2 侵入者
夜半にかけるにつれて、雨は止み、月の光が夜を支配し始めた。
ユリアナは再び窓の傍へ寄り、風にざわめく木々を見つめながら目を細めた。
窓を少し開けてみるとぬるい風が首を舐めながら室内へ吹き込んでくる。
振り返り、続き部屋の方に目を向けたが、そこに居るはずの人間は屹度微動だにせずに眠っているのだろう。人がいる気配すらもほぼ感じ取れなかった。
屋敷の近くで姿を眩ました獣は近くに居るのだろうが、あの目立つ蒼い毛皮を闇夜の陰に上手く隠しているようで、月光で朱暗さを映す庭にはちらりとも蒼い影は見えない。
蒼い毛皮を持つという姿もさることながら、ヒルデスヴィーニは本当に稀有な獣だ。人と暮らす獣といえば、家畜くらいのものだが、あれはそのような獣とは全く次元を異にする。言葉こそ話さないものの、ヒルデスヴィーニは人の言葉を解し、気持ちを察する。
そして、自分が人に恐怖を与えることも、また好奇の目で見られることも理解し、人前では今のように姿を隠す。
本当に、あの聡さには舌を巻かされる。
「…ヒルデスヴィーニ」
外へ向けて呟くように獣の名を呼ぶと、嵐の音に紛れるように、呼応する鳴き声が聞こえた。
何かが遠くできらりと光る。野生動物の目のように。何かが走る気配に、身を乗り出した。
月が紅く、暗く、辺りを照らす。
こんな夜は危ないのだ。昔、誰かがユリアナにそう話した。誰だったか、思い出せない。
ユリアナは、何かを探すように目をこらす。もう一度、どこかで獣が嘶いた。
ユリアナはさらに激しさを増す風を断ち切るように窓の鍵をかちりと閉めた。
窓を締めるのと同時に、どこかで抑揚のない高い音が、長く、一度響いた。
それは、森番が家畜を狙う獣が居ることを辺りに警告する音に似た音だ。ユリアナは特に気にも留めず、乱れた前髪をかき上げながら髪紐をとり、首を振るとやわらかな長髪がふわりと背に落ちる。
そのまま、用意してくれていた湯でさっと身を清めると夜着に袖を通した。
そして濡れた持ち荷の点検をしはじめたときだった。
ふいに、慌ただしく駆ける音がしたかと思えば、深夜にもかかわらず扉がけたたましい音をたてた。
その音に急いで上着を羽織りながら返事をすると「エイミです。旅のお方、ご無事ですか」と余裕のない声色で叫ぶような声が聞こえた。その名が先ほど部屋まで案内してくれた侍女のものであることを思い出し、ユリアナは遠慮がちに扉を開けた。
「あの、どうしました?」
息を切らせた侍女は、ユリアナと大して変わらない、夜着に肩掛けを羽織ったのみという慌てた出で立ちで、必死の形相を顔に浮かべながら彼女に詰め寄ってくる。
「屋敷に賊が入ったようです。こちらで何か変わったことは!!?」
その剣幕に上半身をうしろに引きながらも、ユリアナは答えた。
「賊…いえ、特に何も」
「左様ですか」
エイミはそう返答したものの、長い棒のような武器を構えながら、
なおも注意深く辺りに視線を走らせている。
ユリアナが部屋の電気を灯すと、どこも乱れた様子の無い部屋を確認し
エイミはやっと眉の力を抜いた。
「あの、賊とは」
「はい、今はまだ何とも…あ!お連れの…方は大丈夫ですか?」
未だ侍女の様相についていけないユリアナを後目にぎいと蝶番のきしむ音をさせながら、実にタイミングよく続き部屋の扉が開き少々緩慢な動きで男が姿を現した。
「あ!ご無事ですね。良かった!」
「どうした?」
「シア」
続きの部屋から気だるげに現れたシアードに、ユリアナは駆け寄った。
「侵入者でございます。一応こちらが把握している限りでは取り押さえたようですが屋敷の者が何名か襲われたようで…まあ、幸いにして大事に至ったものはおりません」
エイミの説明にシアードは眉根を寄せた。
「侵入者…?どういった類いですか?」
「わかりません。今状況の把握に努めている所です。何分、こちらも混乱状態ですので…」
ちらりと視線を向けてきたシアードに、ユリアナは分からないと視線で答える。
彼はエイミに視線を戻し、穏やかにしかし早口で言った。
「賊がまだ潜んでいる可能性は」
「皆が確認に走っておりますが、襲われたのは本館のようです。今のところの情報では賊は全て確保されたと思われます」
ふむ、と渋い顔をして一拍置くと、彼は長めの髪を結わえた。
「さっき怪我人が居ると言っていたね。良かったら私も手伝いましょう。医師の端くれとして多少の役には立てるはずですから」
「シア、体は…」
「大丈夫だ。随分楽になったよ」
「それならわたしも行く」
シアードは侍女を促す様に扉へと歩き出した。
それに慌てて付いて行こうとしたユリアナの肩を彼は優しく、しかししっかりと押さえた。
「お前は休んでいなさい」
「でも」
「いいね」
言葉を封じるように被された声にぐ、と詰まったときふいに
すっと、腕に添えられた柔らかなものを感じ、ユリアナはびくりと震えた。
振り向いた先には気遣わしげな表情のエイミが立っていた。
「そりゃあ…怯えもしますわ。こんなときにシアードさんと離れているなんて不安ですよね。当然です。大丈夫ですよ、ユリアナさん。一緒に参りましょう」
優しくあやすような口調に、ユリアナは言葉がみつからず、ただ視線を揺らした。
「しかし」
エイミを宥めようと口をはさんだシアードに、彼女は強い目を向ける。
「確かにここは危険性は低いと思われますが、まだどこに危険があるかわかりませんわ。お二人がどのような旅をされてきたのか存じませんが、もう少し配慮をなさるべきでは。なにより、彼女は女性ですのに」
ね、行きましょうと打って変わって聖女のように微笑む侍女に気圧されるようにユリアナは「はい」とだけ小さく消え入りそうな返事をしたのだった。