬を緩めているアイリスフィアの様子に、クロスフィードは何がそんなに嬉しいのだろうかと首を傾げた。
「ところで、アイリスがこの宴に来た理由を私も訊きたいのだが」
大方予想はしているものの、アイリスフィアの口からそれを聞きたいと思っているクロスフィードは敢えてその質問をした。
しかし返ってきた答えは、クロスフィードの予想とは少しばかりズレていた。
「伯爵に『クロスフィード』を俺にくれと願い出てきた」
「………………は?」
クロスフィードはアイリスフィアが何を言っているのか一瞬理解出来なかったが、その意味を察して目を瞠った。
「父さんたちではなく、私を?」
「そうだ」
当然だと言わんばかりの表情であっさりとそんな事を告げるアイリスフィアは、次の瞬間には、少しばかりその瞳を翳らせていた。
「俺が宴に来てしまった事を、お前の父親やクライドたちは迷惑に思っている事だろう」
そう言って視線を落としながら話すアイリスフィアの様子をクロスフィードは黙って見つめていた。
「俺がこの宴に参加する事がどういった意味に取られるのかは分かっている。これでも今後の事を考えて『守護者の名代』としてこの場に来たが……、それでもクライドたちに迷惑をかけてしまう事は避けられないだろう。その事は本当に申し訳ないと思っている」
詫びるように目を伏せるアイリスフィアを見つめながら、クロスフィードは少しばかりその心中を察する。
公爵はアイリスフィアを公の場に出さないばかりか、国政にすら関わらせていない。その事に高官たちも賛成であるというのなら、アイリスフィアだけではそれを覆すのは難しい。そんな状況の中ヴァンクライド達を庇いきる事ができない現実をアイリスフィア本人も十分に分かっているのだろう。
アイリスフィアには心許せる友人がいないようであるし、腹心の部下がいるとも思えない。そのため、たった一人で立ち向かうには、相手の勢力が大きすぎるのだ。
「悔しいが俺には誰もいない。クロフィやエミルのような知恵も持っていない。それでどうやって戦えばいいのか分からなかった。だから、この宴を利用させてもらった」
そう言って申し訳ないというような視線を向けてくるアイリスフィアに、クロスフィードは困ったような笑みを向けた。
近衛騎士団の入団基準が年々緩くなってきているのは上からの圧力がかかっているからだと聞いていた。そうであるなら近衛騎士たちの粛正にアイリスフィアが関わっていると公爵や高官たちが知れば、王子は自分たちの意向に反抗の意志があると見なすだろう。そうなれば公爵たちから何らかの圧力がアイリスフィア自身にかけられる事は目に見えている。
今までアイリスフィアを守るという名目で蔑ろにしていた者たちだ。もし本当に善意でアイリスフィアの身を案じていたとしても、今までのようにはいかない事くらいは察するだろう。
この宴にアイリスフィアが参加する意味は、彼自身が公爵たちの意向に背くという意志を示すため。
そしてこの宴にアイリスフィアが参加した目的は、公爵たちと戦うための味方を得るためだった。
「私でいいのか?」
「伯爵はお前の意思に任せると言っていた」
「私は伯爵家の人間だから、あまり役立てないと思うよ?」
「俺はお前がいい」
はっきりとそう言い切るアイリスフィアの言葉に、クロスフィードは嬉しくなって思わず笑ってしまった。
「ははっ、何だか嫁に行く気分だよ」
言葉だけ聞くと、嫁にしたい娘の父親に挨拶に来た男の図だ。
そんな事を思いながら、あはは、とクロスフィードが笑っていると、アイリスフィアが途端に慌てだす。
「な!? よ、嫁!? い、いや、しかし、クロフィが女であると知っている事は伯爵には言っていない訳だから、そ、そういった意味ではないんだが……ああでも、いつか必ずちゃんと挨拶に……」
「挨拶なら今――」
「今だと!? ク、クロフィはいいのか!? あ、いや、しかし、俺の方が、こ、心の準備がまだ……っ」
「???」
挨拶なら今して来ただろうと言おうとしただけだったのだが、アイリスフィアは何故かわたわたと慌てだしてしまった。
それを見つめながら、クロスフィードはどうしたのかとただただ首を傾げた。
「まあ冗談はさておき」
「じょ、冗談……、冗談か……」
「どうした? 何故残念そうに肩を落とすんだ?」
思い切り肩を落としてしまったアイリスフィアの様子に、本当にどうしたのかとクロスフィードは首を傾げる事しか出来なかった。しかしアイリスフィアから、何でもない、という力ない言葉が返って来た事で、クロスフィードもこれ以上その事には触れないでおこうと思った。
「アイリスが私を選んでくれたと言うなら、私はアイリスの助けとなれるよう全力を尽くすよ。私はもともとそのつもりだった訳だけど、アイリス自身が選んでくれたというのなら本当に嬉しいよ」
そう告げると、アイリスフィアが少しばかり窺うように口を開く。
「本当にいいのか? 俺の味方と言えば『守護者』くらいしかいないぞ?」
「アイリスがいらないと言えばさっさと身を引よ。でも私はアイリスの傍に居てもいいんだろう?」
「も、もちろんだ!」
「じゃあ私がアイリスのために全力を尽くすのは当然の事だ」
そう言って笑みを向けると、アイリスフィアも安心したように笑みを浮かべていた。
ヴァンクライドの生誕の宴には伯爵家も気兼ねなく参加できる。それは公爵寄りの貴族があまりいないからという理由もある。そのためアイリスフィアが味方を探すならうってつけの場である事は確かだ。しかし残念な事に、今は時期尚早と言った感じであるため、得られる味方はクロスフィードとエミルディランくらいなものだった。
「私は良いとして、エミルはどうだった?」
「クライドは使えと言ってくれたが、本人は鼻で笑いやがった」
「そうだろうとは思っていたよ……」
「フン、あんな奴はいらん」
「まあそう言うな。断られなかっただけマシだと思っておけば良いんじゃないか?」
鼻で笑ったエミルディランの顔でも思い出しているのか、アイリスフィアの表情が見る間に不機嫌そうに顰められる。それを苦笑しながら見つめていたクロスフィードは、エミルディランはもう少しアイリスフィアの事を見極めたいのだろうと秘かに考えていた。
「では今のところの味方は私とアレクだけか。うーん、今までと変わらないな」
「俺はそれでいい」
ふと真面目な声音が返ってくる。
「お前たちが居てくれるなら、俺は心強い」
「アイリス……」
今まで一人でその場所に居たのだろうアイリスフィアからすれば、たった二人だけの味方であっても、立ち向かう勇気を持つには十分な数だったのだろう。
「俺はずっと自分の置かれた状況が気に食わなかった。だが、どうでもいいと思っていた事も事実だ」
そう言って、アイリスフィアが少しばかり視線を落とす。
「このままでは好いた女の一人も守れないと思い知った。こうなって初めて、俺は何もしてこなかった自分を悔いた」
「好いた女?」
クロスフィードは聞こえてきたその単語に少々首を傾げた。
「アイリスはいつの間にいい人を見つけたんだ?」
「見つけた訳ではない。前から、その、想っていた……娘だ」
「もしかしてこの前話していた子の事か?」
「え、あ、ああ、そうだ。じ、実は、その娘はおま――」
「彼女は生きていたのか!?」
「……お前の中ではどういう話になっているんだ?」
少しばかりムスッとした表情で言葉を返してくるアイリスフィアを前に、クロスフィードはそうだったのかと少しばかり呆然としていた。
「もう会えないと言っていたから、てっきり亡くなってしまったのかと思っていたんだ。そうか、生きていたのか。あ、でも、彼女は貴族の令嬢ではないのだろう? だとするといろいろと手を回さないと――」
「彼女は貴族の令嬢だが少々厄介な事情を抱えている。それをどうにかするためには、まず俺を取り巻く状況を変える必要がある。そのために俺は公爵たちと袂を分かつ決意をしたんだ。分かったか」
「あ、ああ……、分かった」
不機嫌そうな顔で勢いよく説明するアイリスフィアは、どこか拗ねているようにも見えた。そんなアイリスフィアを前に、クロスフィードは話をちゃんと理解していなかった事が不満だったのだろうかと思った。
しかしながら、公爵たちと袂を分かつ決意をしたのが想う相手のためというのだから、アイリスフィアは案外情熱的なところがあるらしい。
些か動機が不純な気もするが。
「よかったな」
「何がだ?」
「その子とまた会えたんだろう? もう会えないと言っていたくらいなんだから、アイリスはその子の事を諦めていたのではないか?」
そう訊いてみると、アイリスフィアが真っ直ぐに視線を向けてくる。
「あの時は本当にもう二度と会えないと思っていた。だがそれは俺が勘違いしていただけの話だった。だからもう、諦めるつもりはない」
その言葉を聞いたクロスフィードは、アイリスフィアの眼差しに並々ならぬ本気を感じて、余程その娘の事を好いているのだろうと思った。
そこまで決意を固めているのなら力になってやらねば、という思いがクロスフィードの胸に浮かんでくる。
「頑張れよ。力になるから」
そう告げてみると、アイリスフィアは何とも言えない表情でため息を一つ吐いていた。クロスフィードはその様子を見つめながら、自分では戦力外だと思われているのだろうかと思ってしまった。
そうしてアイリスフィアの決意と想いを聞いたクロスフィードは、前に進もうとしているアイリスフィアを微笑ましく思いながら、出来る限りの手助けをしてやろうと心に誓った。
「そういえばずっと気になっていたんだが、レイヴン殿を祝いの品にするなんてよく思いついたね。あの方が宴に招待されている事を知っていたのか?」
ふと気になっていた事を訊いてみると、アイリスフィアはその事かというように答えを返してくる。
「ああ、それか。レイヴンの事はアレクに聞いたんだ。レイヴンを連れていけば多少話を聞いてもらえるんじゃないか、と」
「アレクがそんな事を……」
クロスフィードはアレクヴァンディの察しの良さには気付いていたが、アイリスフィアの話を聞いて、状況判断能力も優れているのではないかと思った。
レイヴンリーズは毎年宴に招待されてはいるものの、クロスフィードが知る限りでは、彼は一度も宴に参加した事はない。そんなレイヴンリーズを宴に連れてくる事が出来れば、アイリスフィアの評価も少しくらいは好転するだろうとアレクヴァンディは考えたに違いない。事実、ヴァンクライドにとってこの上ない祝いの品になった事は言うまでもなかった。
口では何だかんだ言っているレイヴンリーズとヴァンクライドだが、二人の仲が非常に良い事をクロスフィードは知っている。それをアレクヴァンディもこの短期間で察したという事だろう。
「しかしよく連れてくる事が出来たな。私ですら毎年惨敗しているというのに」
「そこはまあ『守護者』の権力を発動してだな……」
「守護者様が職権乱用なさったのか!?」
『守護者』が誰なのかを知らないクロスフィードは、『守護者』がどういう人物であるのかを少しばかり垣間見てしまった気がした。
権力者が職権乱用しないでくれと声を大にして言いたい気分だ。
「俺はアイツの肩書を借りただけだ。実際にはアイツは何もしていない」
そう言って不敵な笑みを浮かべているアイリスフィアを前に、クロスフィードは『守護者』という肩書の凄さを思い知った。
何年も宴に参加する事を拒み続けていたレイヴンリーズを動かせるほどの威力があるのなら、『守護者』の肩書を使って公爵たちも黙らせる事が出来るのではないかと本気で思ってしまった。
「お前の父親と騎士団長たちは旧知の仲だという事は俺だって知っている。だからあの三人には俺の意志を伝えておきたかった。あの三人だけが、今のところ公爵の息のかかっていない者たちだからな」
ヴァンクライドとレイヴンリーズは伯爵家と懇意にしているせいか、公爵とはあまり折り合いがよくないらしい。伯爵家の当主であるツヴァイスウェードは言うまでもなく公爵とはあまり関わらない位置関係にいる人物であるため、一番公爵と関わりがない貴族といっても過言ではない。
そんな訳で、アイリスフィアが公爵たちと戦うにあたって一番味方になってくれる可能性が高い人物がこの三人だったのだ。
しかしながら、アイリスフィアは動き出したばかりでもあるため、彼らが味方に付くかは今後の頑張り次第という事になるだろうとクロスフィードは思った。
「アイリス、一つ確認しておきたいんだが」
「何だ」
すぐに返ってくるアイリスフィアの言葉を受け、クロスフィードは少しばかり言い淀みながら質問を告げる。
「伯爵家が味方で、いいのか?」
クロスフィードがアイリスフィアの味方に付くにあたって、それだけはどうしても聞いておきたい事だった。
「私の伯父であるアインヴァークは国王陛下を暗殺したとされる人物だ。アイリスにとっては父親の仇でもあるだろう? 私の父はアインヴァークの弟で、私は彼の姪だ。それでも、いいのか?」
「お前は父親と同じような事を言うんだな」
「父も同じ事を?」
「ああ。仇の家を味方につけても得する事など一つもない、と言われた」
そう言って少しばかり困ったような笑みを浮かべるアイリスフィアはそのまま言葉を続けていく。
「伯爵家は、公爵側には付かないが王子側にも付けない、とも言われてしまった」
「まあ、実際そうだから仕方ないが……」
「だから『クロスフィード』を俺にくれと願い出たんだ」
そう言って不敵な笑みを浮かべるアイリスフィアに、クロスフィードは思わず苦笑が浮かんだ。
アイリスフィアは、おそらくツヴァイスウェードや騎士団長たちを味方につけるのは難しいと分かっていたのだろう。そのため、味方にする事が一番簡単なクロスフィードを選んだのだ。
伯爵家には大きな罪がある。それを盾に取れば伯爵家のクロスフィードを手駒にする事は簡単だ。しかしアイリスフィアはきっとそんな方法を使った訳ではないだろう。
『いつかきっと、お前と一緒に居ても誰にも文句を言わせないようにしてみせる』
そう言ってくれたアイリスフィアの言葉を思い出すと、それが現実となるように傍に置いてくれるのではないかとクロスフィードは思った。
「伯爵はお前の意思次第と言っていたし、お前からは俺に付くという言質も取った。だからもう俺から逃げられると思うなよ」
「うわ、あの時と同じ台詞」
初めて会った時に言われた台詞と同じ言葉を告げてくるアイリスフィアに、クロスフィードは思わず笑ってしまった。
出会った当初、クロスフィードはアイリスフィアにとっての道具でしかなかったというのに、今ではこうして肩を並べて立っている。
それがとても不思議で、嬉しい事でもあった。
「私のような者でよろしければ何処までもお供いたしますよ、殿下」
そう言って大仰に腰を折ると、アイリスフィアから困ったような笑みが向けられる。
「お前にはやはり名を呼んでもらいたい」
「アイリス、と?」
「ああ」
名を呼んだ瞬間、アイリスフィアが今まで見た事がないような柔らかい笑みを浮かべていた。
その笑みは本当に嬉しそうで、花のように綺麗だった。
その笑顔に少々目を瞠ったクロスフィードだったが、アイリスフィアの嬉しそうな様子に思わず笑みを零す。
「よし! そうと決まれば、まず何から始めるかを決めないとな。でもまあ今日は宴を楽しもう。アイリスも折角来たんだから楽しみたいだろう?」
「まあ、そうだな」
「じゃあ、戻ろうか」
そう言ってアイリスフィアと共に広間へと戻ろうと足を進めはじめた時、庭の草木がガサガサと揺れる音が聞こえてきた。
その音はすぐ近くから聞こえてきたので、クロスフィードは咄嗟に警戒態勢を取った。
「アイリス、下がれ」
「バカか! お前が下がれ!」
咄嗟に前に出るアイリスフィアに立場が逆だろうと思いながら、クロスフィードは彼の腕を引いて下がらせようとした。すると、不意に知った声が耳に届く。
「うわ! 人が……って、殿下!?」
暗がりから聞こえてくるその声に、アイリスフィアがクロスフィードを背に庇うように前に出たが、クロスフィードはその声に聞き覚えがあったため、思わず声をかけた。
「カイル?」
「クロス! 久しぶり……って、そんな呑気な事言ってる場合じゃなかった」
ガサガサと植え込みの低木を揺らしながら現れたのは、王宮に居るはずのカイルレヴィだった。
カイルレヴィはアイリスフィアがいる手前、咄嗟に騎士の礼を取る。
「このような場所から失礼致します、殿下」
アイリスフィアは目の前に現れた近衛騎士が誰なのか分からないようで、少々首を傾げていた。
「お前はコイツと知り合いなのか?」
「彼はカイルレヴィ。エミルの弟だよ」
簡単にそう説明すると、クロスフィードはカイルレヴィに向いた。
「こんなところからどうしたんだ? 王宮で何かあったのか?」
カイルレヴィが王宮に残ったのは、親善試合後の団内が未だに落ち着いてはいないからだ。そのため、カイルレヴィがこの場に現れたという事にはそれなりの訳があるのだとクロスフィードは瞬時に悟った。
「何かあったなんてもんじゃないって! ここに公爵様が向かってるんだ!」
「何だって!?」
クロスフィードはアイリスフィアと思わず顔を見合わせてしまった。
「先回りしてきたはずだけど、もし中に公爵様がいたら身動き取れなくなると思って裏口から入ってきたんだ。というか、何で殿下までここに居るんですか!?」
「その辺りは後日エミルから聞いてくれ。今はそれどころじゃない」
アイリスフィアがこの場に居る事に驚いているカイルレヴィに、クロスフィードは悪いと思いながらも説明は省いた。
「悟られないように出てきたつもりだったんだが、気付かれていたのか……っ」
忌々しいというように呟いているアイリスフィアに、それはないだろうとクロスフィードは口を開く。
「いや、レイヴン殿と一緒だった訳だからそれはないと思うが……」
もし本当にこの場にアイリスフィアがいる事は知られていないとするならば、王子と公爵が鉢合わせてしまうと物凄く面倒くさい事になりかねない。
アイリスフィアは『守護者の名代』として参加している訳なので、後々この事は公爵に知られる事は確実だ。しかし今知られるのと後日知られるのとでは雲泥の差があるのだ。まだ後日に知られる方がいろいろな言い訳や根回しもきくが、現時点ではそれも不可能だ。
「皆に知らせた方がいい。早く戻って――」
と、クロスフィードが言いかけた時、広間の方からどよめきが聞こえてきた。それが聞こえてくると、三人は一様にハッとし、次の瞬間には苦い顔つきになった。
三人がいる場所は広間から少しばかり離れた場所であるため、この場所からは広間の様子が窺えない。しかしそのどよめきが歓迎を示しているのかそうではないのかくらいは察する事が出来る。
「一応、中の様子を見てくるよ」
そう言って、カイルレヴィはその場を離れ、広間の方へと向かっていった。それを見送ると、アイリスフィアから声がかけられる。
「どうして公爵がこの場に来るんだ。クライドは公爵にも招待状を送っていたという事か?」
「一応義理でも送らないと角がたつからな。だがまあ、公爵様が来た事など一度もなかった訳だから、おそらく目的は……」
「俺の事ではないというなら、親善試合の件で、という事か」
「そうだろうな」
最近になって、クロスフィードは公爵に対する見方が変わってきていた。しかし実際にどういった人物であるのかが分からないクロスフィードは、公爵の参加理由を大方予想できているものの、本当にそういった事をするような人であるのかは分からなかった。
そうこうしている内に、カイルレヴィが戻ってくる。
「マジでいたよ、公爵様! やばいって! このまま広間に戻ったら、俺もクロスも身動きとれなくなるよ」
このまま広間へ戻ってもう一度この場に戻ってくる事は不可能だろう。公爵がいる手前、怪しまれるような行動は慎んだ方が賢明だ。そうなると、中に居るエミルディランたちに助力を請う事が出来ない。
クロスフィードはしばし考えた後、カイルレヴィに向けて口を開く。
「いいか、カイル。このままアイリスを連れて王宮に戻れ。後の事は私に任せろ」
「それは構わないけど……。やっぱ殿下がここにいる事公爵様に知られると不味いんだよね?」
「非常に不味い。今は、な」
「まあそうだろうね。親善試合の事もあるし訳だし……」
そうして二人で話を進めていると、アイリスフィアから抗議の言葉が飛んでくる。
「お前たちに迷惑をかけたままで帰るなど……っ」
「迷惑をかけたくないと思うなら、今は公爵様と会わない方がいい。後々知られる事は承知しているが、今この場でというのは都合が悪い。いくらアイリスが『守護者様の名代』としてここにいようと、公爵様に弱みを握られるような事態になってしまったらアイリスの目的など水の泡になってしまうよ」
「しかし……っ」
納得がいかないというように顔を顰めているアイリスフィアに、クロスフィードは笑みを向ける。
「私はアイリスの味方に付いたんだよ。だから、アイリスを守るのが私の役目だ」
そう告げると、アイリスフィアが少しばかり目を瞠っていた。
「心配するな。中には父さんもエミルもいるから、私は大丈夫だ。それより護衛がカイルだけのアイリスの方が私は心配だ」
心配するなという意味でアイリスフィアに笑みを向けながらそう告げると、今度はカイルレヴィから抗議の声が上がる。
「酷っ! 俺もそれなりに強いよ!」
「ごめんごめん。カイルが強い事は十分知っているよ。だからアイリスの事を頼んだよ」
「それは任せておいてくれていいけど、何でクロスは殿下の事呼び捨てなの?」
「……、その辺りもエミルに聞いてくれ」
不測の事態に敬語も敬称も忘れていた事に気付いたクロスフィードは、しまったと思いながらも、やはり説明は省かせてもらった。
「気をつけて帰れよ」
「公爵は伯爵家を毛嫌いしている。お前も気を付けろ」
「ああ、分かった」
心配そうに見つめてくるアイリスフィアに、大丈夫だというように笑みを返すと、クロスフィードはカイルレヴィに視線を送った。それを受けたカイルレヴィは一度頷きを返してくると、アイリスフィアに声をかける。
「殿下。行きましょう」
「……ああ」
そう承諾を返すアイリスフィアが一度だけ視線を向けて来たので、クロスフィードは笑みを浮かべながら小さく手を振った。それを認めたアイリスフィアは心配そうな表情をしながらも、カイルレヴィと共にその場を去っていった。
それを少しばかり見送ったクロスフィードは、意を決するように広間へと足を向けた。




