試合終了から始まるこれからの事
「君に怪我をさせてしまうとは……、本当にごめんね」
不意に聞こえてきたその声は、本当に申し訳なさそうな響きを持っていた。
「彼らはこれ以上君があの子と関わる事をよしとしないだろう」
耳に届くその声はどこかで聞いた事があるような気がしたが、それが誰の声であったのかを考える事は、微睡みの中にいるため難しい。
「でもね、君がいなくなってしまうとあの子が泣くから」
夢現の境目を漂っているためか、その声が次第に遠退いて行く。
「どうかもう少しだけ、あの子の傍にいてあげて」
最後に聞こえたその声は、とても悲しい音に聞こえた。
◆◆◆◆◆
「――……フィ……クロフィ!」
「んあ?」
突然の大声で目が覚めたクロスフィードは、ぼやける視界の焦点を合わせようと目を眇た。いつ寝てしまったのかと思いながら視線を彷徨わせると、視線の先に真白い騎士服に身を包んだアイリスフィアの姿を捉えた。
その姿はまるで物語の王子様がそのまま形になったかのような凛々しさがあった。
「クロフィ! 俺が分かるか?」
「アイリスフィア王子殿下」
「何でこんな時にそう呼ぶ!? ハッ! まさか毒のせいで記憶が……っ!? では俺とのあれこれを忘れてしまったという事か!? おのれあのバカ騎士共め、生家共々潰してやろうか……っ」
「……とりあえず落ち着け、アイリス」
俺とのあれこれって何だよ、と思っていると、アイリスフィアの腕が伸びてきて力任せにグイッと上体を起こさた。そして驚く間もなくいきなり抱きつかれてしまった。
「良かった! ちゃんと覚えているんだな、クロフィ……っ」
「あぐっ!」
体を潰す気なのかと思うほどに力一杯しがみ付かれ、クロスフィードはその締め付けの強さに肩の傷が盛大に痛んだ。
「いたたたたっ! 痛いから! 肩痛いから!」
「ああ、すまないっ! つい……」
ガバッと勢い良く離れるアイリスフィアは、何故か顔を真っ赤にしていた。しかしそんな事には構わず、クロスフィードは肩の痛みに少々眉根を寄せていた。
「大丈夫か? 体の痺れはもう取れたか?」
アイリスフィアがいる方と反対側から聞こえた声にそちらを向けば、そこには心配そうに様子を窺っているアレクヴァンディの姿があった。そんなアレクヴァンディの片頬が心なしか赤くなっているように見えて、クロスフィードは少々首を傾げた。しかし自分の状態をとりあえず確認しようと、クロスフィードは寝台に座ったままその手を二、三度握ったり開いたりして体の様子を確かめてみる。
「大丈夫そうだ」
「そうか。よかった」
「よくない」
不機嫌さを顕にして口を挟んでくるアイリスフィアは、クロスフィードがいる寝台を挟んで対面側にいるアレクヴァンディを睨み付けていた。
「お前もクロフィが女だって知ったんだろうが。クロフィの体に傷が残ったらどうしてくれる」
「アイリス、私は平気だから。とりあえず私を『クロフィ』と呼ぶな」
「何を言う! たとえ男として生きていようと、お前は女だ。傷が残れば辛いだろう」
案じるような視線を向けてくるアイリスフィアとは対称的に、アレクヴァンディは視線を逸らして項垂れていた。そんな二人を前に、『クロフィ』と呼ぶなといった言葉が清々しいまでに無視されてしまった事に対してクロスフィードはため息を吐いた。
しかし沈んでしまった場の空気は何とかしたいと思ったクロスフィードは、場を和ませようと口を開く。
「心配するな。傷が残ったらアレクに責任取って貰うから」
そんな冗談で笑いを取ろうと思ったクロスフィードだったが、その言葉を告げた瞬間、二人の動きがピタリと止まってしまった事に少々焦った。
「あ、あれ?」
見る間に場の空気が(主にアイリスフィアの空気が)一気に氷点下になるほど下がった気がして、クロスフィードは少々肩を落とした。
どうやら面白くなかったらしい。
「そんなに面白くなかっ――」
「今聞き捨てならない言葉が聞こえたんだけど、どういう事かな?」
クロスフィードが弁解しようと口を開いたところで、衝立の向こう側から戦地に向かう兵士もビックリなほどの闘志を剥き出しにしたエミルディランが現れた。その突然の登場にクロスフィードはギョッとする。
どの辺りから聞かれていたのだろうかと思うと冷や汗が止まらない。
「責任取るってどういう意味? ああ、切り刻んであの世に送るという事だね。分かった、任せておいて。今この場でその男を切り刻んであげるから」
「ちょ、バ、剣を抜くなって! 私闘は禁止されて」
「やってしまえ、エミルディラン」
「殿下の許可が出たから、心置きなく冥界へと旅立たせてあげるよ」
「アイリス! てめえ何てこと言いやがる!」
冗談があらぬ方向へと向かってしまい、笑えないどころかアレクヴァンディの命の危機をもたらしてしまった。
大変に申し訳ない事である。
「エ、エミル? 君は何処から話を聞いていたんだ?」
とりあえず自分の事を優先するその発言にはアレクヴァンディから怨みがましい視線を向けられた。しかし申し訳ないとは思いながらも、クロスフィードはどうしても確認しておかないと気が気じゃなかった。
「僕が医務室に入ったら君がアレクに責任を取ってもらうという声が聞こえてきてね。これはもうアレクを始末するしかないと」
「どうしてそう極端な発想に行き着くんだよ!? お前にはさっき大人しく殴られただろうが!」
「悪かったね、アレク。殴るなんて生温い事はせず、ひと思いにサックリやってしまえばよかったと今は反省している」
「謝りどころが斜め上!?」
わたわたと慌てだすアレクヴァンディを光線が出そうな程の眼光で睨んでいるアイリスフィア、そして剣の柄に手をかけ今にも斬りかからんとしているエミルディランを前に、クロスフィードは何故こんな事になっているのだろうかと肩を落とした。
「三人ともやめ……っ」
仲裁に入ろうと思い体を乗り出した瞬間、思わず左手を支えにしてしまい、クロスフィードは肩に走った鈍い痛みに少しばかり顔を歪めた。
「おい! 大丈夫か!?」
「すまない、大丈夫だ。ちょっと痛かっただけだから」
咄嗟に体を支えてくれるアイリスフィアに、クロスフィードは心配かけまいと笑みを返す。すると逆側からも声が聞こえてくる。
「本当に大丈夫かい? 体に異常があればちゃんと言うんだよ?」
「本当に大丈夫だ。心配してくれてありがとう」
いつの間にかアレクヴァンディを退かしてクロスフィードの近くに陣取っていたエミルディランから心配そうな視線が向けられる。クロスフィードはそれに笑みを返すと、エミルディランの向こう側にいるアレクヴァンディにも笑みを送った。
「クロスを傷付けた刺客に尋問して聞いたけど、クロスが受けた毒は一時的な毒性を持つモノらくて、一定時間が経過すると自然と体内で浄化されるモノらしい。だから毒の事はもう心配ないと思うんだけど……」
「その情報は確かか?」
アイリスフィアが疑いの眼差しをエミルディランに向けていた。それを受け、エミルディランは至極真面目な顔で言葉を返す。
「僕の尋問で嘘を吐ける奴なんかいません」
「お前はあの刺客に一体何を……!?」
アレクヴァンディが少々顔を青くしながら思わずといったように訊いていたが、エミルディランは真っ黒い笑みを浮かべたまま、内緒、と短く返していた。
その言葉にドン引きしている様子のアイリスフィアとアレクヴァンディを余所に、エミルディランがクロスフィードに向き直る。
「一応ここの医師に声をかけておいたんだけど、診てもらった?」
「え? いや、誰も――」
誰も来ていない、と言おうとしてクロスフィードは夢現に誰かの声を聞いた気がする事を思い出す。何を言っていたのかは思い出せないが、あれが医務室の医師だったのだろうと思い、クロスフィードは言葉を返す。
「すまない。さっきまで寝ていたんだ。誰かが来ていた事は知っているが、夢現だったからはっきりは憶えていなくて……。起こされなかったから、きっと気を利かせてくれたんだと思う」
そう告げると、エミルディランは、そう、と短く返してきた。
「本当はすぐにでもちゃんとした医師に診せたいけど、掛かり付けの医師の方がいいかと思って……。今回の事で君の家に迷惑がかかるといけないし」
案じるような表情のエミルディランにそう言われ、クロスフィードはその気遣いに感謝した。
「ありがとう。母の主治医の方に診てもらうよ」
「ごめんね。絶対診てもらうんだよ?」
「ああ、分かった」
気遣うように顔を覗き込んでくるエミルディランに、クロスフィードは大丈夫だと言うように笑みを返した。
「そういえば試合の方はどうだった?」
気付けば窓から入る陽の光が赤く染まってる。そして三人がここにいるという事からも、既に親善試合が終わっている事が窺い知れた。そのためクロスフィードは試合結果が先ほどから気になって仕方なかった。
「殿下の試合は、まあ前座だし、模擬戦だし、殿下が勝つって決まってるし。たいして面白くはなかったよ」
「お前の言い方はいちいち癇に障る……っ」
エミルディランの言葉にアイリスフィアの不機嫌さが一気に増していく。それを感じながらも、最近ではその不機嫌さに、仕方ないな、と思うようになってきているクロスフィードである。
「観戦できなくてすまなかった。だが私はアイリスの騎士服姿が見られたから満足だよ。やはりアイリスも騎士服が似合うね」
「そ、そうか」
一気に顔を真っ赤にするアイリスフィアの様子に、何故顔を赤くするのだろうかとクロスフィードは小さく首を傾げた。
「僕だっていつも騎士服着てるのに……っ」
「……俺たちはそれが制服だからだろうが」
悔しそうなエミルディランに、アレクヴァンディが呆れたようにツッコミを入れている。それを眺めながら、クロスフィードは苦笑する。
「君たちだって騎士の格好は似合っているよ。やはり騎士は格好いいよね」
「僕は今ほど騎士になってよかったって思った事はないよ!」
感涙する勢いで感激しているエミルでランを余所に、アイリスフィアから小さな声が聞こえてくる。
「普段着を騎士服にするか……」
「お前らクロスの言葉に左右され過ぎだろう……」
アイリスフィアとエミルディラン、それぞれの言動を前にアレクヴァンディだけは呆れたというか疲れたというか、そんな感情を滲ませながら脱力していた。
「それで、アレクの試合はどうだった?」
今回クロスフィードにとって最も重要な試合をしたのはアレクヴァンディだ。彼の試合の様子は事細かに聞きたいと思っている。
そんな事を思いながら話の筋を元に戻したクロスフィードに、再びエミルディランから答えが返ってくる。
「アレクの試合は、文字通り一瞬で終わったよ」
「一瞬で?」
一瞬で終わらせて戻って来るというアレクヴァンディの言葉を思い出しながら、クロスフィードは言葉の先を待つ。するとエミルディランは面白いモノを見たと言わんばかりの表情をしていた。
エミルディラン曰く、アレクヴァンディは開始の合図があった瞬間に相手の剣を弾き飛ばし、思い切り殴り飛ばして相手を気絶させてしまったようだった。
「剣を失った相手を殴り飛ばしちゃったからね。仕切り直そうにも相手選手は試合続行不可能だったし、アレクの試合は無効になった」
本来なら剣を弾き飛ばした時点で相手は戦えなくなったと見なされ試合は終わるはずだったが、アレクヴァンディは剣を失った相手を殴り飛ばしてしまった。それは反則とみなされてしまい、本来ならアレクヴァンディの失格となり相手の勝ちとなるはずだった。しかし今回は団長たちの温情もあってか無効試合となったらしい。
「約束守れなくて、悪かった」
「そんな事はない。本当に相手をぶっ飛ばしてくれたんだろう? アレクはちゃんと約束を果たしてくれたよ。ありがとう」
アレクヴァンディの力ない謝罪の言葉にそう返すと、クロスフィードは彼に笑みを向けた。
言葉通り、相手をぶっ飛ばしてくれたというだけで、クロスフィードの心はスッとした。
「他の試合は全部詰所の騎士たちの圧勝だったよ。計画通りにね」
エミルディランの説明によると、今回の件で不正を働いた近衛騎士たちは、よくて謹慎か左遷、最悪退団という事になるだろうとエミルディランは語った。証拠は既に十分すぎるほど集まっているという事なので、彼の表情にはいい笑顔が浮かんでいた。
この時ばかりは、クロスフィードも不正を働いた近衛騎士たちを少々憐れに思った。自業自得ではあるが。
「ところで、気になってる事があるんだけどさ」
「な、何だよ」
突然エミルディランから顔を向けられたアレクヴァンディが少々たじろいだ。しかしそんな事には構わずにエミルディランは言葉を続けていく。
「君さ、相手の騎士から挑発されてたでしょう? その時、『よくも俺の』って言いかけて止めてたよね。あの言葉の続きは何だったのかな?」
「おいおいおい、何で聞こえてんだよ!? お前がいた場所ってかなり遠くだっただろうが!? どんだけ地獄耳なんだよ、お前は!?」
聞かれていた事に焦り出すアレクヴァンディに尚もエミルディランは迫る。
「確か『よくも俺のい』まで聞こえたんだけど。俺のい、何? 許婚はさすがにないと思うけど、愛しい人とかだったら容赦しないよ」
「べ、別に深い意味で口走った訳じゃ」
「なら何を言おうとしたのか言えるよね? さあ、君は何て言おうとしたの? い、から続く言葉は何だったのかな?」
「俺も気になる」
「さらっと会話に参加するなよ!」
エミルディランとアイリスフィアから無言の圧力をかけられているアレクヴァンディが冷や汗を流しながらたじろいでいる。その様子を見つめながら、その時の状況がさっぱり分からないながらも、相手からの挑発にアレクヴァンディが何と返したのかはクロスフィードも気になった。
そうして目の前の成り行きを見守っていると、アレクヴァンディが観念するように、ああもう、と声を上げながら乱暴に頭をかいた。
「一番の友人に怪我させやがってと言おうとしたが、恥ずかしくなって止めた。それだけだ」
「本当に?」
「この状況で嘘吐いたって、俺には何の得もねえだろうが」
「そう……、それならいいけどね」
アレクヴァンディの答えを聞いて納得したのかそうじゃないのかよく分からない様子のエミルディランを余所に、クロスフィードは一人、感動に打ち震えていた。
「アレク!」
「うお!? ど、どうした!?」
突然名前を呼んだためか、アレクヴァンディが一瞬肩をビクッと震わせ、クロスフィードに向いた。
「私を友人と思っていてくれたなんて嬉しいよ! しかも一番という栄誉まで与えてくれるなんて! 嬉し過ぎて涙が……っ」
「ええ!? ちょ、待、何でそこで泣く!? いやいや待て待て。お前ら落ち着けって! 無言の圧力かけてくんな!」
アイリスフィアの射殺さんばかりの眼光と、エミルディランの真っ黒い笑みを受けながら、アレクヴァンディはその重圧に最早諦めの境地だった。
そんな目の前の光景を見つめながら、クロスフィードは一度目元を拭った。
ずっと親しい友人などいなかったクロスフィードは、こうして三人の輪の中にいられる事が不思議でならなかった。しかしそれをとても嬉しく思っている自分にも気付いていた。
三人は本当の友人のように接してくれる。それがどれだけ嬉しい事であるのかが目の前の三人にも伝わればいいのにと、クロスフィードは胸の内で思っていた。
「ところで、三人ともこんなところでのんびりしていていいのか? 後片付けとかあるんじゃないのか?」
親善試合は騎士たちの催しでもあるため、準備も後片付けも全て二つの騎士団が共同で行う事になっている。そのため、親善試合が終わっても騎士たちにはまだやる事があるはずなのだ。
クロスフィードはアレクヴァンディやエミルディランがこの場に来てくれた事は嬉しいが、二人にはまだやる事があるだろうと思うと浮かれていた自分が恥ずかしくなった。
「私の事はもう大丈夫だから、気にしないで――」
「そんな事を気にしなくていいんだよ! 騎士なんて大勢いるんだから一人くらい抜けたってどうってことはないよ!」
「実行委員長の発言じゃねえな、それは……」
呆れたようなツッコミを入れるアレクヴァンディに、クロスフィードも同意せざるを得なかった。
実行委員長がこれでは従う方が大変だろう。
「まあ冗談はさて置き、僕は少し抜けて来ただけだからそろそろ戻るよ。そうそう、家まで送ってあげるからここで待っててね。切りが付いたら迎えに来るから」
「一人で帰れるから心配しなくても」
「こうなった経緯をツヴァイ殿に説明しないといけないから、僕もついて行くよ。今回の件に君が関わってるって事はツヴァイ殿に知られたくないでしょう?」
「それを言われると断れない……」
この件にクロスフィードも関わっているというのは、今ここにいる三人とレイヴンリーズしか知らない。この件にクロスフィードが関わっていたとツヴァイスウェード知られたら、芋づる式にアイリスフィアとの事まで知られてしまう可能性がある。そのため、エミルディランが口裏を合わせてくれるというのなら、その方がクロスフィードも心強い。
「俺が直接謝りに行けるといいんだが……」
そう言って項垂れるアレクヴァンディに、クロスフィードは、大丈夫だ、と言葉を返す。
「気にしないでくれ。もともと私が勝手に君を庇った訳だし。相手の剣を躱せなかったのは私の責任だ」
「クロス……」
すまない、とアレクヴァンディはもう一度謝罪の言葉を口にした。それを受け、クロスフィードは困ったような笑みを浮かべながらアレクヴァンディを見つめていた。
そうして少しばかり空気が沈んでしまうと、その場にそぐわない軽い声が聞こえてくる。
「そうそう。レイヴン殿が君を探してたんだった。すっかり忘れていたよ」
ごめんごめん、と悪びれることなくしれっとそんな事を告げるエミルディランを前に、アレクヴァンディは顔から一気に血の気が引いていた。
エミルディランなりの気遣いなのは分かるが、それが気遣いになっていないところもまた、彼らしいと言えば彼らしい。
「ちょ、おま、何でそれを先に言わねえんだよ!」
「えー、だって別に頼まれた訳じゃないしぃ」
「覚えてろよ、ちくしょう!」
詰所の騎士たちにとってレイヴンリーズの機嫌を損ねる事は命の危機にも勝る事態のため、騎士たちはそういった行動を取らないように常に心がけているらしい。
聞くところによると、一度レイヴンリーズがぶち切れた事があったらしいが、その時は全員強制参加の地獄の軍事演習が行われたという。その内容はとんでもなく恐ろしいモノだったのか騎士たちは未だにその事に関してだけは口を閉ざしているため、その内容は未だに謎のままである。
そんな噂もあり、少々涙目なアレクヴァンディを見つめながらクロスフィードは彼の無事を切に願った。
「それじゃあ、僕らは行くね。殿下も早く戻られたほうが良いですよ」
その言葉を最後に、エミルディランとアレクヴァンディは揃って医務室を出て行った。
そうして部屋に二人だけとなると、アイリスフィアが徐に寝台に腰かけた。それを静かに見つめながら、クロスフィードも体をずらし、同じようにアイリスフィアの隣に座った。
「今年は出られてよかったな」
「? 何の話だ?」
「親善試合の話だ。毎年病欠だったのだろう? 今年は元気だったみたいだし、安心した」
ただ思った事を言ってみただけだったクロスフィードだったが、それを聞いたアイリスフィアが途端に視線を落してしまったので少々慌てた。
「どうした? 本当は体調不良だったのか?」
「違う」
不満げな返事が聞こえてくると、アイリスフィアがどこか言い難そうに言葉を続けていく。
「毎年都合よく病気になるわけないだろう」
「それはどういう……」
どういう意味だと言いかけて、クロスフィードは言葉を呑みこんだ。
親善試合は毎年病欠していたという話であったのに、アイリスフィア本人は毎年病気になる訳がないと言っている。それは体調など関係なく毎年欠席していたという事に他ならない。
思えば、アイリスフィアと初めて会った時、王子は王宮の夜会に出席するという事だったのに当日に体調不良で欠席していた。しかし実際は体調不良とは何ぞと問いかけたくなるほどにアイリスフィアはピンピンしていた。
どうしてアイリスフィアが夜会に参加せず庭にいたのかを未だに知らないクロスフィードは、もしかしたら面倒だからと仮病を使って参加しなかったのだろうかとはじめは思っていた。しかしアイリスフィアと関わるようになり、彼を取り巻く状況を少しばかり知った今となっては、そこには何か事情があったのではないかと思わずにはいられなかった。
「何か参加できなかった理由があるのか?」
「それは……」
口を閉ざしてしまうアイリスフィアを認めると、言えないような事なのだろうかとクロスフィードはこれ以上聞き返す事を躊躇った。
伯爵家の人間であるクロスフィードは王宮の内情を知らない。そのため、アイリスフィアを取り巻く状況がどういう事になっているのかも実際は分からないのだ。少しばかり垣間見えたモノから推測はしているが、それが事実であるとは限らない。
クロスフィードはこうしてアイリスフィアの傍にいるが、それは物理的な話であって、彼の事情やら立場やらといったモノに関わる事は現状では不可能なのだ。
「無理に聞こうとは思っていないから、気にしないでくれ」
クロスフィードはそう告げると、正面にある窓の外へと視線を向けた。
紅に染まる空は少しばかり夜色に染まり始めている。星の瞬きが見えるようになるのもすぐだろう。
クロスフィードは隣に座るアイリスフィアの存在を感じながら静かに空を見つめていた。
そうしてしばらく互いに言葉を発することなく過ごしていると、不意にアイリスフィアが口を開く。
「王宮での夜会に、俺は参加するはずだった」
「ん? それは知っているよ。アイリスが参加すると聞いたから私は父と参加していた訳だし」
それがどうしたのだろうかと思いながらも、クロスフィードは言葉を返す。するとアイリスフィアからとんでもない言葉が返って来た。
「俺はあの日、夜会が開かれる直前になって部屋に監禁されたんだ」
「か、監禁!?」
穏やかじゃないこの言葉に驚きを隠せないクロスフィードは、あの日とんでもない事件が起きていたのだろうかと慌てた。
「ま、待ってくれ。じゃああの日、王宮内では大事件が起きていたのか!?」
「そんなモノは起きていない」
「しかしアイリスは監禁されたのだろう!? 今さらで悪いが、無事でよかったよ……」
クロスフィードは心からそう思った。しかしアイリスフィアはどこか申し訳なさそうに視線を落していた。
「少し前、あの日の夜会にお前が来ていたのは俺に会うためだったとエミルディランが言っていただろう。その時お前は、俺が参加しなかったら王宮の夜会には来なかったと言っていた。だから、ようやく気付いたんだ」
「何に?」
「俺が監禁された理由に」
悔しそうに顔を歪めているアイリスフィアの様子に、クロスフィードは黙ってその横顔を見つめていた。
アイリスフィアが部屋に監禁されていた理由に何故か自分の存在が関係しているらしい事を察したクロスフィードは、自分の存在は間接的にでも彼を害してしまう存在なのだろうかと気落ちした。
「俺を部屋に監禁したのは公爵だ」
告げられたその人物にクロスフィードは目を瞠って驚いた。
どうして公爵がそんな事をしたのか、すぐには分からなかった。しかしそこに自分自身の存在を組み込んで考えると、自ずと答えが見えてくる。
「私が父と夜会に参加していたから……」
「部屋から抜け出していなかったら、俺はお前が来ていた事すら未だに知らなかっただろうな」
伯爵家の人間は王子であるアイリスフィアから故意に遠ざけられている事は知っていた。夜会の次の日、アイリスフィアに面会の申請をしても通らなかったのがいい例だろう。しかし夜会の場での対面さえも制限されるとは思ってもみなかった。
大衆の場での対面すらも厭い、公爵自らアイリスフィアを伯爵家の人間から遠ざけようとしていた事実を知ったクロスフィードは、こうして彼の隣にいる事がとても悪い事のように思えて仕方がなかった。
クロスフィードは思わず距離を取るように体をずらすと、それに目敏く気付いたアイリスフィアがその距離を詰めてくる。
「お前は何も悪くない」
逃げないようにするためか、アイリスフィアに手を取られてしまう。そこから伝わって来る熱を感じながら、クロスフィードはその手に視線を落した。
「私の存在はやはりアイリスにとってはよくないモノだ。私の知らないところでもそんな事になっているだから、一緒に居るところを見られてしまったら……」
アイリスフィアが伯爵家の人間に関わらないようにするためなら監禁までされるのだ。それを思うと、一緒にいるところなどを見られたらアイリスフィアの身に何が起きるか分かったモノではない。まだ自分がされるのなら堪えられるが、他の誰かに不利益が出るのは堪えられないと、クロスフィードはキュッと下唇を噛んだ。
エミルディランやレイヴンリーズ以外にも、既にアイリスフィアとの接触を数名の人物に見られている。そのためクロスフィードは、これ以上アイリスフィアの傍にはいない方がいいのではないかという考えが浮かんだ。
しかしそれを察したのか、アイリスフィアの手が更に強くクロスフィードの手を握った。
「確かにあの日の夜会はお前の事も関係していたんだろうが、俺の病欠はそれ以外でも使われている。だからお前のせいではない。悪いのは、全て俺だ」
そう言って、アイリスフィアは悔しそうに顔を歪めて視線を落した。
「俺が公の場にあまり参加しないのは、参加を制限されているからだ」
「何故そんな事を……」
クロスフィードは参加を制限されている意味が分からなくて眉根を寄せた。するとアイリスフィアは自嘲気味に答えを返してくる。
「今さら王子として出張って来られては、公爵としては迷惑なんだろう。国王代理といえど最高権力者の地位に二十年間も居続けているんだ。今さら俺にその座を譲りたくないんだろうよ」
まるで公爵が王位を簒奪しようとしている言わんばかりの物言いに、クロスフィードは目を瞠る。
まさかそんなと思いながらも、クロスフィードは浮かび上がる疑問を聞かずにはいられなかった。
「待ってくれ。まさかアイリスは、国政にすら参加していない、のか……?」
恐る恐るそう問いかけてみると、アイリスフィアの表情がクロスフィードの考えを肯定するように翳った。それを認めたクロスフィードは、身の内から沸々と怒りの感情が湧きあがってくるのを感じた。
「政務で体を壊されるくらいなら、さっさと世継ぎを作らせようという事らしい」
皮肉気に口元を歪めながらそんな事を言うアイリスフィアを前に、クロスフィードは空いている方の手をグッと握りしめた。
少し前、自分は誰にとっても道具でしかないのだとアイリスフィアは言っていた。それは王子故に仕方がないのではないかという考えをクロスフィードは確かに持っていた。しかし、まさかアイリスフィアがこういった状況下にいるなど知らなかったため、クロスフィードはその言葉の意味を軽く考えていた自分を恥じた。
アイリスフィアはたった一人の王家の直系だ。血を残す事は最早義務だと言っても過言ではないが、それでも王子であるアイリスフィアを国政に関わらせないというのはおかしな話だった。たとえ体が弱いと言っても、国政に関わらせない重臣たちの行動は王家を蔑ろにしている行為に他ならなかった。
「俺の身を案じての事だと公爵や爺共は言っているが、要は俺を表に出さないようにして公爵の地位を確固たるものにしたいだけなんだ」
「そんな……」
公爵家も二代遡れば王家の直系だったのだ。それを思えば、公爵を支持する者たちが出て来てもおかしくはない。公爵は国王代理を務めていたこの二十年間で周りからの支持を得て来たのだろう事は、アイリスフィアの公式行事への参加を制限できる事からも窺い知れる。その事に意見する者がいるのかいないのかは分からないが、それが実行されているという事は、公爵が反対意見をねじ伏せているからとも考えられる。それを考えると、今や王子であるアイリスフィアより公爵の方が発言力は上なのだろう。
しかし王家直系の王子であるアイリスフィアがいる限り、公爵が王になる事は決してないと言える。
それはこの国に『守護者』がいるからだ。
「守護者様がそんな事を許すはずがない」
「確かにアイツがいる限り公爵も下手な事は出来ないだろう。だがアイツには誓約があるから、政治的介入はしないし、王家の問題に口出しする事もない。アイツはいつだって何もしない」
そう告げるアイリスフィアの言葉には何の感情もなく、それが当り前なのだというように淡々と事実だけを告げていた。
「だからってアイリスがいる以上、公爵様が王位を継ぐ事は出来ないはずだ」
「だからレイラが後宮に入っているんだろう」
「……っ」
クロスフィードは言葉を失った。
現状、王家の直系であるアイリスフィアがいるのだから、アイリスフィア以外が王位を継ぐ事はない。それは公爵も既に承知しているはずだ。それならばどうやって今の地位を守るのか。それは娘を嫁がせて再び王家の系譜に名を連ねてしまえばいいのだ。実際は嫁いだ娘のみがその系譜に名を連ねる事になる訳だが、今の状態のままアイリスフィアが王位を継ぐとなると、政の全権は公爵の手元に残ったままとなってしまう。そうなると、アイリスフィアは『王』というただの飾りとなり、実質公爵が国を動かす事になる。そしてアイリスフィアとレイラキアが婚姻を結び、二人の間に子供が出来れば、公爵の地位はより確実なモノとなっていく。
アイリスフィアはその事を知っていたからこそ、世継ぎ問題から今でも逃げているのだろう。想う相手がいたにもかかわらずこんな状況下にいるのはあまりにも辛すぎるとクロスフィードは思った。
「俺は、お前と一緒に居たいんだ」
項垂れながらも手をしっかりと握っているアイリスフィアの手が少しばかり震えている。それを感じながら、クロスフィードは夕陽に染まるアイリスフィアの横顔を見つめていた。
「どうすればそれが叶うのか、俺にはまだ分からない。だが今のままではダメだというのは、今回の事でよく分かった」
不意に顔を上げ真っ直ぐに視線を向けてくるアイリスフィアを見つめながら、夕焼け色に染まっているその瞳をクロスフィードは綺麗だと思った。
「いつかきっと、お前と一緒に居ても誰にも文句を言わせないようにしてみせる。時間はかかるかもしれないが、きっと何とかする」
真剣な眼差しでそう言い募るアイリスフィアの顔が夕日に染まる紅より赤く染まっていたのだが、それにクロスフィードは気付いていない。
「必ずお前と一緒にいられるようにするから……、だから、その時は俺の――」
「へっくしゅん! あ、しまった」
突然のくしゃみと共に何とも気の抜けた声が聞こえてくると、クロスフィードとアイリスフィアは一瞬その動きを止めた。しかし次の瞬間にはアイリスフィアが勢いよく立ち上がり、窓を思い切り開け放っていた。
「いつからそこにいたっ! セルネイっ!」
アイリスフィアの怒号が木々にぶつかり木霊する。
さっきまで一緒に居るところを見られたら云々の話をしていただけに、大声を出さないでほしいと心底思う。
クロスフィードは盛大なため息を一つ吐くと、立ち上がり窓辺へと向かった。
「ごめんごめん。鼻がムズムズしちゃって。最後まで聞くつもりはあったんだよ」
「最初から聞いてんじゃねえよ!」
「こらこら。言葉使いが悪くなってるよ」
ひょっこりと立ち上がったセルネイの顔が見えると、クロスフィードは一応挨拶の言葉を告げた。
「こんにちは……っと、もうこんばんはですね」
「そうだね。こんばんは」
アイリスフィアの怒りを余所にセルネイも挨拶を返してくる。
しかしそれが気に食わなかったのか、アイリスフィアから非難の声が飛んでくる。
「何でお前は呑気にコイツと挨拶を交わしているんだ……っ」
「え、いや、セルネイさんと会うのは久しぶりだし、一応……」
何をそんなに怒っているのだというように首を傾げてみれば、若干顔を赤くしながらアイリスフィアは不機嫌そうに顔を顰めていた。
「ところで、セルネイさんはこんなところで何をしてたんですか?」
「ああ、君が怪我をしたと聞いたから様子を見に来たんだ。そしたら何か声かけづらくってさ。でもまあ、大丈夫そうでよかったよ」
「ご心配おかけしたみたいで、すみませんでした」
「ううん。刺客の侵入を許してしまったのは僕の責任だ。ごめんね。殆ど始末したんだけど、まだ残っていた事に気付けなくて……」
「ええ!? セルネイさんってそんな事までしてるんですか!?」
刺客排除も業務内容に入っているらしい。
恐るべし、王宮庭師。
「まあ今回は両方の騎士団もいろいろ大変だったみたいだからね。僕もちょっとだけお手伝いしただけだよ」
「そ、そうなんですか……」
雑務を頼まれたくらいの軽さで話しているが、相手は諜報活動や暗殺の類を生業にしている者たちだ。下手をすれば命を落としかねないというのに、セルネイはどう見ても無傷だった。
刺客たちとやり合って無傷なのだから、庭師といえど相当腕が立つに違いないとクロスフィードは秘かに思った。
「ほらアイリス。そんなにむくれないの」
「誰のせいで怒っていると思っているんだっ! この野郎!」
かなり怒っている様子のアイリスフィアを見つめながら、クロスフィードは会話を中断された事がそこまで嫌だったのだろうかと思っていた。
「さっきの話だが、私もアイリスの傍に居たいと思っているよ」
「え……」
キョトンとするアイリスフィアから急激に怒りの感情が消えていく。そして次の瞬間にはアイリスフィアの背後にパアッと花が咲いた、ように見えた。
「ほ、本当か?」
「だって約束しただろう? 相手探しを手伝うと」
「……」
無言で見つめ返してくるアイリスフィアの背後に咲いていた花たちが一気に萎れた。
どうしたのだろうか。
クロスフィードは少々首を傾げながらも、言葉を続けた。
「本当は傍にいてはいけないのだと分かっているが、アイリスが許してくれるなら、私からは離れていかないよ。まあ、今まで通り人目を忍んでという事になるが」
「……今はそれで我慢する」
「すまない。これくらいが私の限界なんだ」
少々ぶすっとしてはいたがちゃんと承諾を返してくるアイリスフィアに、クロスフィードは思わず苦笑が浮かんだ。
「よかったね、アイリス」
「お前さえ……お前さえ邪魔しなれば……」
怨みの籠った視線でセルネイを睨みながら、アイリスフィアはブツブツと呪いの言葉のような何かを呟いていた。その様子を見つめながら、クロスフィードはまだ話を中断された事に怒っているのだろうかと考えていた。
「そう言えば、二日後にクライドの生誕の宴があるんだよね? 僕は行けないから、おめでとうって伝えておいてくれる?」
「え? セルネイさんってクライド殿ともお知り合いだったんですか?」
「あれ? 言ってなかったっけ? レイヴンともたまに話すよ?」
「そうだったんですか!? お二人から貴方の話を聞いた事がなかったので知りませんでした……」
アイリスフィアと親しくて、二人の騎士団長とも知り合いで、ついでにツヴァイスウェードとエイナセルティの事も知っている。
本当に何者だと思いながらも、クロスフィードには未だにそれを聞く勇気が持てなかった。
「宴か……」
「ん? どうした?」
「いや、何でもない」
そう言ってアイリスフィアは何事かを考えるような仕草を取ると、そのまま黙りこんでしまった。その様子に首を傾げながらも、まさか来る気じゃないだろうなと少々危惧した。
「来る気か?」
「俺は招待されていない」
「ああそうか」
貴族たちの邸で行われる夜会は社交の場であるため王族も招待する事が礼儀である。しかし個人の誕生を祝う宴には、余程アイリスフィアと懇意にしていない限り、王家に招待状を送る事は失礼にあたる。それは尊ぶべき王家に対し祝えと言っているような行為に取られるため、招待状の送付は控えるべきなのだ。
しかしながら、アイリスフィアが個人的に祝おうと思って足を運ぶのであればそれを拒む事は出来ない訳だが、クロスフィードは敢えてその事は言わないでおいた。
「僕はそろそろ仕事に戻るよ。アイリスもあまり長居したらダメだよ」
「分かっている」
それじゃあね、とひらひらと手を振りながら去っていくセルネイの背を見送りながら、クロスフィードは不思議な人だなとしみじみ思っていた。
いろんな人と知り合いだと分かって来ると、まだ何か秘密を隠し持っているような気がしてならなかった。
「クロフィ」
「ん?」
不意に名を呼ばれそちらを向くと、真っ直ぐに見つめてくるアイリスフィアを認めた。
「い、いつかちゃんと、言うから。それじゃあ」
何を、と聞く前にアイリスフィアは足早に医務室を出て行ってしまった。
それをキョトンとした表情で見送ったクロスフィードは、その表情に苦笑を浮かべると、小さく息を吐いた。
「気長に待つか」
傍にいられる間にそれが聞けるといいのだがと思いながら、クロスフィードは少しばかり先の未来を想った。




