前世を思い出したら乙女ゲームのヒロインだった件。攻略対象よりお姉様の方が尊いので、爵位も王子も差し上げますから私を可愛がってください!
ガツン、と鈍い音が響いた。
「……痛っ……たたた……」
後頭部を押さえながら、私、ルーナ・フロートはベッドの上でのたうち回った。
暗い自室。
どうやら夜中にトイレへ立とうとして、棚の角に派手にぶつけたらしい。
しかし、その激痛と共に、脳内に濁流のような「記憶」が流れ込んできた。
満員電車、デスクワーク、コンビニの新作スイーツ、そして……。
休日にやり込んでいた乙女ゲーム『クリスタル・ラビリンス』の画面。
「あ……私、死んだんだ。で、ここ、あのゲームの中だ」
私の名前はルーナ。このゲームの「ヒロイン」であり、フロート伯爵家の次女。
魔力はスズメの涙。努力は三日坊主。根暗で卑屈。
常に完璧な姉、ロザリアと比較され、両親からは「出来がいい方に家を継がせる」という「平等という名の放置」を受けて育つ……。
「……待って。この後の展開、知ってる」
このまま卑屈に過ごすと、数年後に学園で王子様と運命的な出会いを果たし、姉にネチネチといじめられながらも、最後には真実の愛で逆転(姉は破滅)する……。
「いや、面倒くさすぎるでしょ」
前世でサービス残業に追われていた私からすれば、王子との恋なんて「高リスク・高リターン」すぎて御免だ。王妃?無理無理、のんびり過ごしたい。
それよりも。
「お姉様、めちゃくちゃ苦労人じゃない……?」
この世界の姉・ロザリアは、両親の無関心に耐え、血の滲むような努力でフロート伯爵家を支えようとしているのだ。
ゲームでは「いじわるな悪役」だったけど、今の私から見れば、ただの「頑張りすぎて余裕がない超絶美少女」である。
「よし、決めた。ヒロイン、引退します」
私は、お姉様を全力で推し、伯爵家を継いでもらい、自分はその影で一生おこぼれを貰って生きる「プロの居候」を目指すことにした。
翌朝。食堂には、氷のような美貌を誇る姉、ロザリア様が座っていた。
「……あら、ルーナ。またそんなだらしない顔をして。頭をぶつけたと聞いたけれど、少しは脳みそが整理されたかしら?」
いつもの刺々しい言葉。
以前の私なら「お姉様はいいよね、何でもできて!」と泣き喚いていただろう。
だが、今の私は違う。
「お姉様……! おはようございます! 今日の朝食のドレス、その深い青色が瞳の色と完璧に調和していて、女神様かと思いました!」
「……は?」
ロザリア様がティーカップを持ったまま固まる。
「それから、昨夜も遅くまでお勉強されていたんですよね? 私が頭をぶつけたこともご存じなんですもの。お姉様が頑張ってくださるおかげで、このフロート家は安泰です。私、お姉様の妹で本当に幸せです!」
「な、な……何を言っているの!? 毒でも盛られたの!? それとも、またお父様にねだり事かしら。言っておくけれど、次女のあなたに……」
「いいえ! お父様にもお母様にも用はありません! 私は、お姉様に勉強を教えていただきたいんです!」
私は椅子を蹴らんばかりの勢いで立ち上がり、お姉様の手を握りしめた。
お姉様の手は、ペンだこができていて少し硬い。努力の結晶だ。尊い。
「私、気づいたんです。私みたいな凡人が一人で頑張っても無駄だって。だから、世界一優秀なお姉様に導いていただきたいんです! お姉様を尊敬しています、大好きです!」
「だ、だい……っ!? な、ななな……ッ!」
ロザリア様の白い頬が、一瞬でリンゴのように真っ赤に染まった。
彼女はバッと手を振り払うと、扇子で顔を隠しながら立ち上がる。
「……っ、勝手になさい! 放課後、私の図書室に来なさい! 根性ごと叩き直してあげますわ。……泣き言を言っても、絶対に逃がしませんからね、この馬鹿妹っ!!」
鋭いヒールの音を響かせ、お姉様は突き放すように食堂を去っていった。
その後ろ姿は、どこまでも冷徹で、付け入る隙など微塵も感じさせない。
……けれど、私は見逃さなかった。
去り際、一瞬だけ震えたお姉様の指先。そして、いつもの「蔑み」とは違う、何か未知の生物を追い払うような、あからさまな動揺を。
「……ふふ。お姉様、驚いていらしたわね」
私は、優雅にパンを口に運んだ。
これまで卑屈に部屋に引きこもっていた妹が、突然「尊敬しています」なんて言い出したのだ。
怪しまれて当然、警戒されて当然。
お姉様はきっと今頃、「ルーナは何を企んでいるのかしら」と、あの綺麗な眉間にシワを寄せて必死に考えているはず。
「いいわ、どんどん疑ってくださいお姉様。私は伯爵家の跡継ぎレースなんて、1ミリも興味ありませんから」
私はお姉様に嫌がられても、徹底的に「お姉様信者」を演じ抜く。
いや、事実なのだけど。
厳しい指導という名の「いじわる」をされても、それを全部「熱心な教育」と受け取って、笑顔で懐き倒してやるのだ。
……しかし、この時の私はまだ知らなかった。
この「懐き攻撃」の継続が、鉄の女と呼ばれたロザリアお姉様の理性を、とんでもない方向へ狂わせて(シスコン化させて)しまうことを。
※
その日の放課後。
私は約束通り、お姉様が占有している図書室の重い扉を叩いた。
「ルーナ・フロート、入ります!」
「……遅い。30秒も遅刻ですわよ」
部屋の中、大量の本に囲まれたデスクで、お姉様が冷たい眼鏡越しに私を射抜いた。
その机の上には、分厚い教科書の山。
「いい、ルーナ。あなたが本気で勉強を教わりたいと言うのなら、私は容赦しません。あなたが『お姉様なんて大嫌い!』と言って逃げ出すまで、徹底的にしごいてあげますわ」
お姉様の唇が、サディスティックに吊り上がる。
どうやら、厳しい指導で私を泣かせて、いつもの「卑屈な妹」に戻そうという作戦らしい。
(……望むところですお姉様! その厳しいお顔も、最高に凛々しくて素敵です!)
「はい! お姉様の厳しさは、私への愛の裏返しだと信じています! よろしくお願いします!」
「なっ……愛!? 何を……ッ、いいから座りなさい!!」
お姉様がペンを握る手に、ギギギ、と力が入る。
こうして、お姉様による「妹を屈服させるための教育(という名のデート)」が幕を開けた。
「……いい、ルーナ。あなたが『教えてほしい』なんて殊勝なことを言い出したんですもの。この程度の問題、解けて当然よね?」
図書室の机に叩きつけられたのは、魔導式の基礎計算……ではなく、高等部の最上級生が解くような、複雑怪奇な応用問題の束だった。
お姉様、ロザリア様は、優雅に組んだ脚を組み替え、冷ややかな笑みを浮かべている。
「制限時間は一時間。一問でも間違えたら、今日の夕食は抜きですわ。……さあ、いつものように『お姉様はいじわるだわ!』と泣きながら逃げ出したらどうかしら?」
お姉様の作戦は明白だ。
わざと理不尽な難問を押し付け、私のプライドをズタズタにして、早々にギブアップさせること。
そして「やっぱりあなたは無能ね」と吐き捨てて、元の歪な姉妹関係に戻そうとしているのだ。
けれど、残念でした。
前世でブラック企業の過酷なノルマをこなしてきた私にとって、これくらいの「嫌がらせ」は、上司の説教より100倍マシである。
「わかりました、お姉様! 私のために、こんなにやりがいのある問題を用意してくださるなんて……。お姉様は、私の限界を引き出そうとしてくださっているのですね!」
「……は? 嫌がらせだって言っているでしょうが」
「いいえ、これは愛の鞭です! 見ていてください、お姉様の期待に応えてみせます!」
私は鼻息荒くペンを握った。
幸い、魔導式のロジックは前世のプログラミングや数学の知識が応用できる。
(……これ、こうして、ここを代入すれば……いける!)
ガリガリと音を立ててペンを走らせる私を、お姉様は信じられないものを見るような目で見つめている。
沈黙の図書室。聞こえるのは私のペン音と、お姉様がイライラと扇子を弄ぶ音だけ。
「……できた! お姉様、採点をお願いします!」
一時間きっかり。私は全問回答したシートを差し出した。
お姉様はフンと鼻を鳴らし、赤いペンを手に取る。
「……どうせデタラメでしょうけれど。……あら?」
お姉様の顔色が、みるみる変わっていく。
最初は「あら探し」をしようとしていた目が、次第に驚愕に、そして最後には……戦慄に近いものへと変わった。
「……正解。しかも、この解法……教科書には載っていない、最短の式ですわ。……ルーナ、あなた、一体……」
「お姉様! 私、お姉様に褒められたくて必死に考えました! お姉様の教え方が——あ、いえ、お姉様がそばにいてくださる『圧』のおかげで、脳が活性化したみたいです!」
「……褒めてなんていませんわ! ただの、まぐれよ!」
お姉様はガタッと椅子を引いて立ち上がった。
計算外だったのだろう。無能だと思っていた妹が、自分の「いじわる」を軽々と乗り越え、あろうことかキラキラした目で自分を見つめてくるのだから。
「……今日はここまでですわ! 明日はもっと難しい、地獄のような問題を用意しますから、覚悟しておきなさい!」
「はいっ! 明日もお姉様に会えるのを楽しみにしています!」
「……っ!!」
お姉様は、まるで熱い鉄板に触れたかのように肩を跳ねさせると、バサバサとドレスをなびかせて図書室を飛び出していった。
扉が閉まる直前。
「……なんなの、あの子……気持ち悪い……」という呟きが聞こえたけれど。
(お姉様、声が震えてますよ。それに、採点したシートに、小さく『良』って書きかけて消しましたよね? 見てましたよ!)
私は、お姉様が座っていた椅子の残り香を胸いっぱいに吸い込みながら(ちょっと変質者っぽいけど背に腹は変えられない)、勝利のガッツポーズを決めた。
伯爵家の跡継ぎ? 攻略対象の王子?
そんなものより、お姉様の「困り顔」の方が、100倍価値がある。
※
学園の昼休み。
私が中庭のベンチで、お姉様に宿題として出された「古代魔導語」の解読に苦戦していると、頭上から影が落ちてきた。
「……ルーナ? お前、またそんな難しそうな本読んで……。どうせわからないって泣き出すんだろ?」
呆れたような、でもどこか世話焼きな声。
顔を上げると、そこには見覚えのある、見事な金髪を少し崩した少年が立っていた。
レオ・マルティネス。
王国でも指折りの大商会の息子で、私の幼馴染だ。
前世の記憶を思い出す前の卑屈だった私は、何かと彼に泣きついては、勉強を教えてもらったり、お菓子を貢いでもらったりしていた気がする。
「ああ、レオ。久しぶりね」
私が淡々と返すと、レオは意外そうな顔をしてベンチに腰掛けた。
「……なんだ、随分と落ち着いてるな。いつもなら『レオ、これ解けないのぉ!』って泣きついてくる癖に。頭をぶつけてから、少しはマシになったって噂は本当みたいだな」
「ええ、おかげさまで。今は、世界一優秀な家庭教師(お姉様)にしごかれているから、あなたに頼る必要はなくなったわ」
私が胸を張って言うと、レオは複雑そうな顔で私の手元にある本を覗き込んだ。
「……古代魔導語か。これ、高等部の範囲だろ。フロート伯爵家の『鉄の女』も、無茶な宿題を出すな。お前、これ解けたら俺が何でも奢ってやるよ」
レオは、以前のように私を「無能な妹」として扱い、少しからかうような笑みを浮かべた。彼の商会の利益になるような、何か特別な「弱み」でも握ろうという計算も見え隠れする。
(……ふん。商人の息子らしいわね。でも、今の私は、お姉様の愛(鞭)を受けているのよ!)
「あら、いいわね。じゃあ、マルティネス商会が次に入荷する予定の、最高級シルクの寝具を一式、お姉様へのプレゼントとして用意してちょうだい。これ、もう解き終わっているから」
「……は?」
私は、すでに古代語の解読が完了し、完璧な模範解答が書き込まれたノートをレオの目の前に突きつけた。
レオはノートと私の顔を交互に見て、目を丸くした。
「……マジかよ。お前、本当にルーナか? こんな正確な解読、教師レベルだぞ。一体、どうやったらこんな短期間で……」
「言ったでしょう? お姉様のご指導のおかげよ。お姉様が私のために夜通し作ってくださった教材(嫌がらせの難問)を解いていたら、自然と身についたわ!」
私が満面の笑みでお姉様の素晴らしさを語り始めた、その時。
ベンチの後方から、凍りつくような冷気が漂ってきた。
「……随分と楽しそうですわね、ルーナ」
「「っ!?」」
振り返ると、そこには腕を組み、氷の女王のような笑みを浮かべたロザリアお姉様が立っていた。
その視線は、私……ではなく、私の隣に座るレオを、親の敵のように睨みつけている。
「ロ、ロザリア様……!」
レオが慌てて立ち上がり、最敬礼をする。
フロート伯爵家の次期家元(予定)であり、学園一の才女であるお姉様の「圧」は、大商会の息子といえど無視できない。
「……マルティネス商会の息子さん。我が妹が、お見苦しいところをお見せしたかしら? くだらない幼馴染の情で、彼女の勉強の邪魔をしないでいただけること?」
お姉様の言葉は丁寧だが、その声は完全にキレている。
なぜか、私のノートを持ったままのレオの手を、扇子でパシッと弾き飛ばした。
「い、いえ! そんなつもりでは……。ルーナが古代魔導語を完璧に解いていたので、驚いていただけです」
「……完璧に? あら、そう」
お姉様は、私のノートを奪い取ると、パラパラと中身を確認した。
そして、フンと鼻を鳴らす。
「……まだまだですわね。こんな基礎的な問題で浮かれているなんて。ルーナ、今すぐ私の研究室に来なさい。古代魔導語の『例外」について、徹底的に講義してあげますわ」
お姉様は私の腕を掴むと、レオに一瞥もくれず、強引に歩き出した。
(お姉様……! 講義という名の、二人きりの時間! 最高です! でも、お姉様、さっきレオを睨んでいた時、なんだか……すごく怖かったような?)
引きずられていく私の背後で、レオが「……あいつ、本当に変わったな。っていうか、ロザリア様のあれ……」と、呆然と呟いているのが聞こえた。
お姉様の「デレ」はまだ先。
けれど、妹が自分以外の男と親しくしていることへの、理屈を超えた「イライラ(独占欲)」が、少しずつ芽生え始めているフロート家の昼下がりであった。
※
数日後の放課後。フロート伯爵家の玄関ホールには、山のような荷物が届けられていた。
送り主の札には、金文字で『マルティネス商会』と輝いている。
「……何ですの、これは」
帰宅したロザリアお姉様が、氷のような声で執事に問いかけた。
中身は、レオに約束させた「最高級シルクの寝具一式」だ。
「さあ、お姉様! 開けてください! 例の古代魔導語の賭けで、レオから勝ち取った戦利品ですわ!」
私が意気揚々と箱を開けると、中から真珠のような光沢を放つ、とろけるような肌触りのシーツと枕カバーが現れた。
「……ルーナ。あなた、あのような商人の倅と、このような破廉恥な贈り物をやり取りしているのですか?」
お姉様の額に、ピキリと青筋が浮かぶ。
「破廉恥!? いえ、ただの賭けの配当です。あ、このシルク、保湿効果も高くてお肌にいいらしいですよ!」
「お黙りなさい! フロート家の令嬢が、婚約者でもない男から寝具を受け取るなんて……! 万が一、あのような下俗な男の気が混じったものに、あなたの肌が触れるなど……わたくしが許しませんわ!」
お姉様は扇子をバサリと広げ、獲物を狙う鷹のような目で荷物を睨みつけた。
「今すぐ返品なさい! さもなくば、今ここで私が焼き払ってあげますわ!」
「ええっ!? そんな、せっかくお姉様にぴったりだと思って選んだのに……」
私はわざとらしく肩を落とし、潤んだ瞳でお姉様を見上げた。
さあ、ここからが本番だ。
「……私に?」
お姉様の動きが止まる。
「はい。お姉様、最近は私の勉強を見てくださるために、夜遅くまで起きていらっしゃるでしょう? 少しでも質の良い睡眠をとっていただきたくて。それに……」
私はお姉様のドレスの袖を、指先でちょん、とつまんだ。
「これ、すごく大きいサイズなんです。……お姉様のベッドにこれを敷いて、たまには私も一緒に使いたいなって。お姉様の隣なら、私、もっと勉強頑張れる気がするんです!」
「…………え?」
お姉様が、石像のように固まった。
「お姉様と一緒に寝れば、寝言でも古代魔導語の復習ができますし! それに、お姉様のいい香りに包まれて眠るのが、今の私の夢なんです!たまにでいいので、ご褒美ください!」
「………………」
お姉様の顔が、みるみるうちに変化していく。
青白い怒りはどこかへ消え去り、代わりに耳の先まで、火傷しそうなほど真っ赤に染まっていく。
「な、……ななな、何を……何を、破廉恥な……っ!!」
「嫌ですか……? レオから届いたのがお気に召さないなら、捨ててもいいです。でも、お姉様と一緒に寝たいっていう私の気持ちは、本当なんです」
私が追い打ちをかけるように、上目遣いで「しゅん」として見せると。
お姉様は震える手でシーツをひっ掴み、顔を半分隠しながら叫んだ。
「……っ、捨てませんわよ! 返品する手間が惜しいだけですわ! それに、こんなものに私の妹をたぶらかされては、フロート家の名折れですもの!」
「じゃあ……!」
「……ただし! 私の寝室に来る時は、三回お風呂に入って身を清めてから来なさい! あと、寝る前の復習は一時間……いえ、二時間やりますからね!!」
そう言って、お姉様はシーツを抱えたまま、ものすごい速さで階段を駆け上がっていった。
……抱きしめているシーツの感触を、なんだか確かめるようにギュッとしていたのを、私は見逃さなかったけれど。
(作戦成功。これで合法的にお姉さまの部屋に侵入権できるわ!)
私は、背後で執事が「……お嬢様方が、あんなに仲睦まじいなんて……」と涙を拭っているのを横目に、勝利のステップで自分の部屋へ向かった。
一方、自室に飛び込んだロザリアお姉様は。
「……一緒に? 私と? ルーナが……?」と呟きながら、ベッドの上で悶絶していたという。
※
学園の放課後。図書室の片隅で、私はレオと向かい合っていた。
お姉様との「添い寝勉強会」のために予習をしていた私に、レオがまた茶化すように話しかけてきたのが運の尽きだ。
「……おいルーナ、またその難しい顔か? ほら、そこ。魔力の循環式の計算、間違ってるぞ。貸してみろ、俺が教えてやるから」
レオが自信満々に手を伸ばしてきた。
以前の私なら「えへへ、ありがとうレオ!」と頼り切っていただろう。
だが、今の私は「ロザリアお姉様の直弟子」である。
「……あら、レオ。そこは間違っていないわ。むしろ、あなたのその古い公式の方が問題ね」
「は? 何言って……」
私はスッとペンを取り、レオのノートの余白に、お姉様から直伝された「最新の短縮魔導式」を書き殴った。
「見て。この項を代入すれば、計算量は三割減るわ。マルティネス商会で魔導具を扱うなら、この効率化は必須じゃないかしら? ……あら、もしかして、商人の息子なのに最新のトレンドも追えていないの?」
「っ……!? な、なんだこれ、見たことないぞ。……え、待て。これ、マジで計算が合う……。ルーナ、お前、どうやって……」
「お姉様に叩き込まれたのよ。お姉様の教え方は、あなたの100倍論理的で、10倍厳しいんだから」
私はフフンと鼻を鳴らした。
レオは顔を真っ赤にして、ノートを凝視している。
「……くそっ。お前に教わるなんて、なんか調子狂うな。……なぁ、ここはどうなってるんだ? この変換の理由を教えろよ」
「いいわよ。特別に教えてあげる。お姉様のメソッドは、まず基礎の魔力波形を理解することから始まるの。いい、レオ? よく聞いて……」
私がレオの隣に身を乗り出し、ノートを指差して解説を始めた、その時だった。
「…………あら」
背後から、凍りつくような、それでいて地響きのような「冷気」が室内に充満した。
振り返るまでもない。この、背筋がゾクゾクするほど完成された殺気は……。
「……ルーナ。わたくしの課題が終わったからといって、そのような……『不潔な男』に、わたくし直伝の秘術を垂れ流しているのですか?」
入り口には、本を一冊胸に抱いたロザリアお姉様が、般若のような微笑を浮かべて立っていた。
「お、お姉様! 違うんです、レオがどうしても教えてほしいと言うから、お姉様の素晴らしさを布教していただけで……!」
「布教……? ほう、そうですの。ですが、わたくしがあなたに教えたのは、あくまで『フロート家の次期当主の補助』としての知識ですわ。それを、どこの馬の骨ともしれない商人の息子に……安売りするなど……」
お姉様の目が、ギラリとレオを射抜いた。
レオはあまりの恐怖に、「ひっ……!」と短い悲鳴を上げて椅子を引く。
「……ルーナ。今すぐその男から離れなさい。不浄です。知識が汚染されますわ。……マルティネスさん、我が妹に無断で講義を強要した罪、後で商会との取引条件に反映させていただきますわね?」
「ええっ!? そんな、俺はただ……!」
「……立ち去りなさい」
お姉様の一言で、レオは尻尾を巻いて逃げ出した。
嵐の去った図書室。お姉様は私の向かいに座る前に、レオがいた椅子を、ハンカチで執拗に拭き始めた。
「……お姉様、怒ってます?」
私が恐る恐る尋ねると、お姉様は拭く手を止め、私をぐいっと自分の方へ引き寄せた。
「……当たり前でしょう。……ルーナ、あなたはわたくしの妹なのです。わたくしの教えを、他の誰かに向けるなんて……許しませんわ」
お姉様の声が、少しだけ震えている。
それは怒りというより、まるで「一番のおもちゃを取られそうになった子供」のような、ひどく純粋で、ひどく重い……独占欲だった。
「……わかったら、今日はもう帰りましょう。今夜の復習は……三時間に増やしますからね」
(お姉様……! これはもしや独占欲ですか!?)
私は、お姉様の腕にぎゅっと抱きつきながら、心の中でレオに感謝した。
「レオ、いい仕事したわ。最高級シルクのシーツで、今夜はお姉様をじっくり堪能させてもらうわね」
※
学園の卒業式。それはフロート伯爵家にとって、次期当主が指名される運命の日でもあった。
この家の豪華絢爛なホールの中央、無関心を装いつつも「結果」だけを求める両親の前に、私とロザリアお姉様は並んで立っていた。
「さて、ロザリア、ルーナ。二人の成績、魔導の実技、そして学園での評価……。甲乙つけがたいほど、二人とも立派に成長した。……どちらか一人が、このフロート家を継ぐ。選ぶのは私ではない。お前たち自身だ」
父様の言葉に、会場が静まり返る。
かつての「無能な妹」だった私は、今や学園の上位ランカー。一方、お姉様は不動の首席。
お姉様が、緊張で指先を震わせながら口を開こうとした――その瞬間、私は一歩前に出た。
「お父様、お母様。答えは決まっています。フロート家を継ぐのは、世界で最も気高く、美しく、努力の天才であるロザリアお姉様以外にあり得ません!」
私の断言に、周囲がざわつく。お姉様が驚愕の表情で私を見た。
「ルーナ……!? あなた、何を……。あなたの成績なら、私が退けばあなたが継げるのよ? なぜ……」
「お姉様。私は、お姉様が伯爵としてこの国を導く姿を、一番近くで支えたいんです。……いいえ、支えるという名目で、一生お姉様に養っていただきたいんです!」
私は堂々と、全参列者の前で「プロの居候宣言」をぶち上げた。
「私はお姉様の影となり、お姉様の身の回りのお世話をし、夜はお姉様の安眠を守る(添い寝する)……。それが私の幸せです! 爵位も、名誉も、ついでに寄ってきた王子様たちも、全部お姉様に差し上げます!」
「……っ!!」
お姉様の顔が、かつてないほど真っ赤に染まった。怒りか、羞恥か、それとも――。
「……ふん。相変わらず、とんでもない馬鹿妹ね」
お姉様は扇子で口元を隠したが、その瞳には熱い情熱が宿っていた。彼女は両親に向き直り、凛とした声で告げた。
「お父様。認めますわ。このルーナは、私がいなければ一日も生きていけない無能な子です。……ですから、わたくしがフロート家を継ぎ、この子を一生、私の手元で飼い殺してあげますわ!」
「……商談成立ね、お姉様!」
こうして、フロート家の跡継ぎ問題は、お姉様の「執着」と私の「依存」という名の最強の絆で決着がついた。
【エピローグ】
学園卒業から数年。フロート伯爵家には、二つの大きな幸せが舞い込んでいた。
お姉様の「完璧な」結婚
まず、次期当主であるロザリアお姉様が選んだ伴侶は、隣国の公爵家の次男にして、魔導騎士団の若きエースだった。
「わたくしの仕事の邪魔をせず、かつ、ルーナに指一本触れない誠実な男」という、お姉様の過酷な条件をすべてクリアした超ハイスペックな旦那様だ。
「……ルーナ。わたくしが結婚したからといって、調子に乗ってはいけませんわよ。あの小倅があなたを泣かせるようなことがあれば、わたくしが騎士団を動かしてマルティネス商会を潰しますからね」
花嫁衣装を着てなお、妹への独占欲を隠さないお姉様に、隣に立つ公爵令息は苦笑いしている。
そして、私——ルーナは。
結局、あのレオと結婚することになった。
お姉様からの「毎日、ルーナの行動を報告すること」「フロート家のすぐ隣に屋敷を構えること」「シルクのシーツは一生マルティネス商会が献上すること」という、もはや呪いのような契約書にサインさせられたレオ。
「……なぁルーナ。お前のお姉様、昨日の夜も『新婚旅行の行き先は私が決める』って怒鳴り込んできたんだけど……俺たち、本当に二人きりになれる日って来るのか?」
式場の片隅で、レオが遠い目をしながら私に囁く。
「いいじゃない、レオ。それだけ私がお姉様に愛されてるってことよ。……あ、お姉様! 今、レオが『お姉様のアドバイスが最高だ』って褒めてましたよ!」
「……っ! 別に、褒められたくて言っているわけではありませんわ! ルーナ、そっちへ行きなさい、ドレスが汚れます!」
すぐに飛んでくるお姉様。
私はレオの手を引きながら、お姉様の腕の中に飛び込んだ。
私は伯爵家を継がず、攻略対象の王子様とも結ばれなかった。
でも、前世の記憶を頼りに手に入れたのは、大好きな旦那様と、それ以上に私を溺愛して離してくれない、最高に「いじわるで優しい」お姉様との賑やかな毎日。
「さあ、レオ。お姉様と一緒に、披露宴の打ち合わせの続きをしましょう?」
「……ああ、わかったよ。お姉様(義姉さん)には逆らえないしな」
私たちの幸せな悲鳴は、今日もフロート伯爵家に響き渡っている。
『前世を思い出したら乙女ゲームのヒロインだった件。』—— 完
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