第98話 嵐の大戦
死んだ、と思った。
暁の陽みたいに眩しい光はその瞬間、間違いなく私を異界へ誘っていた。
大地を捲りあげるような轟音が我に返らせる。
海をかける光、空を灼く赤い流星。
竜の口から真っ直ぐに放たれた熱光線が、海を半円形に深くえぐった。
フレアの周囲には真っ白な雷光が螺旋のように絡まって。
渦を巻く炎砲は瞬時にして銀碗王に届き、その巨体を呑みこむ。
境界も曖昧な白く赤い光の中に、世界が沈んでいく。
全てが竜の炎に包まれて、なにもかもが消えてなくなって。
──
「……あ」
けれど、私のいるこの場所はまだ確かにあった。
巨人の前で、熱線がぐわんと歪んだ。
□ □ □
銀の刃が、竜のフレアを真っ向受けとめた。
ナゥザは太い足を踏ん張って左腕を刃に添えて、割れた兜の奥から低い声を漏らす。
刃とフレアがぶつかり合う衝撃だけで意識が飛んでいきそう。
音と光の洪水に頭が割れそうで。
空中にいるのに大地の揺れまでもが伝わってくる。
竜の熱戦を防ぐ銀の刃は、堅牢重厚な盾のよう。
雷電を伴う溶岩みたいなフレアが、刃の表面でぐにゃりと曲行して。
四方へと拡散して海に落ち雲を焼いた。
十分な距離を置いているはずなのに、重い鉄の塊を背負わされているみたいに圧迫される。
全身が熱くて肌が痛いくらいにヒリヒリして、息を吸うことすらままならない。
世界の反対側にいたって逃げられそうにない、凄まじい圧力。
「こん……なの……!」
白鳥の首に必死にしがみついて、振り落とされないようにするのがやっと。
スクゥアさんが支えてくれなかったら、とっくに海に沈んでいた。
これが竜。
これが巨人。
かつて大地を支配した神話生物。
生命の頂点に立つ巨神たち。
人間が入りこむ隙間なんてあるはずなかった。
大木の幹に亀裂が入るように、巨人の体が軋みをあげる。
二体の化け牛と竜の戦士を退けた勇士が苦悶している。
銀の刃に阻まれても、フレアの勢いは衰えない。
赤光を受けとめた巨人の腕がみしみしと震えて、体ごと押されていって。
吐息までもが燃えあがる極熱に、上半身のかたびらが溶けて剥き出しの肌がぐちゃりと爛れていく。
焼けるそばから皮膚は再生していくけれど、回復が追いつかないほどの熱が絶えず浴びせられる。
「ああ……」
フレアの輝きで海は真っ赤に染まり、周囲が蒸気で包まれる。
その間にも空からは雷が途切れることなく落ちて、嵐が熱風をまき起こして、雨粒は隕石みたいに燃えて。
まるで世界の終わり。
海も空も大地も、何もかもが焼き尽くされてしまう。
破滅をもたらすのはただ一体の竜。
白い体を鈍い赤に染める姿はまるで溶岩の塊。
全てを呑みこむ獄炎、容赦なき灼熱。
あらゆる敵を灰燼に変える、炎の化身。
あれがイアの本当の姿なのだろうか。
あんなものが、ずっとカイルとともにあったのだろうか。
……。
胸に手をやると、ざらざらした感触が残っている。
聖女ブリギッドの治癒を受けるまで、消えることのなかった火傷痕。
私が受けた呪いを濯ぐために、カイルが炎の剣を押し当てた。
おかげで命を救われて、私は今ここにいられるのだけれど。
あの凄まじい苦痛を忘れることなんてできない。
……あの時、私は“声”を聞いた。
イアでもカイルでもない、全く知らない“誰か”の声を。
剣に纏う炎を通して確かに聞いたのだ。
──焼き尽くせ。
とても暗くて重い声だった。
大地とそこで育まれた生命を、心の底から憎んでいた。
声だけで体が焼かれてしまいそうなほどの邪悪に満ちていた。
誰だったのだろう。
あの声はどこから届いてきたのだろう。
……。
天をつく咆哮、その衝撃が熱気を吹きはらった。
熱戦を受けて反り返った巨人の背がぐぐっと戻り、銀の刃が赤光のブレスを押しもどした。
肉体はさらにひと回り膨れ上がり、腕にも足にも大木みたいな筋肉が隆起して。
すべての力を銀碗に伝え、刃が月光みたいに眩しく光る。
弾かれたブレスのかけらが空に踊り、焼けた海へと流れ星みたいに落ちて。
拡散した雷炎が水上に燃える柱を立てた。
「さすがは眷属の王」
スクゥアさんが声をうわずらせる。
「簡単には転ばないね」
子供みたいにキラキラ輝く瞳には、神々への限りない期待と信頼が満ち満ちていた。
まるで彼らのことを知っているかのように。
幼い頃からの憧れであったみたいに。
銀碗の輝きはいや増し、直視できないくらいに眩しかった。
刃の熱は竜のフレアすら凌駕して。
撃ちこまれた熱戦が刃の周りで融解していた。
巨人が唸るたびに一歩、確実に炎砲が押し戻される。
竜は熱線を吐き続けて、その勢いが衰えることはないけれど。
ナゥザは全身でそれを受け止め防いでいた。
決して倒れはしない。
ここで倒れるわけにはいかない。
たくさんの傷がついた巨人の大きな背中から、そんな叫びが聞こえてくる。
彼の、そしてアイリーン王女の強い意思が溢れ出している。
……。
ギュッと、胸が締めつけられた。
銀碗の王の永い生の全てが、アイリーン王女の抱えてきた思いの全てが私の前にあった。
はるか太古の神も、今を生きる人間も変わるところはなかった。
それぞれが自分の守るもののために、信じるもののために命をかけていた。
みんなそうなんだ。
長い永い大陸の歴史の中で、数えきれないくらい多くの命が生まれては死んでいって。
その誰もがそれぞれに大切なものを抱えていて。
そのために全身全霊を捧げ戦ってきた。
彼らの思いは螺旋のように絡み合って大きな川になり、この世を流れていって。
こんこんと続くその果てに、私たちがいる。
神話と現世が繋がっている。
神話は今も続いている。
永遠に等しい時間に隔てられていたとしても、見えない流れが私たちを同じ船に乗せて。
たとえ大河に溶けゆく一滴の雫に過ぎなかったとしても、私たちは一緒に同じ場所を目指している。
どこかにあるはずの大切な何かを求めて。
いつかその場所にたどり着くことを、心から願って。
銀の粒子がナゥザの全身を包んでいた。
右腕の銀甲だけじゃない、もてる全ての力を引き出していた。
そしてわずか。
ほんのわずかに、竜のフレアが揺らいだ。
熱線を囲む雷電が細く薄く霞んで。
硬く揺るがない巨人の前に、雷雲の吸収が追いついていない。
──雄叫。
竜の雷熱で崩れゆく世界を、巨人の猛りが押し留める。
──咆哮。
ナゥザはさらに一歩前に踏み出し、フレアを押し戻して。
──解放。
銀の刃を、振り切った。




