2. 動き出す天秤 -1
部活動を終えた山崎は校門の傍で犬飼を待っていた。
もらった腕時計を返すためだ。やはりこれほどの高級品を易々ともらうことなどできないと、考え直したからだった。
しばらくすると部室棟から出てくる犬飼の姿が見えた。山崎は身構えたが、自分よりも先に犬飼を捉まえる生徒がいる。女子生徒だ。会話は遠くて聞こえないが、状況を考えると告白だろう。
「あいつ、本当にモテんだな」
山崎が感心しながら傍観していると、女子生徒がこちらに向かって歩き出した。
どうやら話は終わったらしい。ならば今度は自分の番だと山崎も歩き出す。すれ違う女子生徒は悲痛な表情をしている。OKをもらえなかったのは明白だ。
(結構かわいい子なのにな。可哀想に)
山崎はすれ違いざまにチラリと女子生徒を見やると、一瞬だけ同情した。
「あれ、山崎くん。どうしたの? 忘れ物?」
犬飼が山崎に気付き、先に声をかける。
「あんたを待ってた」
「僕を? 嬉しいなぁ!」
犬飼は満面の笑みを返す。
まるで大輪の花が咲いたような華やかさである。
「これを返そうと思って」
山崎は鞄から例の箱を取り出す。
「ど……どうして?」
犬飼の表情が一瞬にして曇る。
「俺はこんな高価なもの……もらえない」
「僕があげたいだけだから気にしなくていい」
「あんたはそう言うけど、気にしないなんて無理だ。第一こんな高いもの、あんたの金で買ったんじゃないだろ?」
「いいや、そのプレゼントは僕のお金で買ったものだよ。ちゃんと自分で稼いだお金だから心配しないで」
そう言って犬飼は優しく微笑んだ。
「自分で稼いだって……あんた、バイトとかしてんの?」
「ま、そんなところ。だから受け取って」
「って言われても……」
元より気持ちの問題であるため、腕時計を返す切り札を持っていない。山崎は困り果てた。
「ねぇ、山崎くん。ちょっとだけ僕に時間をくれないか?」
犬飼の穏やかな口調の中に切羽詰まったような心情が見て取れ、山崎は思わず首を縦に振ってしまった。
犬飼の誘導で近くの公園に入ると、ふたりはベンチに腰掛けた。
もう夕焼けの時間は過ぎている。暗くなり始めた公園ではすでに電灯が遊具を照らしていた。
犬飼はどこかに焦点を合わせるでもなくぼんやりと公園内を眺めながら口を開いた。
「僕と桜井くんの賭けの話は知っているよね?」
「ああ」
「僕は今までずっと主席を取っているけど、なぜだか分かる?」
思いも寄らない質問をされた山崎は話題の本質が読み取れず、犬飼の話にしばらく付き合うことにした。
「さぁ?」
「別に僕が特別頭が良いってわけじゃない。そうでないと僕の父は認めてくれないからだ。僕にとって主席は取りたいものではなくて、取らなければならないものでしかない。順位表でトップに自分の名前を見つけたときは、嬉しいというよりも安心する気持ちのほうが断然大きい」
犬飼の言葉から、病院経営をしている父親から跡取りとして期待されている息子の姿がひしひしと伝わってくる。
「だけど、今回初めて自ら主席が取りたいと心から思っているんだ。絶対にゆずれない」
犬飼の顔がいつの間にか真剣な表情に変わっている。 「なんで俺なんだ。さっきだって可愛い子に告られてたんじゃないのか」
「あ……見られてたんだ。そうだね、僕ってモテるから いくらでも相手はいるんだけどね……」
(何気に自慢かよ)
いつもの犬飼の態度が戻ったと思ったのも束の間。 「君以上に素敵な人はいないから、告白されてもゴメンナサイしてる」
「は?」
「だから、君以外の人と付き合う気はないってこと」
山崎はストレートに自分の気持ちを伝えてくる犬飼にたじろいだ。
「いや、さっきから言ってるけど俺のどこがいいんだ? あんたとの接点なんかほとんどないだろ。あの時、怪我の手当てをしてやったからか。あんなのはただの親切で、あんたじゃなくても、他の誰でも同じことをしていた。勘違いしているなら今すぐやめてくれ」
誤解なら解けて欲しい、と山崎は願った。
「勘違いをしているのは君のほうだよ」
犬飼は初めて山崎と視線を合わせる。
「君が基本的に優しくてみんなに親切なのは知っているし、保健室の件も特別なことじゃないって分かっている。でも逆にそれが嬉しかった。僕を特別扱いしない君も、下心のない純粋な思いやりも。僕の周りにはたくさんの女の子がいるけど、ほとんどが僕の外見や院長の息子というラベルしか見ていない。勝手に王子なんていうイメージを付けられて、正直息苦しい……」
犬飼の本音はまだ続く。
「だけど、君の傍にいるとそういった胸のつかえが取れるんだ。心の中の荒波をさざ波に変えてくれる。今だって君に癒されて安らぎを感じているんだ。こんな風になるのは君しかいない」
山崎は犬飼の話を聞いて、同じだと思った。
桜井と相田に出逢った時も、ふたりから同じことを言われたからだ。
「僕は君が思っている以上に、君のことをちゃんと見てるんだよ」
「…………」
山崎は何も言えず手の中の箱に目を落とすと、ぎゅっと握りしめた。犬飼の手がその手にそっと重なる。
山崎の困惑が手を伝って犬飼に流れ込んだ。
「ごめんね。君を困らせるつもりはなかったんだ。どうしても受け取れないなら、条件付きで引き取ってもいい」
「条件付き?」
「僕とデートしてよ。デートしてくれたら、これ返してくれていいよ」
「う~ん……」
山崎の眉間に皺が寄る。
(あ、考えてる。迷ってる。葛藤してる。悩んでる山崎くんも可愛い)
犬飼は抱き締めたい衝動をぐっと抑えた。
「わかった。1回だけなら」
「やった! ありがとう」
犬飼は抑制したばかりの衝動が一気に膨れ上がるのを必死に抑え込みながら大喜びした。
約束の日。
桐葉学院の最寄駅前に、待ち合わせ時間20分前に着く山崎。人を待たせるのが苦手で、いつも早めに待ち合わせ場所に着くようにしているのだが、今日は遅かったらしい。すでに犬飼の姿がある。
「おはよう。いい天気だね」
犬飼は山崎を見つけて笑顔で迎えた。
「おはよ。早いな……まだ20分前だぞ」
「せっかくのデートだよ? 君を待たせるなんて嫌だし、1分でも長く一緒に居たいじゃないか。実際、こうして20分増えたわけだし」
(恥ずかしい奴)
と思うと同時に憎めない奴とも思う。それはきっと、少なくとも自分の前では犬飼は本心しか言わないと知っているから。悪い気はしない、と山崎は思った。
「で、どこに行くんだ」
「水族館」
「水族館? まさかその言葉が出てくるとは思わなかったな。随分と久しぶりだ。その案、採用!」
思いがけない提案を喜び、山崎は明るい笑顔を見せた。
早速ふたりは電車に乗り込み、ドア付近に陣取る。ドアの窓越しに流れる景色を見るばかりで、意外と無口な犬飼を、山崎は客観的に眺めた。
スラリとした体型は実際よりも背が高く見える。落ち着いた雰囲気を纏い、清潔感が溢れている。細身のカーキ色のカーゴパンツに白シャツというシンプルでカジュアルな服装を綺麗に着こなしている。肩にかけているワンショルダーバッグは革製で、上質なものだということは一目で分かる。手首につけられた腕時計はIWG。やはり高級腕時計だ。
IWGは華やかなデザインのものは少なく、装飾を排したシンプルなものが多い。ビジネスシーンによく合うシックな腕時計であるにも関わらず、目の前にいる高校生は見事なまでに違和感がない。制服を着ていない犬飼は自分よりも大人びていてカッコいい、と山崎は見惚れた。
目的の水族館に着くと山崎はまずパンフレットを入手する。いくつかのページを行き来しながら時計をチェックする。見学コースを組み立てているらしい。犬飼は黙って山崎の言葉を待つ。
「まずイルカショー。それからペンギンの散歩を見て、昼メシ。午後から館内に入って、ラッコの餌やりを見る!」
山崎から告げられたプランは、水族館を満喫するには相応しい隙のない内容だった。
(イルカにペンギンにラッコって女子みたいだな)
犬飼が山崎の女子的センスに意外性を感じていると、パンフレットから目を上げた山崎の顔が犬飼に向いた。 瞳を爛々とさせて期待に胸躍らせている様子は、まるで尻尾をぶんぶんと振って主人が遊んでくれるのを待つ仔犬のようだ。
(なんなの、この最強天使)
「わ、わかった。そ、そのコースでいこう」
犬飼は心を鷲掴みにされて呼吸困難になる一歩手前でなんとか踏ん張った。
早速ショープールに向かい席を確保すると、間もなくショーが始まる。
山崎は穏やかな笑みを浮かべながらショーを見ている。目が生き生きとして愉しそうだ。
そんな山崎に目を奪われ、犬飼はほとんどショーを見ていない。山崎がイルカに集中していることをいいことに、犬飼はひたすら山崎を見つめていた。
普段から笑顔の絶えない山崎だが、今日の笑顔は学校で見るものとは違う。学校での山崎は常に人に配慮している。相手を心配させまいと、あるいは相手が気を遣わないようにと作る笑顔も少なくない。
しかし今は心から滲み出ているような笑顔である。とてもリラックスしていて、いい意味で遠慮がない。素でいる山崎を見ることができただけでも犬飼は幸福感でいっぱいになっていた。
(ずっとこの時間が続けばいいのに)
犬飼がそう願ったとき、大量の水が頭から降りかかる。
「うわっ」
どうやらイルカがサービスという名の悪戯で観客に水をかけたらしい。山崎も同様に濡れている。
「やられたな!」
髪から水を滴らせながら無邪気に笑う山崎。笑顔が眩し過ぎて堪らない。犬飼はキスしたい衝動を抑え、持参したタオルを山崎の頭に被せた。
「ほら、拭いてあげるから」
と言って犬飼はぐっと山崎の頭を引き寄せ、丁寧に水分を拭った。
「すげぇ、タオル持ってるなんて準備いいな」
山崎は感心しながら犬飼に身を任せている。
タオル越しに感じる山崎の体温ですら、犬飼に至福の時を与えた。
子供に混じりながらペンギンの散歩を楽しむとふたりは園内のベンチに腰掛けた。あまりにも天気が良いので、外で昼食を取ろうと山崎が提案したからだ。
テイクアウトで購入したハンバーガーをかじりながら、山崎は園内の景色を見渡した。
たくさんの子供が駆け回り、大人が行き交う。はしゃぎ声、笑い声、親が子供をたしなめる声など様々な声があちこちから聞こえる。見上げると澄み渡る青空に輝かしい太陽。改めて行楽日和に行楽地へ来ていることを実感する。
山崎はぼんやりと自分について考えた。
(こんなにのんびりと過ごしたのはいつぶりだろう。毎日部活ばかりで、たまのオフも潤弥と自主トレをしていた。1ヶ月以上あった夏休みも、海どころか体育館以外の場所に出かけた覚えがない。青春真っ盛りの夏休みをもっと満喫すべきだった)
山崎は高校2年生の夏休みの過ごし方を振り返り、少し後悔の念に駆られた。
しかし思い掛けず、今日は非日常的でとてもリラックスした時間を過ごせている。山崎は自分を導いてくれた犬飼に感謝したい気持ちになった。
「犬飼……」
「何?」
「俺、結構楽しいかも」
「え?」
山崎の予想外の台詞に驚き、犬飼の動きが止まる。
しかしニッと笑った山崎の口元にハンバーガーのソースが付いているのを発見すると、プッと吹き出してしまった。
「なんだよ! 何が可笑し……」
犬飼にハンカチで口元を拭われたため、山崎の言葉は遮られる。
アイロンがかけられてしっかりと折り目の付いた清潔なハンカチは、犬飼らしくて意外性を全く感じない。 「口にソースが付いてるよ」
「あ、ありがと」
上っ面ではなく根っからの紳士ぶりに、犬飼の育ちの良さが窺える。それは隋所で見られた。
例えば駅から水族館までの道のりで。歩道のない道路を歩くときは必ず車側を歩き、山崎の安全を確保していた。車両が通過する際は会話をしながらも目だけは自動車の動きを把握し、山崎から離れない。これらの動作を何気無くやっているものだから非常にニクい。
この行動に対して山崎は子供扱い・女扱いされていると感じ、反発心を抱いていたが、犬飼は決してそういった対象として見ているのではなく、純粋に「大切な人」として扱っていることに気付くと、山崎は嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちになった。
食事を終えたふたりは館内に入る。
水槽を鑑賞しようとするが、館内は人で溢れて混雑していた。元から真剣にひとつひとつの水槽を観察する気はない。全体をざっくりと見て回り、気になるところだけ立ち止まるつもりだったのだが、それも難しそうである。
「山崎くん、この混み具合だと時間がかかりそうだからラッコに直行しよう」
言うなり犬飼は山崎の手を取って歩き出した。
「え? 手……」
犬飼はできるだけ空いている空間を選んでどんどん歩を進める。
しっかりと握られた手からは離す気などないといった意思が伝わってきて、山崎は大人しく犬飼に従った。 思いのほか時間がかかり、ラッコの水槽に到着できたのは餌やりがちょうど始まった頃だった。
すでに「見どころ」が始まっている水槽の前は人だかりができていて、山崎は視界の悪い位置から一生懸命にラッコを見つめていた。
従って、犬飼が未だ手を握ったままだということに山崎が気付いたのは、餌やりが終わって人だかりが解消されたときだった。
「犬飼、もう手離せ」
「僕に触れられるの、嫌?」
「そういうんじゃなくって、恥ずかしいだろ」 「……」
犬飼は無言でがっくりと項垂れた。
まるで『しょぼーん』と音を発しているようだ。 「…………もう十分楽しんだから帰るか」
「え? あっ、ごめんっ」
犬飼は帰ると言われて咄嗟に手を離した。
「山崎くんが嫌がることはもうしない。だから帰るとか言わないで」
山崎は犬飼が思惑通り手を離したのを見て、してやったりとほくそ笑んだ。
犬飼は単純で扱いやすい。
「じゃ、コーヒーでも飲むか。それと寄りたいところもあるし。とりあえずここを出よう」
山崎と犬飼が水族館を後にし、向かった先は本屋だった。
「山崎くんの寄りたいとこって本屋のこと?」
「そう。今日、國井創彩の新刊が出るんだ」
國井創彩とはミステリー作家で、新作を出せば飛ぶように売れるベストセラー作家である。しかしその素性はベールに包まれており、ファンの間で様々な憶測が飛び交っていた。
山崎は店先に平積みされている本を1冊手に取った。
「山崎くんって國井創彩読むの?」
「ああ。國井創彩のトリックって斬新でかつリアリティがあって好きなんだ。犯人を推理するけど毎回裏切られるし。専門知識も豊富だから読んでて飽きない。すごい作家だと思う」
山崎の言葉には國井創彩に対する尊敬の念が込められていた。
「そうかな? たいしたことないと思うけど」
しかし犬飼は山崎の評価に同意を示さない。
「? 犬飼は國井創彩が嫌いなのか?」
「別に嫌いってわけじゃないけど……」
珍しく犬飼の言葉が濁る。
「読んだことないなら、貸してやろうか?」
「いや、読んだことないことはないけど……」
「どこが気に入らないんだ?」
「特にどこがってこともないんだけど……」
「なんだ、さっきから煮え切らないな」
先程から急にはっきりしない犬飼の態度に山崎が苛つく。
明らかに不機嫌になっている山崎が放つ空気がいたたまれなくなり、犬飼は話題を振った。
「創彩を読み始めたきっかけってあったの?」
「俺の叔父さんが編集者やってて、担当が國井創彩なんだ。いい作品だからって読むように勧められたのがきっかけだな」
「ええぇ! 河原さんて、山崎くんの叔父さんなの?」 犬飼は突然悲鳴を上げる。
「なんで犬飼が叔父さんの名前を知ってんだよ!」 「え? あ、いや……ちょっと……」
犬飼の動揺が半端じゃない。
犬飼が何かを隠していることは明白だった。
「何隠してんだよ……言え。言わないと絶交するぞ」
山崎は犬飼をキッと睨みつけた。
「ぜ、絶交? ひどい! 僕、何も悪いことしてないのに!」
「大人しく吐いたら悪いようにはしない」
「分かった。ちゃんと話すから、とりあえず店を出よう」
(ちょろい)
もはや犬飼の扱いは御手の物になっている山崎だった。
ふたりは店を出て歩道の端に寄る。山崎は犬飼の言葉を待った。
「山崎くんが手に取った本、僕が書いたんだ」
to be continued.
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