第96話 産声
体から力が抜けて、白鳥から落ちそうになったところをスクゥアさんが支えてくれた。
「大丈夫?」
海よりも綺麗な青い髪がさらさら流れて、けれどその美しさが余計に胸をかきむしる。
「ありがとう、ござい、ます……」
涙はでてこない。
まだ現実をちゃんと受けとめられていなかった。
巨人は再び動き出して、大陸の方へとゆっくり歩んでいく。
結局私たちは羽虫にすぎなかったのだ。
最強の精霊を身に宿した最強の剣士でさえ、あっけなく跳ねかえされて。
「……ん」
内臓をかき回されるような吐き気がして、瞳の裏側が急激に熱くなる。
「ディーネ」
スクゥアさんが背中をさすってくれた。
どきっとするくらい露出は多いのに、体はとても温かい。
小さなころ、お姉ちゃんやお母さんによしよししてもらったことが思い出されて。
「かい……カイルは……」
死んでしまったのだろうか。
口に出したら本当になってしまいそうで、言葉が続かない。
「分からない」
スクゥアさんは首をふり、カイルが落ちていった海を見下ろした。
「でもどのみち、ただでは……」
言いかけて私の震えに気づくと、また優しく抱きしめてくれるけれど。
背中にきゅっと、指が食いこんだ。
……。
スクゥアさんはカイルを知っていたんだろうか。
二人にはどこか、親密なものが通って見えた。
船の上で楽しそうにしているのを見たときには、ちょっと焦ってしまったけれど。
「二度目だね」
スクゥアさんがつぶやいた。
抑えた声の奥にある感情を私はよく知っている。
お姉ちゃんの遺体を前にしたときの、両親を見ていたから。
「スクゥアさん……」
古い魔法石みたいに綺麗な瞳が見ているものはなんだろう。
この人にとって、カイルは“何”なんだろう。
問いかけようと迷って、口を開きかけたとき。
“声”が聞こえた。
□ □ □
初夏の陽光が青い水面に降り注ぐ。
銀碗王は水底へと沈んでいく青年を静かに見下ろしていたが、やがて海の向こうへと視線を上げた。
向かうは懐かしき大地。
契約を果たすため。
願いに応えるため。
自らの全てを捧げた、勇気ある者のために。
頭の中は永き生前の記憶で混濁している。
積み重なった屍のごとき過去が、煮えたぎる宴の釜のように溢れだしそうだったが。
この娘が、中身を押し留めていた。
祈りと願いが響いている。
純粋で眩しくそれでいて強固に揺るがない。
見惚れるほどに美しい魂の輝き。
原初の根源より堕落し衰えていくだけの世界と生命。
伸びきった枝葉の先端にいまだ、これほどまでに力強きものが生まれうるとは。
蘇った甲斐があるというものだ。
……。
戦うだけの歳月だった。
聖なる大地のためにすべてを捧げた。
戦神より授かった肉体と、友らの贈り物である銀の腕を携えて。
駆け抜けた日々はこの上なく充実していた。
仲間たちと泣き笑い、悲しみ嘆き、闇より生まれ出る敵に立ち向かった。
無数の勝利を積み上げ、臣民の歓声を受ける瞬間が何よりの喜び。
そして稀なる敗北にうなだれても、彼らは我のそばにいてくれた。
終わりの時まで、我を後ろで支えてくれた。
後悔など微塵もなく。
鼓動が鳴り止む瞬間まで、心は高揚し続けた。
助けを求め救いを願う呼び声こそが我の力。
臣民を束ねる重圧をはねのけてなお甘美な、玉座につく者だけに許された至福。
その“声”を発するものが果ての時代にもいるならば。
王として応えねばなるまい。
いざゆかん。
“敵”を滅するために。
──
背骨が軋む。
長き死により朽ちた体が、まるで生気を取り戻したかのようにゾクゾクと震え。
下半身へとおりた衝撃は、太い両の足をも揺さぶった。
とてつもなく大きな力の気配。
ただそこにあるだけで、周囲の全てを屈服させる絶対の存在。
覚えている。
干からびた肌が粟だつほどに、肉体に刻まれている。
見れば巨大な影が青い海を包んでいた。
炎のような揺らぎがおぼろげな記憶に光を差し、輪郭を象っていく。
神々すら恐れ封印した、かつて大陸を呑みこみかけた暗い闇が想起される。
……。
しかし海の底から放たれる、神聖な力の波動が闇を払い。
心臓が、激しく打ち鳴った。
娘のものではない、紛れもない自身の鼓動。
──ああ。
体に走るのは緊張か恐怖か。
──そなたなのか。
あるいは、歓喜だったか。
□ □ □
雲が広がっていた。
銀の刃に吹き飛ばされたはずの雷雲が、再び空に稲光を起こして。
蛇のようにうねる雷電が灰色の空をひた走り、複雑な螺旋紋様を描き出す。
螺旋はやがて海の上にも映しだされ、水面を裏返すような巨大な渦が巻く。
海面は大きく窪み、底が見えないほどの深い穴が開き。
無限の回転が海を貫き、衝撃が空をも震わせた。
それは遥か地下、旧きものたちが眠る暗い寝所へと続いている。
過去、現在、未来、あらゆる時空をまたいで。
深い深い地の底から。
永い永い記憶をつむぎ。
大いなるものを、地上へと導く“神々の道”。
迎え入れるは一筋の稲妻。
この世の誰もが見たことのないほどに太い光が、天から降り注いで。
呼びかける。
目覚めろと。
今、“時”が来たのだと。
渦の中心で稲妻が弾ける。
黄金の輝きにあたりが包まれ。
瞬間、時が止まり全ての音が消えた。
□ □ □
ファーガス・マクルアンは島の高台でそれを見た。
怯える王族たちを背に、目を見開いて言葉を失って。
ディーネ・マクニースは海の上で、巨人の肩越しにそれを見た。
呆けたように口をあけて、瞳を釘づけにして。
スクゥア・ハーヴァは郷愁に胸をつまらせた。
遥か遠い日、若き眼に刻みつけたものが再び映しだされて。
銀碗の王ナゥザは笑った。
否応なく溢れでる興奮に、その身を悶えさせて。
海は組紐のような雷電に覆われ、どこまでも広がる豊穣の穂麦畑のように、見るもの全てを夢幻に誘う。
それは神話。
かつて失われ今は語られるだけの、けれど確かにそこにあった幻想世界。
巨人に比肩する体躯が雷雲の下に佇む。
全身の鱗はナゥザの銀碗すら色褪せるほどに眩くて。
それは、“光の子”である証。
長い首の先の頭には、無数の突起と壮麗な角が伸び。
閉じた口の端からは、灼熱の吐息が空気を燃やし。
蒼い瞳は、まるで赤子のように世界の全てを無垢に映し出していた。
……。
“赤子”、だったのだろう。
大地を踏み締める太い両の足も。
流美な爪を伸ばす両の腕も。
そして巨体を覆ってなおあまりある背中の翼も。
まるで母の胎から落ちたばかりのように瑞々しかったから。
だから吼えたのだ。
ここに在るのだと、自らを示すために。
空に向かって口を開き、雪のように白い腹をふくらませて。
叫んだのだ。
誰もが感じた。
世界を揺るがす息吹を。
誰もに届いた。
大地を包む、尊い光が。
そして誰もが聞いたのだ。
この世の果てに生まれ落ちた、竜の産声を。




