葉桜の街
いつも通る道には桜並木がある。4月半ば、桜は咲き終えて今は葉桜が美しい。小さく芽生えた葉っぱが日に日に大きく成長して、やがては桜の大木を覆ってゆく。人々に再び「桜の木ですよ」と告げるように。花時を終えた桜の木を見ていると人生に似ていると思う。美しい花を付けている時は、嫌でも大勢の人の目を引く。皆、足を止めその鮮やかさに感嘆の声を上げ愛でてくれる。
しかし、一日一日花が散って行くと散って行く事を嘆き始める。すべての花を失ったら人はもう桜を見ない。そこに、ついこの間まで自分たちの心を踊らせてくれた、薄紅色の愛らしい花が咲き誇っていた事も忘れてしまう。
けれど、桜は一生を終えた訳ではない。来年に向かってまた花を咲かせる準備に入るが、それはもう人の目を引きつけない。
桜の木は酷暑の夏も、紅葉の秋も、雪降る冬もいつもと変わらず、いつもの場所にあるのだ。ただ、人がその事に気付かないだけ。
若い時はその若さだけで十分美しい。美しいから人が振り向く。そして、愛してもくれる。
しかし、年をとると誰も振り向かない。70才にもなれば尚のこと。どうにもならない。以前なら人で賑わう所に行けば、若い男性からよく声がかかった。かからなくても視線を感じたものだ。それが嬉しく誇らしくもあったが、もう、今は何もない。心もとなげに杖を頼りに歩いていると、心配した警察官が声を掛けてくるぐらいだ。
気持ちの良い午前10時の光を浴びながら、私は近くのスーパーに買い物に出かけた。今までなら自転車でスイスイ行けるところが、何日か前転びそうになったので、用心して歩きに変えたのだ。それでも杖がないと思うように歩けない。目の前に急に人が出て来たりすると、とっさに動けないこともあるから杖は手放せない。そして、道の端を歩くようにしている。自転車に乗っている人から見れば、杖を持ちヨタヨタ歩いている老婆は邪魔でしかないのかも知れない。情けないけれどショーウィンドウが映し出す私は、どこから見てもお婆さんだ。腰はやや丸くなり両脚は細く、身体全体に張りが失くなっている。顔にいたってはもうどうしようもない。しわ、しみ、たるみ、髪は白く艶ない。縦横斜めから見ても紛れもなく、老婆だった。つい最近までショーウィンドウは、髪を直したりブラウスのりぼんを結び直したりする鏡のような存在だった。
しかし、今では悲しい現実を映す残酷な物体と化している。
食料品を買ったあといつも行くスターバックスで、フラペチーノを飲むのを、楽しみにしている。なるべく人目に付かない席に座る。子供や孫とくるなら別かもしれないが、私のような独り者には片身が狭い。考えすぎかもしれないが。どちらにしても、若さが尊重されるこの国では、高齢者は淋しい存在だと思う。いつものようにドーナツを二つテイクアウトして、外に出ると、一陣の春の突風に襲われる。私は慌ててスカートの裾を手で押さえた。
若い娘のように、、、。




