もしかして、わたしって殺されたの?
「すぐに裏口から出ろ。そして、全力で走るんだ」
彼は、さらにらしくないことを言った。
「さあ、はやく」
それから、叫んだ。わたし以外の人と話すことのなかった彼のその叫び声は、ほとんどききとれないほどかすれていた。
そして、彼は唐突にスープを飲んだ。スプーンを使わずにお皿にじかに口をつけ、文字通り飲みほした。
呆然と見つめる中、彼は笑いながら倒れ始めた。それこそ、小説の一場面のようにやけにゆっくりと感じられた。
そのとき、背後で扉が開いた音がした。
すべてが一瞬だった。振り返る暇もなかった。
背中の心臓のあるあたりに、焼けるような痛みを感じた。
ほんとうに一瞬だった。
目の前にボロボロの床が迫っていた。
そのときになってやっと、自分もまた倒れかけているということに気がついた。
ボロボロの床に顔と体があたった。メガネのレンズは割れ、フレームはグニャリと曲がった。
同時に視界が真っ暗になった。
(わたし、もしかして殺されたの?)
急速に意識がしぼんでいく中、漠然とというよりかは他人事のようにそう推測した。
「きみは、またボーッとしていただろう? きみは、ときどきそうやってボーッとしているよね」
笑いを含んだ若い男性の声にハッとした。
「熱いっ」
ポットのお茶が手にかかったのだ。
「ハハハッ! って、笑っている場合ではないな。大丈夫か? すぐに冷やした方がいい」
頭がボーッとしている。というか、頭の中や意識に靄がかかっているみたいな状態である。
「冷たいっ」
つい先程熱いお茶がかかった手は、真っ白いハンカチに包まれていた。
冷水を含んだ白いハンカチは、火傷をした手に心地いい。
(どうなっているの?)
その左手を、それからいまだポットの柄を握っている右の手をジッと見つめてしまった。
両手とも乾燥し、カサカサになっていない。しかもシワもシミもひとつもない。潤いのある若々しい手をしている。
(まるで自分の手ではないみたい。というか、これっていったいだれの手なの?)
混乱している。控えめにいっても、かなり混乱している。
答えが見つけられない。というか、見つけられそうにない。仕方なく、濡れたハンカチでわたしの左手を包んでいる青年に視線を移した。
「……!」
驚きすぎて声が出なかった。
それこそ、うめき声のひとつさえ。
その青年は、元国王アレックス・リチャードソンの若いときの姿をしているのだ。
「美貌の貴公子」と謳われた彼が、目の前にいるのである。
(いいえ、そんなはずはない)
混乱に拍車がかかる。
(そんなはずがあるわけはない。だって、彼はわたしが運んだスープを飲んで倒れたのよ。あのスープには即効性の毒薬が仕込まれていたに違いない。死んだ彼がどうして? しかも昔の彼の姿で? 若いときの彼がここにいるの?)
「まったく、きみのおっちょこちょいなところは感心するよ」
元国王アレックスは、混乱しまくっているわたしのことなどお構いなしに、わたしの火傷をした手を冷やし続けていた。