第99話 黄昏の陽
赫い熱光線が斜めに寸断され、空に散った。
そのもの光と化した銀の刃は海を割り火柱を薙ぎ倒し、降り注ぐ雷電すら切り裂いて。
ついに竜へと到達し胴体を抉った。
熱波に焼けこげた空よりもその血は赤くて。
竜の血もやっぱり赤いんだ、なんて私は思って。
そして無惨に迸る体液ですらあまりに美しくて。
「……敗れた?」
地上に蘇った最強の竜が。
わずかに上体をぐらつかせて長い首をうなだれ、噴きだす鮮血を蒼瞳に映していた。
全てを焼く竜の炎を巨人が、いや、アイリーン王女が打ち破った。
やっぱり、あの人には誰もかなわない──
「──いいや」
けれどスクゥアさんは対峙する巨神たちを、しずかに見守っていた。
竜は両足で力強く体を支え、前を向いた。
体の後ろで長い尾がぐるぐる回って、蒼い眼が巨人を射殺すように睨む。
白光する体に刻まれた断崖みたいな傷は、けれどあっという間に再生する。
竜鱗は何事もなかったかのように光沢を取り戻し、凝縮した腹の肉がぎちぎちと鳴る。
そして巨人は立ちつくしていた。
竜炎を受けて爛れた肌から煙が上がって。
銀の刃は光を失い、焼けこげた石みたいに深く黒ずんでいた。
かたびらの金属板が、練り物みたいにぐにゃりと曲がって海に落ちる。
ぼろぼろと零れる黒い滓は、失われゆく命そのものだった。
黒焦げた皮膚が再生しない。
限界を迎えてしまったみたいに、巨人の回復力は失われていた。
フレアを跳ね返したのに、負った傷は銀碗王の方がはるかに大きくて。
巨体をぐったりと前に傾けたまま、ぴくりとも動かない。
力尽きた眷属の王を、そして竜は見守っていた。
雷雲も嵐も荒波も息をひそめて。
熱線の余韻が滞留する海に、しばしの黙が訪れた。
生命を守り導いた大地の王と、ただひたすらの絶対者として君臨した孤高なる王。
この世界で最も強き二つの幻想。
再びの生を得た彼らの間に通うもの。
それはきっと、太古の時代を生きたもの同士にしか分からない、言葉にできない思い。
……。
心地よい静寂だった。
余計なもの全てが取り払われて、透き通っていた。
どっどっどって絶えず打っていた鼓動も遠く、やがて何も聞こえなくなる。
現実とか使命とか、肉体とか魂とか、色々なものから解放されて、とても大きな何かが私を包んでいく。
それは温かくて優しい。
はるか彼方から伝わる、誰かの想い。
ずっとここにいられたなら。
この、安らいだ世界に。
やがて竜が口を開き、穏やかな鼻息をたてる。
一瞬前まで世界を滅ぼすような恐ろしい声をあげていたのに。
首を柔らかにくねらせる姿はまるで、大切な友を見送るかのようで。
「……あ」
竜の腕に光が集まっていた。
それは世界を焼き尽くす赤光ではなくて。
大地と生命に祝福をもたらす温かな光。
一日を必死で生きたものたちを優しく包む、黄金の輝き。
「ああ……!」
間違いない。
それは。
──“黄昏の陽”。
竜の腕に現れた剣は、沈む夕日みたいな橙で。
その光の塊には柄も飾りもなかったけれど。
見間違えるはずなんてない。
私が一番それを見ているから。
私が誰よりもそばで、“彼”のことを見てきたから。
それだけは絶対に、誰にも負けないから。
「──カイル!」
偶然。
こんな遠くから、枯れた声が届くはずない。
それは、ただの偶然。
けれど、竜は吼えた。
ここにいるよ、って。
私に応えてくれた。
竜が長い腕を伸ばし、剣を天に掲げる。
曇った瞳の向こうで赫い炎が、黄陽の剣に渦巻いていく。
それは導きの光。
葬送の祈り。
いったいどれだけの生命が、この炎で送られたのだろう。
どれだけの命を、竜は見送ったのだろう。
孤高なる王として。
絶対の超常者として。
圧倒的威容、幻想の頂点。
けれど神話の戦いを経て、その姿はひどく寂しそうだった。
この世の全てを統べる力を持ちながら。
とても、とても哀しそうで。
──
黄金の光が世界を包む。
夏の終わりの夕暮れみたいに。
光が海の果てまでも伸びていく。
──
巨人が顔を上げる。
舞い降りる光に目を奪われるように。
眩しくて表情はわからないけれど。
きっと穏やかだった。
大きな背中が、重い荷物を下ろしたみたいに小さく見えた。
──
黄昏の陽が落ちる。
神々の戦いに幕が下りる。
長い長い一日が終わる。
光に満たされる世界で私は祈った。
お疲れさま。
おやすみなさい。
そしてまた、いつの日か。
今ここにある全てに。
かつてここにあった全てに。
そして、この先にある全てに。
□ □ □
在りし日を思い出す。
“嵐の大戦”の最終局面。
眷属の王ナゥザと、“闇の王”との壮絶な一騎打ち。
大陸の命運を背負った巨人の姿を、私はあの日瞳に焼きつけた。
私も彼のような戦士になりたいと。
いつかあんな、たくましい子を産みたいと。
巨人の肉体が崩れていく。
あの時と同じように。
永遠にも等しい悠久の時を生きて。
求め、祈り、願い、戦って、戦い続けて。
そして終わりなき戦乱の果て、ついに──
──果たせなかった。
彼はついに、届かなかったのだ。
二度目の最期を迎える巨人に、けれど悔いはなかった。
彼は託したから。
後に続くものたちに。
自身の願いを。
彼は見出したから。
これから生まれるものたちに。
新しい世界の姿を。
天上の神々、その分け身たる眷属、そこより生まれ出る精霊、そして新たな大地の主、人間。
それら全てが等しく命を繋いで、世界をめぐる螺旋を結ぶ。
その大きな流れの一つであることを。
自分がそのために生まれてきたことを。
大陸の王となった日から、ナゥザは受け入れていたから。
そして全てを捧げ自分を喚び起こした娘を見て、確信しただろう。
大丈夫だと。
迫り来るいかなる試練も、きっとお前たちは乗り越えられると。
信じて、託したことだろう。
「カイル!」
叫んで、ディーネが飛び出していく。
巨人の向かいで、竜の体もまた砕けだしていた。
白金に輝いていた肉体がまるで古木みたいに干からびて、亀裂が入り朽ちてはらはらと鱗をこぼす。
周囲に舞う黒い羽と瘴気。
やはり、黒烏が自らの“胎”を使ったのだ。
「大したもんだね」
わずかな時でも最強最大の竜を現界させたのだから。
“竜の母”になった気分はどんなものなのだろう。
ディーネは迷わず一直線に竜へと飛んでいく。
彼女には分かっているんだ。
カイルがそこで、迎えを待っていることを。
可愛くて健気で、素晴らしい才を持つ魔女の卵。
うーん、申し分なし!
なんだかちょっとむずがゆい。
母親がはじめて息子の恋人を目にするときって、こんな感じなのかな。
それで姑の私があれこれけちをつけて、お嫁さんにふさわしいか試したりして。
そんなことを想像していたんだ。
そんな夢を見ていた頃が私にもあったんだ。
あんまりにも失いすぎて、いつからか考えることもなくなったけれど。
……。
「ありがとね、ブリギッド」
君のおかげで、私は今ここにいる。
私の願いを、聖女が聞き届けてくれた。
私に再びの生をくれた。
「だから、私も応えるよ」
君の、願いに。
槍を握り直し、力をこめる。
凶悪な返しの施された、海よりも深い“蒼槍”。
貫いたものの命を支配する、私の“敵”にとっての悪夢。
これを手にした時から、私の生は血に染まっていたのだろう。
目の前の敵を倒して返り血で真っ赤になって。
築いた屍の山に、大切なものさえも並べることになって。
……でもね。
──蒼き槍刃に魔力が伝う。
失うばかりの日々だったけれど。
──それは魔槍にして神槍。
私は子どもたちから、たくさんのものをもらったから。
──光に隠れた真意を暴き出し、闇を時の彼方に葬り去る。
だから新たな命をもって、精一杯のものを返すよ。
蒼槍が荒牛の角のように捻れていく。
さながら長い歳月を経て、歪に伸びた古木のごとく。
それは海神より賜った、“果ての守護者”の証。
スクゥア・ハーヴァの、影の女王たる所以。
「いこう、ブリギッド」
内の聖女との境が曖昧になっている。
イアとカイルが生み出した幻想の海が、私の体を軽くする。
白鳥の背を蹴り、宙に舞う。
役目を終えて散っていく雨雲の隙間に、あざやかな橙の空が見えた。
長い一日が無事に終わって、ほっと安堵したみたいに。
まるでずっと我慢してきた赤子が、思いの丈をこめて泣き叫んだ後みたいに。
崩れゆく巨人の胸がひび割れ穴が開いていた。
切り裂かれた皮膚の向こうに、真紅に鼓動する心の臓がかいま見える。
そこに次代の王が眠っている。
この大地が求め待望する、未来の光。
捻れた槍に足をかける。
切先は迷うことなく、巨人の核へ。
優しい陽の光の下で、海風が気持ちよく吹き上げる。
美しい世界だった。
何もかもが眩しく輝いて見えた。
たとえどれほどの血と悲劇に塗れていたとしても。
生まれ生きたことを悔いはしない。
ありがとう。
私をここに喚んでくれて。
殺すためでなく生かすために。
絶望でなく希望のために。
この槍を振るわせてくれて。
──届け。
──終刻・幻想の黄昏──




