まだ見ぬ『最愛』を求めて
アイリスフィアが寝台で眠ってしまってから、クロスフィードは諦めてしばらくそのまま寝かせておく事にした。
凶悪な顔で、潰す、などと言われてしまえば、起こす勇気など根こそぎ消え失せてしまった。
そうして、昼寝のつもりで寝ているだろうからすぐに起きるだろうと結論づけたクロスフィードは、アイリスフィアが起きたら王宮へ送って行こうと考えながら、読書を再開した。
しかしクロスフィードは自分の考えの甘さに頭を抱える事になる。
アイリスフィアは夕方になっても起きる気配を一切見せなかった。
夕方には両親が帰ってくるというのに、自室にはアイリスフィアが気持ち良さそうに眠っている。
笑えない展開だった。
クロスフィードは両親が帰ってくる前にアイリスフィアを起こそうと、なけなしの勇気を振り絞って行動を起こしてみた。しかしアイリスフィアは何をやっても起きる気配を見せず、わざとなのではないかと思うくらいにその目蓋を上げることはなかった。
一度寝たら起きない性質なのだろうと悲しいくらいに理解したクロスフィードは、自分だけが焦っている現実が次第に馬鹿らしくなっていた。
「私は先に失礼します」
そう言ってクロスフィードが食事の場から去ろうとすると、両親から声がかけられた。
「もう戻ってしまうのかい?」
「もう少し話さない? 今日の事をもっと聞いてほしいのだけど」
母親の言葉に物凄い罪悪感を覚えたが、クロスフィードは断りの言葉を告げた。
「すみません、母さん。話は後日ゆっくり聞かせてください。今日は読みかけの本を早く読んでしまいたいので」
「そう。ではまた今度聞いてちょうだいね」
残念そうな母親の姿に、今すぐ聞きます、と言いたい自分を断腸の思いで抑えつけ、クロスフィードは後ろ髪引かれるその場を後にした。
◆◆◆◆◆
自室に戻り、すぐに寝台へと足を向けたクロスフィードは、寝台の上で膝を抱え、そこに顔を埋めているアイリスフィアの姿を認めた。
寝台脇に置かれているランプには火が点けられておらず、外から入る月明かりの光だけがアイリスフィアを照らしていた。
「やっと起きたのか……。全く、灯りくらい点ければいいものを」
そう言いながら、クロスフィードは魔法でランプに火を灯した。
すると淡い月の光より、より鮮明にアイリスフィアの姿を浮き上がらせる。
「アイリス?」
抱えた膝から一向に顔を上げないアイリスフィアの様子に、クロスフィードは少々眉根を寄せる。
よく見れば、アイリスフィアの肩が少しばかり震えている気がする。
「アイリス? どこか具合が悪いのか? 辛いのなら横に――」
「……ない」
「ん? 何だ?」
アイリスフィアの言葉が聞き取れず、クロスフィードは思わず聞き返す。
すると少しばかり顔を上げたアイリスフィアが、視線を寝台に落としたまま力なく言葉を紡ぐ。
「何でもない……」
それだけ告げると、アイリスフィアは再び膝に顔を埋めてしまった。その様子が淋しさを我慢しているというように見えて、クロスフィードはキュッと胸が締め付けられる思いがした。
「一人にして悪かった。夕食を食べに行ってたんだ。お前もお腹すいてるんじゃないか? 何か持ってきてやろう」
そうしてクロスフィードが寝台か離れようと踵を返すと、束ねている髪を思い切り引っ張られた。
「あだっ!?」
突然感じた痛みに声を上げながら振り返ると、身を乗り出してクロスフィードの髪を掴んでいるアイリスフィアがいた。
「いらないから行くな」
「髪を引っ張る前にそう言え!」
根こそぎ抜かれるかと思う程に強く引っ張られたため、クロスフィードは少しばかり涙目だった。
「分かったから。ここにいるから。だから手を離してくれ」
そう訴えると、ようやくアイリスフィアの手が髪から離れていった。それを確認したクロスフィードは、ため息を一つ吐くと、寝台に腰掛けた。
「……まだ夜更けというわけではないから、王宮に帰るなら送るよ」
クロスフィードはアイリスフィアに振り返る事なく言葉を告げる。
アイリスフィアは真後ろにいるようではあったが、正面を向いているクロスフィードには彼の顔が今どんな表情を作っているのか分からない。
「お前は俺を帰らせたいのか?」
酷く弱々しい声音でそんな事を聞いてくるアイリスフィアに、クロスフィードは少しばかり困惑する。
いつものように意地悪く聞かれたなら速答で返しただろうが、捨てられた子犬のような物言いをされてはキツく言い返すことは出来ない。
ズルい奴だと思いながら、クロスフィードは口を開く。
「どちらでも構わないよ。お前がここに居たいのならいればいい。別に明日まで帰らなくても平気なんだろう?」
そう言いながら背後に振り返り、クロスフィードは苦笑する。
「アイリスは私を訪ねてきてくれた客人でもあるし、無下に追い返すのはしのびないしな」
そう言って肩を竦めて見せると、アイリスフィアは少しばかりキョトンとしていた。
「俺は不法侵入者ではなかったのか?」
「何だ、そういう扱いを受けたかったのか?」
「そ、そういう扱いとは、何だ」
「伯爵家に伝わる先祖代々の――」
「それ以上言わんでいいっ」
慌てながら言い返してくるアイリスフィアの様子に、いつもとは立場が逆だなと思いながら、クロスフィードは、冗談だ、と笑いながら返した。
そうしてひとしきり笑い終わると、クロスフィードは腰を上げ、体ごとアイリスフィアに振り返る。
「悪いが、もう少し向こうに寄ってくれないか?」
「ん? ああ……」
アイリスフィアが体をずらした事によって出来たその場所に、クロスフィードは遠慮なく移動する。
そして自身も寝台に上がったクロスフィードは、上掛けに潜り込み、アイリスフィアの隣で同じように膝を抱えて座った。
「お、おい!」
「何か文句でもあるのか? これは私の寝台だぞ」
そう言って笑みを浮かべながら顔を向ければ、アイリスフィアはフイと顔を逸らせてしまったが、それ以上何も言ってはこなかった。
クロスフィードの寝台は大人二人が寝転がっても平気な程の大きさだ。クロスフィードが寝台に上がってもアイリスフィアが窮屈になるという事はない。
「一つ聞いてもいいか?」
「何だ?」
声をかければ、すぐに返事が返ってくる。それを確認したクロスフィードは、気になっていた事を聞いてみた。
「アイリスは本当に何しに来たんだ?」
そう問いかけると、アイリスフィアは途端に不機嫌そうな顔つきになった。
「最初に言っただろう。お前が来なかったから来た、と。それでは不服か?」
「……本当にそれだけで来たのか?」
「そうだと言っている。お前の頭は言葉を理解出来ないのか?」
そう言って睨んでくるアイリスフィアの様子はどこかクロスフィードを窺っているようにも見えた。
アイリスフィアの訪問理由は、ただクロスフィードに会いに来ただけだった。
その事実に、クロスフィードは嬉しさが込み上げてくる。
「すまない。アイリスが突然来たから驚いていただけなんだ。私には訪ねて来てくれるような友人はいないからね。アイリスの訪問は、実は嬉しかった。これは本当だ」
アイリスフィアに顔を向け素直にそう告げると、彼の頬が少しばかり赤くなったように見えた。
その様子を微笑みながら見つめていたクロスフィードは、隣にアイリスフィアがいる事を不思議な気持ちで感じていた。
「折角だし、何か話さないか?」
思いついたようにそう告げると、アイリスフィアが視線を向けてきた。
思えば、アイリスフィアと会うのはこれが五回目。しかもまともに話が出来る状況は今回が初めてだった。
最初に会った時はクロスフィードがそれどころではなかったし、言葉の撤回を求めに言った時は一方的に無理難題を押し付けられた。夜会の時は馬車の中でしか会話が出来なかったし、昨日は不測の事態を解決する事で精一杯だった。
会話らしい会話というモノが全くなかったなと今さらながらに気付いたクロスフィードは、アイリスフィアに何故か気に入られてしまった手前、彼の事を少しくらいは知っておきたいと思った。
「何を話すんだ?」
「ん? そうだな……、そう言われると困るな」
クロスフィードの提案に乗ってきたアイリスフィアの言葉に、クロスフィードは何か話題はないかと考えた。
いきなりアイリスフィアに話を振っては答えが返って来ない場合もあるので、クロスフィードはとりあえず自分の事を話す事にした。
「知っているか? 私の名前も花の名前なんだ」
「そうなのか?」
話に食いついてくるアイリスフィアの様子に笑みを浮かべながら、クロスフィードは話を進めていく。
「『クロスフィード』は、花と言うよりは薬草らしいが」
「薬になるのか」
「ああ。その薬草は黄色い小さな花が房のように密集して咲くらしいよ」
花の名前を子供につける事は、この国では結構よくある事でもあった。『レイヴァーレ』の童話に描かれている『花の娘』にあやかり、強く気高い人になるようにとの願いを込めて子供に花の名前を贈るのだ。
しかしそれは専ら女児であった場合で、男児にはそういった風習はあまりない。
「黄色い花か……。それだと逆だな」
「何が?」
「俺たちの色だ」
どういう意味だと首を傾げたクロスフィードだったが、アイリスフィアが何を言わんとしているのかを察し、ああ、と声を上げる。
「言われてみれば、瞳の色が逆だな」
青紫色の瞳を持つクロスフィードは、黄色い花が咲く『クロスフィード』。
黄色の瞳を持つアイリスフィアは、青紫色の花が咲く『アイリスフィア』。
互いに名前の元になった花の色は持ってはいない。しかし相手がその色を持っている。その事が何とも不思議で、クロスフィードはアイリスフィアとの距離が少しばかり近くなったような感覚を覚えた。
「……俺はずっと、この名前が嫌いだった」
不意にそんな事を口にするアイリスフィアは、顔を正面に戻しながら、視線を落としていた。
「どうしてだ?」
「女みたいな名だからだ」
少々口を尖らせるようにそんな事を言うアイリスフィアの様子を見つめながら、クロスフィードは思わず笑ってしまった。
アイリスフィアは正真正銘の男だ。それならば女のような名前を嫌がるのは当然だろう。しかしクロスフィードからすればそれは少しばかり羨ましいと感じる名前だった。
アイリスフィアは男であるため、たとえ女のような名前を持っていようと、どうという事はないのだ。しかしクロスフィードは女であるため、少しでも疑われる要素は取り除くべきと両親は考えたのか、贈られた名前は男のような名前だった。
クロスフィードは自分の名前を嫌った事はないが、それでも女の子の名前を聞くたびに羨ましいと思う気持ちが浮かんでしまうのは仕方のない事だった。
「『アイリスフィア』の花は凛とした美しい花だから、その名はアイリスに合っていると思うよ」
アイリスフィアの容姿はとても整っていて綺麗だ。中性的な顔立ちをしているので、『アイリスフィア』という名前も彼にはあっているようにも感じていた。
クロスフィードはそんな事を言葉に込めると、視線だけを向けて来たアイリスフィアも少しだけ微笑んでいた。
「お前の方が似合っていた」
「?」
「髪飾り」
クロスフィードはアイリスフィアが贈ってきた『アイリスフィア』の髪飾りの事を思い出し、少しばかり動揺した。
「待て待て。それはどういう意味だ?」
「そのままの意味だが?」
「ここは笑うところか!?」
女としてその言葉を言われたなら素直に喜びもしただろうが、如何せん、アイリスフィアはクロスフィードの事を男だと思っている。それなのに髪飾りが似合っていたなどと褒められても、薄ら寒いモノしか感じなかった。
「女装したお前はあの会場にいた誰よりも美しかった。お前、本当は女なら良かったのにな」
そんな事を言いながら不敵な笑みを浮かべているアイリスフィアに、クロスフィードはからかわれたのだと思い、ムカつくやら恥ずかしいやらで、思わずアイリスフィアを睨みつけた。
実は女だ、などとは言えないため、その事実を聞いた時のアイリスフィアの阿呆面が拝めないのは非常に残念である。
「私は男でよかったと思っているよ。女であったら入り婿を取らなければならなかったからな。伯爵家に婿に入ろうなどと言う奇特な貴族はいないだろうから、婿探しはさぞや大変だっただろうよ」
フンと少しばかり頬を膨らませて顔を背けると、アイリスフィアからふと小さな声が返ってくる。
「そういえば、お前は伯爵家の跡取りだったな」
そんな言葉か聞こえてくると、至極真面目な声音で言葉が続いていく。
「お前は嫌じゃないのか?」
「何が?」
「政略結婚とやらが」
貴族家に生まれた者にとって政略結婚というモノは当たり前の事なのだ。確かに望まぬ婚姻を結ぶという意味では嫌悪するところではあるだろうが、家の繁栄と存続を優先的に考えると、婚姻が利益優先になってしまうのは仕方のない事だとクロスフィードは考えていた。
しかし現状、クロスフィードは政略結婚というモノとは無縁の場所にいる。
「イヤか、と聞かれても困るな。私は政略結婚をしないから」
「なんだと!? お前はもう結婚していたのか!?」
「ぶっ飛んだな……」
まさかそこまで話を飛ばされるとは思っていなかったクロスフィードは、目を丸くして驚いているアイリスフィアを前に少々脱力した。
「結婚などしていない。相手すらまだいない」
「そ、そうか」
何故か安心するようにホッと息を吐いているアイリスフィアの様子に、独身仲間でも欲しかったのだろうかとクロスフィードは少々首を傾げた。
「伯爵家にくる縁談は下位層の家の者たちからだし、政治的とか家の繁栄とかとは無縁なんだ。伯爵家は現状、家が存続すればそれでいいというような状態だしな。こう言っては何だが、相手は誰でもいいんだ」
クロスフィードは伯爵家の跡取り息子として生きている。しかしクロスフィードは女であるため、妻を娶る事はない。そうなると婿を取る事になるのだが、伯爵家に婿が入る事もないのだ。
伯爵家の跡取りとなる子供を産むのは確かにクロスフィード本人であるが、公に婿を迎える事が出来ないクロスフィードは、最悪子供だけを授けてもらえればそれでいいというような考えを持っていた。
それは伯爵家を存続させるためには仕方のない事で、貴族家に生まれた者にとって跡取りを残す事は最早義務と言っても過言ではない。
現状、伯爵家は上位貴族たちからは相手にされていない。そのため、家の存続のために子を残せるのなら相手は誰でもいいのだ。
ただ一人、アイリスフィアを除いては。
「お前の家の事情を知らない訳ではないが、それでも羨ましいと思う」
「そうか? これでも結構大変なんだよ?」
アイリスフィアは伯爵家の事情を知っているだろうが、『クロスフィード』の事情は知らないのだ。そこにある本当の大変さは彼には分からないだろう。
そんな事を思いながらも、クロスフィードは肩を竦めて苦笑を返した。しかしアイリスフィアはふと視線を落としてしまう。
「俺は選ぶ事すら出来ない」
自嘲気味にそんな事を呟くアイリスフィアに、クロスフィードはすぐには返す言葉が見つからなかった。
後宮はアイリスフィアが成人を迎えてすぐに開かれた。そして後宮には既に条件を満たした娘たちが入っているのだ。まだそれだけならいいのだが、公爵の娘であるレイラキアが後宮に入っている以上、アイリスフィアの正妃になるのはレイラキアでまず間違いない。
アイリスフィアはその事を十分に分かっているからこそ、羨ましいと言ったのだろう。
「でもほら、後宮に入っているご令嬢たちの中に気に入る子が出来るかもしれないよ? 彼女たちに一度会ってみるのはどうだろう? 確かクライド殿のご息女も後宮に入ったと聞いたが」
慰めにもならないが、選べない事はないのだという事を伝えようと、クロスフィードはそんな事を提案してみた。するとアイリスフィアから意外な言葉が返ってくる。
「近衛騎士団長の娘か? あの娘はなかなか面白い娘だったな」
「何だ、会った事があったのか」
「ああ。後宮に入っている娘たちとは一度挨拶程度に顔を合わせている。まあ、誰が入っているのかなどもう忘れたがな」
興味のなさそうな口ぶりで話すアイリスフィアに、本当に興味がないのだろうなと悟る。
「だが、ニコルの事は面白いと言うくらいだから憶えているんだろう?」
「ニコル? 誰だそれは?」
「クライド殿のご息女の名前なんだが……」
面白いと言いながらもその名前すら憶えていないという事は、後宮に入っている娘たちには本当に興味の欠片も持ってはいないのだろう。
話の流れからも察しようとしないのだから、その興味のなさは相当だ。
「名前など憶える気はない。ただ彼女は俺の妃になるつもりはないと面と向かって言い切ったんだ。それだけはよく憶えている」
「ニコル……」
クロスフィードはさすがと言うべきその知人の対応に少々目眩がした。するとその様子を眺めていたアイリスフィアが少々首を傾げながら疑問を口にする。
「お前はクライドの娘と知り合いだったのか?」
「ん? ああ、知っているよ。昔から会えば必ず構ってくれるような優しい方だったからね」
ヴァンクライドの娘であるニコルベネットは、温和で優しげな雰囲気を持つ美しい女性だった。しかし温和な性格とは裏腹に、言いたい事ははっきりと口にする性分の人だった。歳はクロスフィードより二つほど年上であるため、幼い頃は姉と慕っていた人でもあった。
「ニコルはとてもしっかりした人だし、綺麗だし、優しいし、それに博識でもあるから、アイリスにはぴったりの人だと思うのだけどね」
そう告げると、アイリスフィアから何やら探るような視線が向けられた。
「お前まさか、クライドの娘に想いを寄せているのか?」
「何故そうなる……」
何やら質問の内容がかなり斜め向こう側をかっ飛んで行っているような気がするが、クロスフィードは努めて冷静に答えを返す。
「確かにニコルの事は好きだが、それは恋慕の情ではないよ。彼女は私にとって姉のような人だから、贔屓目があるだけだ」
「そ、そうか。ならよかった」
何故か安堵の息を漏らしているアイリスフィアに思い切り首を傾げたクロスフィードだったが、ニコルベネットがクロスフィードの想い人なのに後宮に入っている、というような事を気にしたのだろうと思い至った。
「まあ、ニコルだけじゃなくて、他の令嬢とも話してみるといい。そうしたら案外話が合う人がいるかもしれないよ。まずは話をしてみない事には相手の事など分からないだろう?」
クロスフィードもレイラキアがあんな性格の人物だったとは知らなかったので、言葉を交わす事は大切だなとしみじみ感じている今日この頃である。
しかしアイリスフィアはそんなクロスフィードの考えに否定を返してくる。
「話しても無駄だ」
諦めが滲むその声音に、クロスフィードは黙ってその先を待った。
「挨拶程度での顔合わせですら、皆俺の事を次期国王としてしか見ていなかった。『王』の『妃』となる事しか考えていなかった。ある意味、ニコル嬢だけはちゃんと俺の事を見てくれていたのかもな」
そう言って自嘲気味に口元を歪めているアイリスフィアの様子が、クロスフィードにはとても淋しげに見えた。
「結局俺は誰にとっても道具でしかないんだ。後宮に入っている娘たちにとっては王の妃となる為の道具、世継ぎ世継ぎと煩い爺共にとっては王家の血を継ぐための道具だ。……誰も俺の事など見てはいない」
「そんな事……」
「別にそれでも構わない。俺も黙って道具になってやろうとは思っていないからな」
そう言って不敵な笑みを浮かべるアイリスフィアを見ても、悲しさを隠しているようにしか見えなかった。
アイリスフィアが世継ぎ問題から逃げる為に自ら男色家だなどという噂を流していたのは、そういった理由があったからなのだろうとクロスフィードは察した。
「アイリスは、誰とも婚姻を結びたくないのか?」
「……そういう訳ではない」
道具になる気はないと言っても、アイリスフィアに結婚願望がない訳ではなかった。
「俺だって相手は欲しい。ただ、俺の事をちゃんと見てくれる誰かが良いと思っているだけだ」
その意外な言葉に、クロスフィードは少々キョトンとしてしまった。
まさかアイリスフィアの口からそんな純情そうな言葉が出てくるとは思わなかった。
「何だその顔は? 何か文句でもあるのか?」
途端にガラが悪くなるアイリスフィアに対して、クロスフィードは慌てて、そんな事はない、と首を振った。
「私だって同じだよ。誰でもいいと言っても、やはりそこには想い想われる気持ちが少しでもあればいいと思っている。誰だってそういった事を理想とするのは、当たり前の事だと思うよ」
クロスフィードにだって理想はある。現実的な考えの裏では、両親のように愛し愛される関係を望んでいる事は確かだった。アイリスフィアも同じような事を求めているのだと知ると、王族だからと言って世継ぎを強要されているであろうアイリスフィアの辛さを想った。
「今は『花の君』の存在があるから、今の内に相手を探すというのはどうだろう?」
ふと思いつき、そんな提案を口にしてみれば、アイリスフィアの雰囲気が途端に沈んでしまった。クロスフィードは何か不味い事でも言ってしまっただろうかと慌てていると、アイリスフィアの方が先に口を開いた。
「そのつもりだった」
その言葉に、クロスフィードはどういう事だと視線を向ける。するとアイリスフィアは申し訳ないというような顔つきで視線を落としていた。
「男が好きだと噂を流したところで、大した効果は得られなかった。確かに煩い爺共を少しは黙らせる事は出来たが、それでも効果は今一つだった。そんな時、俺はお前に会ったんだ」
話しはじめるアイリスフィアの言葉に、クロスフィードはその時の事を思い出してみた。
王宮での夜会にクロスフィードが参加していたのは本当に偶然だった。本来なら王宮での催しには極力遠慮していた伯爵家ではあったが、その日の夜会はアイリスフィアが参加するという事で、クロスフィードは父親と共に王宮での夜会に参加していたのだ。もしアイリスフィアの欠席を事前に知っていれば王宮になど行かなかっただろう。しかし体調不良だという事だったので仕方ないと思っていたクロスフィードは、自室で寝ているはずのアイリスフィアに何故か庭で出会ってしまった。
あの王宮での夜会の日にどんな形であれアイリスフィアと会う事になってしまったのだから、その日のクロスフィードの目的は達成されたと言える。ただその出会いが予期せぬ事態だったというだけで、きっと普通に挨拶を交わすだけの出会い方をしていたならば、こうして今となりにアイリスフィアはいなかっただろうとクロスフィードは思っていた。
「お前は噂に違わぬ容姿をしていたし、丁度いいと思った。伯爵家の人間であるお前は俺に逆らう事など出来ないだろうと、最低な事を考えていた」
悔いるように言葉を告げるアイリスフィアの様子を、クロスフィードは静かに見つめていた。
アイリスフィアがそう思っていただろう事は最初からクロスフィードには分かっていた。あの時のアイリスフィアは周りの者たちと同じように『大罪を犯した伯爵家』と言っていたのだから。
しかし今のアイリスフィアの姿を見るに、クロスフィードに対してあの時のような見方をしていないだろう事は容易に察する事が出来る。
「誰が見ても納得されるような娘でなければ意味がなかった。別にお前でなければならなかったという訳ではないが、お前だったから都合が良かったんだ」
例えばどこかの家の令嬢が今のような状況に巻き込まれた場合、おそらくすぐに素性は突き止められ、後宮に入れられるなり公爵家から圧力をかけられるなり、事は早々に終幕を迎えた事だろう。しかし現状、『花の君』と称されている娘が見つかっていないのは、その娘の正体がクロスフィードである事が大きく関係している事は明らかだ。
クロスフィードは男として生活しているため、『娘』を探している者たちの目に止まる事はまずないと言っていい。
そういった事を含めて、クロスフィードはアイリスフィアにとってこの上なく都合のよい人材だったという事だ。
「レイラとなんて死んでも御免だったし、爺共の選んだ娘たちも論外だった。だから時間稼ぎのつもりでお前を利用しようと考えたんだが、アレクにその事を言い当てられてしまった」
アイリスフィアは世継ぎ問題の回避まで頭が回っていなかった訳ではなく、その意図にアレクヴァンディが気付いた事に驚いていたようだった。それをアレクヴァンディが勘違いしてクロスフィードに話したのだ。
あの時はクロスフィードもそれを信じかけてしまったが、やはり女装させられた事には明確な意図があったのだと、話を聞いてようやく確信できた。
「アレクは『花の君』がお前だと知っているからだとも思ったが、他にも俺の意図を察した者がいるかもしれないと考えると、こんな事はするべきではなかったと思うようになって……。それに――」
「それに?」
「……いや、何でもない」
フイと顔を反対側へと向けてしまったアイリスフィアに、クロスフィードはその後頭部を見つめながら思い切り首を傾げた。
そこで言葉を止められてしまうと、気になる事この上なかった。
「とにかく、爺共が血眼でお前を探している。見つかればお前や伯爵家に迷惑をかける事になる。そういった事を俺は考えていなかったんだ。お前には、本当に悪い事をしたと思っている」
アイリスフィアから謝罪の言葉が出た事に驚きながらも、クロスフィードはしばらく項垂れるアイリスフィアの横顔を見つめていた。
「もう過ぎた事だから気にするな、とは言わないよ」
「……っ」
そう告げるとアイリスフィアの肩がビクリと震えた。それを静かに見つめながら、クロスフィードは言葉を続ける。
「ただ、もう状況は変えられない。だからこそ私を利用したというのなら、ちゃんと成果を上げてくれ」
そう告げてみると、アイリスフィアが少しばかり視線を向けてくる。それに笑みを返してやれば、彼は完全に顔を向けてきた。
「ちゃんと見つけてくれ、アイリスだけの『最愛』を。きっと見つかると、私は信じているよ」
「クロフィ……」
王家に残ったたった一人の王子という身の上のアイリスフィアには、それが難しい事であるのはクロスフィードにだって分かっている。自由恋愛などというのは貴族たちにとっては夢のまた夢だ。しかし政略結婚だから幸せになれないという事はない。そうした中でも愛し愛される関係を築いている者たちはちゃんといるのだ。
だからこそ、アイリスフィアにも自分だけの愛の形を見つけてもらいたいとクロスフィードは思っていた。
「実は一人だけ、心奪われた相手がいる」
「何!? そうなのか!?」
アイリスフィアから告げられた衝撃の事実に、クロスフィードは思わず声を上げる。
「あ、相手は誰だ!? どこのご令嬢だ!?」
「令嬢ではない」
「では侍女か!? それとも市井の娘さんか!?」
まさかアイリスフィアが身分違いの恋をしているなどとは、クロスフィードも想像すらしていなかった。おそらくアイリスフィアはその娘への想いを断ち切れない事に心痛めていたのだろうと思うと、時間稼ぎをし、婚姻やら世継ぎ問題やらから逃げていた事にも大いに納得できた。そうであるのなら何とかしてその恋を実らせてあげたいところではあるが、如何せん相手は貴族の令嬢ではない。身分がないと王子であるアイリスフィアとは結ばれる事は難しい。
クロスフィードは頭をフル回転させながら、何か良い方法はないかとうんうん唸りながら考えていた。
「たとえ身分がなくても爵位のある貴族家に養子に入れば……って、私の家にはその伝手がないんだった……。レイラキア嬢がいるから公爵様には頼めないよな……。あ、じゃあ、クライド殿に頼むのはどうだろう! クライド殿は侯爵家の人間だし、きっと力になって下さると――」
「いいんだ」
言葉を遮るようにアイリスフィアが口を開く。
「彼女とは、もう二度と会えないから」
悲しげな表情でそんな事を告げるアイリスフィアの様子に、クロスフィードは言葉を失った。
その表情から推測できる事は一つ。
相手の娘はもうこの世の人ではないという事だった。
「ア、アイリズずっ」
「ちょ、な、何だ!? 何故泣く!?」
クロスフィードは読書家であるため、童話や物語の類はかなりの量を読みつくしている。そのため、生き別れるとか、死に別れるとか、そういった話にクロスフィードはかなり弱いのだ。
クロスフィードはズビズビと鼻をすすりながら、アイリスフィアの手をガシッと思い切り掴んだ。その突然の行動にアイリスフィアは目を瞠って驚いていたが、今のクロスフィードがそれに構う事はない。
「きっとその人もアイリスの幸せを願っていると思うよ。ずずっ……私もぢがらになるがらな。おばえばじあばぜじだでど」
「……それは人語か?」
えぐえぐと涙ぐむあまりクロスフィードの言葉には濁点が大量に付いており、最早言葉として通じてはいなかった。
クロスフィードは一度盛大に鼻をすすると、アイリスフィアに真剣な眼差しを向ける。
「とにかく、こうなったら乗りかかった船だ! 私は最後までアイリスに付き合おう! アイリスにいい人が見つかるまで協力する!」
手を掴んだままそう宣言すると、アイリスフィアはしばし瞠目していたが、ふとその表情を緩めて微笑んでいた。
「お前は面白い奴だな」
そんな事を言うアイリスフィアに何か面白い事を言っただろうか首を傾げるクロスフィードは、途端に笑い声を上げる彼の様子にますます首を傾げた。
「……本当に女であればよかったのに」
「ん? 何か言ったか?」
「いや、何も」
アイリスフィアの視線はクロスフィードに向けられてはいたが、それはクロスフィードの向こう側にいる誰かを見ているようだった。
「なあ」
「ん? どうした?」
不意に声をかけてくるアイリスフィアに、クロスフィードは答えを待つ。
「腹減った」
「……お前は本当に自由な奴だな」
アイリスフィアの自由すぎる発言にも慣れてきている自分がいる事に、クロスフィードは力なく肩を落とした。




