1.異世界転移者収容所
「初めまして、青野鋼くん」
目を覚ますと、男性の透き通った声が聞こえた。部屋の壁がそのゆったりとした声を反響させて、鮮明に声が聞き取れた。
その声は真正面ではなく、上から下に壁にあたりながらも乱反射のように屈折して耳元に届いたように感じた。
もしかすると、自分と相手の男性との間には高低差のある何かが立っているのかもしれないと鋼は推測する。
聴覚がいつもより鋭利に働いている反面、目隠しをさせられ視界は真っ暗なままだ。ストライキを決め込んだ視覚のせいで、鉱は自分がどのような空間にいるのか分からなかった。
ただ、木製のサイズの大きい椅子に座らされて、手は椅子に結び付けられ布でキツく閉められている。さながらてと椅子は運命共同体だった。凸凹のない床に足をつけ、そのツルツルとした床の感触を足を擦ることで感じていた。大理石の床だろうか。靴の踵で軽くつくと、小さな音とともに硬化ガラスのような独特な厚みと奥行きを感じた。
空気は透き通っていた。除湿がかかった部屋のように濁りというものを感じない。ニオイも無臭だった。
外部からは一切の音が入ってこない。不気味な空間だった。
「こんにちは」
空間の広さが分からないので、遠くまで聞こえるよう少し大きな声量で挨拶を返した。
拉致監禁のような行為をされている相手のでさえ、鋼は何気ない近所のおじさんへの挨拶のように自然に返事を返した。
相手から返答はなかった。この状況で挨拶を返したことに困惑しているのか、面倒だから無視しているのか、または他の理由かは分からない。挨拶は片道切符だったようだ。
「君は、なぜ自分が拘束されているか分かるかい」
若干間を置いて、男性は諭すようなにそう問いかけた。その透き通った低音の声には包容力があった。不思議と畏怖を感じてしまう。
「全裸で海水浴にいたからですか?」
「それは違う」
即答だった。
「では、なんででしょうか?」
訳の分からないと言った様子で鋼は尋ねた。鋼は本当に検討がつかなかった。海水浴で全裸になったこと以外に何か不当に扱われる理由があっただろうか。いや、ない。警察のお世話になったのはその一回だけ。未成年飲酒もタバコもやっていない。高校は中退したけどそれは罪にはならないはずだ。
鋼は相手の男性と面識がある可能性を考えたが、声の雰囲気から感じ取れる慇懃な性格の知り合いに心当たりはなかった。むしろ鋼には、能天気な者や九九の三の段でリタイヤするくらい阿呆な友達が多かった。
そうなると男性は知らない男であり、この状況に説明を与えてくれるような記憶は脳に保管されていない。
「黙秘を決め込んでいるようだね」
「警察のお世話になるようなことをした覚えはないです」
当然、全裸で湘南の海水浴を謳歌していたことは抜きにしてだ。とはいえあれは悪意のない事故に過ぎない。異世界から質量を持ったものを持ち出せなかったため、転移後に全裸だったに過ぎない。
ピントのズレたような回答に、男は鋼が知らないフリを決め込んでいると判断した。「覚えはあるだろう。随分長いこと留守にしていたみたいだしね」と確信を持って話し始めた。
「理由は一つ、君が異世界から帰ってきたからだよ」
「え」
鋼は思わず声に出してそう言った。それは予想していなかった回答だった。射程範囲外から銃殺されるような想定外が鋼を驚かせる。
鋼が異世界に行ったのは事実だ。だがそのことを他言するつもりはないし、誰かに言ったわけでもない。まだ帰ってきて半日も経っていないのだから誰かに話す暇さえなかった。
にもかかわらず、相手の男は異世界から帰ってきたことを知っていた。鎌をかけているようには感じない。確信に満ちた口ぶりで断言する。ただ公然の事実を証言させる作業のような口ぶりだった。
「異世界に行ったことは否定しないね?」
その声からは非難の表情は読み取れなかった。まるで些細な約束を破った子供に優しく問い詰める親のように包よう力があった。
鋼は返答に迷った。男からは敵意を感じない。嘘をついて痛めつけられることはないだろう。服を身に着るように優しさを身に纏っている。
その感覚を信じていいのか?鋼は自問した。視界が遮られているから親しみを覚えるだけではないのだろうか。声という聴覚情報だけを頼りに判断していいものなのか。
鋼はおそらく阿呆な分類に入る人間だった。それを本人も自覚していた。
異世界では頭の弱さが原因で痛い目を見た。だが、猿でも学習する。阿呆でも人間ならば学習をして同じ間違いを繰り返さないように努める。
鋼は考え至った。拘束され目は塞がれているこの状況に追い込んだ張本人を、優しい口調で敵意を感じないからと信用していいのだろうか?
監禁のような真似をしておいて、物腰が柔らかいは不自然じゃないだろうか。むしろヤクザの如く脅迫してくれた方が納得がいく。
ひょっとするとやばい人間なのではないかと鋼は想像した。
「俺は違う世界に行った」
鋼は正直に答えた。嘘をついた方が恐ろしいと判断したからだ。それに質問の形式で指摘された時点で隠し通すことはできない。いうならばそう、詰んでいるのだ。
「よろしい。目隠しを外していいよ」
男がそういうと、後ろから足音が聞こえた。3mほど離れたところから足音が始める。
ブーツに靴が床につくと音が反響した。床は大理石か何かでできているでだろうか。
足音は男性のものだった。一歩一歩が重々しく、訓練を積まされたと感じさせる洗練さがあった。
その足跡が徐々に迫ってくる間、鋼は心の中ではビクビクしていた。猛獣に睨まれているかのような本能的な恐怖を察知した。
鋼は強者の気配に敏感だった。頭が良くないピースを補うように人より優れた野生の勘を持っている。その勘が救急車のサイレントのように危険信号を大音量で鳴らしている。それを無視するわけにはいかなかった。
男は鋼のすぐ目の前で止まった。目の前に鎌倉の大仏が建っていると錯覚してしまうような威圧感があった。敵意は感じない。男が持つ威圧感は目や鼻のような形が決まった体の部位のように、常時身に纏っていて取り外すことのできないものなのだろう。
「少し触れるぞ」
男はそう言って確認をとった。律儀な性格だなと感じる。さながら心優しきモンスターだ。
鋼は頷いてokサインを出した。男はゆっくりと鋼の体に触れる。くすぐったさはなかった。
大きな手だった。日本人離れしている。
男は手慣れた仕草で目隠しをとった。
鋼が目隠しをとって最初に見えた景色は、大きな大胸筋だった。看板の道案内なんかよりも幾分も分かりやすく服の上から大胸筋のラインが線を結んで透けて見えた。胸は筋肉で縦横に引き締まっており、鉛よりも硬いんじゃないかと思った。
予想通り、男は高身長だった。2m20cmはある。鋼の身長が175cmと平均より少しばかり高いが、男と並んだのならば小さく矮小な存在に見えることだろう。
髪はストレートの伸ばしタンクトップを着ていた。サイズが合っていないのかピチピチで、柔軟性の高いタンクトップが破けるんじゃないかと心配になるほどだった。
筋肉は全ての部位がどこも怠ることなく発達している。肩幅は長く、腕についた上腕二頭筋は小顔アイドルの顔くらい大きかった。
顔立ちは好青年そのもので、可もなく不可もなく悪い点は見当たらなかった。清潔感があり、眉毛も髭もきちんと整えられていた。これぞ日本人といった顔だ。
だが道ゆく人が男を見かけても、そのまん丸な頭にも、中立的な顔にも視線は向かない。その身長と体格の良さに目を奪われる。2mを超えた筋肉マッチョは歩く兵器のようなものだ。肩が当たったら吹き飛ばされるのではないだろうか。
(……このマッチョ、強いな。それも恐ろしく)
鋼は瞳を持って男を捉え直して改めてその強さを太陽を浴びるように肌で感じた。
男を表すのなら、修羅の一言が最適だ。どんな災害もものともしない家屋、絶対に崩れない要塞、アントニオ・ガウディが絶賛するような完璧に最も近い設計がその男だった。
男の身体は一つの神秘だった。限界近くまで鍛えられたその筋肉の形状もそうだが、そこには確かな実力も含まれていた。
恐ろしく強い。男は素手においての極致に、人間が立つことのできる最高到達点に存在していると鋼は確信した。
「気分はいかがかな?」
リーダーと思われる透き通った声の男がそう言った。その男の語りかけに呼応するように、マッチョの男は鋼の視界からそれた。
鋼は返答しない。代わりに目を動かしてぐるっと辺りを見渡す。
この場には、リーダーの男とマッチョの男の二人だけしかいなかった。
鋼が座らされていたのは一つの劇場だった。劇場の中心に丸型のステージが設置されており、その周りを囲むようにグルッと観客席が並べられている。観客席は円を描き、階段上に高くなっている。
構造はさながら古代ギリシアの円形劇場だった。だがこの円形劇場は室内にあった。天井は高く、中央に向けてわずかな緩急があった。天井には壁画が描かれており、エデンの園を連想させる大きな木のみと二人の男女、そして藪の中に身を潜める蛇の姿があった。
壁は黒一色に統一されており、鋼の背後には錆いたグランドピアノが設置されている。
薄暗い部屋の明かりがその諸行無常を強調していた。
リーダーの男は、観客席の真ん中の列、鋼の椅子が向いた真正面に座っていた。
男は背丈は180cmあった。肩幅が広いがマッチョの男のような筋肉やたくましさは感じられなかった。いかにも知的と言った感じだ。髪は耳までかかっており、少し長かった。スーツを着こなし、ネクタイを胸元にしっかりと結び、足を組んで鋼を見下ろしていた。
足が長く顔が小さくて、モデルのようなスタイルをしている。特徴的なのはその瞳の色で、真紅の眼差しを持っていた。深い赤は奥に行けば紫を感じさせる。美しい瞳だった。
鋼はそのリーダーの男が強いかどうか判断ができなかった。マッチョの男のような絶対的な強者の域を感じはしない。だが侮るわけにはいかない違和感があった。漠然と感じ取れる強さ、その未知数のパンドラボックスの真実はわからない。
「この縄、解いてもらえませんか?」
気分はいかが、という問に対する鋼は要求を返した。
「それはできない。それを取った途端、人畜無害を思わせる君が急変して暴れ出すかもしれない」
「あなた達二人がいて、俺が抵抗すると思いますか?」
リーダーの男は一瞬黙り込むと、不敵に笑みを浮かべた。面白い昆虫を見つけいじめる子供のように、道端で陰謀論を唱える中年の男を嘲笑うように、その笑みには愉悦と憐憫が含まれていた。鋼は太陽光を浴びるようにその笑みを全身で受けた。
「君には、僕たちを相手取る勇気はないようだ」
「ないです。俺は、たぶん挑めば殺されるでしょう」
鋼は当然といった様子でそう言った。二人は早朝の閑散とした商店街のように、戦闘体制を深く閉ざしている。だが、その閉ざされたシャッターが鍵一つで容易に開くように、二人は奥底に潜めた武の力を必要となれば瞬きするより短い時間で完了するだろう。鋼にだってそのくらいは分かった。
「蛮勇ではないようだね。結果として、ここで煽りに乗らないのは正解だよ。けど、変わらず縄は外せない」
「分かりました。受け入れます」
一度跳ね返された要求を二度もするのは無礼だろう。鋼は諦めてこの堅苦しい状況で妥協した。
「掴めない子だね。一つ、質問をしてもいいかな。異世界は楽しかった?」
リーダーの男は人差し指を立てて1の形を作り、鋼に尋ねた。
これ、試されてるな……
なんて鋼が勘づくことはできなかった。気付かぬうちに、返答次第によって大きく運命が変わる別れ道が敷衍されていたことが脳裏によぎることはない。
鋼は意図を汲み取ろうともせず、反射的に即答した。
「楽しかったかもしれません。でも、人肌が恋しくなりました」
鋼は自分でも分からない様子でそう言った。
リーダーの男は驚愕と興奮が入り混じった笑みを浮かべた。口角が不自然に上がった、下手な作り笑いのような顔だった。
「君、面白いね。どうかな青野鋼くん、君さえ良ければ僕たちと組まないか?」
そう言うと、リーダーの男は前の客席に肘をついて手のひらにその顔を沈めた。
「おい燼、本気か?」
ハリボテかはたまた銅像か、姿勢を一定に保ったまま終始無言を貫いていたマッチョの男がリーダーの男(おそらく燼というのが本名なのだろう)にそう言う。
二人は、リーダーと従順な手下のような関係と鋼は勝手ながら推測していたが違うようだ。
「本気だよ。青野鋼みたいな人間は貴重だ」
訳が分からないが、鋼はリーダーのお気に召したようだった。
鋼のとっては内容の一部分すら掴めていないが、話は進んでいく。
「お前がそう言うなら、俺は信じよう」
マッチョの男はそれだけ口にすると、また動かない銅像の役に徹した。
チラッと鋼のことを一瞥するが、それ以外は何事もなく気配を殺して黙り込む。
「というわけだ。どうかな僕たちの仲間になってくれないか?」
再び勧誘を受ける。
鋼はどうしたものかと頭を抱えた。とは言ってもそれはモノの例えで、手は南京錠のように固く縛られているのでただ頭を悩ませているだけだ。
どうしようか。昔、親友の勇ちゃんが言っていた。内容を全然話さないけど美味しい話は大体嘘だって。ってことは、この話も嘘なんじゃないか?
鋼はその狭隘な知識を振り絞って考えるが、彷彿とするのは友達が言っていた真偽の程が定かではない情報だけだった。そんなまゆつばな知識で判断するのは良くない。
というか、内容を全然話さないどころか、何も知らなくないか。乗っかることで得られる美味しい話すら伝えられてないし…
鋼はようやく一つの結論に至る。全貌があまりにも不透明すぎる。右から左、前横の全てが謎のままだ。リーダーの男が言っているのは、会社つくろうぜ、何の分野にするかも予算の見積もりも何もやってないけど一緒にやらない?そう言っているのと何ら変わりない。
よし、もっと詳しく質問しよう。
その思考に到達するまでおよそ30秒かかった。
「その、仲間になるっていうものの詳しい業務内容を教えていただきたいです」
まるでバイトの面接に来た慣れていない高校生のように鋼は慇懃な口調でそう言った。
鋼自身も、よそよそしい言い方をしてしまったなと感じた。だがリーダーの男の表情は変化していない。相変わらず高いところから見下ろしているだけだった。
「言えない。けど正しい行いだよ」
わずか1秒ほどの短い一瞬、リーダーの男は答えに詰まった。常に円滑な回答をしていたことでその遅延は顕著に見て取れた。
「ならお断りします」
鋼は迷うことなく即決した。
少ない知恵を振り絞らなくても分かる、怪しすぎる。
正しい行いと称した虐殺行為、善行を建前とする狂信、そういったものも正しさを持っている。ただその正しさが外部から見れば異常なだけ。
リーダーの男は理由は言えないと語る。そんなことに付き合うわけにはいかない。
「分かった。説明しよう。その前に一つ。確かめておかなければならないことがある」
「何ですか?」
「君の派鋼は?」
「派鋼?」
鋼は何のことかわからず首を傾げた。
「君の能力は、なに?」
鋼は驚愕した。能力のことを認知していると考えていなかった。
だが異世界の存在を知っているのなら能力について知っているのは当然と言える。鋼はそんな単純明快なことにさえ思考を及ばせることができなかった。
鋼はリーダーの男を刮目した。顕微鏡で微生物を凝視するようにまじまじと見つめる。
リーダーの男もマッチョに男も底知れない強さを感じる。
二人も自分とと同じような能力を持っているのは間違いない。ということはこの二人も異世界から帰ってきたってことなのか?
鋼は二人の素性に察しがつくと自分の趨勢を呪った。
異世界から帰還することに成功した鋼は、ある一つ、やらなければいけないことを遂行した後、心身ともに現実へと戻ろうと考えていた。
能力を乱用するつもりも、誰かに見せびらかすつもりもない。異世界のことについても墓まで持っていくつもりだった。誰も知ることにない秘密のまま保管することが、自分にとっても世界にとってもいいことだと考えていた。
その考えに中ではあくまで、あの世界に転移したのは自分一人だけしかいないという思い込みがあった。
鋼は浅はかだったと後悔する。自分一人だけが異世界に転移したなんて訳がない。ゴキブリが一匹いたら百匹いると言われるように、例外は一人いたならその次、また次にと続出するものなのだ。
いや、でも確かに異世界に来たのは、例外を除いて自分のみだと、向かうの住人は言っていた。鋼は自分の記憶を疑ったが、真偽は分からなかった。
なんであれ、すでにサイは投げられてしまった。後戻りはできない。後戻りしようともがいても前に進む荒波は自分よりもっと早く強く前進する。どんなにもがいても、後ろに戻ることはできない。
鋼は渋ったが、結局自分の能力を教えた。
「花を操れます」
鋼がそう言うと、リーダーの男は怪訝な表現を浮かべた。
「花を操る?具体的にはどんなことができる?」
リーダーの男は声のトーンを少し低くしてそう言った。期待はずれと考えているのが電波が流れるように伝わってきた。
鋼の能力は花を操るというものだった。なんであれ花であれば操ることができる。
だが元となる花が手元になければ操ることができない。手元または半径2m圏内にある花なら何でも操ることができる。世界一大きいと言われるラフレシアでも、1円玉より小さな花でも操ることができる。
鋼はその能力を見せることにした。あれこれ少ない語彙力で説明するより見てもらう方が早いと判断してのことだった。操るというには漠然とした表現であり、そのことでリーダーの男もどんなものかと疑心を抱いている。
いますぐ実演したいところだが鋼の手元には花がない。男二人しかいなくて違った意味でも花がない、なんて鋼は心の中で皮肉をつぶやいた。当然口に出すような真似はしない。
見たところ鋼が監禁されている劇場にも花らしきものは見当たらなかった。自然とは距離を置いた人工物の傑作に花は蛇足なのだろう、茶室に華奢が不要なように。
「何か花があれば実演できるのですが、ありますか?」
そういうと、リーダーとマッチョの男は顔を見合わせた。
「花であればなんでもいいの?」
リーダーの男が尋ねる。
「なんでも」
「なら、これを使ってくれ」
建立して様子を見守っていたマッチョの男が名乗りを上げる。
その大きな手からすれば少し矮小なポケットに手を入れる。手が大きいせいか、ポケットが小さいせいか定かではないが、親指が入っていなかった。マッチョの男は何かを手に取った。
マッチョの男は鋼の目の前に立つと手のひらを広げ、その中身を見せた。
「マックスマムだ。日課で栽培しているモノなんだが、朝水やりをしに行った時地面に落ちていてな。これでよければ使ってくれ」
鋼はマッチョが日課で花を育ていることに驚いた。花を愛でるなんて高尚な趣味はその鍛え抜かれた筋肉からは連想しにくい。ダンベルを手に持ちプロテインを飲んでいる姿なら容易に想像がつく。
差し出したマックスマムの花は、長時間ポケットに入れられてたことで平らになっていた。黄色い花弁は剥がれ落ちているが、色素はまだ失われていない。十分能力の対象内だった。
鋼は花の表情を感じ取ることができた。萎れたマックスマムの花から幸せな表情が感じ取れる。マッチョは我が子のように大事に花を育てられていた。
「僕の膝の上に置いてください」
そう言うとマッチョは優しく花を膝の上に置いた。
手に持った方が精度が高い。目に見ているだけと、手にとって肌に感じるのでは得られる感覚の量が違うように、手で花の実態を感じた方が想像が捗るというのが、その最たる理由だ。
鋼の手はキツく縛られており、使えそうにない。あまりやらないが、視覚だけで想像する。半径2m圏内にあるから能力発動条件は満たしている。
異世界とこちらでは大気の流れがまるで違う。地球と月の重力が違うように、力の流れの法則性が全く異なる。こっちは歪な流れ方だ。だが、確かに感じ取れる。
大丈夫、いける。流れは全然違うけど、原理は変わらない。
地上の豊富な魔力を体に流す。異世界に行くまでは知らなかった魔力の概念を今では鮮明に感じる。
日常の中で体の血液の循環を感じないように、当たり前のように存在していたのに気づけなかった。ケプラーの定理だって相対性理論だって法則としてずっと前から確立されていた。ただ気づかなかっただけだ。
『花園』
詠唱はない。鋼が口にした言葉にも必要性はない。義務というよりこだわりだった。無言で能力を発動するのはロマンがない。長ったらしい詠唱は時間効率が悪いからしない。ただちょっとした一言なら、あってもなくても変わらない。
鋼の言葉と同時に、膝の上に置いたマックスマムの花が10センチほど宙に浮く。風船や紙飛行機のように風に揺られ不規則に飛ぶのとは違い、ゆったりと真上に上昇した。
マックスマムの花は空中でピタリと停止すると、淡い光を放った。今から劇的なことが起こりますよと伝えているようだった。はたまた映画の予告のように、焦らしているだけかもしれない。鋼にもそこのところの原理は分からなかった。
マックスマムの発光は一瞬のことだった。誤作動かってくらいの短時間で光は止んだ。瞬く間のイルミネーションが終わると、マックスマムの花が地面から続々と咲いた。
垂らした水滴が中心から外側へ波紋を広げるように、鋼を中心としてマックスマムが花開く。
マックスマムは、マッチョが渡した黄色いものだけでなく、オレンジや赤、白といった色とりどりの花が咲いた。
鋼がいるステージ全体にマックスマムは広がっていった。土も肥料もない地面からマックスマムは生えた。開花した花が生えてきたわけでなく、種から始まり開花に至る前での生命の工程を一瞬でやってのけた。
促成栽培とはわけが違う。かといって遺伝子組み換えといった科学のなせる技でもない。
いうならばこれは魔法だった。幼児が空想した突拍子もない現象が起こった。
マックスマムの花の仄かな匂いがする。偽物ではない、本物の生命が立ち並んでいた。
マックスマムは鋼が座っている箇所とマッチョが立っているところを円形で囲むようにして避けた。それ以外のスペースに満遍なくマックスマムは花咲いた。ステージの上が一瞬にして花園となる。
「これは凄い」
マッチョの男が感服した様子でそう言った。目を見開いて幻想的な光景を刮目する。一面に広がるマックスマムみ恍惚としていた。マッチョの心は幼い頃に逆行していた。または純粋な美を愛でようとする大人の趣向なのかもしれない。どちらにせよ、要塞のようなマッチョに微かに隙が生まれた。それは鋼の目から見ても明らかだった。
「青野鋼、俺たちの仲間になれ」
マッチョは鋼にそう言った。花園はマッチョの心を改心させるに至った。
「ダメだ」
リーダーの男が反論する。リーダーからは横柄な態度は綺麗さっぱり無くなっていた。名探偵のように顎に手を当てて、上から鋼を睥睨する。何か熟考しているようだ。
「その理由を聞かせてくれ」
マッチョの男が尋ねる。
先程までと立場が逆転する。仲間にすることに疑念を抱いていたマッチョと、強く推奨していたリーダーの男という構図が、能力に魅了されて仲間にしたいマッチョと予想外の出来事に思い悩むリーダーの男という反対に対立した矢印の方向へと変化する。
鋼には何が何だかといった心境だった。
「能力が弱すぎる。花を操る派鋼が戦力になるとは到底思えない」
リーダーの男は階段からおり下のステージへと降りながら断言する。リーダーの男は怜悧だった。感情に任せず物事を必要性と合理性の天秤に乗せてはっきりと判断する。感情的な表現を用いても、大胆な行動をとっても、その根幹にあるのは状況判断に基づく機械的なプロセスにすぎない。
「さっきはお前が強く勧めてたじゃないか」
マッチョは不満そうにそう言った。
リーダーの男は下まで降りると、ステージの上に乗っかり鋼の方へと歩き出した。
ステージに咲いたマックスマムを悪びれもなく踏んで歩く。一回たりとも下を向くことはない。床に足をつけるのと同じようにマックスマムの花たちを踏んで前に進む。
マッチョは少し不快な様子を見せた。花を愛でる趣味を持つマッチョにはあまり心地の良い行為ではなかった。だが鋼は顔色ひとつ変えなかった。
(花踏まないと足場ないし)
鋼は極めて合理的な考え方をしていた。その考えには鋼なりの花への敬意がある。
花はどのような形であれいずれ枯れる。花を操る能力を持った鋼はその生成与奪の権利がある。花が無碍に扱われているのを見るたびに心を痛めていては、いずれ精神が廃れてしまう。
生まれてくる花の命にありったけの感謝を、枯れ絶命する花には無慈悲を
それが鋼の信条だった。花が踏まれようと燃やされようと、どんなぞんざいな扱いを受けても、鋼が気に病むことはない。
リーダーの男は鋼も前に立ち見下ろした。
「花を操る能力といったね。これが君の限界かい?たとえば、花には幻覚作用があるとか、そういった副次的な能力があったりしないの?」
「ないです。僕が作り出すのは一般的な花と同じものです。なんら特殊な個性はありません」
「そうか」
リーダの男はそう言うと、マッチョの方に視線をやった。
「これで分かったろ。青野鋼は戦力にならない。面白い男だと思ったが、肝心の派鋼がこれときた」
「花を咲かせるなんてロマンチックじゃないか」
「あいにくと、僕はリアリストだ。ロマンはまやかしにすぎない」
だがマッチョはピンときていなかった。頭の中で脈絡のピースがうまく組み合わず、理解ができていないようだ。
「てっきりロマンチストだと思っていたよ」
マッチョがそう言うと、リーダーの男は怪訝な顔をした。お前にはそう見えていたのか、残念だとでも言いたそうな顔だ。リーダーの男は嫌な顔をしたが、これ以上言及しなかった。すでに本筋から脱線している。これ以上逸れるわけにはいかない。
リーダーは二人をあまり知らない鋼をそっちのけにする気はない。あくまで青野鋼の処遇をどうするか、それが話の核である。
「青野鋼くん。君に期待していたが、見当違いだったようだ」
リーダーの男は残念そうにそう言った。いつもの唯我独尊を思わせる顔との微かな表情の差異から、残念そうに思っているのが嘘ではないと鋼には分かった。
だが鋼からしたら、訳もわからないまま勝手に期待して、やっぱ違ったわと自由に失望しているに過ぎない。仲間になるのは断固拒止していたので、話は一歩も前に進んでいない。就活の内定ではあるまいし、話が白紙に戻ったところで何ら支障はない。
「役に立てなかったようで申し訳ありません」
鋼が謝罪すると、リーダーはバツの悪そうな顔をした。思惑通りにことが進んでいなくて辟易しているような、居心地のわるそうな表情を浮かべる。
だが鋼にとっては好都合。訳のわからない案件に付き合わされるのは御免だった。やらなくていいなら、それに越したことはない。
「君は弱腰すぎる。今のは怒ってもいいところだ」
「でも、怒ったら殴ってきそうだし」
鋼がそう言うと、マッチョが思わず笑った。リーダーは吹き出したマッチョを睨むようにして見る。
「君は調子が狂うな。能力もそうだ。派鋼は発現者の人格と欲求を大きく投影する。君の花を操る派鋼は、闘いや優越を望まない君という人間の現れなんだろう」
「ああ、いい能力だよ」
リーダーの言葉に呼応してマッチョがそう言った。
「だがね、青野鋼くん。君が善良な人間であっても、君をこのまま帰すわけにはいかない。君が異世界に足を踏み入れ能力を手にしてこちらの世界に帰ってきた時点で、異邦人になってしまったんだよ。もう君は一般人が過ごすような普通の生活に戻ることはできない」
「え…」
鋼は初めて動揺して様子を見せた。大きく目を見開いてリーダーを見る。どう言うことだと目で問い詰める。
「ここは異世界帰還者収容所『リーサル』君にはここで一生を過ごすんだ」
「……一生?」
「君がこの収容所の外から出ることは叶わない」
鋼はリーダーの言葉を真摯に受け止めることができなかった。一生収容所で暮らさなければならない事実を簡単には呑み込めない。何度も繰り返して頭の中に染み込ませていく。
考えられない。鋼はまだ16歳だ、もっと知りたい景色や、青春の日々、経験したいことがたくさんある。
鋼が異世界に行ったのは自分の意思ではない。向こう側から呼ばれただけだ。こちらの世界とは異なる価値観、時代感、そして万物の法則性のズレは非常にいい経験だった。さながらハリウッド映画のワンシーンにいるような気分だ。
だがそれはあくまで仕方なく経験したにすぎず、一夏の冒険のようなものと鋼は捉えていた。思い出のアルバムの一ページだったはずの異世界転移が、アルバムそのものに置き換わろうとしている。
度し難いことだ。鋼は現実世界を謳歌していたし、これからも楽しんで、満足して死んでいくつもりだった。そこに自分だけにしか使えない異能はいらない。人と同じ尺度で生きたいと思っていた。だから花を操る魔法も基本的に誰かの目の届く場所で使う気はなかったし、無くなっても良いとさえ感じている。
知らず知らずのうちに、鋼には罪が乗っかっていた。重い十字架は日常に戻ることを許しはしない。
それに、済ませておきたい事が一つある。それだって悠長にしてる余裕はない。
「どうにか、できないのか」
震えた声で鋼はそう言った。
「どうにもできない。君はもう、常識の境界線の外側にいるんだよ」
リーダーの男は淡々と答えた。同じような状況で同じような言葉を放ったことがあるのだと分かった。それも何回も。きっとリーダーの男は何にも感じてはいない。
「なら、金輪際能力は使わないと誓う、だから」
鋼が声を荒げてそう言った。鋼の必死の訴えに二人は何も答えない。マッチョは腕組みをして見届けている。リーダーの男は顔色ひとつ変えず鋼を睥睨した。
「君の願望には答えられない。ただ、収容所内であれば、出来る限りの望みを叶えると約束しよう」
リーダーは意向を変えるつもりはないと鋼に伝える。収容所内であればできる限り望みを叶えるという言葉は鋼だけでなく誰にでも使っている常套句だ。鋼にだけ特別な計らいがあるわけではない。
鋼は顔面蒼白になった。言いたいことは山ほどあるが、うまく呂律が回らない。現実を直視できず、陸に上げられた魚のように目が泳いだ。目線の先は固定されているのに、視界はだんだんと遠のいていく。目に見える光景が大きなモニターのスクリーンで、階段上ではなく平行に移動するエスカレーターに乗って後ろへと下がっていくような感覚があった。
そのような経験は初めてではない。昔からの鋼の習性だった。取り返しのつかないミスや深い絶望に見舞われた時、鋼の意識は現実世界から離れた場所へと逃げてしまう。潜在的な意識の世界を隠れ蓑にして辛いことを忘れさせようとした。
だんだんと視界は狭くなっていく。四角いスクリーンはどんどん離れていき、わずかな光の粒へと変貌を遂げる。真っ暗な部屋に一人っきり。意識が遠のいているのではない。視界が遠のいていくのだ。自我は保てれている。金縛りの状態に近いのかもしれない。
鋼の正気ではない様子を感じ取ったリーダーの男はマッチョに何かを話かけた。聴覚は正常に作用されているはずだが、うまく聞き取れなかった。知らない星の言語か幻の一角中言葉のように、それはどこか発音が増長で機械的な音声に聞こえた。
直後、頭のあたりに激しい痛みが走った。何か重いもので殴られたような痛みだ。間違いなく攻撃された。それだけは鮮明に分かる。異世界で何度も味わった痛みの味なのだから、実家のカレーの味のように脳裏に蘇らせることができる。思わず大声で叫びたくなる。だが声は出なかった。
声を出すより先に身体が気絶した。脳から叫べ声を出せという本能に基づいた命令は門前払いされた。休日の郵便局がしまっているようなもので、悪意はない。
何はともあれ、青野鋼は気を失った。
青野鋼は深い眠りについた。はたまた不快眠りなのかもしれない。かつて自分が暮らしていたワンダーランドの記憶の一欠片を見た。
『異世界』と、会った者が口を揃えて呼ぶ。だが鋼の記憶にある世界は、魔王が世界を支配しているとか、安寧をはき違えた暴君が国を牛耳っているとかそんなロマン溢れる世界ではなかった。
異世界という言葉自体しっくりこない。ワンダーランドの方が合っていると考えられる。
鋼がいた世界は一日で一周できるくらいの面積しかなかった。
バチカン市国といい勝負ができる。とても閉鎖的な世界だ。田舎に人知れず存在する村くらいの人口しかいない。
鋼がその世界に来た直後は、聖書に出てくるエデンの園に足を踏み入れたのではないかと感じた。見渡す限りに平行な草原景色が広がっていた。ところどころに絞った雑巾のように捻れた木が生えていた。偶然だと思うが一定間隔を空けてそれは生えていた。
幅1m前後の小さな川が横を流れていて、その音が鮮明に聞こえた。他の音が静まり返っていたので、微かな音でも確かに聞き取れた。まるで川の音だけで世界中の音が成り立っているようだった。
人間の手から離れた自然の聖地がそこにはあった。だが鋼がどこかの自然保護区と勘違いすることはない。
そこは漠然としていた。世界が存在として不安定だったのだ。紙芝居の世界に迷い込んだようだった。空が青ではなく、薄いオレンジの色彩を帯びていた。霧にかかったように薄暗く、空気が重たかった。
青い空で、太陽の光を受けて輝く草原の姿とは似て非なるものだった。
俺の中で、どうやら不思議の国ならぬ、不思議な村にでも来てしまったようだと判別をした。
そこはあまりにも狭隘で、あまりにも前時代的だった。長いことそこにいれば何かとてつもない引力に吸い込まれ、毒されてしまうような恐怖と隣り合わせの日々だった。自分が自分ではなくなるような漠然とした警戒が常に促されていた。
あまりにも、不思議な世界だった。
目を覚ますと鋼はベンチに横になっていた。
天井はガラスがいくつも連なったような造りをしていたため、直射日光が一直線に入ってくる。
上半身を起こして辺りを見渡す。どの角度からでも光が入ってくるように設計された造り、まるで何かと合わさったかのようにどんよりとした空気、そこらじゅうに生えているが、無秩序さはなく、配置が正確に定められている植物たち。そこが植物園であることは容易に見てとれた。
太陽の位置がまだ低くない。夏の猛暑はまだ健在だ。時刻は15時あたりだろう。
鋼は先程まで薄暗い劇場跡のような場所にいたはずが、今度は斜陽が眩しい植物園へと移っている。極めて流動的な日だった。夏休みの一週間を一日に凝縮したようだ。
ベンチの近くには丸い形をしたテーブルと、いくつかの椅子が囲うようにして並べられていた。慇懃なものではなく、別荘などにおいてありそうな、白いプラスチック製の軽いテーブルと椅子が置かれている。
鋼に背を向けるようにガタイのいい男性が一人座っていた。
遠目からでも大きく見える肩幅に凛々しい佇まいをしている。心優しい怪物を連想させるその姿は、マッチョの男だった。確信を持ってそう言える。
鋼は立ち上がると、テーブルの方に向かった。
近づいて分かったが、マッチョは読書をしていた。頭を固定して目線だけを上下に動かしている。マッチョの体格と、その大きな手のひらの前では文庫本はやたらと小さく見えた。
「起きたか。座ってくれ」
マッチョから2メートルくらいのところまで接近すると、本をパタンと閉じてこちらを見ることなくそう言った。
他の人がやったのなら演出の凝った格好つけに見えるだろう。だが、マッチョにはそういった魂胆が見えなかった。悪い印象を一切感じない。
言われた通りに鋼は椅子に腰を下ろした。椅子は四つ置かれていたが、マッチョの隣の椅子に座るのは不自然だろう。だから必然的に、鋼は向かい合わせところにある椅子に座った。
丸いテーブルには高価そうなちティーカップが二つ並んでいた。黒い花の模様が描かれたカップが、同じ組み合わせのソーサーに乗っている。カップだけでなくティーポットからミルク入れるやつまで同じ柄で統一されている。
これはうっかり落として割ってしまったら、ごめんじゃ済まないだろう。
「紅茶は好きか?」
マッチョが尋ねる。
「母が好きでした。なんだったか、横文字の高級なブランドの紅茶をよく飲んでいました。えっと、T…W、なんだったか」
「TWGか」
「そう。それです」
「いい紅茶を飲んでいるんだな。君は飲まなかったのか?」
「紅茶の味は難しくて手を出しにくいんです。市販の安いものと、高いものの区別がつかないと嫌ですから」
鋼がそう言う。
「誰だって最初はそうだよ。色々な紅茶を飲んでいくうちに、だんだん違いが分かっていくんだ。これは紅茶に限った話じゃない。何にだってそうだ」
マッチョはそう言うと、カップを手元に寄せて、二つのカップに紅茶をすすいだ。メロンのように大きい上腕二頭筋と華奢なティーポットが同じ視界に映っているのは、冬に水着で海水を泳ぐような、相容れない違和感があった。
「一度飲んでみてほしい」
マッチョは紅茶の入ったカップを鋼の元に置いて言った。
紅茶からは微かに湯気がのぼっている。薄く茶色がかった紅茶の入ったカップを片手に植物園にいるのは、すごい高尚な趣味のように感じられた。
マッチョからは試しているような雰囲気は感じられない。鋼はマッチョがそんな器用なことをできる人間だとは考えていなかった。
リーダーの男であれば、腹黒い魂胆を奥底に隠して笑顔を振り撒くことも可能だろう。だがマッチョにはそんなことはできないと確信している。
実は紅茶に毒が仕込まれているだとか、飲んだ途端に急激に眠くなるといったこともないだろう。
「いただきます」
鋼は紅茶を一口飲む。
まず口の中に広がるの暖かいか感触だった。その直後に紅茶の味が舌に染み込む。紅茶は思っていたより苦くなかった。だが想像以上に複雑な味がした。
まるでいくつもの小さな味が重なり合ったかのようだった。脳が反応に困っている。これまでに味覚が経験したどの味とも違う。究極のバランスで味が成立している。悪くなかった。この味覚が感じた情報が美味しいと言えるのかは分からない。あまりにも判断材料が少なすぎる。アメリカ大陸に到達したヴァすこだがまのように、未知の世界を目の当たりにした。
後味はさらに強く風味を感じられた。口の中で二度味を感じているようだ。同じ食べ物を食べていると舌が慣れて味が薄れていくように感じるが、紅茶の後味は明確に味を持って伴った。
「美味しい」
「それはよかった」
マッチョは優しい口調でそう言った。
「さっきはすまなかった」
マッチョが唐突に言う。
「え?」
「お前の様子があまりにも異質だったから、気絶させざる終えなかった。俺も盡も、狂気を感じた」
マッチョは申し訳なさそうに言う。なんだか背徳感を覚えて、俺のほうこそ、迷惑かけて申し訳ないと伝える。
それからは言葉を交わすことなく、紅茶を飲んだ。植物園の雰囲気に魅入られて会話をする気にならなかった。マッチョも鋼に気を遣って話しかけることはしない。
鋼は紅茶を飲みながら、景色に魅入られて言葉が紡げないような経験を向こうの世界でも味わったことを思い出す。ついさっき夢で見た自分と同じだ。
「?」
鋼は動揺する。
夢で見た内容は鮮明に思い出せるのに、それ以外の向こうの世界でのことを全く思い出せない。
向こうの世界の漠然とした空間のように記憶が錯綜する。絵画に布をがぶせるように、向こうでの記憶が隠されているようだ。
異世界に行ったということは覚えている。そこで何かをしたことも事実として認識しているし、花を操る力を得たことも覚えている。だが記憶の輪郭は覚えていたも、中身について思い出そうとすると手詰まる。
鋼から異世界の記憶はすっぽりと消えてしまった。
「あれ、え、なんで」
鋼は立ち上がってボソボソ呟く。
「記憶が、ない」
鋼は頭に手を当てると、目を泳がせてそう言った。
「どうした?」
突然、喋り出した鋼にマッチョが尋ねる。鋼は電源を繋げていないのに作動し始めたおもちゃのような不気味さがあった。
「異世界の記憶が、思い出せないんです。ほんとうに、何もかも。すっぽり抜け落ちたみたいに思い出せない」
「さっきはそんなことなかったろ?」
「はい。さっきまではちゃんと覚えていました。けど、今寝て起きたら何も思い出せない」
マッチョは一瞬勘ぐるような目で鋼を見たが、切羽詰まった表情が演技だとは思えなかった。
紅茶を飲んでいるささやかなティータイムに突如としてぶっ込んだのも脈絡がない。理解できないタイミングだからこそ、意図していないように感じられた。
「思い出せないのは異世界での記憶だけか?」
「向こうの世界の記憶だけです。こっちの世界での記憶はちゃんとある」
鋼は動揺していた。生まれたから今まで、記憶がなくなる経験はない。記憶は自己を自己たらしめる最大の要素であり、それがなくなることは四肢がなくなるような喪失感にかられるものだった。
認知症になるのが怖い理由はまさにこれだろう。記憶が薄れ改変されていくのは、味わったことのない恐怖だった。
「身体に異変はないか?」
「大丈夫です。少し動揺しました。けど、もう大丈夫です」
「記憶はないままなんだろ?」
「ありません。けど、記憶がないことが自覚できているのでまだ救いはあります。本当に救いようがないのは、記憶がないことにすら気づかなくなった時です。今はとりあえずは様子を見ます」
鋼は動揺を鎮めてそう言った。その場しのぎの去勢といえばその通りだが、漠然と時間が解決してくれる気がした。
夢で向こうの世界の記憶を見た。それが記憶の追体験であることは疑いようがなかった。証明はできない。だが違うはずがないと断言できた。
また向こうの世界の夢を見るかもしれない。そうしていくうちに思い出せばいい。
「記憶がない、か。今まで異世界から帰ってきて記憶障害を起こした事例は聞いてないな」
「てっきり収容所に来る際に消されたのかと思いました」
「それはない。俺たちは記憶に干渉できる能力の事例を知らないからな」
マッチョの言葉から、収容所の人間が記憶を消した。または改竄したという可能性はないようだ。
鋼は寝ている間に記憶が消された可能性を視野に入れていなかった。異世界で記憶操作の能力を得た人間がいてもおかしくはない。だが、記憶が消せるのなら手間をかけてまで収容する必要性はない。能力がある以上、放置はできないが、拘束しておくほどでもない。
鋼が消されたのではないかと言ったのは、自分たちは記憶を消していないと明言してもらうための方便だ。
「鋼、医者に診てもらった方がいいんなじゃないか?」
「いずれ思い出します。そんな気がするんです」
「そうか。何かあったらすぐ伝えろ」
マッチョは納得しきれていない様子だったが、鋼が気にしていないので何も言わずに受け入れた。
再びティータイムに戻る。
記憶を失って尚ここまで平常心でいれるのかと、マッチョは感心した。不安で夜も眠れないくらいの方が、まだ理解できると。
「お前は、不思議だな」
「?」
鋼は訳が分からずに首を傾げる。
「お前は、一人独特の世界に生きているようだ」
「まだ自分が定まってないんでしょう。幼い未熟な子供みたいに」
ーーーーーー
「鋼、お前にはこの植物園の世話の手伝いをしてもらいたい」
紅茶を飲み終えたマッチョはそう言った。
「手伝い?」
「基本的には俺がやるんだが、最近忙しくてな。数日あけることも少なくない。一日でも管理を怠るわけにはいかないんだ。それで誰か世話をしてくれないかと探していたら、ちょうど今日お前に会った」
「不在中に俺を収容所から出すってことですか?」
鋼が尋ねる。マッチョは見当違いな言葉に、大前提を伝え忘れていたことを思い出す。
「鋼、この植物園も含めてここはすで収容所の中だ」
鋼は目を見開いて驚いた。
植物園はどこかの金持ちが趣味で築いたような大層な設備だった。そのため、この植物園は収容所から遠く離れたどこかだと考えていた。
「ここが収容所の中?」
異世界から帰還した人間は、一般的な理から反している。派鋼は一種の超能力のようなもので、そんなものを悪用されたら対処するのは容易なことじゃない。
鋼は収容所と言われて、日の当たらない黒い鉄鋼の檻を想像していた。網走のような殺伐とした場所で、パノプティコンによって二十四時間監視された生活が永遠に続くと怯えていた。
だが、ひどい勘違いだったようだ。日の光は都心より近く感じられるし、監視の目は緩い。収容所というにはあまりにも開放的だった。
「これから一緒に生活する連中を案内する。ついて来い」
マッチョと一緒に植物園から出る。日差しが眩しかった。照明を故意に当てるように、ちょうど光が目に差し込む。
だが鋼は目を閉じなかった。反射的に閉じたくなる瞳孔を、信じられないものを認識した頭が閉じないようにとどめていた。
植物園から出ると、前方わずか50mほど先は崖になっていた。崖のすぐそばには斜めに傾いた大きくも小さくもない木が風に吹かれ揺れていた。
緑の葉っぱが隅々まで茂っていた。活力に満ち溢れていた。
鋼はその崖の先に何があるのか気になって崖に向かって歩いた。マッチョは何も言わずに鋼の後ろをついていく。崖から見下ろすと。そこには90°近い傾斜があった。それがどこまでも続いている。地面まで100mはある。超高層ビルの最上階のような高度だ。
下にはあたり一面に緑が広がっていた。芝生のように整えられた草むらが直線上に進み、その周りを木々が覆っていた。それはどこまでも遠くに続いている。時折、森の中に湖や草木一つ生えない砂漠のような場所が見受けられた。
どこであれ決まって一番奥には大きな壁が聳えていた。壁まで何キロの距離があるのかは未知数だ。10キロメートルほどなのか、30kmほどにまで上るのかは分からない。壁は森をぐるっと囲っていた。遠く離れた場所からでもその存在を確かに確認できる。
「ここが、収容所なの」
鋼は戦慄した。ここはまるでジャングルだ。野生の動物が蔓延って、未知のウイルスが潜んでいるアマゾンにきたかのようだった。そんな魔境に高く佇む壁は確かにここにある全てのものを収容していた。
鋼が立っている崖を中心にして、その遥か下の地面を森が囲っていた。何キロあるのか分からない。されは天然要塞だった。その奥には、大きな壁が聳えていた。
「すごいだろ」
マッチョが後ろからそう言った。
「広すぎる。こんな場所があったなんて知らなかった」
「表向きには知られてない場所だ。ここはただの収容所じゃない。異世界帰還者を収容してるんだ。規格外には規格外を当てるのは当然だろう」
一体、収容所と言われて誰がこの光景を想像するだろうか。どんなに想像力が豊かであっても、広大なジャングルに、見下ろすように聳える壁を連想したりはしないだろう。
まさに常識の物差しでは測れない収容所だった。
「俺たちは基本下にはいかない。この崖の上で暮らしてる。下に広がるジャングルと、あの大きな壁は、囚人を逃がさないようにするためのものだ」
マッチョは鋼が満足するまで待った。鋼の気が済むとマッチョは鋼を連れていった。
「着いたぞ」
マッチョに連れられて15分ほどでそこに辿り着いた。
下に見えたジャングルに劣らず、丘の上も相当な面積を有していた。植物園のすぐそこには駅があり、簡素な列車が走っていた。およそ50年ほど前を連想させるレトロな列車だった。内装はボックスシートが左右に四個ずつ設置していたが、乗客は誰一人としていなかった。
列車で二駅の『第5班区域』という駅に下車してすぐにその屋敷はあった。
「ここが今日からお前が住む場所だ」
それは歪な形をしていた。バロック建築を連想させる、西洋の大きな屋敷が原型としてあり、そこから増築するように建物の高さを増やしていっているようだった。
たぶん違法建築だろう。鋼は建築に関する知識がないが、そんな気がした。正確に言えば、違法増築が施されている。
西洋風の建物に、まるで帽子を被せるようにコンクリート造りの現代風の階が追加されており、さらに木造にも見える造りもところどころ散見された。屋敷から足が生えて動き出すのではないだろうか。そんな気さえする。
驚くべきことに、1番上の階には窓が取り付けてなかった。真っ黒い長方形の立体がはめ込まれている。遠目で見てもそこは不気味だった。凶悪な囚人が収容されているんじゃないか、鋼は子供のような勘ぐりをした。
3mほどの柵で覆われた敷地は広々としていた。屋敷の周りは草が生えているだけだが、所々に花壇があり、花が植えてある。
マッチョが正面の門を開けて、鋼はその後ろをついて歩いた。屋敷の玄関を抜け、広々としたリビングへと辿り着く。
「茜さん、こんな朝から飲んでるのか」
リビングのソファには薄着一枚で寝っ転がる女性の姿があった。大きなソファを贅沢に横たわり、缶ビールを片手にテレビを見ている。だが目の焦点が合っていない。ニュース番組はただ騒音の一つとして流しているだけで、関心を持って視聴する気は一切ないようだ。
カーペットの上には酒の瓶が転がっていた。中身が半端に残っていて溢れているものもある。トルコ風の高そうなカーペットが台無しだった。
「あれぇ、龍ちゃぁん?」
まだ日差しが強くさす時間にも関わらず出来上がっていた。顔を赤らめて、呂律はうまく回っていない。夢かうつつかの区別がついていないようだ。
マッチョはため息をついた。
「新入りが来てるんだ。もうちょいマシな姿見せてくれ」
マッチョは辟易していた。だが茜と呼ばれるその女性は「新入りぃ?」と、安値で売られているブランド品を見定めるように、鋼を凝視した。
「この子がウチにぃ?なんでまた5班なんかに?」
茜は不思議そうに尋ねた。
「鋼は記憶喪失なんだ」
「そんくりゃいなりゃあ、別にウチじゃないくてもよくないぃ?」
茜はゆっくりと起き上がると、今にも閉じそうな目を擦りながらそう言った。酔っ払った茜は赤子のような聞き取りにくい話し方をした。
マッチョは何も言い返さない。じっと茜からの次の言葉を待った。
痺れを切らした茜は、ベットから身を出すと、鋼の首に引っ掛けるように腕を回して、ソファの方に引っぱった。
鋼は避けることができたが、あえてされるがままに体を預けた。深い意味はない。
「鋼くんだっけ?君もそう思うでしょぉ?こんな場所いやだよね」
茜は絡め取った鋼の顔を自分の顔のすぐそばまで寄せると、諭すようにそう言った。
鋼は酒臭さに思わず鼻を塞ぎたくなるが、表情ひとつ変えずに我慢した。
「いまいちよく分かってないのですが、他にもいくつか班があるんですか?」
「ああ。この収容所では、1班から7班のいずれかに振り分けられて、その班のハウスで共同生活してもらう。ここ、第5班は少し特殊で、問題の抱えた帰還者が集められてるんだ」
マッチョの説明から、鋼は記憶喪失になったからこの第5班を指定されたのだと分かった。ここにいる茜さんも、何か深い事情があるのだろうか、鋼は酒で誤魔化した茜の裏側の事情を察した。自由に生きているように見える人ほど、大きな問題を抱えていたりもする。
「ちなみに、私はアル中でここになっちゃいましたあ」
「え、俺この人と扱い一緒なの?」
鋼はすぐ横のアル中を指差してそう言った。複雑な事情があるのだと勘ぐった直後だったため、辛辣な言葉が口から出た。
茜は「急に辛辣じゃーん」と笑いながら、どさくさに紛れて少しだけ首を絞めてきた。鋼は若干身の危険を感じた。
「茜さんはこの第五班の班長だ」
「班長?この人が?」
鋼は軽蔑するような目で茜を見た。
「よろしくぅ。うげぇ、吐きそう」
そう言って茜は鋼の首から腕を解くと、トイレへと駆け込んでいった。なんとなく、トイレに駆け込む仕草がなれているように感じた。毎日のように、酒で酔っ払ってはトイレに駆け込んでいるのだろう。
「安心しろ。トイレ掃除は決まって茜さんの担当だ」
マッチョは、遠ざかる茜の後ろ姿を見ながらそう言うが、そういう問題ではない。
昼過ぎから酒を飲んでトイレに篭るような人に会ったのは初めてだった。それがいわば上司のような立ち位置になると言うことはさらに驚きだ。
マッチョは散らかった部屋を掃除し始めた。鋼もやることがないのでそれを手伝った。
「疲れたろ。座ってていいぞ」
「やることがないので。じっと待ってるの苦手なんです」
マッチョは苦笑すると「そうだな」と言って黙々と作業をした。
リビングは一人暮らしの部屋ですらこうはならないと思うくらいには散らかっていた。
至る所に女性ものの衣服が散乱している。下着や何日前に使ったのか、すでに乾いているタオルが投げてあった。
全て回収して洗濯かごに入れると、幾分か綺麗に見えた。床が見えるのと埋もれているのでは、見栄えが全く違った。
茜は15分経っても戻らなかった。だが鋼もマッチョも気にした様子を見せなかった。花を丁重に扱うマッチョであっても、酒を浴びすぎて酔った枯れ尾花に効く薬はないと断念してしまうのだ。
鋼はソファに座り、今日という日の出来事に考えを及ばせていた。
一日という短い時間には、あまりにも濃密すぎる出来事の連続だった。まだ、夢の中にいるような漠然とした感覚に優しく包まれているようだった。今日からこの屋敷で共同生活することは、全く自分のことのように思えない。
この収容所から一生外に出ることができない
それは実質的な死の宣告のようなものだった。
鋼はどんな事実よりも、この収容所と呼ぶには、あまりにも広大な檻籠の中で永眠するまで生き続けることが度し難く、認められなかった。
家族に会いたい。友人と飽きるまで語り合いたい。久々にバイト先に立って顔を出したい。音沙汰なく何ヶ月も失踪したので、きっともう二度と来るとは思っていないだろう。それでも、きっと戻ってくれば歓迎してくれるだろう。
桜、君にも会いたいよ。今すぐにでも
鋼は天井を見上げて愛しい人のことを思い浮かべた。鋼は帰らなければならなかった。未知の世界へと足を踏み入れたという愉悦よりも、人智を超えた異能力よりも、日常を何よりも渇望していた。
加えて鋼には使命感が芽生えていた。どこに向かって何を思っての使命なのかは、鋼には理解することができない。だが、それは真っ暗な暗闇の中を、方向もわからずとも確かにどこかへ向かって突き進んでいた。
異世界での出来事に、その鍵があるのだろう。記憶を失っても確信を持ってそう言える。
この収容所に入り口があるのなら、かならず出口が存在するはずだ。一歩通行の扉は存在しない。
鋼にとってあるはずの出口の存在が一縷の望みだった。それがどんなに困難な狭き道なのかは言うまでもない。
出口を見つけ、そしてそこから脱出するのには長い年限を要するだろう。1年や5年ほどでは不可能だろう。それが10年20年だろうと、生涯の半分だろうと、必ずここから脱出すると心に誓った。
手の甲に力を込めて強く握った。強い意志を宿らせて強い覚悟を決める。
大きな障害となるのは今朝会ったリーダーの男とマッチョの二人だ。鋼はチラッと後ろを見てマッチョの姿を探す。だがいくら見回してもマッチョは見当たらなかった。文字通り、音もなく消えていた。
「え、いつの間に…」
忍者の末裔か何かだろうか。鋼は本気で考えた。
重い腰を上げてソファから立ち上がりリビングを出て、暗い廊下へと出た。
屋敷の一階の構図は特徴的だった。
入り口は正面に、大きな扉が一個だけ置かれている。門番が守っていてもおかしくないような大きな扉だった。城の扉のような作りで、中央を押して両側に開くその扉は全長が3メートルほどあった。
扉を開けると広い玄関が広がっている。すぐ正面には2階に通ずる階段が連なっている。玄関口から真っ直ぐ赤いカーペットがひかれて階段前まで伸びている。床一面は大理石でできており、曖昧に立っている者を反射した。階段は横幅が5メートルほどあり、斜め45度に伸びている。
その階段の両隅に扉が二個ある。均等な感覚を置いて、全く同じ扉が左右を飾っている。また、玄関口の真横三m先にも左右両方に階段が設置されている。
玄関口から見たら、構図はそれだけだ。図面で捉えれば単純な作りだった。カーペットの上に女物の下着が転がっているのがチラリと見えたが、鋼は見て見ぬふりをした。
リビングは玄関口から見て右側の扉を潜ったところに位置している。中に入れば別世界だ
鋼はマッチョを探してうろちょろと屋敷を回った。二階から先は迷子になりそうだったので、一階だけに集中して扉をかけて回る。
玄関から見て右側の扉を開くと、そこには脱衣所があった。温泉施設と比べても遜色のない広さだった。棚の数が図書館の一レーンと同じくらい並んでいるが、この屋敷にそんなに人が住んでいるわけではないようなので、過剰だった。
奥にはドラム式洗濯機と洗面台が二個ずつ並んでいた。
脱衣所からだけでも優雅な暮らしぶりが伺える。
次は玄関から見て左側の扉を開ける。
そこには洗面台とトイレがあった。これもたいそう豪華な作りだった。
鋼が一通り回り終えてリビングに戻ると、マッチョが戻っていた。
厨房に立って調理をしていた。マッチョは扉が開いた音で鋼が帰ってきたことに気づく。
「戻ったか。まだ食事ができるまで時間がかかる。先に風呂に入っていてくれ」
マッチョはカレーを調理していた。すでに野菜を切り終えて、鍋で煮込んでいる。おおよそ30分くらいかかるだろう。
植物を愛して掃除を好み、料理を作ってくれるマッチョはとても家庭的だった。筋肉からは想像つかない。
鋼は風呂場に向かった。男女の隔たりがない大浴場があった。内風呂に露天風呂、サウナも取り付けてあり、温泉施設と比べても遜色ないクオリティだった。
30分ほどぐったりして、内風呂と露天風呂を交互に楽しむ。風呂は鋼を冷静にさせた。ポカンと抜け落ちた異世界の記憶、それは不思議な浮遊感を鋼に与えた。記憶がないだけで、自分が自分ではないような気がした。
鋼はその漠然とした自分ではない感覚に焦りを覚えていたことに気づいた。ゆっくりとお湯に浸かり、身体を温めると同時に頭を冷やした。
風呂から出てリビングに向かうと、マッチョはカレーを作り終えていた。
鋼とマッチョ、そして茜の三人で食卓を囲む。長方形の8人用の机に、端に寄るように三人で座った。
マッチョが作ったのは古典的なカレーだった。ジャガイモとニンジンが大きく、肉が少し小さめだった。辛さと甘さがうまいこと混じった味だった。調和が取れて、とても美味だった。
「美味しい」
鋼がそう言うと、茜も「美味しいよねぇ。たぶん5班で一番料理上手だもん」と言ってバクバクカレーを食べている。
マッチョは収容所内外を自由に行き来できる権利がある。班にいる必要はないが、括りとしては5班に属するらしい。
「この班は、他に人がいないんですか?」
「あと5人いるよ。今日は帰ってないのよ、せっかく鋼ちゃんが来てくれたのにねぇ」
茜がそう言う。
「これから会う機会もあるだろう。曲者揃いだが、お前なら上手くやれる」
マッチョがそう言う。
それからは三人で些細な会話を交わし、食事を楽しんだ。食後すぐに、茜が酒を飲みだして暴れ始めた。冷蔵庫の酒をいくつも取り出しては飲んで、この世の不条理について語りだした。マッチョがそれを嗜めてしばらくすると、茜はトイレに篭った。
「今日は疲れたろ、もう寝た方がいい。茜さんもあの様子だしな」
マッチョが提供してくれた食後のアイスを食べると、鋼はすぐに自室へと向かい眠りについた。
ベットに潜ると、数秒足らずに眠りについた。
夜、不意に目が覚めた。滞りなく進んでいたものが急に訳もわからないまま挫折するように、安眠は謎の引力によって中断させられてしまった。
鋼は一度寝たらそう目が覚めることはない。昼寝であっても3時間は目を覚さないし、睡眠ならば7時間は寝なければ自然と起きてくることはない。
ベットの真上に置かれた時計を手に取り、顔のすぐ近くまで引き寄せる。時計は2時を差していた。短針と長針の二つがどちらとも2時の方を差していたので、目を凝らさずともおおよその時間が把握できた。
鋼はこんな変則的な睡眠をしたことがないので、珍しく思った。
だが無理もない。濃厚な一日に憔悴しきって睡眠リズムが崩れたのだろう、そう結論づけて再びベットで横になる。
ベットの上に横になり無心の時間を過ごし、睡魔に襲われるのを待つ。二度寝する時は、なるべく体を動かさず、そして頭で思考してはいけない。脳が覚醒してしまうと寝れなくなるからだ。
鋼はそのことを心得ていたので、何も考えずに時間が過ぎるのを見守った。
だがいくら時間が経っても睡魔はやってこなかった。本来ならくるはずの睡魔がいつまで経っても来ないのは、教師が全員バックれて取り残された生徒たちのような心情だった。
思考を止めるのもだんだん叶わなくなっていく。時間の感覚を知覚するだけでも脳は働き続けて目覚めていってるのだ。
鋼は上半身を起こした。
「眠れない」
こんななことは初めてだった。メンタルの不調だろうか。それとも見知らぬ場所で寝るのに身体が拒否反応を起こしているのだろうか。鋼は野宿した時ですら7時間睡眠したことがある。気候から身を守る屋根の下、快適なベットで寝れないなんてことはないだろう。
大きな窓からは外の景色が一望できた。
崖の上には街灯が一定間隔で置かれている。郊外を切り取った景色と言われても不思議ではない。
だが、崖の下は全く姿が異なる。そこは一面の暗闇が続いていた。
崖の下に木々が延々と続いているのは、夜になると見ることができない。そこが海であっても、山であっても見えばければ大差はない。
鋼は窓から星を見上げた。星座の位置から収容所の位置が分かったりしないだろうかと、無謀な願望を抱くが、頭上で輝いている一等星ですら、それが何かは分からない。赤子に株式市場を見せて買わせても上手く行かないように、付け焼き刃の知識もないような状態では何も汲み取ることができない。
鋼は馬鹿げたことはやめて、ベットから起き上がり部屋を出た。
夜道を散歩しようと、屋敷の外を目指す。だが廊下は真っ暗だった。電気のスイッチがどこにあるかは当然把握していないし、他の人たちに気づかれたくないので、この状態で進むしかない。
だが、部屋の前に懐中電灯が設置しているのを思い出し、それを手に取り前に進む。
廊下は一歩進むたびに床の木が軋む音がした。
真っ暗な道に、一定間隔で鳴る床の音は、恐怖を増長させた。
鋼はまだ屋敷の構図を把握していない。容易く道を間違えて未知の部屋に辿り着くことができよう。
だがその想定は杞憂だった。長い廊下を抜けると、見知った階段に辿り着いた。
大きな階段を降りたら、そこはもう玄関の前だった。懐中電灯を一旦床に置いて、その大きな門を両手で開ける。
ドアの向こうには外の景色が広がっている。そこは人の気配が全くなかった。
道路は整備されて街灯も設置されているのに、そこには人が誰もいない。まるで街全体が神隠しにあったかのようだった。
星空が綺麗だった。夏なのに暑くなくて、肌に心地よい風が吹いた。
このまま茫然と星空と無人の街を眺めているだけでも、鋼は満足だった。その微動だにしない風景を永遠に見たいとさえ感じた。
だが、鋼を呼ぶ何かがあった。それに気づかないふりはできなかった。
甘い匂いで蝶を誘惑する花のように、鋼はそれに引きつられていった。
右も左も分からない道を直感で歩き出す。
鋼は屋敷の玄関から左に向かってゆっくりと歩いた。何かがどこにいるかは掴めないが、方向だけは分かった。
歩くにつれその何かの気配はだんだん強く感じられた。見えない紐で繋がれているかのように、引っ張れていく感覚があった。
整備されて道を進む。しばらく歩いたところで急に気配が消えた。電気のスイッチを消すように、それは急速に息を潜めた。
いなくなってしまえばそれがいたという証左はどこにもない。だがそれは勘違いでなかった。手に握ったような実態が確かに感じられた。
勘違いかと思い周りを見渡すと、そこはマッチョに頼まれた植物園があるあたりだった。もう随分と進んでいたみたいだ。
鋼は植物園の先までぐるっと回って、丘の上から景色を見渡した。
下はどこまでも真っ暗で、昼間は大きく存在を示していた壁も闇と一体化していた。
手に持っていた懐中電灯で奥底を照らす。だがその微弱な光では下まで届かなかった。
散歩をしたことで、睡魔が襲ってきた。そろそろ帰るか
鋼は振り向いて歩き出そうとする。だが突如として立ちくらみにあう。
立ちくらみに会うことがほとんどない鋼はその感覚に対抗する術を持ちあわせていなかった。
鋼は後ろに倒れ込んだ。頭に響き渡るような頭痛と耐え難い倦怠感が伴う。
不幸なことに、後ろは崖の終着点だった。崖は100m近い高さがある。地面に落ちたらひとたまりもない。
落ちるわけにはいかない。そう思い身体を動かそうとするが、思うように動かなかった。
なすすべなく落下した。鋼は崖の上から落ちた。その下は高さ100メートルはある。どんな屈強な人間でも生きて帰ることはできない高さだ。
暗闇の中、大きな圧力が押しかかって下へと急下降していることに気づいた鋼は、すぐに状況を理解して死を悟った。
『桜』
一か八かで鋼は能力を発動した。鋼ができることは花を操ること、ただそれだけだ。それも自由自在というわけではない。際限があり、しかも具現できるのは普通の花でしかない。手元に何もない鋼がこの状況を打破することは不可能だ。
異世界の記憶がないにも関わらず、鋼の口は動き『桜』と詠唱をしていた。なぜそんな言葉を口にしたのかは分からない。だが考えるより先にそう唱えていた。
しばらく経っても、何も起こらなかった。鋼は淡い期待を捨てて目を閉じる。
すぐ直後に鋼は地面に落下した。崖の上から加速し続けた身体は地面に衝突してぺっちゃんこに潰れることを覚悟していたが、意外にも衝撃は強くなかった。
鋼はうつ伏せの姿勢で地面に衝突した。骨にパキパキとヒビが入るような音がした。額からは血が流れ、全身が刺すような痛みに晒された。
だが鋼は3分ほどして立ち上がった。身体中が悲鳴を上げている中で、ゆっくりと立ち上がる。なぜ生きているのか鋼には分からなかった。
鋼は自分が落下していたところが地面より柔らかくなっていることに気づいた。地面を触ると、大量のヒラヒラした紙が大量に落ちていることに気づいた。それらは何十にも連なって落下の緩衝材になっていた。
近くで見ると、それは紙ではなく桜だった。鋼は自分が口にした詠唱が具現できていたことに気づいた。
周りは真っ暗で何も見えない。目が暗闇に慣れてきたが、それでもほとんど何も見えなかった。
鋼はまっすぐ進んだ。一歩一歩が重かった。身体は鎖が繋がれたように上手く動かず、今すぐにでも倒れてしまいそうだった。
しばらくして身体のどこかが軋む音が聞こえると、急激に全身が痛み出して鋼は倒れ込んだ。すぐそばの気にもたれかかり、止まらない汗を手のひらで拭う。
身体が震え出した。手と足から登っていくように肩、膝、そして全身へと震えは伝播する。
喉が渇く。だが水以外何も口に入れたくなかった。
鋼はぐったりとして目を瞑った。
直後、衝撃音が響き渡った。鋼の落下と比べれば小さい。せいぜい2mくらいの高さから下へと落ちたくらいだろう。だが、下敷きになった木々の枝がパキパキと折れる音と、続く足音が何者かの存在を示していた。
こんな夜中に、この森を闊歩するような人がいるとは到底思えない。だが、事実として誰かがそこにいる。鋼は光明を見出した。ゆっくりと立ち上がり、その足音を追いかける。暗闇の中では誰しも盲目だった。だが、鋼は集中力の限りを振り絞り、そのわずかな足音へと着実に近づいていった。
「誰か、いますか?」
鋼は叫んだ。返事はない。だが、声に呼応するよにピタリと足音が止んだ。
鋼は相手が自分の声に気づいていると確信した。それと同時に、相手が困惑していることも想像がついた。鋼は今日来たばかりの新入りであり、面識があるのは一握りだった。相手は自分の存在を知らない可能性が高い、そう推測した鋼は自分の素性を口にした。
「第五班の青野鋼です。崖から落下して負傷しているので、助けてくれませんか」
鋼が叫ぶと同時に、グシャっと鋭い音が響いた。それは鋼の腹部から響いた音だった。痛みを感じ出すのに、鋼は長い一瞬を感じた。
突如痛み出す激痛に、鋼は叫ぶしかできなかった。その場で倒れ込み、今までの人生で出したことがないくらいの悲鳴を出す。
鋼の腹部を電柱くらいの太さをした丸太のようなものが貫通していた。突如として腹に穴が開いて、様々な器官を潰しているのが分かった。
鋼はすぐに叫ぶことすらできなくなった。口からは血が吹き出すだけだった。
地上に吊り上げらた魚のように身体がビクついた。鋼は訳もわからずに足音がしていた方角を見ていた。真っ暗闇の中に、人間の輪郭が微かに見えた。
ちょうどタイミングよく、雲に隠れていた月が姿を表して、森に光が差し込んだ。鋼の目線の先に光が差し込む。
(なんだ、あれ…)
そこには一人の人間が立っていた。視力のいい鋼でも性別までは分からない。だがシルエットだけは鮮明に読み取れた。その人間には翼が生えていたのだ。
背中から生えたそれはまるで生きているかのように蠢いていた。羽の一つ一つが独立した意思を持つかのようで、それは虫の群れを連想させた。
翼は大きく、腕を伸ばして手を広げた長さよりもあると思う。右左に一個ずつ、翼は生えていた。
鋼は自分がとんでもないものと遭遇してしまったと気づき、自分の運命を悟った。
鋼は右手を伸ばして、その怪奇に照準を定める。鋼の周りに花は咲いていない。だが、桜なら自在に操れるかもしれない。鋼は『桜』を唱えようとする。
だが、手を伸ばすとすぐに右腕は地面に落ちた。いともたやすく右腕は切り落とされた。
再び痛みで悲鳴を上げる。目はから涙が溢れ出ていた。悲惨な叫びは鋼自身の耳からも聞こえた。
攻撃方法は分からなかった。翼の生えた人間からは距離が離れている。だが武器のようなものは散見できない。鋭く小さいもので攻撃されているのかもしれない、そう脳裏によぎるが、それは無意味な情報だった。
鋼はもう助からない。
続いて両目も潰された。右目の視界が完全に遮断される。左目はほんのわずかに機能していた。それは霧のようにぼんやりとして、霞んで世界を映した。
激しい痛みが襲うが、叫び声は出なかった。
地面いっぱいに鋼の血が流れているのを肌で感じた。鋼はだんだんと痛みの感覚が麻痺していることに気づく。
翼の生えたそれは鋼へと近づいていった。無駄なことをするんだな、と鋼は思った。放置していても鋼はすぐに死ぬ。なぜ接近してくるのかが分からなかった。
ああ、ここで死ぬのか…
鋼は心の中で呟いた。
鋼は父母の顔を思い浮かべる。
きっと想像より老けているんだろうな…
行方知れずで心配をかけたことを謝りたかった。けど、それも叶わない。確か、7年間行方不明で死亡扱いになるんだったっけ。せめて死んだことくらいは伝わってほしいな…
鋼は息子の帰りを待ち続ける家族の姿を想像して悲しくなった。死んでいることを知らず、生きていると願い続けるのはあまりに酷だ。
俺の友達は、まあ俺のことなんか気にしてないか… 俺がいなくても、代わりなんていくらでもいる
鋼は冗談っぽく心の中でそう呟いた。
そして最後に、鋼は離れ離れになった恋人のことを想像した。
「さ、」
嗄れた鋼で一文字ずつ口にする。
「く……ら」
桜、神田桜。それは鋼にとって最も愛おしい恋人の名前だ。覚えている桜の姿は多分少し変わってるだろう。背丈が少し伸びてるかもしれない。髪型を変えてるかもしれない。
もう俺のことを忘れてるかもしれない。とっくの昔に俺のことなんか忘れて違う男と歩いているのかもしれない、そう想像するだけで胸が苦しくなった。
あの日、一緒に桜並木を歩こうと約束した。けど、俺はそこへ行けなかった。訳の分からない世界に飛ばされて、離れ離れになってしまった。
どれだけ怒られても、嫌われてもいい。だから、できることならもう一度会いたかった…
死の床で鋼は桜を渇望した。そのおかげだろうか、目の前に桜が現れた。
朦朧とした意識の中、閉ざした視界に確かに桜がいた。
鋼は身体が軽くなった。もう痛みはない。身体を起こして木にもたれかかる。目の前には桜が立っていた。
いつかの日に、遊びに行く時に着ていたワンピース姿で優しく鋼を見つめている。
鈍い音がどこからか聞こえた。翼の生えた化け物がいた辺りだ。ソレはわずかに声を上げていた。何かに苦しむように、地面を強く踏んで、「あ、あ…」と呟いている。
鋼は死の底で鋭利に聴覚が働き、その声を聞き逃さなかった。翼の生えた化け物が何かを口にしている。
一瞬、大きな音がすると。いつの間にか翼が生えた人間はいなくなっていた。五感がそう告げていた。まるで最初からそんなものはいなかったかのように、鋼と桜の二人の世界がそこにはあった。
桜は握って固く閉ざしていた手をかざした。その手の動作と連動して、地面から彩りどりの花が咲いた。殺風景な地面から芽が出て、蕾になり、そして花が咲いた。それは桜を中心に広がっていき、見渡す限りの森全体を覆っていった。
花は発光していた。それぞれの色を強調するように、僅かに光を放ち森を照らした。
鋼はその花園風景に感動を覚えずにはいられなかった。ゆらゆらと揺れる花が甘い香りを放つ。その誘惑のような香りで、鋼は頭がふらついてくる。脳がだんだんと働かなくなり、夢かうつつか、もう区別はつかなかった。
気づいたら、桜は手に桜の咲いた枝を持っていた。 桜は何も言われない。じっと黙って鋼を見つめている。
桜は不気味な表情を浮かべた。口角は優しく、だが目は冷徹で、顔全体が曇っていた。
そうか、俺は死んだのか…
鋼は自分の死を悟った。身体はもうまるっきり動かない。声も出せない。体は頑丈な鎧となって魂を釘付けていた。もう身体は鋼のものではなくなっていた。
桜が涙を流した。すっと右目から一筋の涙が流れ、顎から地面へと落ちる。
涙が地面に落ちると、ポチャっと音を立てた。まるで水たまりに水を落としたように、地面が音を返す。
地面に触れた涙は、波紋のように広がっていく。涙を起爆剤に、地面に咲いた花達がプカプカと浮いていく。風船のように、風に揺れてゆっくりと上昇していった。
幻想的な景色だった。花が空へと向かって浮かんでいく。その光景を目に焼き付け、鋼は少し満足をした。
上昇していく花の中を、桜は歩いて鋼の方へと向かっていく。桜は不安定な道を歩くように慎重に一歩一歩足を進めた。
鋼の目の前までやってくると、しゃがんで鋼と目線を合わせる。近くで見て、瞳から憤りを感じた。鋼はごめん、と口にしようとするが、声は出なかった。微かに口元が震えただけだった。
だが桜はそれで満足したのか、ニコリと笑った。手に持っていた桜の枝を鋼の胸元に置いた。
「もう死んじゃダメだよ。バカ」
桜は優しくそう言った。
何度も聞いた声と、優しい笑顔に心動かされる。ごめん、鋼はその言葉を最後にゆっくりと目を閉じた。
次に目を覚ました時、鋼は拘束されていた。
「こんにちは、青野鋼くん」
聞き覚えのある声が、鋼を呼んでいた。
また尋問が始まる気配がして、鋼は嫌気がさした。




