翠雨
「誰かにされる目薬はキスに似てる」らしい。
放課後、琴に誘われたのは、そんな理由だった。
どこで聞きつけた噂だか。
彼との本番前に、私と練習がしたいらしい。
「ぐいぐい来られると、ムリ!!ってなるから」
そんなこと、私に聞かれても困る。
彼どころか告白されたこともないんだから。
しかし彼氏も三人目なのに、まだなのか。
驚く反面、少し安堵する自分がいる。
琴はかわいい。
色白で華奢で髪がさらさらで、何でも器用。
クラスで「かわいい」の代名詞なるのもわかる。
なのになぜ、いつも彼と続かないのか。
ずっと不思議だったけど、これが理由かも。
「それじゃお願いね、笙子」
新品の目薬を私に渡すと、琴は机に寝そべった。
二人きりの空き教室。かすかに届く部活の音。
夕日の切り絵がじりじりと床を焼いている。
なぜか緊張しながら、琴に顔を寄せた。
「ちょっと、こっち見ないでよ」
「だって、目薬するんでしょ?」
「そうだけど。見られてたら超やりにくい」
「そっか。だからキスの時は目を閉じるんだ」
「いいから目を閉じてて。準備できたら言うから」
「はーい」
横たわる琴は、おとぎ話の姫のようだった。
かすかに上下する胸のふくらみ。
整った顔立ちに、無防備な唇が咲いている。
改めて見てもかわいい。胸が痛いくらいに。
私なんて琴と正反対だ。
色黒で大柄で髪質悪くて、何しても不器用で。
そんな私を「かわいい」と言うのは琴だけで。
だからずっと傍にいるだけで。
ただ、それだけで。
彼女が別れるたび、心のどこかで喜んでいた。
「誰かにされる目薬は、キスに似てる」だっけ。
これ、する方もそうじゃない?
だって、心臓がこわいほど暴れてる。
目薬を持つ指が震えて、狙いが定まらない。
眉毛を数えられるくらい近い、琴の顔。
目薬片手に焦る私なんて、気にしてないような。
ああ、目薬ってどれくらい上から差すんだっけ。
自分でする時を思い出してみる。
案外近い。ぎりぎり目の上。息のかかる距離。
肘を机に当てると、ようやく震えが止まった。
そのまま腕を伸ばし、目薬を琴の目に近づける。
触れてないけど、琴に被さってる感じ。
荒い鼻息に気づいて、あわてて息を止める。
でも、その前に、合図。
「……琴」
見開いた瞳に、琥珀色の滴が吸い込まれた。
ゆっくり起きた琴は、まだ夢の中って感じ。
反応がなさすぎて、逆に不安になって来る。
「……どうだった?」
恐るおそるたずねる私に、小悪魔ぽい笑み。
「知りたい?」「ま、まあ」
「じゃあ、つぎは笙子の番ね」「えっ!?」
琴に急かされ、今度は私が寝かされた。
机にはまだ琴の体温が残っている。
ぎゅっと目を閉じると、間近に琴の気配。
なんとなく面白がってる気配を感じる。
さっき見惚れた琴の横顔を思い出した。
ヤバい。前髪テキトーだ。リップもしてない。
これはキスじゃなくて、ただの目薬だけど。
琴に見られてると思うと、緊張ハンパない。
心臓うるさい。ちょっと黙ってて。
ぎゅっと目を閉じると、衣擦れの音が近づく。
期待と怖さの混ざった、ちくちくする感覚。
呼ばれたら覚悟を決めよう。そうしよう。
合図を待つ私の顔に、何かが触れた。
頬に感じるのは、手のひらの温度。
じゃあ唇を塞いでる、こっちは何?
胸を打ち鳴らす、銅鑼の音。
思わず開いた目を、狙い澄ましたみたいに。
その一滴は落ちて来た。
あの瞬間を、なんて言えばいいんだろう。
私でない何かが、私に飛び込み、広がる感じ。
最初は冷たいそれが、熱を帯びた波紋になる。
真夏のスコールを浴びたような、もっと鮮烈な。
身震いが収まると、そこは元の教室で。
私を見つめる琴の視線に、やっと気がついた。
ヤバい。まともに顔が見られない。
火照った顔を両手で隠すけど、もうバレバレだ。
唇に触れたのは、琴の親指ってオチだったのに。
「どうだった?」「べ、べつに」
顔をそむけた私の背中を、琴の指がなぞる。
「笙子はやっぱりかわいいなあ」
今はやめてお願い。永久に顔見れなくなる。
「わたしね。されるよりする方が好きみたい」
あれ。これ目薬の話だよね?
本物のキスの話じゃないよね?
でもあれは、琴にとってキスの練習で。
それなら、私とするのが好きってことで。
ああ。これ以上はもう、私のキャパ超えだ。
「そろそろ帰ろっか」
けど、目薬で洗った視界はやけに鮮明で。
名前のなかった気持ちが洗礼を受けたようで。
あの雨は特別なのだと、本当はわかっていて。
琴の伸ばした手を、そっと握り返す。
いつかまた、あんな雨を二人で浴びてみたい。
今は言えないけど、いつか……なんて思った。
おわり