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ghosting[名]

作者: 高島津諦

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。

 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。

 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。

 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。

 気付いた瞬間、私は目を伏せる。

 見てはいけない。

 住宅街のそれ程広いとも言えない道を、不自然じゃないギリギリまで彼女と反対側に寄る。

 そう、立っているのは女だった。一瞥でそれは分かってしまった。

 私と同じくらいの背格好をして、濃い緑のワンピース――詳しくは見ないで済んだが、七十年代より昔のものということはなさそうだった――を着ているのはきっと女だろう。

 真昼にブロック塀の上なんかに立っているのは、きっと、死んだ女だろう。



 先週、テレビで残暑払いと題し、今時珍しい心霊現象討論番組をやっていた。

 それに出演していた否定派のどこぞの文化人中年男性曰く、

「死んだ生き物が、いや人に限定してもいいですよ、亡くなった人が幽霊になるってんでしょう? 有史以来どれだけ人間が亡くなったと思ってるんですか? 無念な死を遂げた人だけに限ってもいいですけどね、話は変わりませんよ! どうして地球上は幽霊で一杯になってないんですか?」

 文化人なるものがそんなことを鬼の首を取ったように言い募る姿に、なるほど文化の程度が知れると思った。もっともあれは一種の八百長であり、どの陣営も本気で言っているわけではないだろうが。

 私は彼の詰問の答えを知っている。彼を納得させられるかどうかはともかく、答えを知っている。

 地球上が霊で一杯にならないのは、霊が私たちより、一秒のほんの半分の半分の半分の……だけ、もしくは百億年の百億倍の百億倍の百億倍の……だけ、先の時間に行っているからだ。

 霊や魂の重さが二十一グラムしかないかは知らないけれど、いずれ肉体から解放された霊はずっと軽くなるのだ。軽くなったら早く先に行ける。未来に行ける。時間がずれてしまったものの存在を、私たちは通常見ることも触ることもできない。例えば今目の前を飛んでいった木の葉は、私達にはその瞬間に飛んでいく木の葉しか見えず、一秒後、または一秒先にもそこを流れていった可能性の木の葉は認識できない。霊同士も、ほんの僅かでも時間がずれていれば接触できない。

 もう少し偉そうに、文化人ぶって言ってみよう。一般相対性理論によれば、弱い重力場にいるものは、それより強い重力場にいるものよりも時間の進み方が早い。ある人間の存在が軽くなれば、その人間に作用する重力場は弱くなり、彼ら彼女らの時間は早くなって未来へ行く。時間がずれる。先に逝った人間は、先に行ってしまう。

 私の進む道の先、十五メートルほどの所に立っているあの女もその一人だ。



 あれが男ではなく女だというのはどちらかと言えば安心材料だった。私が女だから。

 時間が違うということは、世界が違うということだ。それを並行世界と呼んでいいのかは別として、生き物の世界と死者の世界は、重なり合っていながら流れる時間の違いで隔てられている。死者の世界と一口に呼んだが、それすら各人によって別々だったりもする。だから、概ね彼らは孤独だ。

 他に接触する相手がいなくなった男は、女なら誰でもいいから手を出したい、という状態になりやすい。男は女に対してしばしば無差別的だ。その不条理な暴力に晒される危険が少ないのは、いいことと言える。

 ただ女の方が、一度目当てにした相手には執念深い傾向があった。そうなったら厄介だ。私は痛い目は見たくないし、万が一にも死にたくはない。何が悲しくて二十歳そこそこで死ななければいけないのだ。

 一番いいのは、彼女が何の悪意も鬱屈も抱えておらず、たまたまこちらの時間に合ってしまっただけ、ということなのだけれど。

 違う世界に生きている私たちと彼らが、どうして時折出会うのか。それは、どちらかがどちらかの時間に紛れ込むからだ。ナノセカンドよりも僅かな時間、「強い力」が働くヨクトセカンドと同じかそれより小さい時間しか差がない世界とは、何かの弾みに足並みが合ってしまう。

 私たちが彼らの時間に行くのは、存在が軽くなった時だ。臨死、トランス、物思いにそぞろ歩き。そういう時に私たちは軽くなり、先の世界を覗いてしまう。

 となれば、彼らがこちらに来るのは逆に重くなった時だ。彼らに働く重力が強くなった時だ。万有引力の法則に従い全ては全てと引き合う。魂も同じだ。彼らと普通より強く引き合う、相互に重力を及ぼし合う生者の魂があると、彼らの時計は遅くなり、その引き合う魂の近くに姿を表わす。誰かはそれを未練のせいと言うし、霊感と呼ぶ人も、ただの相性と言う人もいる。理屈はともあれ、そこに結びつきがある。

 ということで、問題は、あそこに立っている女が誰に誘われて自分の時間をずらしたかだ。私に引かれたのだとしたら、そしてそれを彼女が自覚しているとしたら、とても困る。孤独に狂った女が、特有の執念深さで私に悪さをするかもしれない。

 まずもって、私に彼女が見えていると気付かれるのがまずい。興味を持たれたくない。だから露骨に背を向けてもいけない。かと言って普通に前を見て彼女を視界に入れていると、ひどくショッキングな物を見せられる可能性がある。

 関わらないでくれと念じながら、足取りだけは平静を装って女の佇む方へ歩いていく。おかしくない程度に顔を俯け目線も下げているので、塀の上に立つ彼女の姿は見えない。

 彼女の正面まで多分あと十二メートルほど。熱せられたアスファルトはどろりと黒く融けそうだ。

 八メートル。膝にまとわりつくサマードレスが白いせいで、光を反射し目に痛い。

 五メートル。粘つく唾液を飲み込む。

 四メートル、三メートル。

 二メートル。じゃり、と靴底がブロックが擦れる音が聞こえた。

 一メートル。視界の端に見える気がする。意識から締め出す。

 〇。

 どこかで死にかけの蝉が鳴いた。

 五十センチ。

 二歩目を踏みだして一メートル。

 後は離れるのみだ。

 いつの間にか止めていた息をそろそろと吐いた。



「助けないで」



 排泄した二酸化炭素と入れ替わりにその声が入ってきて私の体はテイザーを撃たれたようにびくんと震えた。

 動作の途中でもう「しまった」とは思った。だが私は彼女の方を向こうとしてしまっていた。彼女の声が余りに必死で、切実で、それでいて凶暴さや怖さを感じさせなかったから。

 視界が回転して、足元から路上を這い、斜め後ろに向い、ブロック塀を這い上がって、そこには、

「――――」

 誰もいなかった。

 塀の向こう、じっとりと揺らぐ熱気越しに、民家の二階の窓が開いてクリーム色のカーテンが揺れているのが見えた。他には、空と、屋根の上でフル稼働しているであろうソーラーパネルと、今出てきたばかりの私のアパートと、家と、家と、自営業の蕎麦屋と。

 普通の住宅街だった。

 まだ安心しきることはできず、恐る恐る周囲を見回す。それでもやっぱり、何も奇妙なことはなかった。私は生きている人間の時間で動いているようだし、そこに無理やり乗ってきたものはいないようだった。

 背後からエンジン音が聞こえて振り向くと、銀色の軽自動車が道の中途半端な場所で立ち尽くしている私が邪魔そうにスピードを緩めていた。すいません、と軽く頭を下げて道を譲る。運転手は軟派なにーちゃんで、どう考えても普通の人だった。

「なんなんだ」

 疑問とも不満ともつかないものが口をついた。何か危害を加えられたわけではないのだからほっとするべきで、実際ほっとしてもいるのだが、それより釈然としない思いが強かった。相対性理論なんて持ち出したところで未だ非科学的でしかないもの相手に、筋道など求めても仕方ないのかもしれないが。

 あれは私を目当てに現れたのだろうか。それとも誰でもよかったのか。助けないでという言葉は語調から恐らく私への懇願だが、肝心の誰を、というのが抜けている。

「自分を助けないで、かなあ」

 助けられるのに相応しい相手と言えばあの霊くらいだから、そう考えるのが妥当な気もする。だが、ああいうのは普通助けてくれと言ってくるものではないか。今まで私が見たことのある霊もそうだった。なのに助けないで、とは。しかも、助けようと考えすらしない内に勝手に消えた。

 これから私が助けようとする相手――例えば密かに困っている私の友人――を助けるな、と言ってきたのかもしれない。彼女はその相手に恨みを持っていて、とか。あり得る。だがそんなことを知らない死人に言われても困る。生き死にを別にしたところで、私は知らない彼女と知っている友人なら友人を優先させたい。

 しばらく考えると、結論が出た。

「考えても無駄だな」

 そういうことである。

 長いこと立ち止まっていたせいで無駄に汗をかいたことに舌打ちしつつ、私は本来向かう予定だったペットショップに歩きだした。カブトムシゼリーを買ってこなくては。



 どうして昆虫ゼリーというのは色がこんなにカラフルなのだろう、と腕から提げた袋の中身について考える。

 赤だの、緑だの、黄色だの、白だの。虫の視覚で一番注意を引く色になっているなら合理的だけれど、きっとそうではない。多分、飼い主である人間にとって美味しそう見せたいのだ。

 ペットにも美味しいものを食べさせたい、という心理それ自体は悪いものではないのだろうけれど。

「なんだかね」

 偽善というか、空回りする好意という感じだ。着色料が虫の体にいいとも思えない。

 交差点で信号待ちをする。通り過ぎていく車の排気ガスを吸いながら、光化学スモッグという名前をあまり聞かなくなったなあ、とぼんやり考える。

 後ろからやってきた小さな女の子が、私を追い抜いて歩道の縁で止まった。ランドセルはしょっていないが、小学六年生くらいだろうか。どうして子どもというのは車道ギリギリに立つのだろう。私も昔はそうしていたのだけれど。

 後ろからぼんやり女の子を眺める。少女だけが持てる艶々の髪が羨ましくなる。緑の黒髪、だったか。緑と言えば服も緑だ。こっちは慣用表現じゃない、そのままの意味で。

 服の色にを見た時、何か引っかかりを感じた。

 だがそれを深く考える前に、信号が変わった。進めマークを待ちかねていたように、女の子が勢いよく前に出る。釣られたように私も一歩踏み出す。

 あ、と思った。声も出したかもしれない。

 トラックが無理やり突っ込んできていて、女の子は気付いていなくて、このままだとはねられる。でも手を伸ばして掴んで引き戻せば間に合う。

 それが分かった瞬間、繋がった気がした。きっとあの霊は、この子を助けるなと言ったのだ。

 考え込む時間はほとんどなかったはずなのに、私の思考は随分と走った。やはり助けないでほしい相手は、これから私が出会う相手、つまりこの子だったのだ。もしかしたらそれだけでなく、彼女自身を、でもあるのかもしれない。あの霊は緑の服を着ていて、この子もそうだ。体格は十年分ばかり違ったようだが、同一人物ではないだろうか。この子が死んで霊になって成長した姿があれで、時間の進んだ世界に行ったのだが、あまりに魂が重くなりすぎて時間を逆行する程で、死ぬ前にまで戻り――いや霊は成長するのか? そもそも自分を死なせろってどういう願いだ、大体死ななかったら霊にならないわけで――ああ、わけがわからなくなってきた、流石に無理があるかもしれない。あの霊とこの子は別の人間で、たまたま似た色の服を着ているだけか。

 女の子がトラックに気付いた。だが驚きで固まってしまっている。霊とこの子の関係はともかく、やはり私が助けないとここで死ぬんじゃないか。

 選択、助けるか助けないか。霊に従うか従わないか。ノータイムで答えが出る。ろくな説明もしない霊と生きている女の子、どっちを優先するかは明白だ。大体、ここでこの女の子を見殺しにしたら私はずっとうなされるだろう。

 私はカブトムシゼリーの袋を持っていない方の手で、女の子の腕を掴もうとした。

 掴んだ。

 女の子の細い二の腕に私の指が絡まって、そしてそのままこっちに引っ張ろうとした私の手を女の子が逆の手で掴んだ。

 それはきっと恐慌状態での反射のようなものだ。溺れている人が助けに来た人に滅茶苦茶に捕まろうとするみたいに。

 不用意に溺れている人を助けに行くとどうなるか。

 しばしば二人とも溺れる。

 女の子が私の手を掴み、縋るように強く引いた。私はそれを予測していなかった。バランスを崩し、前にたたらを踏んだ。前というのは、車道の中ほどで、数瞬後にそこがどうなるかは言うまでもない。

 私たちの目の前にトラックが来て、出来ることなどなかった。

 衝撃がどこかに抜けていく。

 奇妙なほど平静な気持ちで私は吹き飛ばされた。平静と言うより、茫然と表現した方が正しいかもしれない。正面零距離から見るとトラックの車体とはこんなに巨大なのか、と思っていた。

 気付けば私は倒れていた。いつの間にかつむっていた目を開けると、車道脇ようだった。女の子は見当たらない。見回そうとするのだが、上手く首が動かない。

 唐突に痛みが襲ってきた。最初は痛みだとすら気付けず、ただ物凄い異物感のようだった。何だろう、と思った瞬間それが牙を剥いた。

 どこが痛いのかもよく分からない。とにかく全身が痛かった。うめき声どころか息すら満足に吐きだせなかった。体の外側が痛いとも内側が痛いとも言えない。切り傷の鋭い痛みも、擦り傷のヒリヒリする痛みも、骨折の響くような痛みも、全てが同時に、しかも何十倍もの強さで襲いかかってきた。

「……っ、ぁ」

 肺か、喉か、声帯か、それかどこかが麻痺しているように、小さく妙な音を口から漏らす。多分それで更に痛みが増したのだろうが、もう分からなかった。

 よせばいいのに、私は視線だけで自分の体を見下ろした。

 例えば手足の角度だとか、そういうものは目に入らなかった。私の視界を埋め尽くしたのは、血で染まった私のサマードレスだった。白かった布地が真っ赤になっている。経血などよりもずっと毒々しいのはなぜだろうか。

 このままだと死ぬ。

 嫌だ。なんで死ななきゃないんだ。何が悲しくてこの年で死ななくちゃいけないんだ。私が何か悪いことをしたのか。むしろいいことじゃないのか。偽善か、空回りする好意か。

 恐怖に混乱する心を、なんとか理性が宥めようとする。

 周囲には人が沢山いた。病院もそれほど遠くない。大丈夫、救急車がすぐに来てくれるはずだ。

 瞼がひどく重くなった。閉じてはいけないとどこかが訴える。でも私は、全身が辛くて、目を開けていることにも凄く気力と体力を使うようで、きっと今は体力を温存しなければいけない、それが正しい。

 服の赤さを見たまま、私は目を閉じる。

 その残像が、瞼の裏に補色である緑として映った。

 サマードレスもつまりはワンピースだ。

 今度こそ本当に理解する。

 あの霊は私だ。私は助からない。

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