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宴の夜に

 親善試合から二日後。

 ヴァンクライドの誕生を祝う宴が開かれる当日、クロスフィードは両親と共に陽が落ちるくらいの時刻に侯爵邸へとやって来た。

 侯爵邸と言ってもヴァンクライドは家督を継いでいないため、侯爵邸の別邸が住まいとなっている。そのため宴の会場となっているのもその別邸の方だった。


「よく来てくれた、ツヴァイ。それにエイナとクロスも」


 そう言って歓迎してくれたのは、宴の主役であるヴァンクライドだった。その隣には夫人であるユエルカナンの姿があり、その傍にはエミルディランの姿もあった。


「誕生日おめでとう、クライド。今年はレイヴンも来るといいね」

「あの男が来る訳ないだろう。私はお前たちが来てくれるだけで満足だ」


 そうやって親しげに言葉を交わしているツヴァイスウェードとヴァンクライドの会話を余所に、ユエルカナンが口を開く。


「相変わらずツヴァイは細長いわね。どうして昨今の殿方は体の線が細い方ばかりなのかしら。クライドみたいにゴツイ男がもっと増えればいいのに」

「そうねえ。最近の殿方は細身の方が多いわよね」

「そうなのよ、エイナ! おかしいわよね!?」

「父上みたいなゴツイ男ばかりになったらむさ苦しいだけでしょう……」


 ユエルカナンとエイナセルティの会話にツッコミを入れたのは、エミルディランだった。


 ヴァンクライドの妻であるユエルカナンは無類の筋肉好きで、二人の馴れ染めを言えば、ユエルカナンの一目惚れだったそうだ。


「何を言うのです! クライドの子供ならきっと筋肉ムキムキの息子が生まれると思ってたのに! どうしてはエミルもカイルも細長いのよ! どうして貴方たちはクライドみたいなゴツイ男に育たなかったのよ!」


 興奮気味な母親にそんな無茶苦茶な事を言われたエミルディランは、面倒そうにため息を吐いていた。


「僕の成長期はもう終わってしまったので無理ですが、カイルならまだ見込みあるんじゃないですか?」

「そうね! あの子はまだ十七ですものね! ああ、でも今年十八なのよね。少しでも若いうちに体を作らせないと!」


 妙な気迫を漂わせ決意を新たにしているユエルカナンを前に、弟に押し付けたな、とクロスフィードはエミルディランをチラリと見つめた。しかし当の本人はいつも通りの笑みを浮かべながら、母親の意気込む姿を眺めていた。


 確信犯である。


「では、僕らは向こうに行っておりますので」


 両親たちにそう断りを入れるエミルディランに促され、クロスフィードは彼と共に広間の隅の方へと移動する。


「肩の怪我はもう大丈夫?」

「ああ。もう平気だ」


 心配そうに尋ねてくるエミルディランを安心させるようにクロスフィードは笑みを返す。するとエミルディランも、それならよかった、と言いながら笑みを返してきた。


「そうそう、はいコレ」


 そう言ってクロスフィードは上着の内ポケットから小さな縦長の箱を取り出し、エミルディランに差し出した。それを不思議そうな顔で受け取るエミルディランを見つめながら、クロスフィードはニコリと微笑みを返して口を開く。


「今回の件で頑張ってくれたから、そのお礼だ」

「あの話、憶えていくれたの?」

「褒美の話か? まあ、憶えてはいたけど、もともとお礼はしようと思ってたんだ。騎士たちに酷い事を言われた時、君たちは私の事を慮ってくれたから。あの時は本当にありがとう」

「クロス……」


 エミルディランの視線が手元にある細長い箱に移ると、彼はその表情にぎこちない笑みを浮かべた。

 いつもニコニコしているエミルディランだが、こうしてぎこちなく笑う時は本当に嬉しい時だけだと知っている。そのため、エミルディランが本当に喜んでくれているのだと知り、クロスフィードも嬉しくなった。


「エミルは机仕事が多いだろうからペンにしたんだ。よければ使ってくれ」

「使うなんてとんでもない! 部屋に飾るよ!」

「いや、使ってくれよ……」


 すぐにいつも通りに戻ってしまったエミルディランを前に、クロスフィードもいつも通りツッコミを返す。しかしエミルディランが贈った品を大事そうに上着の内ポケットにしまっている様を目の当たりにすると、それだけでクロスフィードの心もほっこり温かくなった。


「そういえばニコルとカイルは?」


 ずっと気になっていた事をふと訊いてみると、ああ、とエミルディランが答えを返してくる。


「ニコルはあそこ」


 つい、とエミルディランが向けた視線の先にクロスフィードも視線を向ける。するとそこには人だかりが出来ており、人と人の合間にチラリと見知った人の顔が見えた。


「ニコルは後宮に入ったからね。いろいろと人脈形成も必要でしょう?」

「そう、だね……」


 そんな相槌を打ちながら、後宮に入っている娘を伴侶にするのは御免だ、というような事をアイリスフィアが言っていたの知っているクロスフィードは、何とも言えない表情で人だかりの様子を見つめていた。

 それでなくてもクロスフィードが『花の君』として後宮に入っている令嬢の邪魔をしているのは事実であるし、それに何より、アイリスフィアにも想う人が出来るように協力すると約束しているのだ。そういう事実がある以上、後宮に入っている令嬢たちには少なからず申し訳ない気持ちを持っていた。


「後宮に入ったって言っても、まだ妃候補の一人っていうだけなんだけどね。どうせニコルは家に戻って来るために全力を尽くすと思うから、人脈形成は必要ないんだけどね。あ、後宮を脱走するための人脈は必要かもね」


 確信を持って告げられるエミルディランの言葉に否定を返せないクロスフィードは、苦笑いを浮かべながらその話を聞いていた。


「それで、カイルは何処にいるんだ?」


 広間を見渡しても見つからないもう一人の人物を視線で探しながら、クロスフィードはエミルディランに尋ねた。

 すると少しばかり硬い声音が返ってくる。


「カイルは王宮にいるよ」

「王宮に? 毎年宴には参加しているのにどうして今年だけ……」


 言葉を続けようとしたクロスフィードの口はその途中で閉じられる。

 今年に限って王宮にいるという理由。それは親善試合の件で団内が未だに落ち着いてはいないからだろうとクロスフィードは考えた。


「今はまだ僕ら三人の内の誰かが王宮にいないと面倒な事になりかねないからね。今日は父上の宴だし、カイルに残ってもらったんだ」

「エミルが残った方がよかったんじゃないか?」

「ここにクロスがいるのに仕事なんかしていられないよ」

「……」


 弟に押し付けたのかと思うと、王宮で一人職務を全うしているであろうカイルレヴィが憐れになってくる。


 クロスフィードはエミルディランの発言に力なくため息を吐くと、少しばかり躊躇いながら口を開く。


「その、選手になっていた近衛騎士たちは、あれからどうなったんだ?」


 そう訊いてみると、エミルディランの纏う空気が少しばかり温度を下げた。


「ほとんど退団してもらった。もちろんクロスを傷付ける原因を作った騎士もね。彼らは騎士としての志に反する行為をしたんだ。退団は当然の処置だよ」


 何の感情も乗せず、ただ淡々と結果を告げるエミルディランの様子に、そうか、とだけクロスフィードは返した。


 騎士団を退団した者の復団はかなり難しい。まだ自ら退団を志願したというのなら復団も望めるだろうが、退団させられたというのなら復団は最早不可能だ。

 それを考えると、ヴァンクライドやエミルディランの今後が心配になってくる。


「騎士たちの生家から反発があったのではないか?」

「まあね。でもこっちにはそれを黙らせるだけの証拠が揃ってるからね。それが公になればどうなるかくらい、いくら息子がバカでも親は分かるでしょ」


 作戦を開始した五日間、噂が広まってから騎士たちは行動を起こしたので実質二、三日という期間ではあったが、その間に行われた不正は最早事実として消える事はない。そういった事を含めて、今回の件で貴族たちを黙らせる事は出来るだろう。しかし問題はそういった反発だけではない。

 貴族たちの反発を公爵がどう見るかというところが一番危惧するべき問題だろうとクロスフィードは考えていた。

 しかしその考えを察したのか、エミルディランがニコリと笑みを浮かべる。


「この件の後始末は僕らの仕事だから、クロスは心配しなくてもいいよ」

「エミル……」


 この件にはもう関わるなと言われたような気がして、クロスフィードはそれ以上何かを言う事を躊躇ってしまった。

 しかし、どの道クロスフィードが出来る事など皆無なので、申し訳ないと思いつつも、これ以上その事を訊くのはやめておいた。


「ところで、詰所の騎士たちへのお礼は結局何になったんだ?」

「ああ、それ? 特別給金の支給になったよ」

「礼は金、という事か」

「彼らにとっては、それが一番いいみたい」


 エミルディランの言葉にクロスフィードは少しばかり心がモヤッとした。

 皆無事だったと言っても彼らは命の危険に晒されたのだ。礼として金を払うというのは別に悪い事ではないが、命の危機の見返りが金というのが何とも申し訳ないような気がした。


 しかしそんなクロスフィードの心を見透かすように、エミルディランが言葉を続けていく。


「今回の報酬にお金を要求してきたのは彼らの方だ。彼らが特別給金を求めたのは、みんな誰かのためだったよ」


 騎士の給金は町で普通に働くよりもその金額は多い。それもあって騎士を目指す若者は多いと聞く。

 現在騎士団に在籍している一般騎士たちの中には、稼ぐために騎士になった者たちも少なくない。そのため今回の見返りとして求めたのは、地位や名誉などではなく金だった。

 ある者は実家の両親のために。またある者は遠い地にいる妻子のために。

 今回の件で囮となってくれた騎士たちは皆、特別給金として得た金をそういった場所へ贈ってくれと頼んで来たらしい。


「アレクも今回の件で得た給金をお世話になった孤児院に贈ってくれって言ってきたから、そのように手配した」

「孤児院?」

「彼、孤児だったみたいだね」


 クロスも知らなかったのか、と言ってエミルディランは力ない笑みを浮かべていた。

 アレクヴァンディが孤児だったとは知らなかったクロスフィードは、本人からではなく第三者からそれを聞いてしまった事に申し訳ない気持ちを抱いた。

 出会ってまだ間もないが、気軽に話してくれるアレクヴァンディの事を好ましく思っていたクロスフィードにとって、彼が孤児であった事は衝撃だった。アレクヴァンディにも辛い過去があったのだろうかと思うと、心がギュッと締め付けられる思いがした。


「詰所の騎士たちは貴族から集められた騎士なんかよりずっと誠実で真面目だよ。本来であれば近衛騎士の方こそそうあるべきなのに、現実は全くの逆なんだ。今、騎士の本質を貫いているのは詰所の騎士たちだけだよ。近衛騎士は王家を守る盾でもあるのに、その盾が今では鉄クズなんだから、本当、笑えないよね」


 そう言ってエミルディランは目を伏せ、何かを吐き出すように長い息を吐いていた。その姿は湧き上がる憤りを堪えているようにも見えて、クロスフィードは何とも言えない気持ちになった。

 今回の事で見えた貴族たちの質の悪さに、クロスフィードは王宮内部の事情を想った。クロスフィードは内部事情とは関係のない場所にいるが、そこに関わっているエミルディランやヴァンクライド、そしてアイリスフィアの事を想うと、自分にも何か手伝える事があればいいのにと思わずにはいられなかった。


「ごめんね。変な話になっちゃって」

「いや。私が聞いた事だから、気にしないでくれ」


 そうやって言葉を交わしていると、クロスフィードは不意に名前を呼ばれた。


「クロス!」


 その知った声にそちらを向けば、そこには少々早歩き気味で近付いてくるニコルベネットの姿があった。


 ニコルベネットが来た事で、クロスフィードとエミルディランの空気も少しばかり軽くなる。


「久しぶりだね、ニコル」


 エミルディランとは違い、父親譲りの空色の瞳に母親譲りの蘇芳色の髪をしているニコルベネットは、女性らしい柔らかな容姿をしており、ドレスを纏ったその佇まいは凛としていてとても美しかった。


 ちなみに兄弟三人の内ニコルベネットだけがこの組み合わせの色を持ち、エミルディランとカイルレヴィは同じ髪と瞳の色をしている。


「ごめんなさいね。本当はすぐ貴方の許に行きたかったのに邪魔な方々が多くて」

「……ニコル、そういった言葉はこの場では控えような」


 兄が兄なら、その妹も妹。この兄妹の血はかなり濃い。


 クロスフィードはニコルベネットの発言に力なく息を吐いた。


「お兄様のような危険人物と一緒にいるなんて、ずっと気が気じゃなかったわ」

「僕とクロスの邪魔をしに来たニコルが何を言ってるのかな? ほら、さっさと残りの挨拶でもしておいでよ」

「残念でしたわね、お兄様。もう挨拶は全て終わらせてまいりましたわ。もう十分クロスとお話したでしょう? お兄様こそ気を利かせてどこかへ行ってくださいませ」

「僕はまだクロスとの話が終わっていないんだよ。ニコルこそもう少し気を利かせてくれないかな?」


 笑顔で睨み合う兄妹に挟まれながら、クロスフィードはただ苦笑いを浮かべて困惑していた。

 この兄妹|(カイルレヴィ含む)は、普段は仲の良い兄妹なのだが、そこにクロスフィードが絡んでくると、たちまちクロスフィードの取り合いをしながらいがみ合う事が多々あった。それを子供の頃から見てきたクロスフィードは、嬉しいやら困るやらで、未だにどう対応していいのか分からない。


「クロス。一曲踊りましょう?」

「え? ああ、いいよ」


 言い合いが面倒になったのか、ニコルベネットがそう誘ってきたのでクロスフィードは反射的に手を差し出した。しかしクロスフィードの手にニコルベネットの手が添えられる前に、エミルディランがその手を攫う。


「聞いてなかったの? 僕はまだクロスとの話が終わってない」

「あら、お兄様。悔しがったって無駄ですわよ。お兄様はどう足掻いたってクロスとは踊れないのですから!」

「くっ……、我が妹ながら心の抉り方がえげつない……っ」


 勝ち誇るように言い放たれたニコルベネットの言葉に、エミルディランは珍しく悔しそうに顔を歪めている。

 それを見つめながら、クロスフィードは少しばかり困ったような顔をした。


 男女両方の教育を受けてきたクロスフィードは、もちろん踊りも男女どちら側でも踊る事ができる。

 踊りを習う際、女としての練習相手は父であるツヴァイスウェードのみだったが、男としての練習相手はニコルべネットやカイルレヴィといったクロスフィードよりも背の低い者が相手となってくれていた。

 現在はカイルレヴィもクロスフィードより背が高くなってしまったが、エミルディランは常にクロスフィードよりも背が高かったため、踊りの練習相手としては適していなかったのだ。

 そのため、クロスフィードは三人の内でエミルディランとだけは一度も踊った事がなかった。


「クロスの手を離してくださいな、お兄様」

「お断りだ」


 両者一歩も譲らない無言の攻防戦に、周りからの視線も痛い。

 クロスフィードは早く結論を出してくれと思いながら、未だエミルディランに掴まれたままとなっている手を苦笑しながら見つめていた。


 そうやって仁義なき兄妹の戦いを生温かい目で見守っていると、広間の雰囲気が少々変わった事に気が付いた。


「何だ?」


 不思議に思い、広間に視線を巡らすと、皆一様に入口の辺りに視線を向けていた。クロスフィードもそれに倣うようにそちらに視線を向けると、丁度招待客が広間に入って来る姿を捉えた。


「嘘でしょう……」


 そんな言葉を呟くニコルベネットの声を聞きながら、クロスフィードは入ってきた人物に釘付けになった。


 白い礼服に身を包み、ゆったりと、そして堂々と広間の真中を歩いてくるその人物は、紛れもなくアイリスフィア本人だった。

 アイリスフィアの少し後ろには、クロスフィードが届けた礼服を着たレイヴンリーズの姿も見える。


「どうして……」


 クロスフィードはそんな事を呟きながら、広間を進んで行くアイリスフィアの姿を唖然として見つめていた。


「で、殿下! 何故このような場所に……」


 何の前触れもなく現れたアイリスフィアに慌てて駆け寄るヴァンクライドは、口では王子に問いかけているが、その眼光はどういう事だというようにレイヴンリーズに向けられている。


「今日は『守護者』の名代として来させてもらった」

「守護者様の名代!?」

「ああ。祝いの品だ。受け取ってくれ」


 そう言って、未だ驚きを隠せないでいるヴァンクライドにアイリスフィアはレイヴンリーズを差し出した。


「お前が祝いの品……」

「言っておくが、俺の方が不満でぶち切れそうだからな」


 微妙な表情を作る二人の様子に、近くにやって来ていたツヴァイスウェードが声をかける。


「よかったじゃないか。今年は三人揃ったね」

「お前は呑気だな……」

「本当にな……」


 あはは、と笑っているツヴァイスウェードを前に、ヴァンクライドとレイヴンリーズは呆れ顔だった。


「とりあえず、ほれ」


 そんな言葉と共に、レイヴンリーズはヴァンクライドに何かを投げ渡していた。

 包装されている様子を見るに、祝いの品である事が分かる。


「な、重っ! 何だこれは! 小さいのにこれ程の重さとは!」

「特注品のペンだ。限界まで重りつけさせたから手首が鍛えられるだろう?」

「どうして毎年毎年鍛錬道具ばかりなんだ! お前はもう少し鍛錬以外の事も考えろ!」

「うるせえな! 貰う側が文句言ってんじゃねえよ!」

「まあまあ」


 いつものように言い合いをはじめる二人を宥めながらもツヴァイスウェードが楽しそうにそれを観戦している。


 広間にいる皆がその様子を呆気に取られながら見守っている中、クロスフィードもそんな彼らの様子にしばし呆然としていた。


「どうしましょうお兄様。私これから後宮で苛められてしまうわ……。特にレイラ様から陰湿な嫌がらせが……っ」


 不意に口を開くニコルベネットの顔が少しばかり青褪めていた。


 現在、公爵令嬢であるレイラキアが王妃候補の筆頭である事は周知の事実であるが、その地位を今まさに揺るがしているのが『花の君』の存在だ。そういった事情からも後宮問題については既にややこしい問題が発生しているのだが、『花の君』は現在も捜索中で後宮には入っていないという事もあり、まだ後宮内は落ち着いていると言えるだろう。

 しかし『花の君』は後宮にはいないがニコルベネットは後宮に入っている。仮にニコルベネットが王妃候補の筆頭という認識が広まってしまえば、確実にレイラキアから何らかの嫌がらせがあるだろう事は想像に難くない。

 レイラキアは男であるアレクヴァンディにすら嫉妬していた程なのだ。同じように後宮に入っているニコルベネットが相手となれば、庭の花壇を燃やすなどという回りくどい事はせず、直接本人にその嫉妬をぶつけるだろう事は目に見えている。


 今回はアイリスフィアが近衛騎士団長を祝うために足を運んだというだけで、周囲から見た王妃候補の順位が入れ替わってしまう可能性があった。

 アイリスフィアがヴァンクライドと祝うために自ら訪れたというならその認識は確実なモノとなってしまったに違いないが、今回は『守護者の名代』という事で多少の逃げ道はある。しかしそれでも今年はこの場に王子であるアイリスフィアが来る事自体が不味いのだ。


 ニコルベネットは全ての事情を把握していないながらも、そういった事を既に危惧しているようだった。


「ニコルは頭の弱い娘の方が相手なんだからどうって事はないだろう……。僕なんか公爵様本人が相手なんだよ……。いっそ移動願いだそうかな……」


 そう言って、エミルディランも笑顔を引き攣らせながら嫌な汗をかいていた。


 毎年ヴァンクライドの生誕の宴は親善試合の前後に催されている。それは親善試合の日取りが毎年変わるからで、今年の宴は親善試合の二日後に催される事になっていた。

 通常の宴であれば王子あるアイリスフィアが参加してもあまり問題視される事はなかっただろうが、今年に限った事で言えば、この宴が親善試合の前に催されようが後で催されようがアイリスフィアの参加は断固お断り願いたかったというのがエミルディランの本音だろう。


 今年の親善試合は近衛騎士団内の粛正のため仕組まれた試合となった。たとえ仕組まれていたと知られなくても、今回の件で数名の近衛騎士たちが罰せられたのだ。そのため貴族たちからの反発がある事は目に見えていた。その反発が近衛騎士団長であるヴァンクライドやその補佐官のエミルディランに向かう事は明白だった。

 二人がそれを承知の上で今回の件を実行したという事はクロスフィードも理解しているが、その反発に拍車がかかるような事態は避けたいと思っているエミルディランの気持ちもよく分かる。


 今回の件は公式行事である親善試合を利用したのだ。その事は公爵にすら話を通していないため、今回の事だけでも公爵からの不興を買ってしまうだろう事は目に見えている。それなのにアイリスフィアが宴に参加してしまえば、王子はその事を容認していると言っているモノであるため、それに巻き込まれる形でヴァンクライドとエミルディランは公爵から睨まれてしまう事だろう。


 アイリスフィアの参加に伴う不測の事態を瞬時に悟ったニコルベネットとエミルディランが、互いに顔を引き攣らせながらアイリスフィアを見つめている。それを感じながら、クロスフィードもこれから起こる事態を予想し、血の気が引いた。


「伯爵家が本当に潰されるかも……」


 先日、伯爵家の人間に合わせないようにするため監禁されていたという驚きの事実をアイリスフィアから聞いたクロスフィードは、この場でアイリスフィアと面識を持ったと公爵に知られてしまえば非常に不味いのではないかと危惧していた。

 ツヴァイスウェードとヴァンクライドの仲は公爵も知っている。そのため、この宴に伯爵家も参加している事実は既に知られているのだ。それを考えると、今後クロスフィードとアイリスフィアが一緒にいる所を誰かに見られてしまえば、彼を部屋に監禁するより伯爵家を潰してしまった方が手っ取り早いと思われる事は容易に想像できる。


 三者三様の思いを胸に抱き、クロスフィードたちは内緒話をするように身を寄せ、ヒソヒソと言葉を交わし合う。


「今年に限って守護者様の名代って、おかしいわよね……」

「作為的な何かを感じずにはいられないよね……。というか、何で宴の日取りを殿下が知っているの?」

「親善試合の日、医務室で君たちがいなくなった後いろいろあって……」

「話しちゃったの?」

「その、セルネイさんに話を振られて……」

「セルネイって庭師の? ああそう……、あの人の差し金ってわけね……」

「エミルもセルネイさんの事を知っていたのか」


 諦めたように深いため息を吐いているエミルディランの様子に、セルネイは本当にいろんな人と知り合いなんだなとクロスフィードは思った。


「ちょっと待って。クロスは殿下と面識があったの?」

「え、あ、それは、えっと……」

「お兄様、どういう事ですの」

「何で僕に聞くのさ」

「あら、とぼけなくてもよろしいのよ? 会話の内容からお兄様がクロスと殿下の事を承知している事くらい察しておりますわ」

「だからってそれをニコルに教える義理はないと思うけど?」

「あら。お兄様がそうおっしゃるなら、お兄様のお部屋にあったモノをクロスに見せてあげてもよろしいのよ?」

「何を言ってるのか僕にはさっぱり分からないけど?」

「寝台の下。チェストの引き出しの最奥。本棚の三段目、左から五冊目の本の間」

「くっ……僕の部屋を漁った間者はカイルだったのか……っ」


 話の展開がよく分からないモノになってきている気がするが、クロスフィードはそのままエミルディランの劣勢を見つめながら苦笑いを浮かべていた。


 そうして目の前の攻防戦を余所に、クロスフィードはチラリとアイリスフィアの方に視線を向けた。

 アイリスフィアはヴァンクライド達だけでなく、宴の参加者たちからも囲まれ、挨拶を交わしている。その様子を目の当たりにすると、アイリスフィアが王子である事は皆が認めている事なのだと安心する。しかしそれは『王子』という認識だけであってアイリスフィア本人を認めている訳ではないと思うと、少しばかり胸がキュッと締め付けられるような感じがした。


 クロスフィードは医務室でアイリスフィアから聞いた話が今でも胸の内に引っかかっていた。

 王子であるアイリスフィアの行動は公爵や高官たちから制限されている。それはアイリスフィア本人が言っていた事なので間違いはないだろう。それならば、彼がこの宴に参加する事も公爵たちはよく思わないはずなのだ。

 今回は親善試合の事もあるので、尚の事アイリスフィアがこの宴に参加する事は重大な意味を持つ事になるのだから。


「大丈夫だろうか……」


 クロスフィードは自分の事以上にアイリスフィアの事が心配でならなかった。


 今までも公の場に参加する事を制限されていたのだ。今回宴に参加してしまったら、今後の行動制限がよりきつくなってしまうのではないかとクロスフィードは危惧した。


「『守護者様の名代』って事なら、何とか凌げるか……」


 そんな事を呟くエミルディランを見つめながら、クロスフィードは口を開く。


「とにかく真意を聞いてみたいところだが、あれでは近付けそうもないな」

「そうなんだよね。下手に近付いてボロ出されても面倒だし。動き辛いね……」

「じゃあ私が殿下をお父様たちから遠ざけますわ。その間にお兄様とクロスはお父様たちとお話してはどうかしら? どうせ殿下と踊らないとクロスとは踊れませんから、私もさっさと殿下と踊ってしまいたいの」


 怨みがましい視線でアイリスフィアを見つめているニコルベネットに、エミルディランが言葉を返す。


「そうしてくれる? なんならニコルも踊りながら殿下に話を聞けばいいよ」

「そうさせていただきますわ。クロスも待っていてね。さっさと踊って戻って来るから、後で私と踊ってね」

「分かった。頼むね、ニコル」


 任せて、と笑みを向けてくるニコルベネットは、場を離れていき、アイリスフィアたちの許へと向かっていった。

 それを見送り、ニコルベネットの様子をそのまま見つめていたクロスフィードの耳にエミルディランの小さな呟きが聞こえてくる。


「何のために参加まで面倒みてやったと思ってるんだ、あの王子は……」


 少しばかり憤りの感情が滲むその声音に、クロスフィードはエミルディランに向く。


「やはりその辺りも君が手を回していたか」


 アイリスフィアから公の場への参加を制限されているという話を聞いた時、毎年病欠とされていたにも関わらず今回だけどうやって参加できたのだろうかとクロスフィードは疑問に思っていた。

 アイリスフィアはその事に関しては何も言ってはいなかったが、今回の親善試合はエミルディランの作戦が裏にあったため、アイリスフィアの参加の件も彼が関わっているのではないかと考えていた。


「一体どうやってアイリスを参加させたんだ?」

「レイラキア嬢を使った。本当、彼女は扱いやすくて助かるよ」


 そうは言うものの、エミルディランの表情には少々呆れたというような感情が見て取れた。


 エミルディランはアイリスフィアが今年に限って参加する事に抵抗を持っていた。しかしアイリスフィア本人は出る気満々だったため、陰ながら策を講じていたようだった。


 アイリスフィアは親善試合の前座の試合のために詰所で鍛錬していた、という事実を利用し、王子がレイラキアのために鍛錬しているというような脚色を付け、その事が彼女の耳に入るようにそれとなく話を流していたようだった。それを真に受けたレイラキアが公爵にアイリスフィアの参加を要請したようで、今回は公爵自ら王子の親善試合の参加を許可したという事だった。


「公爵様は娘に甘いからね。だからあんな頭の弱い娘が出来上がったんだと思うよ。彼女が王宮の花壇を燃やしていても黙認していたみたいだし。愚かしいにも程があるよ」


 呆れているというような言い方をしているエミルディランの様子に、クロスフィードも燃やされていた花壇の事を思い出し、エミルディランと同じような気持ちを抱いた。


「まあそんな事をしても公爵様には勘ぐられるだろうとは思ってたけど、これじゃあ勘ぐられるどころか確信持たれちゃうよ。彼がこの場に来たせいで、もう誤魔化しが効かない」


 エミルディランの睨むような視線が向けられている先には、ニコルベネットと共に広間の中央に出てきたアイリスフィアがいる。

 ニコルベネットはアイリスフィアを連れ出す事に成功したようで、二人は広間の中央で踊りはじめていた。


「守護者様の名代としてじゃなかったら、僕ら本当に危なかったよ」

「そうだな」


 アイリスフィアが個人的にこの場に参加する事は現状ではかなり不味い。今のアイリスフィアでは公爵が何をしようと止める事は不可能だ。そのため、今回アイリスフィアが宴に参加する事によって生じる不利益をそのまま被る羽目になるのは、ヴァンクライドやエミルディラン、そして伯爵家となってしまう。

 後宮にはニコルベネットが入っているし、今年の親善試合は仕組まれたモノだった。それらの事情を考慮すれば、いくらアイリスフィアでも宴に参加する事がどういった意味に取られるかくらいは分かるはずなのだ。


 しかしそれでもアイリスフィアはこの宴にやって来た。

 その目的は、宴の参加理由を『守護者の名代』としている事から窺い知れた。


「どうして今さら……。本当に面倒くさい王子だな」

「そう言ってやるな。アイリスもようやく腹を決めたのだろう」


 そう告げると、エミルディランの表情が少しばかり顰められる。


「クロスはこれ以上殿下に関わらない方がいい」

「どうして?」

「君は殿下に懐かれ過ぎている。このままだと殿下のせいで君が苦しむ事になってしまう」

「エミル……」


 エミルディランは心配してそう言ってくれている事をクロスフィードは十分理解していた。しかしクロスフィードもいろいろな想いを抱えているため、エミルディランの言葉には素直に従う事は出来なかった。


「すまない、エミル。私はもう少しだけアイリスと一緒に居たいんだ。どの道、アイリスが王位を継いだら傍には居られなくなる。だからそれまでは、共に居たいと思っている」

「でもね、クロス」

「エミルの心配は分かっているつもりだよ。でも、もう少しだけ目を瞑っていてくれないか」


 懇願するようにそう告げると、エミルディランはまだ何か言いたそうにしていたが、彼から言葉が返って来る事はなかった。


「私がアリスの傍にいられるのは、きっとあと僅かだ」


 アイリスフィアが決意を固めたというのなら、そう遠くない未来に必ず別れがやって来るだろう。それを知っているクロスフィードは、広間の中央でニコルベネットと踊っているアイリスフィアを静かに見つめていた。


 そうしてしばし広間で踊る二人を見つめていると、不意に声がかけられた。


「あ、あの……」


 その控えめな声に誰だろうかと振り向くと、そこには綺麗に着飾った可愛らしい少女が三人、恥ずかしそうに身を寄せて立っている姿があった。


「どうしたの?」


 クロスフィードはニコリと微笑みながら少女たちに聞き返す。すると一人の少女が意を決したように口を開いた。


「ク、クロスフィード様。えっと、その、わ、私たちと踊って下さいませんか?」


 そう言って顔を真っ赤に染める少女の姿はとても愛らしかった。

 少女たちはまだ十五、六歳くらいの年頃で、社交界デビューからまだ日が浅い子たちのようだった。初々しく恥じらうその姿は何とも可愛らしくて、クロスフィードは思わず笑みが深くなる。


「君の口から言わせてしまって申し訳ない。どうか、私と踊って頂けませんか?」


 クロスフィードは自然な動きで手を差し出すと、誘いの言葉を告げてきた少女が嬉しそうに手を置いた。


「あの、クロスフィード様。私も」

「えっと私も、その」


 一緒にいた少女たちからも声が聞こえてくる。その勇気を振り絞った感じの懸命な姿に、クロスフィードは柔らかく微笑みながら言葉を返す。


「君たちとも踊らせていただく。こんな可愛らしい子たちから誘ってくれたんだ。断るなんてもったいなくて出来ないよ」


 そう言って笑みを向けると、少女たちは途端に顔を真っ赤にして俯いてしまう。クロスフィードはそんな少女たちを素直に可愛いと思った。


 自分にはなかった女としての社交界デビュー。少女たちを見ていると少しばかり羨ましいと思う気持ちが浮かんでくる。


 しかしそんな気持ちを抱いたところで無意味な事を理解しているクロスフィードは、少女の手を握りながら、一度エミルディランに顔を向けた。


「折角誘ってもらったから、私は彼女たちと踊って来るよ」

「分かった。僕は父上たちのところに行って来るから、また後でね」


 そう言ってその場から離れていくエミルディランを少しばかり見送ると、クロスフィードは少女の手を引き、広間の中央へと向かった。


 広間の中央ではアイリスフィアたち以外にも何組かの男女が既に踊っており、クロスフィードも少女と共に曲に合わせて踊る。


「『麗しの君』の噂を聞いて、いつかクロスフィード様とこうして踊れる日を夢見ておりました」


 顔を赤らめ見上げてくる少女の愛らしさに、クロスフィードは思わず笑みが浮かぶ。


「私の方こそ、貴方のような愛らしい方と踊る事が出来てとても光栄です」

「クロスフィード様……」


 ヴァンクライドの生誕の宴には、ヴァンクライドの友人たちや侯爵家と懇意にしている貴族たちが多く出席している。その中で伯爵家の人間も気兼ねなく宴に参加できるのは、宴の招待客の多くが伯爵家とも交流がある貴族たちだからだ。

 二十年前の事件があった後も伯爵家と付き合いを続けてくれている貴族たちは、ヴァンクライド達の他にもちゃんといるのだ。


 クロスフィードは踊りながら少しばかり周りにも視線を巡らせてみると、ニコルベネットと踊っているアイリスフィアと少しばかり目が合った。それに少しばかり笑みを返すと、再び少女に視線を戻し、緊張気味にステップを踏んでいる少女との踊りにクロスフィードは微笑みを浮かべた。


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