1 身を叩く雨
今夜は本当についてない。
先ほど夜盗に襲われかけたときにも運の悪さにうんざりしたものだが、その上、豪雨に見舞われて濡れた衣服は彼らの体力を奪うばかり。
さらに、目算を誤ったのか、もう日が暮れたというのになかなか暗い森から抜け出せない。
途方に暮れそうになりながらも、ユリアナは纏わりついてくる泥を蹴散らしながら足早に歩を進めた。
その後ろには、小さな熊ほどの大きさの獣が付き従っている。本来は天鵞絨のような碧く美しい毛皮を持っているのだが、今では泥と雨でしっとりとその身を黒く湿らせていた。
その獣の背には男が一人、力なくしがみついている。
ユリアナはちらりとその姿を確認すると、歩調をさらに早めた。
しかし依然として足場は悪く、焦って足に力を籠めようものなら、ぬかるむ地面に足を取られてしまう。
空模様はといえば、風は相変わらず不気味な唸り声をあげ、再び雨が彼らの体を濡らし始めた。
まったく、もう、ほんとうに。と思わず吐き出した声は、風の音に攫われていった。
声を呑みこみながら、尚もこちらを威嚇するように渦巻く風に、まるで辺りを包囲されているかのような錯覚におちいる。
じわり、じわりと、何者かに退路を絶たれているかのような圧迫感に、『お前たちの逃げ場は無い』と囁かれている気がした。
どこか、この夜を凌ぐ場所を確保しないと。せめて一人分の宿だけでも。
昼過ぎに入った森はいつまでたっても抜ける気配はない。人目を忍んだ道を選んだことが悔やまれるが、自分たちにとってはそれも仕方のない選択だったのだ。
「ユリアナ…」
獣の背から聞こえた、殆どうめき声のような呼びかけに、ユリアナはさっと駆け寄った。
「シア、起きた?苦しい?」
「私のことは気にしなくていいから…お前は…」
「こっちのセリフだよ。ごめん、つらいと思うけどもうちょっと辛抱してほしい」
そう言うと、いや、と呟いて苦しそうに息を吐く。
「すまない…こんなときに」
「シアのせいじゃないよ。慌てて失念してたんだもの。今夜は…」
大きく紅い月が闇夜を縫って彼らを照らす。
ユリアナはちらりと空を見上げると唇を噛みしめ、再び言葉を続けた。
「蠢血の月だってことを」
彼は眉間に皺を刻み、力なく首を振った。
小雨が次第に強さを増し、痛みを感じるほどに彼らの体を叩きはじめる。
ちらりと、連れを見ると、再び魔獣の背でぐったりと体を沈ませている。
恐らく、もう意識を保ってはいないだろう。
急がなくては、時間がない。
ふいに、獣が高く啼いた。
「なに?」
獣が首を動かして示す方をみると、遠くにかすかに雨に橙色が滲んでいるのが見えた。
何なのか定かではないが、木の隙間からかすかに明かりが漏れているようだ。
こんなところに人が住んでいるのだろうか?それとも、ついに森を抜けたのだろうか。
或いは……
しかし、もう迷う時間などありはしない。
ユリアナは獣の首筋をさらりと撫で、その耳に唇を寄せて囁いた。
「知らせてくれてありがとう、みてくるよ。シアを頼むね」
一声鳴いて了承を示す獣を背に、ユリアナは光へと走った。
そこは町へと抜けたわけではなく、一つの建物がそびえたっているのみであった
人里離れた場所に佇む建物はちょっとした古城のように大きい。
悪天候の中、朱く照らされる姿は不気味以外のなんでもないが、ユリアナは速度を緩めることなく門から扉へと駆け抜けた。
門を叩き、中へと呼びかける。
「旅の者です。森を惑い、雷雨に困っております。どうか、助けては頂けないでしょうか」
扉の向こうに人の気配を感じ、ユリアナは思わず息を殺し、神経を尖らせた。
がちゃりと重そうな錠を外す音がし、ゆっくりと開いた扉から現れたのは、拍子抜けするほど穏やかな空気をまとった初老の紳士。
彼は顔に髪の毛と木の葉や泥を貼りつかせ、滝にでも飛び込んだ後であるかのような姿の女が佇んでいることに、一瞬言葉を失ったようで、一拍おいてから「これはこれは…」と呟いた。
ユリアナは相手の戸惑いに頓着せず、まっすぐにその眼をひたすら見つめながら、早口に言葉を紡ぐ。
「夜分に申し訳ありません。無礼は重々承知のお願いです。突然の雨に降られ困っております…どうか…」
彼はユリアナの話を聞きながら、一つ頷き、背後を振り返った。
「拭くものをもってきなさい。そして、温かい湯を張るように」
屋敷の中に向かってそう声を張り、彼は再びユリアナと向き合った。
「あの」
紳士はその顔に柔和な笑みを刻み、遠慮がちに声を上げたユリアナを中に招き入れようと一歩下がった。
「この様な夜に難儀であったでしょう。どうぞお上がりなさい。幸い部屋は余っているもので」
ああ、神よ。ユリアナは左手で祈りを示す仕草をし、深く、腰を折った。
「ありがとうございます。連れが一人居るので。すぐに連れて戻ります!」
彼女は男が呼び止める合間を許さずに、素早く踵を返した。
戸口に残された紳士はその華奢な背中が走り去った方をを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「…傘でも、貸したものを…」