第97話 大地の王/孤高の王
咆哮が嵐を巻きおこして、その衝撃で私と白鳥は文字通り空中でひっくり返った。
スクゥアさんが素早く手を伸ばしてくれなかったらきっと、そのまま海へ落ちていた。
「あれ……あれは」
差し示す指先が震えて、顎ががくがくして言葉も出てこない。
内臓どころか魂まで握り潰されるような迫力。
こんな“声”、聞いたことがない。
わかっている。
わかっているけれど、簡単には受け入れられない。
世界を根本から変えてしまう存在を。
「竜だ」
スクゥアさんは私の背中をさすりながら、顔を前に向けていた。
まるで待望が叶ったみたいに瞳を輝かせて。
喉奥の震えが腕を通して伝わってきて。
「竜が、蘇ったんだ」
太古の巨神たちの頭上で雷鳴が轟いている。
いつの間に空がこんなに暗くなってしまったのだろう。
誰かに呼び寄せられたみたいに、重い黒雲が広がっていた。
大小の雷が絶えず海に、そして竜の体に落ちていた。
冬山みたいに白い竜の鱗が雷をうけて、ちかちかって眩しく瞬いて。
目を奪われた。
あまりの美しさに。
この世のものとは思えない──いいえ、この世のものではない輝きに。
それは“光”そのもの。
神々の祝福を一心に受けて生まれた完全存在。
この世の生命が生きつく、果ての究極。
いいのだろうか。
許されるのだろうか。
その姿を目にすることが。
その姿を前にして息をしていることが。
そんなことを、私は思ってしまって。
「カイル……」
もし、あの竜がイアなのだとしたら。
カイルはどこにいるのだろう。
イアの中で生きているのだろうか。
……。
生きていて欲しい。
戻ってきて欲しい。
伝えてないことがあるから。
伝えたいことが、たくさんあるから。
そんな私の思いなんて当然、この場において何の意味もなくて。
竜は自身の放つ威光になど全く関心なく、体に雷を吸い込んでいく。
白く発光する体の中心が火山みたいに赤く、真っ赤に染まって、灼けるような蒸気が噴きあがる。
「あれは……」
絶えず降り注ぐ雷が、竜の体温を上げていく。
まるで自分の体に火をつけるみたいに。
そして対峙する巨人の銀腕もまた動いていた。
あの巨牛たちを葬った刃の形へと。
宝石みたいな拳が鋭利に変化していく。
「──あっ⁉︎」
ぐいっと体が引っ張られて、スクゥアさんが私の手綱をつかんでいて。
そのまま巨神たちから距離を取る。
言われなくてもわかる。
この幻想の中でもう、私の肌はちりちりに灼かれてしまっていたから。
□ □ □
海面の蒸気は竜の体が見えなくなるくらいで、白い体はますます赤く、灼熱の様相をおびていた。
まるで光から炎へと、その性質をまるごと変えてしまったみたいに。
そして銀碗の王は、刃状に変化させた腕を体の前に掲げている。
銀碗をきらめく粒子がとりまき、力強いオーラが放っていた。
竜と巨人と。
二体の間に言葉はなかった。
眷属同士がどんなふうに話をするのかなんて、私には分からないけれど。
互いに視線を逸らさず力を溜め合っている。
この時を待っていたかのように。
待ち望んでいた運命であるかのように。
「ああ……」
気づくとスクゥアさんの腕をつかんでいた。
そうしなければ、恐怖と緊張で気を失っていたかもしれない。
銀碗王に満ちる力は、大きくも温かかった。
それは初夏の平原に広がる、緑の絨毯のようで。
かつてこの大地を支配した“王”。
みなを率いて前に進む、偉大なる指導者。
その大きな背中にきっとだれもが安心して、後ろに付き従ったのだろう。
なんだかファーガスさんみたい。
……。
そして“大地の王”に対するは、焔の赤熱と雷の白光をまとう竜。
体を猛々しく燃え上がらせ、全身に稲妻を走らせてあらゆるものを拒絶する。
今は昔、神々の時代の頂点に君臨した、最大最強の神話生物。
“孤高の王”。
唯一にして無二の絶対者。
他の何ものにも左右されず、ただ己のみで完結する完全存在。
ひときわ大きな雷が落ちて、竜の灼熱に溶けた。
とてつもない力の塊が渦を巻いて、竜の体を何倍にも大きく見せて。
雪結晶のような白い鱗が足元から発光して、腹を、そして喉元へと這い上がっていく。
閉じた口からは、雷熱の入りまじる吐息が漏れていた。
そして銀碗の王は腰を落として構える。
巨獣すらたやすく屠る王の力、まばゆい銀の刃が雷雲の元で瞬く。
ともに伝説の眷属。
はるかな時を超えて今に蘇った巨神。
御伽話の中、失われた神話の中でしかありえなかったはずの存在。
それが今、私の目の前にいる。
二体向かい合って、ともに凄まじい力をまとわせて。
存在そのものが世界を揺るがし、時空を歪める。
互いの力を見せつけ、しかける機をうかがっている。
私たちはその光景を遠巻きに見守る他ない。
当然のこと。
これは、“彼らの物語”なのだから。
──
パチパチと弾ける雷電が頭部に達して、竜の口がゆっくりと開いた。
美しく凶悪な牙の隙間から唾液が流れ落ちて、海に落ちる前に蒸発する。
そんな極熱の液を舐める、真っ赤な舌が口内に波うって。
喉奥で禍々しい赤光が弾ける。
対する巨人は両足を大きく開き、体の前に光の刃に手を添えて構える。
腰を落とし、真正面から相手を迎え撃つ姿勢。
刃に込められた力も全身から放たれる威光も、竜にいささかも劣りはしない。
高まり合う巨神たちの力に世界が震えていた。
雷雲が嵐を運び、海は荒立ち、絶えず地を鳴らして。
強い風はまるで歌うように低く唸り、私の耳元にささやきかける。
よろこべ。
この瞬間に立ちあえたことを。
あらゆる力、あらゆる光はやがて竜の中へと収束する。
竜の体表を走る雷電も周囲の蒸気も、なにもかもが肉体に取り込まれていく。
まるで生まれた場所に還っていくみたいに。
それこそが、全ての始まりであるかのように。
竜の口が開く。
絶え間なく響いていた力の鼓動がその一瞬、息を潜めて。
赫灼の、熱光線が放たれた。