表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/29

一難去ってまた一難

 レイヴンリーズと共にやって来たのは詰所内にある医務室だった。生憎詰所の医師は不在だったが、とりあえずアイリスフィアを寝台に寝かせ様子を窺った。するとアイリスフィアは横になれた事で少しばかり体が楽になったようで、呼吸も安定していた。

 その事にホッと胸を撫で下ろしたクロスフィードだったが、己の状況は全く改善されていない事を思い出す。


「王宮の方には俺が連絡しておく。とりあえずお前は着替えろ」


 そう言って医務室に置いてあったタオルを投げてよこすレイヴンリーズからそれを受け取ると、クロスフィードは忘れていた非常事態に一気に冷や汗が吹き出てきた。

 このままではこの場で着替える事になってしまう。それは非常に不味い事態だった。

 クロスフィードは棚にしまってある予備の騎士服をせっせと出しているレイヴンリーズの姿を見つめながら、頭をフル回転させて事態の回避方法を考えまくっていた。


 そうしていると医務室の扉が叩かれる音が聞こえ、騎士が一人医務室へと入って来た。


「うわ! 本当に医務室に団長がいた!?」


 その騎士は入って来るなりレイヴンリーズが医務室にいるという事にこの世の終わりかというほどに驚いていたが、それは騎士なら皆が思う事でもあった。

 最早人類最強クラスのレイヴンリーズが怪我をするなどあり得ないという考えが騎士たちにはあるらしく、医務室に騎士団長がいると言うのは世界滅亡よりも衝撃的な事態なのだ。


 ちなみに、アイリスフィアが横になっている寝台は衝立で仕切られているため、騎士からは王子の姿は見えていない。


「ああ? てめぇ喧嘩売ってんのか?」

「ちちち違いますって! 団長を探してたんです! 他の奴らが医務室に入っていく団長を見たって言うから来たんです!」


 レイヴンリーズの射殺さんばかりの眼光を受け涙目で訴える騎士の様子を眺めながら、クロスフィードは騎士団長に睨まれている騎士を憐れに思っていた。


「何だ? 何か用か?」

「え、あ、はい! 実は親善試合の件でお話が」

「そうか。分かった」


 騎士の言葉に承諾を返すレイヴンリーズが手に持っていた騎士服をクロスフィードに差し出してくる。


「帰る前に一度俺の所に来い。いいな」

「え、はい。分かりました」


 クロスフィードは騎士服を受け取りながら承諾の言葉を返すと、レイヴンリーズは、じゃあまた後でな、とだけ言い残し、騎士と共に医務室を出て行った。

 それを見送ったクロスフィードは、やって来た騎士に心の中で大いに感謝し、思わぬ幸運で非常事態の回避に成功した事実に安堵の息を漏らした。


「ぶえっくしょい! うう、早く着替えよう」


 女の子にあるまじき盛大なくしゃみをすると、クロスフィードは束ねていた髪を解き、タオルで頭をワシャワシャと拭き始めた。


 クロスフィードが今いる場所は詰所内にある医務室であるため、いつ何時誰が来るか分からない場所だ。現状アイリスフィアは衝立の向こう側にある寝台で横になっているが、然程問題視する必要はないと判断した。それよりも誰かが来る前に素早く着替えてしまう事の方が今のクロスフィードにとっては重要だった。


 早く着替えてしまおうと決め、クロスフィードは濡れた衣服に手をかける。

 上着を脱ぎ、シャツの釦を外し、そうして濡れていたシャツを脱ぐとようやく肌に生地が張りつく不快感から解放された。

 そして髪を拭いていたタオルで体も拭いていく。


「サラシはあまり濡れていないな……っと、緩んでいるか」


 少しばかり緩くなっている胸の締め付けを感じながらも、クロスフィードはサラシを巻き直そうとはしなかった。サラシを巻き直しているところを誰かに見られでもしたらそれこそ絶望的だ。どの道着替えを済ませたらレイヴンリーズに挨拶をして帰るつもりであるクロスフィードは、緩んでいても問題はないと判断した。


 サラシも少しばかり濡れていたがこの際我慢するしかないと思い、クロスフィードは体を拭き、用意してもらった騎士服に手をかけた。

 その時。


「クロ……クロフィ?」


 その声に最初は寝言かと思ったクロスフィードだったが、衝立の向こう側でアイリスフィアが起き上がる気配がしたので一気に嫌な汗が噴き出してきた。


 すぐさま寝台の方へと顔を向けると、衝立の向こう側にいるアイリスフィアがこちらに出てくる姿を目撃してしまった。


「クロフィ!? お前怪我を!?」


 いきなり声を上げるアイリスフィアに何の事だと混乱する頭で考えながら、これ以上ない非常事態にクロスフィードは固まっていた。

 クロスフィードはかろうじてズボンは穿いていたものの上半身はサラシのみ。おそらくサラシを包帯か何かと勘違いしての発言だったのだろうとどこか遠いところで思いながら、クロスフィードは近付いてくるアイリスフィアの姿にようやく我に返った。


「待て待て待て待て! 私は平気だ! 無事だ! だから来るな!」

「何を言う! 胸を全て覆うほど布を巻いているではないか! 酷いのか!? どうなんだ!?」

「だだだだから、怪我ではないと……っ」


 これはサラシだ、とは口が裂けても言えないクロスフィードは、サラシ姿を見てもまだ男だと思っているアイリスフィアの鈍感さに救われながらも懸命に近寄るなと訴えた。しかしその訴えも虚しく、クロスフィードはアイリスフィアに正面から両腕をガシッと掴まれてしまう。


「早く医師に診せ――」


 勢いよく掴まれたせいか、緩んでいたサラシが不意に解けてしまう。そして締め付けから一気に解放された胸が本来の膨らみを取り戻す感覚に、クロスフィードは驚愕した。


「……っ!?」


 クロスフィードは咄嗟にアイリスフィアの手を振りほどいて解けたサラシごと胸を覆い隠すと、勢いよく体を反転させアイリスフィアに背を向けた。そしてその場に屈みこむと、その身を隠すように縮め、背を丸めた。


 何も言わないアイリスフィアが背後で固まっている気配を感じながら、絶望的な状況にクロスフィードは頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。


 見られた。その事だけがクロスフィードの頭の中を巡った。


「お前、女……だった、のか……?」


 途切れ途切れに紡がれる言葉に、クロスフィードの肩がビクリと震える。

 もう終わりだ、とクロスフィードは顔を歪めると、絶望的な未来が走馬灯のように脳裏に浮かんだ。


「待て待て。クロフィが女だったという事は、俺は正常だったという事で……決して頭がおかしくなった訳ではなく、そちらの趣味に目覚めた訳でもなかったと……? じゃあこれは人生稀に見る幸運なのか!? 俺は誰に感謝するべきだ!?」


 訳が分からない事をブツブツ呟いているアイリスフィアは次第に息が荒く、というか鼻息が荒くなっている気がする。

 背後から感じるアイリスフィアの気配が途端に焦りはじめた事によって、クロスフィードは思わず首だけで背後を振り返る。


「どういう事だ……っ、これは夢か……っ!?」


 呼吸が乱れはじめるアイリスフィアを眺めながら、クロスフィードは彼が先ほどまで寝台に横になっていた事実を思い出し、己の非常事態と合わせて頭の中が大混乱していた。


「アイリス、落ち着――」

「だ、大丈夫た、俺は興奮などしていない!」


 誰もそんな事は聞いていないのだが、アイリスフィアを見るに、かなりの気が昂っている事だけは分かる。

 クロスフィードは呼吸困難気味にゼーハー言っているアイリスフィアの事がかなり心配だった。


「そうか、そうだったのか……っ、俺はてっきり、お前、は、男なのだ、と……っ」

「ギャーッ!? アイリス!?」


 アイリスフィアは沸騰しそうなほど顔を真っ赤にしながら言葉を発していたかと思ったら、次の瞬間には白目を向いて倒れてしまった。

 目の前の非常事態に混乱を隠せないクロスフィードは、目の前でぶっ倒れてしまったアイリスフィアを前にしばらく上半身裸のままで慌てふためいていた。






 寝台で眠るアイリスフィアの寝顔を眺めながら、クロスフィードはもう何度吐いたか分からないため息を吐いていた。


 既に着替えを完了させているとはいえ、アイリスフィアは確実にクロスフィードが女である事に気付いてしまった。それをなかった事にするためには夢だったのだと思わせる方法しか思いつかなかったが、それは現実的に考えて効果的とは思えなかったため、クロスフィードはどうすればいいのかと頭を抱えていた。


 本当はアイリスフィアが起きる前にこの場からいなくなろうかとも思っていた。

 しかし意識のないアイリスフィアをこのまま置いていくことが出来なかったクロスフィードは、彼が目を覚ますまで傍にいる事を選んだ。


「――……ん……」


 寝台脇に置いてある椅子に腰かけながらため息を連発していると、ふとアイリスフィアが微かに身じろぎし、閉じられていた目蓋が薄らと開かれた。


「アイリス、大丈夫か」


 クロスフィードは椅子から腰を上げ、アイリスフィアの顔を覗き込んだ。するとしばらく焦点の合わない様子だったアイリスフィアの視線がクロスフィードを捉えた。


「アイリス」

「俺は……」

「さっき倒れたんだ。でもすぐに目が覚めてよかったよ」


 確かにいきなり倒れてしまったため、体に異常が起こったのかと慌てたが、アイリスフィアの寝顔は至って安らかであったし呼吸も正常だった。目を覚ましたのもすぐであったため、クロスフィードは少しばかりホッとした。


「倒れた? ああ、そうか。俺は……」


 ふとそんな言葉を呟くアイリスフィアが徐に体を起こそうとしたので、クロスフィードは咄嗟に手を伸ばしそれを手伝った。


「もう平気なのか?」

「ああ」


 短く返ってくるアイリスフィアの言葉を聞くと、クロスフィードはそのまま椅子に腰を下ろす事はしなかった。


「お前は、女だったんだな……」


 その言葉に肩が震えた。

 やはり都合よく夢だったのだと思ってくれる訳がないと自嘲すると、クロスフィードはアイリスフィアに声をかける。


「殿下」


 そう声をかけると、アイリスフィアが少しばかり淋しそうな顔をしたような気がした。しかしそれに何かを返す事はなく、クロスフィードはその場で深々と頭を下げた。


「男であると偽っていた事をどうかお許しください。私はどうしても伯爵家の跡取りでなければならなかったのです。私は、男であらねばならなかったのです」

「クロフィ……」


 見られてしまった以上、正直に話をするしか道は残されていなかった。その事をアイリスフィアがどう受け取るのかは分からないが、知られてしまった事は最早変えようがない事実だ。


「どうかお願いです。私が女である事は誰にも言わないでください。目障りだと仰せになるなら、もう二度と殿下の目の前には現れません。ですから――」

「そんな事を言わないでくれ」


 その声音にハッとして顔を上げると、困ったような笑みを浮かべているアイリスフィアと目が合った。


「俺はお前が女だなどと誰かに言うつもりはない。だから、お前は今まで通りでいてくれ」

「殿下……」

「俺の名前は『殿下』ではない」


 いつものように不敵な笑みを浮かべながらそんな事を言うアイリスフィアの様子に、クロスフィードは鼻の奥がツンと痛んだ。


「ありがとう、アイリス」


 謀っていたのだと激怒されても仕方がないと思っていたクロスフィードは、アイリスフィアの言葉には驚きよりも嬉しさの方が心に広がった。

 男ではなく女であった事を知っても、アイリスフィアの態度は変わらなかった。そればかりか口外しないとまで言ってくれたのだ。それだけでクロスフィードのアイリスフィアに対する評価は一気に塗り替わった。


 共にいる時間が増える毎に、アイリスフィアが本当はどういう人物であるのかを知っていく。それを知る事が出来た今では、どうして避け続けて生きて来たのだろうかと不思議に思う事もあるくらいだった。


「今まで黙っていて本当にすまなかった。決してアイリスを騙そうとしていた訳ではなくて――」

「お前が女だと知っているのは他に誰がいる?」


 不意にそんな事を聞いてくるアイリスフィアに少しばかり首を傾げるクロスフィードだったが、それでも質問にはちゃんと答えを返す。


「両親と使用人夫婦の四人くらいだが……」

「本当にそれだけか?」

「あ、ああ。それだけだ」

「そうか。それだけか」


 何故かホッとしているアイリスフィアに益々首を傾げながらも、クロスフィードは口を開く。


「私が女である事はそれだけ知られないようにしているんだ。だから誰にも言わないで欲しい」

「分かっている。決して誰にも言わない。この秘密は何があっても守り通して見せる。……その方が悪い虫が付かなくて済むしな」

「虫?」

「な、何でもないっ。とにかく、誰にも言わないから安心しろ」


 少々慌てているアイリスフィアの様子に首を傾げながらも、クロスフィードはアイリスフィアの言葉に素直に感謝した。

 少し前ならこの事をネタに無理難題でも吹っ掛けられていたのだろうが、今はその心配は全くなさそうだという事を知ると、クロスフィードはアイリスフィアの優しさに笑みを浮かべた。


「助かる。ありがとう」

「そんな事は構わないが……、その、悪かった」


 唐突に謝罪の言葉を口にするアイリスフィアに、クロスフィードは何の事だと首を傾げた。

 するとどこかバツが悪そうにしているアイリスフィアが、言い難そうに言葉を続けていく。


「男の前で肌を晒す事は不本意だっただろう? その、決して見ようとして見た訳ではなく、不可抗力と言うか、だから……」


 顔を真っ赤にして視線を彷徨わせるアイリスフィアの様子に、クロスフィードは完全に見られていた事を悟ってしまった。


「ちょ、もういいから! その事は早く記憶から消してくれ!」

「……無理だ」

「何故だ!?」


 ボソッと呟くアイリスフィアを前に、今度はクロスフィードの顔が真っ赤に染まる。早く忘れてくれと願いながら、クロスフィードは見られてしまった恥ずかしさを懸命に鎮めていた。


「なあ」

「ど、どうした?」


 不意に真面目な声音で声をかけてくるアイリスフィアに返事を返すと、クロスフィードは言葉の先を待った。


「お前が女だという事は伯爵家の跡取りはどうなるんだ?」

「? どうなるも何も、男だろうが女だろうが跡取りは私だ」

「という事は……まさかお前は入り婿を取るという事か!? ……それはかなり難しいな……どうしたらいいか……」

「何故そんな絶望的な顔をする……。本人を前にしてそれは失礼過ぎるだろう……」


 確かに男として振舞ってはいるが、入り婿を絶望視される筋合いはない。

 そんな事を思いながら、クロスフィードは少々冷たい視線をアイリスフィアに送った。しかしアイリスフィアは神妙な面持ちで何事かを真剣に考えているようなので、クロスフィードの視線には全く気付いていなかった。


「入り婿を迎える事が難しいから男として跡取りを公言している訳だが、次の跡取りはちゃんと残さなければならないからね。私も相手を探さなければならないというのは、アイリスと同じだな」


 小さくため息を吐きつつ言葉を返すと、途端にアイリスフィアが焦り出した。


「あ、相手を探すのも結構だが、案外身近に相手となる者がいたりする事もあるかもしれないだろう? そう焦って探さずとも良いのではないかと、俺は思うのだが」

「うーん。そういう事もあるかもしれないけど、私には親しい人もあまりいないからね。父が良い人を見つけてくれるかもしれないが――」

「全力で断れ!」

「え!? 何故!?」


 妙な迫力を醸し出しているアイリスフィアに少々たじろぎながらも、クロスフィードは伯爵家の婚姻に関しての心配をしてくれているのだろうかと解釈した。


「私の事を案じてくれるのは有り難いが、まずはアイリスの方が先だ。協力すると言った以上、アイリスより先に婚姻はしないさ」

「ほ、本当か?」

「ああ。約束する。だから、早く相手を見つけてくれよ」


 とは言え、クロスフィードも既に成人を過ぎている。そろそろ相手を探さないといけないというのも事実だ。そのため、アイリスフィアより先に婚姻はしないが、相手探しは同時進行させてもらおうと思っていた。


「そう言えば、もう体は大丈夫か?」


 クロスフィードは思い出したようにそう尋ねてみた。

 自分の事ばかりを気にかけてしまい、アイリスフィアの体の事を後回しにしてしまった事に少々罪悪感が込み上げてくる。


「別に大したことはない」

「そうか。しかし庭で蹲っていた姿を見た時は心臓が止まるかと思ったよ。さっきもいきなり倒れてしまうし。もしかして今朝からずっと具合が悪かったのか?」


 伯爵家で一夜を過ごした事で体に不調をきたしてしまったのかと危惧したクロスフィードだったが、その考えはアイリスフィアの言葉で否定される。


「そうじゃない。セルネイを探して庭を走り回っていたから、少し疲れただけだ」


 その言葉から、アイリスフィアが『レイヴァーレ』の初版本を見たいと言ったクロスフィードとアレクヴァンディのためにセルネイの事を探しまわっていた事が窺い知れた。

 それを知ると、クロスフィードはそんなアイリスフィアの気持ちを嬉しく思うと共に、無理をさせてしまった事を申し訳なく思った。


「そうか、私とアレクのために走り回ってくれたんだな。ありがとう。でもね、アイリス。初版本の話はいつでもいいんだよ。私はアイリスが無理をする方が心配だから」


 椅子に腰を下ろし、クロスフィードはアイリスフィアを真っ直ぐに見つめながらそう告げた。するとアイリスフィアはどこか困惑するように視線を落としてしまった。


「アイリス、どうした?」

「いや、何でもないんだ」


 そうして口を閉ざすアイリスフィアの横顔がどこか嬉しそうに見えて、クロスフィードは何か喜ばせるような事を言っただろうかと少々首を傾げた。しかしアイリスフィアが喜んでいるならそれでいいかと思い直し、クロスフィードも小さく笑みを浮かべてその横顔を見つめていた。


「そう言えばお前はどうして濡れていたんだ? 雨が降った記憶はないんだが」

「え? あ、いや、それはその……」


 不意に聞かれたくない事を聞かれてしまい、クロスフィードは大いにたじろいだ。アイリスフィアに対する言い訳など全く考えていなかったクロスフィードは、またしても窮地に追い込まれていく。

 まさか近衛騎士に因縁をつけられた挙句、魔法で水浸しにされたなどとは言えないし、言いたくもなかった。

 その事はアイリスフィアには知られたくなかった。


「じ、実は段差に躓いて転んだ拍子に魔法を使ってしまったようでね。風を起こして転ばないようにしようと思ったんだろうが、間違って水を出してしまったんだ。私とした事が、とんだ失敗をしてしまったよ。あははは」


 咄嗟に思いついた言い訳を口にしてみるが、アイリスフィアからは疑いの眼差しを貰ってしまった。しかし彼から何かを言われる事もなく、そうか、と短く言葉が返ってきただけだった。

 クロスフィードはこれ以上何かを言われる前に話題を変えてしまおうと口を開いたが、その口から声が発せられる事はなかった。


「失礼する」


 医務室の扉が開かれる音がしたかと思ったら知った声が聞こえている。クロスフィードはその声に立ち上がり、衝立の向こう側へと足を向けた。


「クライド殿」

「クロスではないか。何故ここにいる? それにその格好は……」


 医務室へと入って来たのはヴァンクライドと壮年の男だった。クロスフィードはその二人を認めると、レイヴンリーズが王宮側へ連絡をしてくれたのだと察した。


「そうだ、クロス。ここに殿下がおられると聞いて来たんだが」

「ここにいる」


 ヴァンクライドの言葉に答えたのは、クロスフィードに続いてやって来たアイリスフィアだった。ヴァンクライドはその姿を認めると、咄嗟に騎士の礼を取っていた。


「お倒れになったと聞きましたが、もうお体の方はよろしいのですか?」

「大した事はない。全く主治医まで連れて来るとは……、俺は平気だというのに」


 二言三言ヴァンクライドや主治医と言葉を交わしているアイリスフィアの様子を見つめながら、クロスフィードは少しばかりアイリスフィアを遠く感じていた。


 先ほどまではとても近しい存在のように感じていたのに、第三者が入るだけでその距離はとても遠くなってしまう。分かっている事ではあるが、それを直に感じてしまうと少々淋しい気持ちが胸を突く。


「殿下、大事を取られたほうがようございます。さあ、王宮殿へと戻りましょう」


 主治医の男がそう促している様を見ていたクロスフィードは、チラリと視線を向けてくる主治医の男を前に少しばかり視線を落とした。

 それを目敏く察したらしいアイリスフィアが眉根を思い切り寄せた事にクロスフィードは気付いたが、それに何かを言う事もなかった。


「そうそう。今回はそこにいるクロスフィードに助けてもらった。クロスフィードがいなければ俺は今頃本当に庭で倒れていただろうな」


 アイリスフィアはヴァンクライドと主治医の男に向けそう告げると、今度はクロスフィードの方に向く。その事に少々焦りながらも、クロスフィードはアイリスフィアを見つめた。


「助かった。礼を言う」

「私のような者には勿体ないお言葉でございます」


 そんな風に言葉を返すと、クロスフィードは深々と頭を下げた。その様子に少しばかり淋しそうな表情を作ったアイリスフィアに、クロスフィードは気付かなかった。


「外で部下を待たせておりますので、殿下はこのまま主治医と王宮殿へお戻りください。私はレイヴンリーズに一言告げてから王宮へと戻ります」


 ヴァンクライドの言葉にアイリスフィアが視線だけを向けてくる。その視線にクロスフィードが少しだけ微笑みを返すと、その意味をアイリスフィアはちゃんと察したようで、ヴァンクライドに承諾の言葉を返していた。


「殿下。参りましょう」


 主治医の男に促されるまま足を進めるアイリスフィアは、もうクロスフィードに視線を向ける事はなかった。

 そうしてアイリスフィアと主治医の男が医務室から出て行くと、クロスフィードは少しばかり淋しさ感じた。


「ところで、クロスはどうして王宮の庭にいたんだ? それにその格好はどういう事だ?」

「え、あ、その、これは、えっと……そ、そうだ! これからレイヴン殿の所に行くんですよね? 私も行くので一緒に参りましょう! さあ!」

「ん? あ、ああ。分かった」


 クロスフィードは無理矢理話を逸らし、ヴァンクライドと共に医務室を後にする。


 少しくらいは言い訳を考える時間が欲しいと、クロスフィードは切実に思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ