理想を叶えるために行う現実の行動
レイヴンリーズからようやく解放されたクロスフィードは、自身の衣服を詰めた包みを手に再び王宮側へとやって来ていた。
本当ならすぐにでも帰りたいところではあったが、小屋にアレクヴァンディを残してきてしまった手前、一言告げてからでないと悪い気がしたのだ。だからこそクロスフィードは王宮側へと戻ってきたわけだが、近衛騎士たちとの事があったため、人がいないか確認しながら歩みを進めていた。
その姿は正しく不審人物そのものな感じがしてならないが、先程の近衛騎士たちに会わずに済むならどうだっていいと考えているクロスフィードである。
「今日の僕はとてもツイてるみたいだ」
「うひゃ!?」
建物の陰から人がいないか確認していた時に不意に背後から声をかけられ、クロスフィードは変な声を出して飛び上がるように驚いた。
咄嗟に振り向き声の主を確認すると、クロスフィードは途端に体の力を抜いた。
「エミルだっかのか」
「こんにちは、クロス」
そこにいたのは、ヴァンクライドの長男にして近衛騎士のエミルディランだった。
父親譲りの金髪に母親譲りの萌黄色の瞳を持つエミルディランは、その整った容姿に優しげな目元が印象的な近衛騎士団長の補佐官だ。
エミルディランは身長こそヴァンクライドと同じで長身であるが、がっしりした体格の父親とは違って細身でであるため、パッと見ただけでは二人が親子関係にある事が分からないくらいに似ていない。エミルディランは全体的に母親似なのだ。
当然の事ながらエミルディランと面識のあるクロスフィードは、突然声をかけてきた人物が知り合いでよかったと心から安堵していた。
「こんなところでクロスに会えるなんて思わなかったよ。それにその騎士服どうしたの?」
「いや、これはその、ちょっと服を濡らしてしまったからレイヴン殿に借りたんだ。それよりエミルこそこんなところで何をしているんだ? エミルはニコルの騎士も務めているんだろう? 忙しいんじゃないか?」
触れてほしくない話題はさっさとはぐらかしてしまおう思い、クロスフィードはエミルディランに質問を返した。するとエミルディランは嬉しそうな雰囲気をダダ漏れにしながら答えを返してくる。
「今は休憩中」
「そうなのか」
「ああ。補佐官の仕事は父上の手伝いだけだし、ニコルの騎士になったと言って四六時中あの子に張り付いてるわけじゃなからね。あ、今はカイルがニコルの傍にいるから安心して。それより、クロスはこれから時間ある? 美味しいお茶が飲める店を知ってるんだけど一緒にどう?」
「……どうと言われても、エミルは仕事中だろう」
「そんなの父上とカイルに押しつけておけばいいから」
「父親と弟に押しつけるなよ……」
相変わらずの通常運転ぶりに、クロスフィードは困惑気味だった。
エミルディランは会えばいつも好意的に構ってくれる良きお兄さん的な人物なのだが、彼が告げる言葉が本気なのか冗談なのか判別できない事が頻繁にあるのだ。そういった事からもクロスフィードにとってエミルディランはよく分からない人物でもあった。
「クロス。たまには家に遊びにおいでよ。特に僕が待ってるから」
「ありがとうエミル」
会えばいつだってそう言ってくれるエミルディランの優しさにクロスフィードの心は温かなものが広がっていく。例え社交辞令だと分かっていても、その言葉はクロスフィードにとって嬉しいものだった。
「ああもう。やっぱり君は分かってないね」
「何が?」
「僕はクロスに対して社交辞令なんか言わないよ。どうして分かってもらえないんだろう……」
心を読まれたかの発言に驚きながらも、あからさまに落胆してしまうエミルディランを前にクロスフィードは少々慌てた。
「ほ、ほら、もうすぐクライド殿の生誕の宴があるだろう? その宴には参加させてもらうから近いうちに行くよ」
「そういった口実がないと君は来ないよね」
「そういう訳では……」
クロスフィードはエミルディランの言葉に少々視線を落とした。
用事がないのに家を訪ねてしまえば迷惑がかかるのではないかという考えが先に立ってしまい、どうしてもクロスフィードの意思だけでは気軽に訪問する事ができなかった。
伯爵家と懇意にしていると取られる行為は極力避けた方がいいのだと思っているクロスフィードは、口実がないと訪問できない事実を心の中では口惜しく思っていた。
「僕が訪ねてもいいけど、ツヴァイ殿に門前払いされるのがオチだしね」
「? 何故父がエミルを門前払いするんだ?」
あり得ないだろうと首を傾げていると、エミルディランは見るからに落胆していますというように肩を落として盛大なため息を吐いていた。
「やっぱりクロスには知らせてないんだ……」
「何を?」
「ああ、気にしないで。いつか必ず説き伏せて見せるから」
「???」
とても気になる発言をしておいてその答えを言わないエミルディランに、クロスフィードは不完全燃焼気味だった。
「ところでクロスは何をしに王宮へ――」
「クロス、こんなところにいたのか」
エミルディアンの言葉に被さるように聞こえてくるその声に、クロスフィードはそちらに顔を向けた。すると少々首を傾げながら近付いてくるアレクヴァンディの姿を見つけた。
「二人とも戻って来ないから探してたんだが……」
おそらくアレクヴァンディはクロスフィードの服装に首を傾げているのだろうが、クロスフィードはその事にあまり触れて欲しくはないので、敢えて気付かないフリをした。
「クロスに気安く声をかけるのは誰かな?」
立ち位置的に、クロスフィードは丁度建物の角に立っているので、正面にいるエミルディランからは建物が邪魔をして側面からやって来るアレクヴァンディの姿は見えていない。そのため、エミルディランはわざわざ建物の陰から出てクロスフィードとアレクヴァンディの間に立ちはだかった。
「エ、エミル?」
エミルディランの纏う空気は何故かピリピリしているが、それがどうしてなのかクロスフィードには分からない。
「おい、これ誰だ?」
アレクヴァンディはいきなり建物の陰から現れ、クロスフィードを背に隠すようにして立ちはだかったエミルディランに思い切り眉根を寄せいていた。
それはそうだろう。クロスフィードに近衛騎士の知り合いがいるなどアレクヴァンディは知らないのだから。
「君こそ誰かな? クロスに馴れ馴れしく話しかけないでくれる?」
「何でお前にそんな事を言われなきゃならないんだよ」
「だってクロスは、僕の可愛い人だから」
「ちょ、エミル!」
慌てて口を挟んだが、時すでに遅し。アレクヴァンディは、うわぁ、というような表情でイケナイモノでも見てしまったかのような視線を向けて来た。
非常に居た堪れない。
「エミル、頼むから誤解を招くような言い方は止めてくれ……」
「そんなとんでもない! 僕は至って大真面目だよ?」
「余計に性質が悪いわ!」
からかっているのかそうじゃないのか分からないのは、エミルディランが真面目な顔でそんな事を言うからだ。クロスフィードはそんなエミルディランを前に盛大にため息を吐きながらアレクヴァンディに向けて口を開く。
「誤解しないでくれ、アレク。彼はクライド殿のご子息だ」
「近衛騎士団長の息子? ああ、だからクロスとも知り合いなのか。団長たちといい、コイツといい、えらい人物と知り合いだな、お前って」
あれこれと取り繕わなくてもその言葉だけで察してくれるアレクヴァンディに、クロスフィードは心から安堵の息を吐く。
これがアイリスフィアだったら盛大に誤解してくれたに違いない。
「アレク? アレクって殿下の恋人だって噂のアレクヴァンディ? へえ、君が」
「な、何だよ」
背筋が凍るような真っ黒い笑みを浮かべているエミルディランにまじまじと見つめられているアレクヴァンディは、そんな恐怖しか抱けない笑みを前に少々たじろいでいた。
「クロスにまで手を出したら殺すよ」
「おいおい目がマジなんですけど!?」
凄まじいまでの殺気を放つエミルディランの様子に、クロスフィードは身を案じてくれているのだろうかと思った。しかし如何せんそれは大いなる誤解であるため、クロスフィードは今にも斬りかからんばかりの雰囲気を醸し出しているエミルディランに声をかける。
「アレクはそんな事はしないよ。というか彼は殿下の恋人などでは――」
「クロスはコイツを庇うんだあ。へえ、そうなんだあ」
語尾を伸ばしながら言葉を発するエミルディランは仮面のような笑顔を顔に張り付けている。その様子に、何かよからぬ誤解を生んでしまったかもしれないと思わずにはいられなかった。
「剣を抜きなよ、アレクヴァンディ。この場で始末してやる」
「ちょ、待て! バカ! 本当に剣を抜こうとするな!」
王宮での抜剣に私情を挟む事は禁じられている。それは騎士団に所属していないクロスフィードですら知っている事だ。
ちなみに、騎士団長たちが出会い頭に斬り合いをはじめてしまう場合は最早挨拶と見なされているため、咎める者は誰もいない。
「エミル、やめろ! 落ち着けって!」
クロスフィードは咄嗟に抜剣しようとしているエミルディランの腕にしがみ付いた。するとその瞬間、エミルディランの動きがぴたりと止まった。
「ああ、クロス。抱きついてくれるなら、僕は正面からの方が嬉しいんだけどな」
「は?」
斜め向こう側の更に向こう側をかっ飛んでいくその言葉に、クロスフィードは何を言っているんだコイツは状態だった。
「仕方ないね。クロスに免じて今日のところは許してあげるよ」
「お前何様だよ!?」
果てしなく上からなその物言いにツッコミながらも、アレクヴァンディは疲れたような息を吐いていた。
初めてでこの対応を目の当たりにすれば誰だって疲れる事だろうと思いながら、クロスフィードも息を吐く。
「ま、本音はさて置き」
「……そこは冗談だって言えよ」
「君は細かい事をいちいち気にするような面倒くさい人なんだね」
「お前が危険極まりない発言ばっかりするのが悪いんだろうが!」
エミルディランとアレクヴァンディの会話を聞きながら何故か既視感を覚えるクロスフィードは、それが何であるのかにすぐに気付いた。
「団長たちみたいだな」
そんな事を小さく呟くと、クロスフィードは秘かに笑みを浮かべた。
エミルディランとアレクヴァンディはおそらく同い年くらいだろう。それを思うと、これをきっかけに仲良くなれるのではないかとも思った。
しかしそんなクロスフィードの考えは、残念ながら無駄に終わる。
「君は初対面の相手に対して言葉遣いがなっていないね。所詮は詰所の騎士という事かな?」
「ああそうだよ。詰所の騎士はみーんな育ちが悪いからな。近衛騎士のお坊ちゃん方みたいにお遊び程度の剣術しか出来ない奴らとは違うしな」
「へえ、言うね。僕らの剣がお遊びかどうか今ここで思い知らせてあげてもいいけど?」
「ハッ! 泣きを見るのはそっちだ。止めとけ止めとけ」
「おや。逃げるのかい? 威勢がいいのは口だけなんだね」
「俺はお前の矜持が傷つく事を心配してやってるんだが?」
挑発に次ぐ挑発の嵐に、最早クロスフィードは口が挟めない状態だった。
思えば、エミルディランは近衛騎士でアレクヴァンディは一般騎士だ。二つの騎士団が常にいがみ合っている事実がある事を思い出せば、この二人もそれに当てはまるのだろうとクロスフィードは少々肩を落とした。
しかし既に一触即発な雰囲気をダダ漏れにしている二人を前に、クロスフィードは何とか止めなければと口を開きかけた。しかしクロスフィードが何かを告げる前にこの場にはいない人物の声が聞こえてくる。
「何をしている。王宮内での私闘は禁じられているだろう」
不意にアレクヴァンディの背後から至極真っ当な意見を告げられ、三人は揃って声の主に顔を向けた。
「アイリ、じゃなくて、殿下……」
名前を呼びそうになって慌てて言い直しているアレクヴァンディの様子に、彼もまた人前ではアイリスフィアを『殿下』と呼んでいる事を知る。
「殿下、今は少々取り込んでおりますので後にして頂けますか」
「エ、エミル!?」
王子であるアイリスフィアより私情を優先する近衛騎士など聞いた事もないし、現れてもいけないと思う。
クロスフィードはエミルディランのぶっ飛んだ発言に少々慌てた。しかしアイリスフィアの登場にも気が気じゃないクロスフィードは、どうしてここにアイリスフィアがいるのだと心底疑問に思っていた。
主治医と王宮に戻ったアイリスフィアは、てっきり自室で休んでいるものとばかり思っていたからだ。
「こんなところでお前たちは何をやっている」
「見て分かりませんか? クロスとの時間をそこの一般騎士に邪魔されている最中なんです」
「邪魔してねえし! むしろお前一人が暴走してんだろうが!」
「全く煩い人だね、君は」
仮にも王子殿下を前に何を言い出すんだと目を瞠っていたクロスフィードは、アイリスフィアから漂ってくる空気が途端に不穏なモノに変わった事に気付き、一気に冷や汗が出てきた。
どうやら、アイリスフィアにとって何かがお気に召さなかったらしい。
「おい、そこの近衛騎士。お前、名は何だ」
「自分はエミルディランと申します。現在は近衛騎士団長の補佐と妹であるニコルベネットの騎士を兼任しております」
後にしろと言いながらもちゃんとアイリスフィアの質問に答えているエミルディランは、ちゃんと騎士としての本分は忘れていないようなのでクロスフィードは少しばかり安心する。
「ニコルベネットが妹という事は、お前が近衛騎士団長の息子の、悪名高い噂の補佐官か……」
「その通りです」
「お前もクロスフィードと知り合いだったのか」
アイリスフィアはクロスフィードの父親であるツヴァイスウェードとヴァンクライドの関係は知らなくても、クロスフィードがニコルベネットと知り合いである事は知っている。そのため彼女の兄であるエミルディランとも必然的に知り合いだろうくらいは察してくれたようだった。
しかし、悪名高い噂の補佐官とは何の事だろうかと、クロスフィードは首を傾げた。
「何故そんな事を殿下が気になさるのですか? 僕がクロスと親しい間柄だからと言って殿下に何か不都合がありますか?」
エミルディランの背に庇われる形でクロスフィードはアイリスフィアの視線から隠される。その行動は、クロスフィードがアイリスフィアと面識がないと思っているエミルディランなりの気遣いだった。
しかしその行動に不機嫌さを露わにするアイリスフィアに、クロスフィードは気が気じゃなかった。それはアレクヴァンディも同じようで、彼は少しばかり天を仰いで息を吐いていた。
「親しい間柄だと?」
アイリスフィアの纏う空気が一気に冷えた気がした。しかしそれに身震いしたのはクロスフィードとアレクヴァンディだけで、それを真っ向から受けているエミルディランは全く動じてはいなかった。
「僕はクロスフィードが何よりも大切なんです。この子を傷付ける者はたとえ殿下であっても許しませんから」
エミルディランはクロスフィードとアイリスフィアに面識がある事を知らない。それ故にエミルディランはクロスフィードを庇おうとしているのだ。たとえそれがとんでもない方向にねじ曲がっていようとも、クロスフィードは庇おうとしてくれるエミルディランに感謝の念が浮かんだ。
しかしその言葉でアイリスフィアの不機嫌さは割り増しされてしまった。
「お前がどう思っていようと知った事ではないが、俺はクロスフィードに用がある」
「殿下が伯爵家の者に何の用があるというのですか?」
そうやって互いに睨み合っているアイリスフィアとエミルディランを前に、クロスフィードはどうしたものかとしばし頭を悩ませていた。
するとその時、クロスフィードの側面、つまり先ほどエミルディランがやって来た方向からいきなり声が飛んで来た。
「おい、まだいたのか」
忌々しいと言わんばかりのその声音に、クロスフィードはしまったと思うより先に、諦めが浮かんだ。
いつまでもこんなところで立ち話をしている場合ではなかったと思いながらも、再び遭遇してしまった不運を嘆いた。
ちなみに、クロスフィードは相変わらず建物の角に立っているので、近衛騎士たちからはアイリスフィア達の姿は建物が邪魔をして見えてはいない。
「よりにもよってその騎士服でうろつくとは、伯爵家の人間は余程愚か者らしいな」
そう告げているのは、クロスフィードをずぶ濡れにした張本人だった。取り巻きの近衛騎士を背後に二人従えて蔑むような視線を向けてくる自称侯爵家の近衛騎士は、再び目にしたクロスフィードの姿に思い切り顔を顰めていた。
「……っ」
そんな近衛騎士の発言に苦虫を噛み潰したような表情を作ったアイリスフィアが建物の陰から出てこようとしている姿をクロスフィードは視界の隅に捉えた。それを横目で確認しながら、クロスフィードは心の中で出て来るなと焦ったが、それは杞憂に終わる事となる。
アイリスフィアはエミルディランにその進行を阻まれ、足を止めたと同時にアレクヴァンディに背後から羽交い絞めにされ、おまけというようにその口を塞さがれていた。
そんな息の合った二人の連携に、クロスフィードは心の中で賛辞を送った。
「ずぶ濡れにされてもしぶとく王宮を歩きまわれるなんて、お前雑草並みに神経図太いんだな」
バカにしたような笑い声を上げる騎士たちを余所に、クロスフィードはグッと奥歯を噛みしめながら建物の陰にいる三人に意識を向けた。
アレクヴァンディから逃れようと抵抗していたアイリスフィアの動きが止まっている事を感じると、クロスフィードは途端に居た堪れなくなり、持っている包みを胸の前で握りしめた。
知られたくなかったからこそ嘘を吐いたというのに、結局知られてしまった。しかもそれはアレクヴァンディとエミルディランにも知られてしまった事だろう。
「いっそ服を燃やしてやろうか? 裸にされればいくらお前でももう外を歩きまわれないだろう?」
ゲラゲラと下卑た笑い声を上げる近衛騎士たちの様子に、クロスフィードは早くその場から逃げたいと思っていた。
そう思いながら包みを握っていると、側面にいる三人の雰囲気が一気に氷点下を越える勢いで冷えていく様を感じた。クロスフィードは何事だと少々焦りながら横目で三人の様子を窺うと、そこだけ暗黒の世界に繋がってしまったのだろうかと思うほどに禍々しい空気が漂っていた。
その凄まじいまでの殺気をひしひしと感じながら、クロスフィードは目の前の騎士たちからの回避を考えるより、側面にいる三人の邪悪な殺気を全力で気にしないようにする事の方が大変だった。
「本当に目障りな奴だ。一日で二回も伯爵家の人間を視界に入れてしまうなんてな。今日は本当についてない」
「もう帰るところだった。これで私は失礼する」
これ以上禍々しい雰囲気をダダ漏れにしている三人の前で罵られたくないと思ったクロスフィードは、早々に場を離れてしまおうと思い、誰もいない方向へと足を向けた。
その時。
「罪人の分際でもう二度と王宮に来るんじゃないぞ!」
「……っ!?」
そんな声と共に何かが飛んで来たかと思ったら、クロスフィードに思い切り小石が当たった。
言われるまでもなく、近衛騎士が投げた小石だった。
「お前がいると皆が気分を害するんだ。殿下だってそう仰るだろうよ」
近衛騎士たちの嘲笑を聞きながら、クロスフィードは地面に視線を落とした。しかしすぐに嫌な気持ちを吐き出すように息を吐くと、その笑い声を背に足早にその場を離れていった。
人がいない場所を選んで進み、小屋がある西の端の林までやって来たクロスフィードは、ようやく息を吐いて気を抜いた。
見られたくない現場を三人に見られた事には居た堪れない気持ちを抱いたが、アレクヴァンディとエミルディランの行動には感謝していた。二人は助けに入る事によって生じる今後の事を瞬時に察してくれたのだから。
「クロスフィード!」
背後からの怒号にハッとして振り返ると、恐ろしい形相で勢いよく迫って来るアイリスフィアの姿を見つけた。その背後にはアレクヴァンディとエミルディランの姿も見える。
「何故アイツらに言い返さなかった!」
目の前までやって来たアイリスフィアは開口一番にそんな怒鳴り声を上げた。
「あんな事を言われたのに何故お前は言い返さない! 悔しくないのか! お前は何もしていないのだから言い返せばよかっただろう!」
見るからに憤慨しているアイリスフィアの様子に、クロスフィードはただ目を瞠るばかりだった。
「あんな頭の悪そうな奴らなど、お前なら一瞬で言い負かせただろう! あの馬鹿共がそれを理解できるとは思えんがな! ああもう! 何なんだアイツらは!」
嘲笑された本人よりも憤慨しているアイリスフィアは、まだブツブツと文句を言いまくっている。そんなアイリスフィアを見つめながら、クロスフィードは視線を落として口を開く。
「私への蔑みの目は貴族ならほとんど持っています。あの騎士だけという訳ではありません。今回たまたまあの騎士が相手だったというだけで、誰が相手だろうと私にとってはあまり変わらないのです」
そんな事を言いながら、クロスフィードはその表情に無理矢理笑みを受かべた。
「もう慣れているので、私は平気です」
全てに報いを受けてもらおうと思ったら、貴族のほとんどはその対象に入るだろう。最早そんな事を考える方が無駄であり、意味のない事なのだ。そんな事を考えるくらいなら心穏やかに過ごしていけるように振舞う方が余程賢明だ。
しかしそんな考えのクロスフィードを余所に、アイリスフィアは敬語を使われている事に対しても眉を顰めながらそのまま口を開く。
「嘘つくな」
「嘘などでは」
「泣きそうな顔をしてそんな事を言われても納得できるか!」
「……っ」
アイリスフィアの方が辛そうな表情をしている事に気付いたクロスフィードは、どうしてそこまで慮ってくれるのだろうかと不思議に思った。
「お前たちもだ! 何故クロスフィードを助けようとしなかった! 薄情者め!」
「それを言う殿下の方が酷いですよ」
酷く冷たく言い放つエミルディランをアイリスフィアは思い切り睨みつけていた。
「クロスが言い返せばもっと酷い事をされる。僕らがクロスを助けても結果は同じ。今後のクロスの責苦を考えれば、あの場は何もしないというのが最善だったんですよ」
「結局は見捨てているだけではないか!」
尚もエミルディランに喰ってかかるアイリスフィアの様子に、今度はアレクヴァンディが口を開く。
「クロスは俺たちの知らないところでも、ああいった事は言われてるんだ。クロスが騎士服を着てる理由が正にそれみたいだしな。たった一度の手助けだけではクロスは救えない」
その言葉を聞いたアイリスフィアがその事実を思い出したようにクロスフィードに顔を向けた。それを受け、クロスフィードは居た堪れなくなり少しばかり視線を落とした。
「こういった事は本を正さなければ意味がないのです。クロスの場合、それが根深過ぎて僕たちではどうにも出来ないのが現状です。悔しいですがね」
エミルディランが言うように、伯爵家に対する見方を変える事は現状不可能だ。二十年前の事件を今さらなかった事には出来ないし、それを覆す事も難しい。そんな中で誹謗中傷を無くそうなどとは最早思わない。ただ平穏に生きていくために、そういった事から遠ざかって生活する生き方を選んだほうが賢明なのだ。だからこそ、クロスフィードは今まで滅多に王宮には来なかったし、今だってあまり来たいとは思っていなかった。
「殿下がいつ何時何があろうともクロスを守れると仰せになるなら僕は何も言いませんよ。ですが今の殿下には決してそんな事はできません。あの場で一番出て行ってはいけなかったのが貴方であった事を、殿下は気付いていますか?」
「何故俺が一番ダメなんだ」
「本当に分からないんですか?」
少々眉根を寄せるエミルディランの様子に、アイリスフィアは思い切り顔を顰めていた。
「さっきの騎士が言ってた言葉を思い出せ。アイツは最後に何て言っていた?」
見兼ねたアレクヴァンディがそう告げると、アイリスフィアはしばし何事かを考えた後、ハッとしてクロスフィードに顔を向けた。
その顔が見る間に歪んで行く様を見ていられなくて、クロスフィードは思わず視線を逸らす。
「アイツら、俺もクロスフィードを疎んでいるというような事を言っていた……っ」
「その認識は彼らだけでなく、周囲の者のほとんどがそう思っているんですよ」
追い打ちをかけるようにそう告げるエミルディランに、アイリスフィアはますます顔を歪めていた。
「もし、クロスを疎んでいると思われている殿下がクロスを助けたとしたら、周囲はどう考えると思いますか?」
「それは……」
言い淀むアイリスフィアの代わりに、エミルディランがその答えを告げる。
「周りの人間は、クロスが殿下をいいように洗脳したとでも思うでしょうね。王子までもをその毒牙にかけるのか、とね」
エミルディランの言葉は極端ではあるが、大方そういった感じで受け取られてしまうだろう事は確実だった。
「殿下がクロスを助けるだけで、クロスの立場は悪化していくんです。現状、クロスは殿下に近付く事は出来ないはずですよね? それは殿下が伯爵家の人間と接触しないように周りの人間がしているからです。しかし逆を言えば、それでクロスも助かっているという事なんですよ。クロスが殿下にとっての『害』だと思われているように、殿下はクロスにとっての『害』なんです」
はっきりとそう告げるエミルディランの言葉に、アイリスフィアは悔しそうに顔を歪めていた。
「俺は、お前の傍にいない方がいいのか……?」
「殿下……」
そんな力ないアイリスフィアの言葉にクロスフィードは何と返していいのか分からなかった。
クロスフィードが何もしなくても、二十年前の事件がある限り、クロスフィードはアイリスフィアにとって害にしかならないと周囲に思われる。そのためクロスフィードがアイリスフィアの傍にいると自分の首を絞める結果になる事は、彼に会った当初から分かっていた事だった。
「確かに、エミルの言う事は正しいです。私は殿下の害にしかならない」
「俺もお前の害にしかならない、か……」
「そうですね」
静かにそう告げると、アイリスフィアは悲しそうに視線を落してしまった。それを見つめながら、クロスフィードはそのまま言葉を続けていく。
「でも、助けてくれようとしたその心は、とても嬉しかったです。だからその優しさだけは、いつまでも忘れずに持っていてください」
その気持ちは嘘偽りないクロスフィードの想いだった。
躊躇いもせず建物の陰から出てこようとしていたアイリスフィアはクロスフィードのために怒りを露わにしていた。まさかそこまで怒ってくれるとは思っていなかったクロスフィードは、アイリスフィアの気持ちを嬉しく思っていた。それはアレクヴァンディとエミルディランに対してもそうだった。
彼らは一様にクロスフィードを蔑む人物に怒りの感情を向けていた。それがどんなに心強く嬉しい事であったのか、きっと三人は分からないだろうとクロスフィードは秘かに思っていた。
「殿下の言っている事は決して間違いではありません。ただ、その理想を貫くのはとても難しいという事を、彼らは殿下より知っているだけなんです」
「俺の行動は、理想でしかないのか……」
小さくそう呟いて黙り込むアイリスフィアの様子に、クロスフィードは少しばかり胸が痛む。
アイリスフィアが知らなければならない事は、そういった現実だ。
「彼らは彼らの方法で私を助けてくれました。あの場で三人が姿を現さなかったから、私はすぐにその場を逃げる事が出来たんです。……私はあの場から、早く逃げたかったので、助かりました」
そんな事を最後に呟くクロスフィードは、込み上げる感情を懸命に抑えながら言葉を続けた。
「心ない言葉を言われる事には慣れています。だからあんなのは本当に平気です。そんな事より、それを殿下たちに見られてしまった事の方が、私は居た堪れなかった……」
服が濡れた理由も知られたくなかった。
酷い言葉を吐かれている場面を見られたくなかった。
その姿はとても惨めで情けないモノであったはずだから。
「ごめん……」
そう呟いた瞬間、持っていた包みに雫が一つ落ちた。それを合図に次々に雫が包みに落ちていく。
「言い返せなくてごめん……っ……情けない姿を見せて、ごめん……っ」
アイリスフィアに言い返せばよかっただろうと言われた時、自分がとても惨めな姿を晒していたという事を知った。
いつもならこんな事で心を痛める事はないというのに、今日はどうしてか心がとても痛かった。
「アイリスが言うように、言い返せればよかったのに……っ。あんな奴らを言い負かすなど、簡単なのに……っ……それでも私は、言い返す事すら……出来ないんだ……っ」
ごめん、ともう一度呟いて、クロスフィードは持っていた包みに顔を埋めた。
それが出来ない悔しさも悲しさも、もうずっと前から知っている。しかしそれを知りながらも、心の中ではいつか蔑まれる事のない未来があればいいと願って止まないのだ。
しかし変わらない現実に立たされ続けていても、ちゃんと手を差し伸べてくれる人たちがいる事をクロスフィードは知っている。それが嬉しくて、同時に申し訳なかった。
何も返せない自分が、ただ悲しかった。
「ごめん……っ」
「もういいから……。酷な事を言って、悪かった……」
アイリスフィアはどうしたらいいのか分からないというように持ち上げた手をクロスフィードに伸ばしていたが、自らも辛そうに顔を歪めてその手を引いていた。
クロスフィードは顔を包みに埋めているため、そんなアイリスフィアの様子を知る事はなかった。
そんな二人を余所に、エミルディランはアレクヴァンディに声をかけた。
「ねえアレク」
「何だよ」
アレクヴァンディに声をかけるエミルディランの表情を至極真面目なものだった。
「君、剣の腕には自信あるみたいな事言ってたけど、実際どうなの?」
「何でだよ」
「いいから答えてくれる? さっきの近衛騎士に勝つ自信ある?」
質問の意図がいまいち掴めないようで、アレクヴァンディは眉間に皺を寄せていた。しかしそんな事にはお構いなしのエミルディランは尚も言葉を続ける。
「実は親善試合の選手にさっきの騎士は選ばれてるんだ。他の選抜選手もみーんなあんな感じ」
その言葉にアレクヴァンディは何かに気付いたように少々目を瞠ったが、すぐに眉間に皺を刻んだ。
「悪いが俺は選手じゃない」
「大丈夫だよ。そちらの選手に欠員が出たらしいから」
そこまで聞けば、アレクヴァンディならエミルディランが何を企んでいるのかを知る事が出来る。
「その話乗った」
「君ならそう言ってくれると思ったよ」
そんな二人の会話を聞いていたアイリスフィアが二人に声をかける。
「お前たちは何をする気だ」
「さっきの近衛騎士たちへの報復ですよ」
真っ黒い何かをダダ漏れにしながら笑顔をその顔に張り付けているエミルディランが楽しそうに言葉を紡ぐ。
「殿下、憶えておくといいですよ。助ける方法は何もその場だけに限った事ではないんです。いいですか。本を正す事が出来ないからと言って、何も出来ない訳ではないのですよ。あの騎士たちは僕らがあの場にいた事を知らない。それが現状では最大の武器となるんです」
「どういう事だ?」
「小細工し放題って事だ」
ニイと口元を歪めながらアイリスフィアの疑問に答えるアレクヴァンディの言葉に、エミルディランは補足を加える。
「殿下が協力してくだされば、もっと面白い事が出来ますよ? 殿下はクロスに対して好意的みたいですしね。この際その事には目を瞑りますから、僕らに協力しませんか?」
本音がダダ漏れなエミルディランの言葉に少しばかり眉を顰めたアイリスフィアだったが、クロスフィードを貶めた近衛騎士に報復できるとあってか、考える間もなく即答を返していた。
「協力する」
「うーん。即答されると少々複雑ですね。僕のクロスに手を出さないでくださいね」
「お前のではないだろう!」
「おーい、話が逸れてるぞ……」
それぞれがいつもの調子に戻っている事を感じながら、クロスフィードは盛大に鼻をすすり、涙を拭きながら三人を見つめていた。
クロスフィードもエミルディランが何を企んでいるのか既に気付いている。
「今回は殿下も味方にいる訳ですしね。僕らに分があるのは言うまでもないでしょう。さて、楽しくなりそうですね」
凶悪な笑みを湛えたエミルディランに、アイリスフィアはふと疑問を口にする。
「エミルディランはいつから報復を考えていた……?」
「はじめからですよ」
その言葉にアイリスフィアは一瞬目を瞠って驚いていたが、すぐに悔しそうに視線を落としていた。
「先程申しあげたでしょう? 助ける方法は何もその場だけに限った事ではない、と。クロスをずぶ濡れにして石をぶつけて泣かせた奴らですよ? 僕がそんな奴らを許すわけないじゃないですか」
エミルディランの笑顔にはそれだけで人が殺せるほどの殺気が滲んでいた。
「エミル、でも……」
それまで黙って聞いていたクロスフィードは、まだ涙声ながらようやく口を開いた。
気持ちは有り難いがそんな事をして万が一にも三人に不利益が生じてしまったらと思うと、クロスフィードはやはりこんな事はするべきではないという思いを抱いてしまう。しかしエミルディランはどす黒い笑みをスッと消し、至極真面目な顔つきで静かに言葉を紡ぐ。
「これは近衛騎士団内の秩序の問題でもあるからね。騎士として相応しくない行動をした者は罰せられて当然だ」
「エミル……」
「全てが君のためだと言ってあげられるといいけど、僕もそれなりに立場ってモノがあるからね。団内の秩序を守るのは団長の補佐官である僕の役目でもあるからね」
そう言って困ったような笑みを向けるエミルディランを前に、クロスフィードは最早何も言えなくなった。
近衛騎士団は最近秩序が乱れていると聞いている。今回の事を利用すればそういった腐った部分を少しは正す事が出来るだろう。そのためにエミルディランがどういった作戦を立てているのかも、クロスフィードには予想が付いていた。
おそらくエミルディランはそれをより確実に遂行するために、アイリスフィアに協力を求めたのだ。
「じゃあ行こうか」
「待て。何処へ行くんだ?」
「決まっているじゃないですか。アレクを選手に加えてもらうために、レイヴン殿の所に行くんですよ」
「団長を説き伏せるのが一番厄介かもな」
「そこは僕に任せてくれていいよ」
あれよあれよと三人で話を纏めてしまう様を見つめながら、やる気満々の三人にクロスフィードは小さく息を吐いていた。
レイヴンリーズにアイリスフィアの再教育の話をされたが、ここにきてとんでもない方向の教育が進んでいる気がしてならないクロスフィードである。
「クロス、行くよ」
「ほれ、置いてくぞ」
「早く来い」
エミルディラン、アレクヴァンディ、アイリスフィアの三人から立て続けに声をかけられ、クロスフィードは三人を追う。
「今行く」
そんなクロスフィードは、自分の顔が泣き顔から笑顔に変わっている事に気付いていなかった。




